小島正憲の凝視中国

読後雑感:2012年第4回「辛亥革命と孫文」特集&第5回


読後雑感 : 2012年 第4回 「辛亥革命と孫文」特集
31.JAN.12
1.「革命いまだ成らず 上・下」
2.「辛亥革命100年と日本」
3.「辛亥革命と日本」
4.「真実の中国史 [1840―1949]」

.「革命いまだ成らず 上・下」  譚璐美著  新潮社  2012年1月20日
  副題 : 「日中百年の群像」
  帯の言葉 : 上 「日本に学べ! 明治維新に倣った近代化を夢見て、中国の志士たちは日本を目指した」
                     下 「孫文を救え! 列強に蹂躙される隣国の革命家を、日本の壮士たちは命がけで助けた」

 孫文の遺言の名文句を題名にしたこの本は、清末の戊戌の政変から孫文の死までを舞台として、康有為や梁啓超、そして孫文、黄興、宋教仁、汪兆銘、袁世凱などの多彩なスターを登場させている。また日本の梅屋庄吉、宮崎滔天、犬養毅などとの関係も克明に描き出している。しかも複雑な時代の変遷を、孫文を縦糸にしながら、実にわかりやすく書いてあり、辛亥革命前後の歴史が手にとるようにわかる。ぜひ多くの人に読んでもらいたい「上・下2巻」である。

 浅学な私は、この本から多くのことを学んだ。ことに私が注目したのは、革命を目指す孫文が、その人生のエネルギーの大半を資金集めに費やしていたという点である。海外華僑の多くがそれに呼応して、資金を供与し続け、中には没落してしまった者もあるという。日本の梅屋庄吉、宮崎滔天なども、家財を投げ打って孫文を支援した。孫文は合計10回も武装蜂起に失敗し、そのつど資金難に見舞われ、自らの三度の食にも事欠く事態に陥ったこともあるという。中華民国の建国初期にも財政難が最重要課題であり、その間の事情を譚?美氏は、「武昌蜂起が成功したにも拘わらず、孫文が中国へ直行せず、わざわざ地球を半周して各国訪問を続けたのは、列国からの政治的干渉を牽制するためであったが、実はそれ以上に、新国家の建設資金を調達することが重要な目的であった」と書き、宋教仁との比較においても、「孫文をよく知らない人々にとっては、強烈なカリスマ性と資金の調達能力は、何ものにも替えがたい魅力だと映った。それは宋教仁がどう逆立ちしても、おいつかない部分である」と記している。

 さらに譚氏は、次のような孫文の演説、「国家は大事業をしようとすると、資本が必要になり、外債に頼らざるを得ない…今日、外債は害毒のように毛嫌いされるが、外債を受け入れず生産にも着手しないほうがむしろ害がある…今日、共和制が実現したからには、自由な外債を実施し、産業を振興させるべきであろう。無論、資本家の出現による弊害は防がなければならない」を紹介し、孫文が「中国に根強い外国資本導入に対する警戒感をゆるめる一方、外国の侵略的な干渉には警戒する考えをしめした」と書いている。これを読んで私は、孫文のこの考えがケ小平氏の「社会主義市場経済」の先駆のような気がした。

 そして譚氏は最後に孫文が行き着いた先について、「日本に“満州”の依託管理をまかせる条件で革命資金を得ようとして失敗し、欧米列強は袁世凱を支持する姿勢を見せる中で、最後の拠りどころは、“社会主義”という学説を実践しようとしているロシア以外にはないと、考え始めていたのかもしれない。やがて“ロシア革命”に成功したソビエトの資金援助を得て、広東に孫文自身の軍政府を設立することを考えれば、彼の頭の片隅に、この時期、“社会主義”への好印象と一種の憧れが芽生えはじめたといってもよいのではないだろうか」と、書いている。たしかにこのようにして孫文が、最後の資金源としてソ連との接点を深めたと考えれば、孫文の社会主義ソ連への急傾斜がよく理解できる。

 最後に譚氏は、「振り返れば、誰からも好かれ、勇気と胆力を持った豪傑の黄興はすでにこの世にいない。議会制による国会運営こそ民主主義の真髄だと確信して、命がけで奔走した国民党の実質的な党首・宋教仁は凶弾に倒れた。軍人で共和制を実施した近代思想の持ち主・雲南都督の蔡鍔はすこぶるつきの美男子だった。そして蔡鍔の師であり、人並み外れた知性と教養を持ち、近代国家の根幹を経済的発展だと看破した梁啓超も、忘れてはならない」と書き、彼らを賞賛している。彼らの活躍振りについては、ぜひ本文をお読みいただきたい。

また譚氏は、膨大な資料を徹底的に読み込み、実証的にこの本を書いているが、同時に想像をたくましくして、自説を披露している。たとえば、孫文の遺言は白紙委任状であった可能性もあり、それが当時まだ無名だった蒋介石を歴史の舞台に登場させた可能性があると書いている。その真偽や如何に。この譚氏の大胆な推測を読みながら、ふと私は最近聞いた、満州研究家の先生の「当時、日本政府は進駐先にまず新聞記者と写真屋を送り込んだ」という話を思い出し、同時に梅屋庄吉が写真屋であったことに思いを重ねた。しかしたとえ動機がどうであれ、梅屋はきっと孫文の魅力にとりつかれ、私財を傾けてしまうまで支援したのであろうと、推測を試みた。

 なお、本文中に、義和団事件の賠償金放棄について、各国のそれぞれの対応が書き連ねてある。各国のその時代の背景を描き出しており、きわめておもしろい。またその放棄方法が各国とも、当時の金と銀の本位制の間で、相当混乱していた様子が描かれている。さらに、すでにこのころ、欧米各国も財政難に陥っており、国家運営を国債の発行に頼っていた現実が浮き彫りにされている。その姿は、現代世界の先進資本主義各国の財政不安とまったく同様である。しかもその行き着く先が、世界恐慌と第2次世界大戦であったことは、現代世界に生きる我々は、反面教師として深く学ぶ必要がある。

 譚氏は吉野作造について、本書で、「新時代の担い手となった吉野作造は、実はかつて袁世凱の顧問であったにも拘わらず、中国共産党の李大サと相通じるほどに急変し、大正デモクラシーの時流に乗って、“民本主義”を唱えて歴史に名を残した」と書いている。私は、ここにも変節・転向して人生を全うした1人の人物がいることを知った。

2.「辛亥革命100年と日本」  日台関係研究会  早稲田出版  2011年9月13日

  帯の言葉 : 「辛亥革命で清朝は倒され、中華民国は成立したが、中国の統一と安定は実現しなかった。そして第二次世界大戦後、国共内戦の結果、孫文の革命の理想は台湾に移転した中華民国で成就することになった。一方、中国では、共産党一党独裁が継続しており、孫文の理想から見れば“革命いまだならず”のままである。辛亥革命100年にあたり、中華民国100年の歴史を振り返り、辛亥革命、孫文、蒋介石と日本との関わりをひもとき、これからの日台関係を考える」

 この本は、日本と台湾の研究者が、「辛亥革命100年と日本」を論じたものである。
 第1章で中村哲夫氏は、「辛亥革命は“窮乏化革命”ではない」と断じ、「歴史家には、民衆の窮乏が革命の原因だと考える固定観念がある」、「当時の史料を丁寧に読めば、全国各地の農民の窮乏による暴動が武昌新軍の蜂起を促したという直接の因果関係はどこにも見つからない」と書いている。それどころか、「上海を中心とする経済界は空前の経済好況に沸いていた」、「(武漢は)中国で最大の人口規模を誇る経済都市であった」と、その繁栄振りを記している。そしてその繁栄の源泉を、武漢や広州などの地方が、太平天国の乱以降、自警団を組織することとなり、その軍資金として清朝から内地関税の徴収・蓄積・運用権を許可されたことにあるとし、その結果、そこに集まる金・銀など様々な流通通貨の両替の必要性から、銀行業務の必要性が生まれ、地方政府の豊かな自主財源に成っていったと記している。

 なお中村氏は清朝の滅亡の原因を、「中央政府の財政破綻という事実に行き着く」と言い、さらに当時銀本位制をとっていた中央政府が賠償金などを金で払わなければならず、その交換比率のため、対外支払い能力が1/3に減少したことにその真因を求めている。また中村氏は、「もう一つの大変動は、海外の華僑・華人の本国に対する経済的な地位の向上である。19世紀に世界各地へ拡散した華僑・華人は、海外の金本位制の通貨で貯えた資金を中国に送り、銀貨で蓄財して資産運用する流れが生まれ、多くの金融流動資金が外国銀行に流れ、外国銀行は大量の銀を上海などの金融業者に融資し、アジア式の洋品産業が長期で低利の資金調達ができ、民族産業の成長に有利な金融環境をもたらした」と書いている。この指摘は、孫文を支援し続けた多くの華僑・華人の一側面を語るものとして、貴重な研究である。

 中村氏は、「辛亥革命を考える時、孫文の残した思想、つまり、民族、民権、民生の三民主義を基準に、孫文の先駆性を助けた人物や勢力を善、それを妨害した勢力や人物を悪として、二分して勧善懲悪する一元主義の歴史論が今なお、様々な書物のなかに残されている。また正反対の現象として、孫文を独裁者、愚民論者として嫌悪する主張も見受けられる。このような好きとか、嫌いとか、善人か、悪者かという単純な二分法の思考は、多くの人にわかりやすい。その反面、基礎的な学術研究を進めた上で、ようやく明らかになる複雑な歴史事実を消し去ることにつながる」と記している。傾聴に値する指摘である。

 第2章で呉春宜氏は、「孫文が生涯追い求めたことは、端的にいえば、国際社会において、中国は自ら国を開放し、そして列強が中国を対等に扱ってくれる、という国際関係、および環境の実現であった。他方、国内社会においては、共和制の政体を確立し、列強の社会制度や、科学技術、管理方法、資本などの近代文明を取り入れて、自由、平等、博愛の中国を建設することであった」と書いている。またその孫文に対する日本政府の対応について、「日清戦争以来、日本の対中政策の主軸は、中国における権益の維持拡大に据えられていた。対孫文政策も、この延長線上に推進されていく。換言すれば、日本は在中国権益の維持拡大といった総目標に照らして、プラスになるか、マイナスになるかによって、対孫文政策を調整し、実行に移していたのである。従って、日本の対孫文政策には、一貫性や、安定性が欠けている」と記している。

 呉氏は、梅屋庄吉について、「梅屋から孫文への支援金は、現在の貨幣価値に換算すると、1兆円を超えているという」、「孫文の死後も、梅屋は日中の友好、平和に尽力し続けた。彼の映画会社は破産し、5万円の借財を負いながらも、12万6400円の巨額を捻出して、孫文の銅像4基を製作し、1929年に南京、広州、マカオなどに寄贈」と書いている。

 第3章では北村稔氏が、第一次国共合作について論じている。北村氏は昨年8月に「現代中国を形成した二代政党」(私の昨年の読後雑感で紹介済み)という名著を上梓しており、この項はそのダイジェスト版とも言える。ここではその要点のみを記す。詳しくは前掲著をお読みいただきたい。またこれらの北村氏の指摘は、上掲の譚氏が描き尽くせなかったものであり、きわめて重要であると、私は考える。

・辛亥革命後に革命組織の改変を繰り返した孫文は、ロシア共産党やコミンテルンとの数年の接触の後、ボルシェヴィズムの組織論による国民党改組の決意を固め、ロシア共産党派遣のボロジンを顧問として受け入れた。

・孫文が国民党内の反対を抑えてまで共産党員の加入を要求した理由は、人的戦力の確保にあったと思われる。

・軍閥たちは、中華民国体制下で開始された派閥闘争に参加した。そして自らの存在を正当化するために、種々のスローガンを掲げた。しかし実態は私兵を増やし軍事力を増大させ、軍費の名目で社会から資金を収奪する一種の企業であり、士官は蓄財に専念し兵士も生活資金稼ぎの傭兵であった。特定の政治主張のために命がけで戦闘することはなく、頻繁に発生した軍閥間の戦闘の死傷率はきわめて低いものであった。これに対し、黄埔軍官学校で養成された軍隊は、全国から募集した若者に国民革命の実現という思想教育を施して下級士官となし、彼らを戦力の核として構成された。党軍の下級士官の死傷率は、当時としては異常に高い。彼らが死を賭して戦い、国民党の発展を支えたことがわかる。

・蒋介石は国民党直属の軍事力を養成し、国民革命勢力の飛躍的発展の原動力を築いたが、その役割は単なる軍人にとどまらない。蒋介石は孫文が提示した「民生主義は共産主義を包括する」という考えを拠り所に、国共合作が内包する矛盾を抑え込み、国共合作を継続させ国民革命勢力を発展させる為に最大限の努力を払った。

 第4章では黄白進氏が、蒋介石の日本との関わり合いについて論じている。黄氏はこの短い論考の中で、「“天は自ら助けるものを助く”。これは、蒋介石が、長年、日本を観測して得た結論であった」という同じフレーズを、二度書いている。つまり「日中両国では、独立自主の精神が異なるということである。日本の明治維新では、あらゆる分野についてヨーロッパを師としたが、その半面、日本は終始、自立しながら新知識を求めるという精神を堅持しており、外国からの援助に依存することはなかった。ところが、清朝には、独立自主の精神と意識がほとんどなかった。この為、自国の伝統の長所を放棄してしまった。外国の観念を受け入れると、自国の立国精神を忘れてしまったばかりでなく、あらゆる面で外国人に依存した。このように、日中両国の自主意識が異なった結果として、両国の近代化実現の成否にも影響が出たのである」と書いている。この指摘は、戦後の日本の復興の道程と改革開放後の中国の歩みにも、相通じると、私は思う。黄氏はさらに、伊藤博文と李鴻章の西欧に対する学習態度を比較することによって、上掲の自説を補強している。

 黄氏は「“以徳報恩”は一つの政策の宣言であった。その実際の内容には、蒋介石による天皇制の擁護、日本の分割占領への反対、日本人捕虜の迅速な本国への送還などの具体的な措置が含まれていた。これら一連の政策は、日本の庶民を感動させ、日本再生の政策を支援するものであり、戦後日本の復興に対して、実質的に貢献するものであって、戦後における両国の友好関係発展の為の基礎を打ち立てることとなった」と書いている。またこのような蒋介石の戦後日本の擁護に対して、感動した日本人が民間レベルで蒋介石の恩義に報いようとし、その一例が「白団」であったと記している。そしてこの「白団」が台湾軍事教育の再建に大きな役割を果たしたと書いている。

 第5章では坂本健蔵氏が、戦時下の日本の孫文評価について、「孫文は、その時その時の政治状況に合わせて、列強のなかで提携する相手を乗り替えて、他の勢力ないし政敵を倒すという手段を頻繁に用いている」、「孫文の政治戦略は、その死後も中華民国国民党において継承され、日本は翻弄され続けた。しかしむしろ、問題なのは戦時下の日本人が、孫文を熱烈な日中提携者、そして大アジア主義者と解釈し、そのように思い込んでいたことである」と書き、現代の日本人にもその傾向が続いていると付け加えている。

 第6章では楊合義氏が「台湾時代の中華民国」、第7章では渡部耕治氏が「戦後台湾国際関係史」を書いている。

 第8章では浅野和生氏が、本書の結論として、「辛亥革命が“成功”して、その後、中華民国による支配が達成された大陸中国は、今日では、孫文の国民党とは相容れない共産党一党独裁の中華人民共和国となっている。その一方で、革命の時には埒外の場所であった台湾において、中華民国の名の下に、三民主義が実現され、あまつさえ“辛亥革命百年”に際して、その地で孫文の理想が顕彰されているのである」、「孫文は台湾も中国の一部と考えていた。したがって、台湾で理想が実現することは孫文の想定内に違いないが、目標達成には、中国も台湾と、ともに“三民主義”が実現しなければなるまい。その意味で、孫文の遺訓“革命いまだならず”は、“辛亥革命100年”の今日においてもなお、現実であり、目標達成の可否は未来に委ねられている」と、書いている。

3.「辛亥革命と日本」  王柯編  藤原書店  11月30日
  帯の言葉 : 「辛亥革命100年記念 日中共同研究の初成果  アジア初の“共和国”を成立させ、“アジアの近代”を画期した辛亥革命に、日本はいかに関わったのか。政治的アクターとしての関与の実像に迫るとともに、近代を先行させた同時代日本が、辛亥革命発生の土壌にいかなる思想的・社会的影響を与えたかを探る 」

 この本は、日本と中国の研究者が、「辛亥革命と日本」について論じたものである。
 まず「出版よせて」で、中華全国商業連合会法律部長の肩書きを持つ趙宏氏が、「孫文は近代中国の民主革命の偉大な先駆者であり、偉大な愛国者であり民族的英雄であった。彼は民族の独立、自主、自由と民衆の幸福のために一生を捧げた」と書き出し、辛亥革命が成功した理由を、「第一に中国の民衆に利益をもたらしたこと。第二に歴史の潮流に順応し、中国における民主主義の歴史を始めたこと。第三に海外にいる華僑華人から,経済的に、また人的に多くの支持を得られたこと」と、きわめてオーソドックスな評価を記している。

 第1章では櫻井良樹氏が、辛亥革命に対する日本政府の態度を分析して、「辛亥革命に伴う中国の政情不安を日本の利益に繋げるという考えでおおよそ一致しているが、政府と民間、西園寺内閣と桂内閣、軍部と外務省、陸軍と海軍との間だけではなく、陸軍参謀本部第一部と参謀本部第二部との辛亥革命に対する反応と対応すら異なっていた」と、具体的な文言を引用しながら書いている。日本の内部で、辛亥革命に対して、このような見解や対応の相違があったことが、孫文たちに活動の余地を与えたのである。

 第2章では趙軍氏が、外交史料館にある「予備陸軍大尉青柳勝敏 意見書」を論拠に、当時の日本の予備役・退役軍人たちの辛亥革命への対応行動を分析している。なお青柳大尉は、江西省で李烈鈞らが起こした袁世凱討伐軍の参謀長として参画したが、破れた後、李烈鈞らとともに東京に逃げ帰り、残党を集め、塾を開くなどした。その後、満蒙独立運動に関わるなど、型破りの人生を送った。その青柳らの行動に対して、「軍部は黙認しつつ裏で支援する姿勢を取りながら、外交面で何らかのトラブルが発生すると、個人的行動で政府と軍部とは無関係であるとコメントし、いわば、彼らを利用できる捨て石という方針で扱っていた」という。その結果、青柳らは、「政府の役人や正規軍の軍人たちはもちろんのこと、“大陸浪人”など一般の“民間人”たちも活躍できない舞台において、近代日本国家の“国益”のために暗躍していたのである」と書いている。

 第3章で王柯氏は、「辛亥革命の勃発以前、革命党は非合法の地位にあったため、中国革命家の活動を支援したのは主に在野の日本人であり、そのなかにはとくに自分の政治活動の舞台を中国または朝鮮半島とした“大陸浪人”が多かった。しかし注目すべきは、日本の大陸浪人が革命家を支持した理由は、孫文らによる民族国家を追求する姿勢にもあった。つまり、彼らは異なる視点から、中国の革命家たちが民族国家を追求する意義を見出した。それは革命党による“滅満興漢”と“駆除韃虜”のなか、“満蒙”ないしチベット地域を中国から分離させ、よってそれを日本の勢力範囲に入れられるという契機が内包されたためである」と書いている。また玄洋社に関して、「大陸浪人の中には、士族出身者も多く含まれていた。明治維新で士族の特権が剥奪され、明治政府の専制と腐敗に対する不満から、多くの士族は1877年に西郷隆盛が指導する西南戦争に加わった。西南戦争の後、引き続き明治政府に対抗するため、福岡の士族たちは1878年に“向洋社”という政治結社を設立した。1881年に“向洋社”は“玄洋社”に改名し、“自由民権運動”という大義名分で明治政府を牽制しつづけた」と、記している。

 第4章で安井三吉氏は、「辛亥革命のとき、日本には7千を超える中国人がいた。華僑、留学生そして政治的亡命者たちである。日本滞在の目的は経済活動、学習、そして革命運動など様々だったが、日本はそのような彼らの目的実現のための場として重要な役割を果たした」と書いている。さらに「辛亥革命に際し、孫文は宮崎滔天、黄興は萱野長知、宋教仁は内田良平を通じて、日本の支援を要請している」と書き、「日本には福沢諭吉に代表される“文明”を以て、西洋と同様なやり方で隣国に対処すべきとする考えが一つの有力な流れとして一貫してあったが、他方では隣国の革命家や民族主義者たちの活動を支援した日本人も少なくなかった。彼らの言動にはアジア主義の志向が基盤にあった。ただそのアジア主義とは不定形なもので、宮崎滔天のようなものもおれば、内田良平のような志向を持つ者もいた。両者は異質な面を有していたが同時に重なる面もあった。辛亥革命時期の孫文らは、そうした彼らの特長を踏まえながら、自らの革命を遂行する必要から両者との提携をはかったといえよう」と、記している。

 第5章で姜克實氏は、大陸浪人について、「日清戦争の前後から、明治維新の不平士族の系譜を引く旧民権派志士と右翼の一部は、国権主義、アジア主義に目覚め、日本を飛び出し大陸に渡って活動の舞台を求めた。今日“大陸浪人”と呼ばれる一団はほとんどこのような人たちである。時あたかも、清末の革命の胎動期であり、彼等はさまざまな目的で、さまざまな形で中国の革命に関与し、革命の第一線で活躍した者も多かった。中には、山田良正、宮崎滔天、萱野長知、梅屋庄吉のような、中国革命の理想に献身するものもあれば、私腹を肥やす利権屋、各地を放浪するゴロツキ、軍部の手先を務める情報屋、スパイ、地方軍閥、馬賊、土匪の仲間に入るナラズモノも多く含まれていた。前者の革命支援は、のちアジア主義の美談として大きく取り上げられ、美化されていたが、近代史の全課程を見る場合むしろ、後者の利権屋のイメージこそ、大陸浪人の代表的姿ではないだろうか」と書き出し、それらを詳細に分析している。

 第6章では汪婉氏が、清朝末期の新教育制度について、「全国の新式学堂は、1909年に5万2348校に上り、学生数が1912年に300万人にも達した。皮肉にも、清朝政府が支配の維持と強化を目的に始めた“新政”という改革によって、結果的に生まれたのは、いわゆる海外留学生や新学堂出身者からなる新しい知識人層であった。この知識人層は、外からの知識を吸収し、またそれに基づいて新しい知識構造を打ち立て、中国社会の変革と変容の促進力へと化した。この意味で、清朝政府による新式学堂の推進は、むしろ辛亥革命の土壌作りに貢献したとも言えよう」と、書いている。

 第7章では呂一民氏と徐立望氏が、日本への留学生について、「新しい知識を身に付け、同じ留学の経歴を持つことから、留日した人々は連絡を取り合い、連携するようになった。中国において、留日した経験を持つ新軍人階層や知識階層が急速に現れ、やがて支配階層の新鋭となった。“新政”による改革で空席のポストは多くあるものの、専門技能が必要なため、新式学堂の卒業生とくに留日経験者が据えられる傾向が強く、留日経験者は新政改革の革新勢力となった」と書いている。これは、改革開放後の中国政府に、留米経験者が多く入り込んでいる状況とよく似ている。また両氏は、日本への留学生の専攻が、自然科学や実業より、文学・法律・政治などの文系と軍事に偏っていたと指摘している。

 第8章では松本ますみ氏が、孫文の民族主義について、孫文や「他の革命派論客も漢族と満、蒙、回、藏などは別民族であり、漢族が居住する18省でのみ漢族国家を建設することを思想の柱としていた。満、蒙、回、藏などの民が住む属藩を包摂して新国家を建設することに関して革命派がまともな議論をした痕跡はなく、包摂しないほうがいい、と言う意見まであった」と書き、その後、孫文は“中華民国臨時大総統宣言書”で、「清の版図をそのまま主権範囲として受け継いだ上で漢、満、蒙、回、藏の5族を一つに融合・同化して単一の“中華民族”を創出しよう」としたと記している。つまり辛亥革命直後の孫文は、「満州族から漢族の手に政権奪還を果たしたので、民族主義はすでに成功したと考えていた。残された種族=民族に関する課題は“種族同化を実行すること”であった。彼が恐れたことは、5族がおのおの自立する民族主義で、それは列強の侵食を許す分裂の民族主義であった」と続けている。

 また松本氏は、孫文は、「鉄道敷設が地球上の各国の命脈を決めると訴えていた」が、孫文の鉄道建設の目的は、「有事の際の国防人員の配置、移民による開墾、移民による天然資源開発、移民を師としての属藩の民の教化という一石四鳥案であった」と書いている。さらに「中国で現在進行形の西部大開発は孫文の“建国方略”の青写真を下敷きに進行している」と記している。

 第9章では沈国威氏が、「辛亥革命を含む中国の近代は、日本を抜きにして語れずという言葉のもう一つの意味は、日本からの新語訳語抜きでは近代中国に発生した事象を言表すらできないということである」と、書いている。

 第10章では濱下武志氏が、新たな孫文像について、「孫文は、自らが移民であり、華僑移民のネットワークを最大限に利用して、新聞を発行して情報ネットワークを形成するとともに、同郷の人脈を活用した資金ネットワークを形成した」、「孫文は革命家として、中華民国建国の国父として、清朝を打倒した民族主義者として、西洋医学を修めた医者として、キリスト教徒として、描かれてきたし、描かれなければならなかった」、「しかし、知識人としての孫文、官学を修めず、民間人・実践人としての始点から知的な考察をおこなった孫文からは、革命のみに限定されない広い関心と、多様な知的試みがなされていることがわかる」と書き、鄭観応・南方熊楠などとの交遊をあげている。

4.「真実の中国史 [1840―1949]」  宮脇淳子著  李白社  11月3日
  帯の言葉 : 「日本人は騙されていた! 教科書で習った中国史は、現代中国がつくった“ウソ”歴史だった!歴史とは勝者によってつくられる。毛沢東によって書き換えられた歴史を鵜呑みにしてきた日本人に、まったく違っていたウソの中国史を暴く 」

 この本は反中かつ反共の宮脇淳子氏が、阿片戦争から中国建国までの歴史を、独自の視点で論じた読み物である。
 宮脇氏は、この本の冒頭で、「“普遍的な歴史”などそもそも存在しない」と書き、「それぞれの立場の考えや主張があって、歴史認識が一つになるなんてことは無理だという話になる」と主張している。そのように考えるならば、この本の題名に、「真実の」と付けることには無理がある。「新説」とか「新解釈」、「自説」というような題名を付けるべきだったのではないか。いずれにしてもこの本は、宮脇氏が論拠なしに断定し記述している部分が多く、上掲3著と比して学術的ではなく、いわばアジテーション的な「読み物」の類と考えた方がよいと思う。  

 また宮脇氏は、「実は中国人はもともと日本人が悪いことをしたとは思っていませんでした。そう言うと驚かれるかもしれませんが、日中国交が“正常化”した1972年以後、日本に来た中国人は、その全員が日本人に謝られたので、日本人は悪いことをしたのだとそれから思うようになったというぐらいのものです。つまり、日本人の反応が、現在の中国をつくってしまったのです」と書いているが、これは2重の間違いを犯している。まず「かつて日本人が中国を侵略したこと、つまり悪いことをしたこと」は、客観的な事実であって、それは「中国人がどのように認識しているか」とは次元の違う問題だからである。また「実は中国人はもともと日本人が悪いことしたとは思っていない」などと、なんの論拠もなく、言い切ってしまうことは大きな誤りである。

 宮脇氏は自らの立場を反資本主義的にも見せるために、「私が敬愛する日下公人先生は、“日本の文明が世界を変える。世界が日本化すればいい時代がくる”という持論を持っています。本当にそうだと思いますし、私も他に方法が思いつきません」と書き、アメリカの金融界を批判し、清貧を好む日本人を持ち上げ、「他人を踏みつけにしてまで自分が得をしたいとは普通日本人は思いません」と続けているが、その清貧で優秀な日本人が贅沢三昧の結果、返済不可能な1000兆円を越す借金を作り出してしまったのである。宮脇氏は、この日本の現状の具体的な解決方法を提示してから、「日本の文明が世界を変える」と言うべきである。

 本書の中盤で宮脇氏は、「日教組教育の申し子である団塊の世代が退場してくれないと、日本社会は変わりません。互いに同士討ちをやっていただいて、20代、30代の若い人たち、これまでは組織に属さなかった、個人でしっかりやってきた人たちが社会の表に出て、日本を立て直してくれることを、私は願っています」と臆面もなく書いているが、これこそ中国史とはまったく関係がない、アジの類の文言である。こんなことをこの本の中で書くこと自体が問題だが、自分や夫君の岡田英弘氏が運良く団塊の世代の枠から外れているからといって、現在の日本の苦境を他人事のように書くのは卑怯である。なぜなら日本の現況の解決の責任は、団塊の世代はもちろんだが、宮脇氏や岡田氏の世代も無罪放免というわけにはいかないと思うからである。

 宮脇氏は孫文について、「“清朝打倒”を訴えて10回も蜂起しましたが、すべて失敗に終わっています。…(略)。彼が有名になったのは、逃げ回っていたからなのです。イギリスやアメリカでは有名だけれども、清国からは指名手配されていた。そのことで有名になっただけです。中国の庶民からしたら、孫文がそんなに偉いのかというギャップがあります。孫文に賞金がかかったので、イギリス人、アメリカ人が、何かの時に役に立つからこいつは使えると思っただけです。おそらく日本人も同じですが、彼を見て格好良く思い、入れ込んでしまったのです」、「しかし(孫文は)、実際には政治的なやり方が上手なわけでなく、地盤もなく、漢籍の教育を受けているわけでもなく、客家だから中央にも食い込めず、外国の援助でちょこちょこと革命運動をやっては逃げ帰ったわけです。ですから、日本人はそのことに気づいてだんだんあきれて、最後には愛想をつかしてしまいました。すると、彼は何とソ連と組んでしまいます。言ってみれば、最悪な人物です」と、書いている。あまりにも独断と偏見に満ちたこの孫文観には、あきれて反論する気も起きない。


読後雑感 : 2012年 第5回
17.FEB.12
1.「“中国残留孤児”の社会学」
2.「“中国残留婦人”を知っていますか」
3.「日本に引き揚げた人々」
4.「川島芳子 知られざるさすらいの愛」
5.「はじめてのノモンハン事件」

1.「“中国残留孤児”の社会学」  張嵐著  青弓社  10月16日
  副題 : 「日本と中国を生きる3世代のライフストーリー」

 この本は、中国残留孤児に関する従来のモデル・ストーリーを問い直す野心作であり、一読に値する。
 張嵐氏は、まず満州移民の当時の状況について、「日本人満州移民の入植のために、1942年末まで、満州拓殖公社と満州国開拓総局によって移民用地として買収された既耕地は、実に2千万ヘクタールを超える面積(現在の日本の面積の半分以上)となった。満州移民が既耕地に入ったために、現地住民が余儀なくよそへ移住しなければならなかった。また、農業用地だけではなく、住んでいた家屋も同時に買収されているケースも現れた。生活を奪われた一部の現地住民は、日本人の小作農、雇農に変わるしかなかった。日本人の“満州”移民農業用地の買収は、現地住民に大きな被害をもたらし、現地住民の激しい反発を買い、様々な反対運動を巻き起こした。そのなか、土龍山農民蜂起が日本人満州移民に大きな打撃を与えたが、関東軍によって鎮圧された。その後、大規模な武装蜂起はなかったが、小集団または個人による反対運動が多くおこなわれた。一方、満州移民は優越感から、“現地住民の生活習慣ひいては文化を劣ったもの”とみなし、現地の生活習慣になじもうとせず、現地住民との交流も限られていた」と、冷静に分析している。

 次に張氏は、「国交正常化から2009年3月31日までの中国からの帰国者は、総数6393世帯、2万416人である。彼らが呼び寄せた子供や孫たちなどの関係者を含めると10万人と推定される」、「彼らは帰国当時、定職に就けず、年金受給資格のない人が非常に多かった。また彼らが呼び寄せた家族らには、日本語習得はもちろんのこと、住宅、就労、子女の就学など、国の支援は皆無だった。そのため、彼らは3Kの職域に引き寄せられて行き、6割以上の残留孤児が生活保護を受けざるをえない状況にさらされていた。バラ色に映っていた祖国は、帰国した残留孤児にとってまさに幻滅の国だった」と書き、その中からやむを得ず犯罪に走るものもいたと記している。

 そして永住帰国した孤児の9割近い2201人が原告となって訴訟を起こすことになったが、2007年11月に政府が新支援策を決定し、和解し決着した。張氏の取材によれば、訴訟に参加した帰国残留孤児のすべてが生活困窮者ではなく、なかには日本の生活に満足している人あり、残留孤児コミュニティへの仲間意識から参加した人もあるという。

 張氏は、帰国残留孤児の現在の心配の種が、中国に残った養父母のことであり、また「敵国の子供を実の子のように大事に育てあげた中国人の養父母の存在」は、中国メディアでも感動的に取り上げられている、と記している。張氏は、本文中で、これらの養父母が残留孤児を引き取った動機について、突っ込んだ検討を加えている。従来の調査では、これらの養父母の当時の心境を、「こどもがかわいそう。助けないと死んでしまう。敵国のこどもだが、戦争は国と国との間のことで、子供たちとは関係ない」と表現することがほとんどだった。張氏は、それらの養父母にさらに聞き込むことによって、彼らが公的発言の他に、それぞれ固有の動機を持っていたことを突き止めた。それは「そのとき養母が、子供が産めない体だと自覚していた」ことであったり、「老後の頼りとしたい」など、多岐にわたっている。そして「中国では古くから、仏教の影響で、“一命を救うのが最大の善事”、“捨て子の命を救う”、“善を行う”という慈善心を大切にしていた。残留孤児を引き取って育てるという彼らの語りは、中国の伝統文化の中で最も典型的なモデル・ストーリーである」と、記している。

 いずれにせよ、多くの中国人が日本人の残留孤児の命を救い、わが子同然に育ててくれたことは事実であり、われわれ日本人は、そのことに深く感謝すべきである。

2.「“中国残留婦人”を知っていますか」  東志津著  岩波ジュニア新書  8月19日
 東志津氏は、この本で、戦前の日本の満州侵略をわかりやすく説明しながら、その時代に翻弄された“中国残留婦人”の生き様を書き込み、戦争の悲惨さや人間の情愛の深さ、そしてはかなさやつれなさを、描き切っている。ジュニア新書でもあり、飽食の世代に育った日本の若者に、ぜひとも読んでもらいたい本である。なお今年の正月明けに、NHKで放映された「開拓者たち」でも、満州に渡った若い日本女性の生き様が放映された。東氏を始め、今なお、あの悲惨な歴史を風化させまいとする、多くの日本人の努力が続けられていることに、敬意を表する次第である。

 この本の主人公の栗原貞子さんは、「満州開拓女子義勇隊」の一員として、8か月間という約束で、1944年4月に満州に渡った。当時、政府がこの隊に課していた真の目的は、「満州の開拓団で働く若者たちの花嫁の送り込み」であった。栗原さんはそのことを何も知らされないまま、愛国心に駆られて、家族や親族の反対を押し切り、満州へ旅立ち、その後、黒竜江省の七台河市の勃利という村に配属された。

 結局、そこで日本人男性と結婚することになったが、すぐに、夫は召集、ソ連参戦と続き、身重の体で満州の荒野を逃げ惑う悲惨な生活を体験することになる。地獄の逃避行を続ける中、中国人に助けられ、やがて中国人と再婚し、中国の大地に生き続けることになった。このように、当時、生きるために中国人男性と結婚した日本人女性は、推定で4000人に上るという。栗原さんのその後の人生は、決して平坦ではなかったが、中国人の夫の間で、子宝にも恵まれ、1975年、31年振りに帰国した。8か月間の約束が、31年間になったわけである。

 私は、この本で栗原貞子さんの人生を知り、多くのことを再確認することができた。また現在の日本の置かれている状況と重ね合わせて考え、教訓をつかみ取ることができた。

 まず栗原さんが、当時の日本政府やメディアなどのウソの情報を信じ込み、その人生を決定してしまったことから、いつの時代でも真実の情報を伝えることが重要であることを再認識した。現在、日本は不況にあえいでいるため、メディアは若者に、中国を始めとする海外に雄飛することを、声高に進めている。もちろん海外で生き抜くことは重要だが、同時に大きなリスクを背負っていることも認識しておかねばならない。いざというとき、日本政府に頼り切る姿勢では、戦前同様になる可能性もあるからである。

 次に栗原さんは、「開拓移民が渡った先で与えられた土地の多くは、もともとは中国人のものでした。彼らが苦労して開墾した農地に日本人が入植したのです。土地や家屋を奪われた中国人は、その後、小作や苦力(日雇い労働者)として日本人のもとで働くことになりました」と言い、敗戦と同時に、「これまでの日本人の蛮行に恨みを抱く中国人がいる一方、手をさしのべてくれる中国人も大勢いました」と語っている。私もこれまで多くの人から、「あのとき中国人に助けられ、生き延びることができた」という話を直接、聞いている。また栗原さんのように、3人の子供の命を救うために、中国人男性の妻となった女性のことも、当人の娘さんから話を聞いている。その中国人の男性は、「日本へ帰国ができるようになったら、母子いっしょに返す」という約束をしっかり守ってくれたという。このように多くの中国人男性が日本人女性を助け、残留孤児を引き取って育ててくれたという事実に対して、日本人はこれらの多くの中国人に心から感謝しなければならないと、私は思っている。

 さらに栗原さんは、「“行くなと止めたのに、帰ってこられなくなったのは自業自得”とまで言う親戚に身元引受人を頼むわけにはいかなかった」と言い、日本人のつれなさを嘆いている。私は同じような言葉を、他の引き揚げ男性からも、直接、聞いたことがある。満州の土地から、命からがら帰国したのに、「お前たちは、“一攫千金を夢見て満州へ渡った”のだから、自業自得だ」と言われ、故郷には寄りつけなかったという。これなどは、日本人の薄情さを際立たせている。中国の大地で中国人に助けられ、日本の故郷の地で日本人同胞に白い眼で見られたというこの体験を、現代に生きる私たち日本人は、日本人のモラルの問題として、深く問い直さねばならないのではないだろうか。

3.「日本に引き揚げた人々」  高杉志賜  図書出版のぶ工房  12月24日
  帯の言葉 : 「博多港には、139万人の引揚者が上陸した」

 この本は、終戦後、朝鮮や中国東北部から、博多港に引き揚げてきた人たちや、その方々を港でお世話した人たちの記録である。それぞれに生々しい実態が語られており、貴重な歴史の告発ならびに証言集となっている。著者の努力に多いに感謝する次第である。

 第2章では河野ナ氏が、「振り返ると私の若き日々は、激動する歴史の荒波と生活苦の疾風に翻弄される小舟のようなものであった。有無をいわせず歴史が動く先端に身を置かされ、引き回され続けた。“死の恐怖と飢えの苦しみ”から脱出しようと、もがき続けた日々であった。当時からみれば、今の毎日の生活は盆か正月のようだ。“死の恐怖と飢えの苦しみ”など、現代を生きる若者には実感が湧かないだろう。私は今まで自分の体験についてほとんど語って来なかった。思い出したくなかったからである。そうはいっても私はまだ幸運な方であろう。最も苦しみ、悲惨な体験をした者は、殺されたり死んだりして語ることはできない。全ての原因は“戦争”にある」と語っている。この河野氏の言葉通り、私たち戦後世代は、“死の恐怖も飢えの苦しみ”もまったく体験していない、それどころか同氏がもっとも戒めようとした、「戦争への道」を再び歩もうとしている。私たちは、どんなことがあっても、「戦争への道」を断ち切らねばならない。

 さらに河野氏は、ソ連軍に続いて、八路軍、そして国府軍下で生活し、ソ連軍の悪逆非道に耐えかねていた同氏は、軍紀厳正な八路軍に驚き、それに劣らぬ厳正な軍記を保ち、かつ装備が格段に勝っていた国府軍を目の当たりにしたという。

 第1章では森下昭子氏が、朝鮮から引き揚げ時に、父親の教え子の朝鮮人に助けられたこと。またその人たちが、その後、「親日家」として袋叩きにあったことなどを、語っている。日本人は朝鮮人にも、ずいぶん助けられたのである。

 第4章では村石正子氏が、朝鮮から引き揚げ後、博多港で看護婦として引揚者の世話に従事していたときの経験を語っている。そこには引揚者の想像を絶する悲話が語られている。

4.「川島芳子 知られざるさすらいの愛」  相馬勝著  講談社  2012年1月20日
  帯の言葉 : 「清朝の皇女、満州の女スパイ、そして中国国民党の“スリーパー”にはじめて明かされる“男装の麗人”望郷の全人生」

 私は帯に書いてある「スリーパー」という言葉の意味が、よくわからなかった。本文中にもなかなか出て来なかったが、やっと244ページに、「任務地で長期間普通の生活をしながら指令を待つスパイ」という意味だと書いてあった。つまりこの本で相馬勝氏は、川島芳子の生涯は、前半が「男装の麗人」としての表舞台での活躍、後半が「スリーパー」としての裏舞台での暗躍?であったと書いているのである。そして分量としても、ちょうどこの本の前半部分で「男装の麗人」、後半部分で「スリーパー」としての川島芳子を扱っている。しかし読み物としては、前半部分の方が圧倒的におもしろい。

 数年前、私は、1949年に処刑されたはずの「男装の麗人 川島芳子」が、実は1979年まで長春市郊外で、生きていたという報道を目にして驚いた。なぜなら私は小学生のころ、父親に連れて行かれた映画館で、「東洋のマタハリ 川島芳子」?という映画を見たとき、たしかに最後に処刑されたような場面を見たような記憶が残っていたからである。また美人で数奇な運命を持つこの女性に興味があったからでもある。なおこの川島芳子について、最近の研究では生存説が有力となっている。しかし替え玉処刑までして、「国民党が川島芳子を生かした目的」を、「川島芳子が身代わりを立てられて処刑を免れることができたのも、スリーパーとして利用するためでした。国民党が大陸に復帰後、彼女の名声や人脈、組織力、その血筋など利用する目的があったと考えると納得がいくのです」と、相馬氏は書いているが、若干、インパクト不足のような気がする。

 なお川島芳子は、よほど男好きのする女性であったらしく、日本軍部の男性を始めとして、日中の多くの男性が彼女の手玉に取られている。ことに孫文の長男の孫科までも彼女の誘惑に負け、国民党の重要情報を告げてしまったという。   また相馬氏は本文中で、満州国でも、共産党支配地域でも、アヘンの売買が大きな収入減だったと書いている。満州国におけるアヘンの流通については、すでに研究者も多く疑問の余地はないが、「延安では毛沢東の許可のもと、阿片が生産されていた。…(略)。このようにして作られた共産党の阿片は1年間で120万両つまり43トンにも及び、現在の貨幣価値で18億円に相当」という記述は、精査が必要であると思う。

5.「はじめてのノモンハン事件」  森山康平著  PHP新書  2012年1月30日
  帯の言葉 : 「なぜ、闇に葬られたのか? 日本の組織が抱える“無責任”がここにある」

 この本には、ノモンハン事件の戦闘過程がわかりやすく書いてある。また森山康平氏は、「日本が中国を侵略している事実は、あまりにも明らかだった。道義的にも政治的にも、日本の侵略行為はどの国からも非難されていたのだ」と書き、あの戦争の本質を明確に示している。

 森山氏は、第一次会戦のあと、ソ連軍の増強の様子を見て、関東軍作戦課内部で、慎重派と積極派とに意見が分かれたと、次のように書いている。「慎重論は作戦課長の寺田雅雄大佐で、しばらく静観すべきだと述べた。これに対して積極論を展開したのが辻政信参謀だった。結局は辻参謀の気迫に押されてか、作戦課は一致してソ連・モンゴル軍に大打撃与えることに決した」。かつて私が師事した皆川節夫陸軍大尉は、「どうしても作戦会議では、勇ましく声の大きい人間の主張が通ってしまった。それは主戦論であることが多く、妥協戦術や撤退戦略は声が小さくならざるを得ず、もっとも理性的でなければならない作戦会議が、感情論で押し切られることが多かった」と、いつも反省しておられた。おそらくこのノモンハンの作戦会議でも同様だったのだろう。

 なお森山氏は、「このノモンハン一帯が広大な高原であり、豊かな草原地帯である」と書いている。満州研究家の安部桂司氏によれば、この一帯は金を含む地下資源の宝庫であり、その争奪戦がノモンハン事件の真因であったという。