小島正憲の凝視中国

琿春朝日村開拓団の最後の合同慰霊祭 


琿春朝日村開拓団の最後の合同慰霊祭 
風化させてはならない悲惨な戦争体験:「戦争は絶対にしてはいけない」
15.OCT.10
 9月24日、岐阜県高山市朝日町(旧朝日村)の円城寺で、琿春朝日村開拓団の最後の合同慰霊祭が行われた。 この慰霊祭は第2次大戦中に旧満州の地へ送り込まれた「満蒙開拓団」の朝日村出身の生還者たちが、現地で死亡した犠牲者を追悼するために、長年続けてきたものである。今年はその65回忌に当たるが、元団員たちの高齢化が進み、後継者もみつからないため、今後は継続困難と判断し、今回が最後の合同慰霊祭となった。今までの活動資金の残額などを円城寺に預け、永代供養を頼み、今後は個人の参拝とすることになった。当日は約50名の参加者があり、多くの人が、「戦争はだめだと長く伝えるには、亡くなった人をしのぶことが必要なんだ」と語り合い、合同慰霊祭の終幕を惜しんでいた。


 


 小島衣料は2005年、朝日村と琿春との因縁を深く知らずに、琿春の地に工場進出した。工場を稼働させ、しばらくたってから、私は地元の政府幹部から、岐阜県と琿春市は深いつながりがあると聞かされた。私の工場は経済開発区の中に建っており、その開発区には今ではたくさんの工場が建ちならんでいるが、そこは戦前、岐阜県の高鷲村の開拓団の居住していた場所であったという。現在、まったくその痕跡は残っていない。私はその話を聞いたとき、おそらく私の工場の土地にも、同じ岐阜県人の血が浸み込んでいるにちがいないと感じ、足下の大地に身震いしながらひざまずいた。その様子を見ていた地元政府の幹部が、私の工場から車で10分ほど走ったところに、まだ戦前に日本人開拓団の住んでいた家が残っていると教えてくれた。さっそく私はそこに行ってみた。そこが朝日村開拓団の跡地だった。たしかにそれらしき家が残っており、他にも馬の水飲み用に使ったという真ん中の窪んだ大きな石などが残されていた。また政府幹部はそこに流れている小川を指し、これは朝日村開拓団の人たちが切り開いた用水路だと教えてくれた。

 私は日本に帰国して、すぐに岐阜県の「満蒙開拓団」について調べてみた。そして朝日村の開拓団の生還者のみなさんが、その体験を綴った「遠のく荒野の空」(1982年刊)という本を発行されているのを知った。すでに絶版になっており、なかなか入手できなかったが、知人から借りてやっとのことでそれを読むことができた。私はそれを、ぼろぼろ涙を流しながら読んだ。そしてこのようなことを二度と繰り返してはならないと思った。また「絶対に戦争はしてはならない」と決意し、それが戦後生まれの私たちが、先輩の日本人から受け継ぎ、さらに私たちの子孫にしっかり伝えていかなければならないことだと思った。なお今では、この本は歴史的な資料としてその価値を認められるようになっており、米国の国会図書館からも引き合いがあり、編者の棚倉氏が残り少ない手持ちの中から5冊を寄贈したという。

 この本の中には、手書きではあるが当時の様子が手に取るようにわかる地図まで添えてあった。それによればたしかに私の工場のある場所は、高鷲村の開拓団の居住地であった。私はこの奇縁を無駄に捨て去りたくはないと思った。そこでこの琿春の地に、なにかの形で「岐阜県満蒙開拓団」の痕跡を残し、「戦争は絶対にしてはならない」ということを子孫に伝えたいと思った。しかしながらその後、なにも行動できないまま数年が過ぎ去っていった。

 9月初旬、朝日新聞に、「戦後65年 最後の慰霊祭」という記事が載った。読んでみると、高山市で上述の慰霊祭が行われるという内容だった。私はすぐに本の編者であり、主催者の一人であった棚倉彦一さんに手紙を書き、この慰霊祭への参列させていただきたいという旨を申し出た。そしてその末尾に、「できうれば琿春に朝日村の痕跡を偲べるものを遺したいと考えている」と書き添えておいた。

 残念ながら慰霊祭当日は、私は東アジアに出かけることになり(ダッカの合弁工場のオープン式典の予定が二転三転したため)参列できなかったので、わが社のスタッフに代理で行ってもらった。そのとき棚倉氏はそのスタッフに、諄々と次のような話をしてくださったという。


棚倉彦一氏の話  (上述の本や棚倉氏の「満州移民開拓体験記」に詳述されている)

(終戦後の状況)

・延吉(旧間島)まで12日間かけて避難した。日本人の兵隊クズレの共産党員が牛耳っていて、いまでも「共産党」と聞くと蕁麻疹が出ます。

・その後(晩秋)、ソ連軍の指示ということで開拓地に戻るように指示が出て琿春に戻ったが、開拓地には入れず、現地の警察公舎(日本の警察署ではない)に収容された。布団もオンドルもなく、「ワラス(藁?)」を巻いて寒さをしのいだ。原高粱がわずかに配給され、炊いてみんなでわけて食べた。英安炭鉱に連れて行かれた。

・伝染病が蔓延して死体を処理する穴を掘るにも凍っていて掘れず、河原に積んだ。毎日何十人と死んでいった。延吉から早く戻っていたらこんなに死者は出なかったと思う。その後、滋賀県の青年団の若い人たちが「三家子」(地名)に埋めた。当時の話では遺体の数は760人とも780人とも聞いた。墓標はないが、今でもこんもりともりあがっているだろう。残された人たちの遺骨はいまも雨風にさらされている。

・琿春河上流の「八達門」(地名)の朝鮮族の家にお世話になり石炭売りとして働いた。日本人女性が子供を連れてたくさん「乞食」になっていた。はじめは中国人の家とかを回っていたが、「乞食」の数が多くて相手にされず、日本人がいる家を頼りに物乞いするようになっていた。大人の女性だけなら断れるかもしれないが、小さな子供を連れていて断れなかった。家の食事を少しずつ与えていたことが主人に見つかりクビになった。

・1946年8月30日に移送命令が出て、琿春から図們まで37kmを3日3晩寝ずに急いで歩いた。少し体力があったので急きょ組織された救護班に入り、担架を担いだり、「歩け!歩け!」と寝ないように声をかけて回った。図們に入る峠(図們峠)の坂の前で大雨の中をいびきをかいて寝ながら歩いている人もいた。途中の琿春河では以前、日本兵士が何十万人も死んだと聞いている。9月1日に(コロ島)を出発して日本へ帰国した(他の人の話では皆が一緒に帰ってきたのではなく、バラバラに帰国した)。

・父と妹が満州から帰らなかった。父は徴兵されソ連兵に銃床で叩かれ頭蓋骨が陥没し、その後伝染病で死んだ。妹は栄養失調と伝染病で亡くなった。

(帰国後)

・国のため、村のために満州へ行き、生き地獄の満州から戻ったが、帰国すると「一攫千金を夢見て失敗したやつら」と言われ、誰も迎えに来てくれなかった。身を寄せる親せきもないため1q手前で村に入れず愛知県へ戻った。朝日村には随分長く行かなかった。後に「一攫千金を夢見て…」とは、村に残った人たちに役場がそう宣伝していたと知った。本を出してから陰口を叩いていた人から「満州での苦労を知らずに申し訳なかった」とお詫びをいただいた。

・いま、小島衣料が工場を建てている場所は(高鷲村開拓団の)太陽屯と呼ばれていた場所だと思う。小島前社長は小論で、琿春に歴史をとどめる何かを残されようとされていると聞いているが、何も残さないでほしい。私たち開拓団は「侵略のシンボル」だった。


 私はわが社のスタッフからこの報告を受け、棚倉氏の最後の部分の真意を聞くために、先日、直接お会いしてみた。

 棚倉氏は80歳という高齢にもかかわらず、実に壮健で頭脳明晰であり、私の意向をはっきりと拒絶され、その上にもっと適切で理想的な提案をしてくださった。私はその場でこの棚倉氏の提言に全面的に賛同し、「いつの日にか、これを実現したい」と申し出た。すると棚倉氏は私の心を見透かしたように、「全国的な運動として展開するようにして、スタンドプレーは慎んでください」と、釘を刺された。私は本当に恥ずかしかった。


棚倉彦一氏の意見と提案

・琿春で開拓団を慰霊するような記念碑などはぜひとも設立しないでいただきたい。開拓団は侵略の象徴であることは拭いきれないし、慰霊碑などの記念物を将来にわたって維持する費用は町にも私たちにもないし、将来の反日運動の中で破壊されたりすることも忍び難い。以前にも旧高鷲、旧和良村の役場がいっしょになって琿春に慰霊碑を作ろうという話があったが、私たちが各方面に意見書を出して中止をさせた経緯もあるので。

・そのかわりに、前に話した「三家子」という場所に、760体以上の日本人の遺体が埋まっているので、それを掘り起こして現地で荼毘に付して、遺骨だけを日本に持ち帰り、高山の円城寺に合葬してほしい。また「三家子」の土地は、祓い清めて元の更地にし、現地の中国人農民に返してほしい。現地の農民は、この地を耕すと人骨がたくさん出てくるので、気味悪がって「三家子」の土地には手を触れないでいる。


なお数回前の小論でも取り上げておいたが、黒竜江省ハルピン市郊外の方正県に、その地で亡くなった開拓団の日本人の慰霊碑が建立されている。これは中国に残った日本人や中国人が建て、それを日中共同で守ってきているもので、その存在意義はまことに大きい。棚倉氏の意見と提言は、このことと相矛盾するものではないと考える。