小島正憲の中国凝視

ホーチミンと毛沢東、西郷隆盛と毛沢東

中国でいま[毛沢東再評価]の動きが取りざたされます。もちろん大きな動きになっているとはいえませんが、北京のハイテクの街、中関村に毛沢東思想について議論するグループの「サロン」があったり、ネット上で「毛沢東主義」を掲げる「共産党」について取りざたされるといったことも起きています。そんな折、小島氏から上記タイトルの論考が届きました。小島氏独自の「毛沢東論」の興味深い一断面が読み取れます。ぜひご一読を。


ホーチミンと毛沢東
 10.APR.09
                                                                                           

※革命後サイゴン市はホーチミン市と改名されたので個人としてのホーチミンと混同されやすい。したがって本稿ではホーチミン市については旧名のサイゴンを使用する。なお氏名も、「ホー・チ・ミン」とせず「ホーチミン」と表記する。なぜなら当の本人が中国語では「胡志明」と称しており、特別に「・」を入れる理由はないと考えるからである。


1.ホーチミンへのあこがれ


  私は学生時代に文化大革命に遭遇し、それまで抱いていた毛沢東信仰がもろくも崩れたため、頭の中に社会主義に対する疑念が生じた時期があった。そのようなとき巷では、ちょうどベトナム人民の抗米救国闘争支援の反戦運動が燃え盛っており、私は反戦デモに熱中することによってその疑念を振り払った。そして次第に心の中にはホーチミンへのあこがれのようなものが広がっていった。当時、私はホーチミンについて下記のような好印象を持っていた。


 「ホーチミンはディエンビエンフーでフランスを打ち負かし、北ベトナムを樹立し、新たな敵であるアメリカと戦い、ほぼ勝利に近づいたとき勇退し後進に道を譲った。そこには中国のような血なまぐさい権力闘争はなかったし、その後、彼に育てられた抗米救国の戦士は勇敢に戦い反米戦争に見事勝利した。また彼には夫人もなく子供もなく、民衆から質素な生活の“ホーおじさん”として愛され続けた」


 社会人になってからも、まだ社会主義に対する幻想を持ち続けていた私を、友人の山田正平氏がベトナム経済視察旅行に誘ってくれた。私は大喜びでそれに参加した。ベトナム戦争終結直後の1976年のことで、ハノイの大通りは蛸壺だらけだったし、サイゴン周辺には焼け焦げた戦車が放置されているような状態であったが、ベトナムの人民大衆は戦争勝利後の熱気に覆われていた。もちろんハノイのホーチミン廟前には多くの参拝者が列をなしており、広場は“ホーおじさん”の熱狂的ファンで埋まっていた。


 その後30年余を経て、ベトナムもドイモイ政策に変わり、日本企業などの進出も盛んになった。私も一時期、ベトナムへの企業進出を検討したことがあった。ベトナムの姿はずいぶん変わったが、それでも私の“ホーおじさん”へのあこがれは変わらなかった。

 今回、私は再び山田正平氏と二人でハノイとディエンビエンフーを訪ね、“ホーおじさん”の素顔を探り、青年時代からのあこがれを検証してみることにした。


2.ホーチミンと毛沢東の差異


@ホーチミンは自身の神格化に反対であった。


 ホーチミンは1969年9月2日に死亡した。遺体は永久保存処理をされホーチミン廟に安置された。私が1976年にホーチミン廟を訪れたときは、まだ一般人は廟の中には入れなかった。廟の前には大勢のベトナム人民が参集してきていて、感謝の祈りをささげたり歓喜の声をあげたりしていた。そのとき私は廟の前で手を合わせながら、「“ホーおじさん”はこのベトナム人民の姿を見てさぞかし満足していることだろう」と思ったものである。


 今回、私は廟の中に入って静かに眠っている“ホーおじさん”と対面したが、いささか複雑な心境で素直に手を合わせる気にはなれなかった。なぜなら1989年にはじめて公開されたホーチミンの遺書で、彼が「自らの死後は火葬をして、その灰をベトナムの北部・中部・南部に分けて埋葬してほしい」と望んでいたことを知っていたからである。後継のレズアン指導部はこの遺言を守らず、ソ連の援助によって遺体を永久保存処理して廟に安置したのである。つまりホーチミンは自らの意志に反した形で、死後その姿をさらすことになったのである。私は“ホーおじさん”に尊崇の念と親愛の情を抱きながら静かにその周囲を回った。しかし同時にきっと“ホーおじさん”はベトナム人民の心の中だけに生き続けたかったのだろうと思った。さらにきっとこの姿は不本意なのだろうと考えながら出際でそっと手を合わせた。


 後継者レズアンはホーチミンの意志に反して、彼を神格化した。もちろんベトナム人民を団結させ、反米闘争を戦い抜くためにはホーチミンの遺徳が必要であったことは否定しない。しかし故人の意志に反してでも、後継者が故人の神格化・カリスマ化をすすめるのは、まさに後継者自身のためであるといえよう。前回も書いたように西郷隆盛を「軍事戦略の天才」と持ち上げ、カリスマ化したのはまさに軍国主義へと突き進む時代がそれを必要としたからである。西郷自身も神格化されることなど望んでおらず、おそらく銅像など建てて欲しくはなかっただろう。カリスマ化や神格化は、当人が生存中でも、当人が自分の目的を果たすために確立されるというよりは、周囲の人間がそれを利用し目的を達成しようとするための手法であるとも考えられる。ましてや当人の死後は、完全に後継者の必要性から生まれてくるものであり、そこに偉業の誇張や不都合な部分の削除などの作為が生まれてくるのである。毛沢東に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。


 ホーチミンの遺書は当人の死去後20年、そしてレズアン死去後3年を経た1989年秋に共産党の手で公表された。ベトナム人民はそのときはじめて、「“ホーおじさん”が火葬をのぞみ、その遺灰がベトナムの北・中・南部の大地に埋葬されることを願っていた」ということを知ったのである。後継のチュオンチン書記長を中心とする共産党指導部は、ホーチミン死去当時のレズアン指導部が、政治的配慮でこの遺書を公開せず、“ホーおじさん”の意志に反して遺体を永久保存したことや、死亡日を1日ずらした(建国日と重なったため)こと、遺書の中に「反米闘争勝利の暁には農業税を1年間免税にしてほしい」との提案もあったが、経済事情がゆるさず実施できなかったということを発表した。


 この遺書が公開されてからすでに20年が経っているが、いまだに“ホーおじさん”は廟の中に眠っており、愛国主義教育の一環として利用され、毎日多くの小中学生などがたくさん訪れている。ただ遺体のメンテナンスは今でもロシアの技術に頼っており、質素倹約を旨とする“ホーおじさん”の意志に反して大金がロシアに支払われているという。


Aホーチミンは南部の武力開放に反対していた。


 青年時代の私のあこがれに反して、ホーチミンからレズアンへの政権交代は禅譲ではなかった。
 ホーチミンは1954年ディビエンフーで仏軍を撃破し、ジュネーブ協定にこぎつけ、北ベトナムを独立させた。その後彼は強国アメリカとの全面的な戦いになることを恐れて、南のゴジンジェム政権との間で平和的な統一を模索した。今回、私たちのガイドをしてくれたのは歴史に詳しい青年で、その間の事情として、「ホーチミンは花束の中に平和的統一をしたためた親書を隠してゴジンジェムに渡した」ということを話してくれた。ホーチミンは対仏戦争よりも多大な損害をこうむることを予測して、南部では政治闘争のみを行うことを決定し武装闘争を禁じた。それに対してレズアンは南部の武力開放を主張、指導部内で深刻な対立があったのである。


 ホーチミンは1911年に仏船の見習いコックとして祖国ベトナムを離れてから、41年に30年ぶりに帰国するまで広く国際活動を行った。彼はアフリカ各地、アメリカ、イギリスと旅を続け、17年にはフランスに入り、19年には仏社会党に入党、20年にレーニンの民族問題のテーゼを読み感銘を受け、21年に仏共産党大会に参加。23年にソ連へ。24年にコミンテルン東方局部員として中国の広州へ。30年に香港でベトナム共産党結成。さらに香港と中国で獄中生活を経験するなど、ホーチミンのこれらの国際体験は、小国ベトナムが中ソ対立をうまく捌きながら、反仏・抗米救国闘争を勝利させる上で決定的な役割を果たした。この点は毛沢東がロシア以外の国に足を踏み入れたことがないのとは大きな違いである。海外での遊学が革命家の必要条件というわけではないが、国際的な経験がないということは視野に一定の限界があることは否めないと思う。


 ホーチミンはその国際経験から資本主義国の強大な軍事力を熟知しており、8月革命の成功やディエンビエンフーの勝利は運によるところが大きいこともよくわかっていた。したがってジュネーブ協定後、政治闘争を優先させて国力を養い、時機を見て武装闘争に移ることを主張したのである。しかし60年、レズアンに第一書記の座を譲り、南部の武力開放方針を是認した。このときホーチミンは病に侵されており体力上の理由も加わって、レズアンの武装闘争方針を認めざるを得なかったのである。その後の展開は、ホーチミンの予測どおり110万人の死者と30万人の行方不明者など、ベトナム人民とその国土に莫大な損害をこうむらせた。


 レズアンは抗米救国闘争に勝利後、表向きはホーチミンの偉業を讃え続けたが、次第に自分の功績がホーチミンより大きいと誇るようになっていったという。そのレズアンでさえもホーチミンが残した集団指導体制の枠組みを破壊して自らの側近で政治局を固めてしまうことはなかった。レズアンも86年7月に死去した。ベトナム共産党はチュオンチンを代行とする集団指導体制に移行した後、ホーチミンと共に生きた世代は全員引退した。その間、ベトナム共産党は中ソ対立に巻き込まれ深刻な党内闘争を経験したり、カンボジア侵攻、中越戦争などを引き起こしたが、それでも血なまぐさい身内の粛清は皆無であった。これがホーチミンの遺産であり、毛沢東の中国との大きな差である。


Bホーチミンには3人以上の夫人があり子供もたくさんいた。


 この情報は公式文書にはなく、民間のうわさの類である。しかしベトナム民衆はこれを否定していない。ホーチミンに夫人がたくさんいたということは毛沢東とも同じである。けれどもホーチミンの場合は事情が少し違っていた。彼の活動はベトナム北部のタイ族地域が多かったといわれている。当時、タイ族は母系性社会であり、女性の元に不特定多数の男性が集まることは常識であった。したがってホーチミンやボーグエンザップもその風習に従い、行動したものと思われる。多くの若者が、「私はホーチミンの息子である」というのもあながちうそとはいえないという。また中国滞在中にも夫人があったといわれている。


 ホーチミンの生活が質素であったことは確かであり、ハノイでは豪華な宿舎を嫌い、居心地が悪いという理由で3度も引越し、最後には高床式の民家へと移り住んだ。現在、その家が愛国主義教育の基地として保存されている。“ホーおじさん”は本当に庶民的な人であった。

 

 私は現地で“ホーおじさん”の顔がプリントされたTシャツを買って着て歩いた。 すると行き交う人たちが、私の肩をたたき、シャツを指差しにこにことあいさつしてくれた。私は“ホーおじさん”は本当にベトナム人民に愛されていたのだと実感した次第である。中国ではとても毛沢東のTシャツを着ては歩けない。


3.ディエンビエンフーの戦い


 ハノイからプロペラ機で約1時間、ラオス国境近くまで飛んだところにディエンビエンフー古戦場がある。そこは周囲を高い山で囲まれた盆地であった。日本の長野盆地を少し小さくしたような感じであり、ちょうど川中島古戦場のあたりに仏軍の総司令部がある。ラオス国境へは50kmぐらいであり、車でも1時間ほどあれば行ける。仏軍はラオスの制圧も視野に入れて、ここに一大基地を築いた。


 中央の仏軍総司令部の位置に立ってみると、四方の高い山に威圧され、そこは四面楚歌という言葉がぴったりという感じの場所であった。この戦いを指揮したボーグエンザップ将軍は、後に「人民の戦争 人民の軍隊」という書物で、「ディエンビエンフーの決戦でべトミンが勝つことができた原動力は、ディエンビエンフーの周囲の山に大量の大砲をかつぎあげた民衆である」と書いている。仏軍将校は、べトミンがまさか山の上に大砲を設置し、いっせい砲撃をするとは思っていなかったという。仏軍将校は「ナポレオンがイエナの戦いで高地に大砲を引き上げ、プロイセン軍を壊滅させた」あの貴重な戦訓をすっかり忘れてしまっていたようである。これは最高の歴史の皮肉である。


 ボー将軍はまず山の上から道路や飛行場を狙い、いっせい砲撃を加え、仏軍の中央陣地を孤立させた。次にこれまた人海戦術で縦横に塹壕を掘りめぐらせ、じわじわと仏軍陣地に迫っていった。ベトナム人民が掘った塹壕の総延長距離は数百キロといわれる。仏軍基地の中でもっとも手ごわかったA-1基地には地下トンネルを掘り、真下に大量の爆薬を仕掛け吹っ飛ばした。仏軍は55日間の抵抗の後、ボーグエンザップ将軍の砲撃戦と塹壕戦に完敗した。この戦いはベトミン側がこうむった被害も甚大なものであったが、強固な仏軍基地を完璧に打ち破った名作戦であるといえる。


 街の中にはこの戦いの記念館があり、屋外には戦車や大砲が並べてあり、屋内にはその大砲を引っ張り上げた太い綱など数多く展示され、そのかたわらではビデオ放映が行われ、1門の大砲を大勢の人民がその綱で引っ張っている貴重な映像を見ることができる。また綱が切れ大砲が転がり落ちそうになったとき、その下に身を挺して食い止めたという英雄の像もある。


 私はそれらをつぶさに見て回りながら、ある展示の前で足がとまった。ベトナム語とフランス語で表記してあるので、さだかにはわからなかったが、そこには戦い後の投降兵のことが書いてあった。ガイドに聞いてみると、一般には仏軍兵1万6千が投降したと伝えられているが、実際には仏兵は千名を切っており、あとはアルジェリアやモロッコなどの北アフリカ兵とベトナム人傭兵であることがわかった。これでは仏軍といえども精鋭は千名足らずで、戦いの最終盤では逃亡兵が多数出たのではないかと思った。


 私たちは記念館を出てA-1基地に向かった。それは小高い丘の上にあったが、ガイドの話によれば実際の場所とは少し位置がずれているということだった。その丘のふもとからは、当時と同じように塹壕がぐるりと掘りめぐらせてあったので、中に入って走ってみた。蚊がいっぱいいて閉口した。次いで近くの仏軍総司令部に行ってみた。意外に小さな場所で、かまぼこ型の屋根の地下に4室があり、壁には地図がかかっていた。その司令部から東北部の山を見上げて、そこから大砲の弾がじゃんじゃん飛んでくる光景を想像してみた。


 その山中のボーグエンザップ将軍の作戦基地にも行ってみた。車で40分ほど山道を上ったところだった。その山の反対側からたくさんの大砲を引っ張り上げたということだった。


≪A-1基地の塹壕≫


 作戦基地周辺から仏軍基地に向けて大砲を撃ったということだったが、そこから仏軍基地を見ることはできなかった。作戦基地とはいうもののみすぼらしい小屋が点々とたくさん建られているだけだったが、それらは相互に地下トンネルで結ばれていた。そのトンネルの中に入って歩きまわり、外に出てみるとまったく見当違いの場所に出てしまい、山の中で迷子になりそうだった。さいわい地元の子供が元の場所まで案内してくれたので助かった。


 これらの基地を見ていて意外だったのは、ここに中国人将校団の小屋があったことである。ガイドの話によれば、中国人民解放軍の支援将校が79人(そのうち3人がこの戦いで死亡)来ていたという。しかもここで行われた作戦会議で中国将校団が総攻勢は時期尚早と主張し、ボー将軍が怒って彼らを退席させたという話が伝わっている。さらに驚いたのは残留日本軍将校もこの作戦の参謀として活躍していたという。残念ながら彼らが起居したという小屋は残されていなかった。

                                                    ≪中国将校団の宿舎≫


 記録によれば、日本兵766人が日本軍撤退後もベトナムに残りべトミンに協力したという。そのうち約450人がベトナムの地で消息を絶ったままだという。きっとディエンビエンフーのこの作戦基地にもかなりの日本兵がいたのだろう。そんなことを考えていて、ふと1976年にベトナムに来たときのことを思い出した。サイゴンの港近くで山田正平氏とベトナムコーヒーをすすっていたら、急におじいさんが日本語で話しかけてきて「私は日本人だ」という。ベトナム戦争勝利直後で、そんなところに日本人がいるとは思わなかったのであまり深い話はしなかった。彼は残留日本兵だったかもしれない。


4.「ナポレオンのイエナの戦い」  


 ※1985年 中部経済新聞 「歴史と兵法に学ぶ−経営者能力論」 小島正憲著(60回連続掲載)の第10回より。


 ≪陣頭指揮で常勝神話を−ナポレオンのカリスマ性に学べ≫ 


 アウステルリッツの会戦でオーストリア・ロシア連合軍を破ったナポレオンは、1806年10月13日、余勢を駆ってプロイセンになだれ込んでいった。20万のナポレオン軍はチューリンゲンの森を抜け、イエナ地方で15万のプロイセン軍と対峙した。強行の疲れを見せるナポレオン軍の前に、フリードリヒ大王ゆずりの精兵プロイセン軍が頑強に抵抗し、さしものナポレオンも攻めあぐみ、焦った。


 13日も夜が訪れ、シトシトと雨が降りはじめた。ナポレオンは夕食もそこそこにして、護衛武官数騎をひきつれて、敵情判断に駆け出した。イエナ北方のランドグラーフェンベルグ高地(標高361m、比高140m)に馬を進め、前方のホーエンローヘ侯ひきいるプロイセン主力軍を凝視した。眼下には野営の灯が点々と連なり、プロイセン軍主力5万の布陣がくっきりと浮かび上がっていた。


 次の瞬間、ナポレオンはかたわらのランヌ元帥に、「すべての大砲を、今夜のうちにこの高地に運び上げよ」と命じた。しかし雨でぬかるんだ山道を、しかも夜間、1トン近い大砲を運び上げるのは至難の業だった。イライラして待つナポレオンのもとに、ついに「陛下、不可能です」との報が寄せられた。次の瞬間、ナポレオンは、

「イルニヤパ ドウモウ アンポシーポル アンフランセ (不可能の文字なし、フランス語には)」


 と大声で叱咤し、すぐさま現場に駆けつけ、自ら大砲にロープをつけひっぱりはじめた。それを見てランヌ軍団3万の兵全員が、ナポレオンに続いてロープをになった。そしてとうとう朝までに、40門の大砲を全部高地にひっぱりあげてしまった。朝霧の晴れるのと同時に、整列した40門の大砲がねぼけまなこのプロイセン軍の頭上をめがけていっせいに火を噴いた。勝負は一決した。


 現在、ランドグラーフェンベルグ高地はソ連の演習地の真っ只中になっている。胸をときめかせてこの地を訪れた私の前に、無情にも鉄条網と進入禁止の看板がたちふさがった。それでも、ナポレオンがその上で指揮をとったといわれる岩(ナポレオンスタイン)を一目見ようとほふく前進まがいで忍び込んだ。しかしカービン銃を肩にしたソ連兵の出現に驚いて逃げ帰らざるを得なかった。その近くで下を見ると、やはりこの高地に大砲を引き上げることはなかなかむずかしそうであった。同行の旧陸軍砲兵少佐が、その経験から旧陸軍でも無理だったろうと評しておられた。


 ナポレオンは「予の如くせよ、予と共に進め、予の後ろに従え」と、常に言い続け、陣頭指揮に立ち続けた。彼はいつも白馬を4〜5頭従え、次々と乗り継いでいった。ナポレオンの雄姿は兵士たちを元気づけ、ナポレオンの声は突撃ラッパのように鳴り響いた。そしてついに「予の赴くところは必ず勝つ」という神話を完成させた。


 経営者もこのナポレオンのカリスマ性に学び、常に陣頭指揮に立ち、その果断さでもって、「この経営者の赴くところ、必ず儲かる」という神話を完成させねばならない。


                                                             

西郷隆盛と毛沢東 
02.APR.09
 

 昨年のNHKの大河ドラマは「篤姫」だった。私はそのドラマの中の篤姫と西郷隆盛の関係を見ながら、彼らの生きた幕末という時代の裏面史にたいへん興味をそそられた。そんなとき書店で半藤一利氏の「幕末史」が目に入ったので早速買って読んでみると、そこに「西郷隆盛は毛沢東と同じ」という文言が出てきた。しかし文中にはその文言の詳しい説明はなかった。そこで私は半藤氏の他の書物も読んでみた。すると「それからの海舟」という文庫本の中に下記のような叙述があった。

 ※半藤一利著 ちくま文庫刊 「それからの海舟」より


 「考えてみるまでもなく、西郷の理想とする儒教的哲人政治は、一糸乱れぬ官僚的な政治指導体制とは相容れぬものであったかも知れない。西南戦争は、大久保を頂点とする官僚的行政体制に対する西郷の最後の“文化革命”という形をとった。…と書いてくると、ここで一人の政治家の名が自然と浮かんでくる。

 毛沢東その人。

 武断主義、軍事戦略の天才、農本主義、経済オンチ、人々を魅了するカリスマ性、そしてたえざる“文化革命”への希求と、西郷との共通項をひろっていくと、妙な気になってしまう。結局、明治の近代化は西郷を排除してはじめて可能であったのであろう」 


 今の私には、この半藤氏の主張を全面的に検討するだけの能力はない。それでも半藤氏の指摘に触発されて、兵法経営研究家としての立場からこの二人の偉人を検討してみた。するとそこに特筆すべき共通項が見えてきた。以下にそれを記述する。

 

1.毛沢東は西郷隆盛を学んでいた。


 毛沢東が日本の明治維新や西郷隆盛を学んでいたことについては、伝記などで紹介されているので日本でも多くの人が知るところである。
 しかし毛沢東が青年時代に、父親と別れるとき「西郷隆盛の漢詩」をほぼそのまま引用して、決意を示したことはあまり知られていない。
 この漢詩は実際には西郷隆盛のものではなくて、長州の勤皇僧:月性(西郷隆盛と入水した京都の僧:月照とは別人)の作であったが、それに感嘆した西郷隆盛が引用しようと考え書き留めておいたので、それを読んだ毛沢東が彼の作と間違えたものらしい。
 この事実は毛沢東が西郷隆盛をかなり深く研究していたことを示すものである。果たして毛沢東は西郷隆盛から何を学んだのであろうか。


      勤皇僧:月性の漢詩 「将東遊題壁」 (毛沢東が西郷隆盛作と勘違いしたもの)


      男兒立志出郷關 學若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到處有青山

   

      毛沢東の漢詩 「留呈父親」


      孩兒立志出郷關 學不成名誓不還 埋骨何須桑梓地 人間無處不青山


2.西郷隆盛の実相


 日本人の間で西郷隆盛の人気は高い。たしかに一般には明治維新の立役者でありながら、西南戦争で散った悲劇の英雄であり、その清廉潔白で誠実な人生を「南州翁遺訓」という形で世間に遺した人間として伝わっている。

 毛沢東もこのような西郷を学んだに違いない。しかしながら最近の研究に従いながら、時代を追って西郷を詳しく見てみると、そこから二つのことがわかる。


○は戦闘指揮。△は交渉指揮。その他に薩摩藩の行政改革、明治新政府での政策決定・実施があるが省略。


 1864年 ○禁門(蛤御門)の変 

       △第1次長州征伐 

   66  △薩長同盟成立

   67  △王政復古クーデター 小御所会議

   68  ○鳥羽・伏見の戦い 

       △江戸城無血開城

       ○上野戦争

   73  △征韓論

   77  ○西南戦争


@西郷隆盛は「軍事戦略の天才」ではない。


 西郷隆盛が直接関与した戦争は○印で、禁門(蛤御門)の変、鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、西南戦争であり、それらを兵法の観点から判断すると決して上策ではなく、西郷を「軍事戦略の天才」と評するわけにはいかない。

 陣頭指揮に立って戦ってはいるが、後世に語り継がれるような名戦術を駆使しているわけではない。

 ことに西南戦争にいたっては完全な負け戦さであり、名将ならば絶対に行うはずがない戦いである。

 これらの戦いの分析は附:4.に展開しておく。

 なお西郷と同時代の名将には四境戦争の大村益次郎、北越戊辰戦争の河井継之助を挙げることができる。


A西郷隆盛は類まれなる「胆力」の持ち主である。


 逆に西郷隆盛の真骨頂は△印の場面に現れている。

 彼は敵の懐に飛び込んでの交渉を得意とする。この交渉力の根源は胆力にある。第1次長州征伐、薩長同盟、小御所会議、江戸城無血開城などその見事な交渉は後世までの語り草になっている。そしてその極めつけは征韓論での朝鮮単身入国の主張である。それは最近に至っても、日経新聞が「西郷隆盛が残した宿題」(3/22付け)として、「西郷にとって気掛かりだったのは樺太に南下してくるロシアであり、対抗するには朝鮮、清国と組むしかないと考えていた。そこで自ら朝鮮を訪れ、腹を割って話すことで提携をまとめようとした」として取り上げられるほどである。

 西郷は自らの死をもいとわない類まれなる胆力を有していた。しかもそれは平常時ではなく危急存亡のときに発揮された。これらのことは附:5に詳しく論述しておく。


 また西郷自身も自らを「破壊屋」と自覚しており次のように述懐している。


 「もし一個の家屋に譬うれば、われは築造することにおいて、はるかに甲東(大久保利通)に優っていることを信ずる。しかし、すでに建築し終わりて、造作を施し室内の装飾を為し、一家の観を備うるまでに整備することにおいては、実に甲東に天稟あって、われらの如き者は雪隠の隅を修理するもなお足らないのである。しかし、また一度、これを破壊することに至っては、甲東は乃公(おれ)に及ばない」 ※毛利利彦著 「大久保利通」


 西郷は計画的かつ建設的で冷静沈着なリーダーというよりも、臨機応変な策を得意とする熱血漢タイプのリーダーと言える。

 つまり西郷は「胆力をそなえた破壊屋」であったといえよう。


3.西郷隆盛と毛沢東の共通項


@西郷隆盛と毛沢東の共通項の第1は逆説的ではあるが、「二人とも軍事戦略の天才ではない」ということである。そしてそれにもかかわらず一般的に「軍事戦略の天才」と評されていることである。


 西郷が「軍事戦略の天才」ではないことは本稿で論及した。

 毛沢東が「軍事戦略の天才」ではないことは、過去の私の長征実証研究でその論拠を展開しておいた。

 半藤氏は共通項として「軍事戦略の天才」を上げているが、兵法経営研究家としての私の視点では二人とも「戦さ下手」であり、名将というには程遠い。

 それにもかかわらず、その「戦さ下手」が「軍事戦略の天才」と祭り上げられたのか。

 この点については、次回以降の小論で言及したいと考えている。


A共通項の第2は「胆力」である。


 西郷が類まれなる「胆力」の持ち主であり、それが創造よりも破壊のときに発揮されたことは、この小論で検討した。

 毛沢東も類まれなる「胆力」の持ち主であったことには疑う余地がない。

 長征と名の付く彼の撤退作戦は「敵の裏をかく」ことによって成功してきた。

 長征の成功は毛沢東が、一般の軍人ならば考えつかない撤退戦術を次々と繰り出し、実践してきたことにある。 つまり一般の軍人は「胆力」がないので不可能と考えあきらめてしまうような場面でも、毛沢東はそれを断固として実行した。

 結果としてそれが常識を破った戦術となり、「敵の裏をかく」ことになったのである。そしてこの「胆力」が破壊屋として発揮されたことも歴史が証明している。 



さて、両者が備えていた「胆力」はどこに源泉があるのだろうか。生来のものなのか、あるいは教育で身に付くものなのか。この点についても以降の小論で検討してみる。


附:4.西郷隆盛の戦争


@1864年7月 禁門(蛤御門)の変

・京都を追放されていた長州藩が失地回復を図って入京。在京の長州兵が2000人余となり、京都守護職配下の兵1500人を越える。その上、世子毛利元徳が正規軍3000人を率いて長州を進発。それに先駆けて在京の長州兵が挙兵し嵯峨、山崎、伏見の三方面から進撃し、会津、薩摩を主力とした肥後、越前などの十余藩の兵と激突した。蛤御門で西郷隆盛率いる薩摩兵が奮戦し長州兵を撃退。

・この戦いで西郷は初めて陣頭に立って指揮をし、足に軽い銃創を受けた。

・現存する蛤御門には弾丸跡などが少なく、さほど激戦ではなかったのではいかとも思われる。


A1868年1月2〜6日 鳥羽・伏見の戦い

・旧幕府軍は大阪から京都へ進軍。兵力は1万5千。本隊は竹中重固が率いて会津藩兵、、鳥羽藩兵、新撰組などが従い伏見街道を、別働隊は滝川具挙が指揮して、桑名藩兵、大垣藩兵、見回り組などが続き、鳥羽街道を進軍。                  

・新政府側も5千の兵を繰り出した。伏見方面は長州藩を主力として御香宮を拠点に布陣、鳥羽方面は薩摩藩兵を主力 に鴨川にかかる小枝橋付近に布陣。


・1月2日午後5時、鳥羽街道を旧幕府軍が強行突破しようとしたため開戦。薩摩側が鳥羽街道の左右に大砲をならべ陣を敷いている中に、旧幕府軍が縦列行軍で突入したため、集中砲火を浴び被害は甚大なものとなった。
見回り組の 捨て身の突入戦術や夜襲もあったが、圧倒的な火力の前に旧幕府軍は後退。伏見方面では市街戦が展開されたが、狭い市中での戦闘では旧幕府軍の大きな兵力は戦果を上げることができなかった。                                     

・京都で総指揮にあたっていた西郷は緒戦の勝利で、この勢いに乗れば勝てると確信した。旧幕府軍は強行に突破す

 れば薩長側は道を譲ると思い込んでおり、十分な戦略を持っておらず、予想外の劣勢に慌てた。

・1月5日午後、敗勢濃い旧幕府軍の前に、新政府軍の錦旗が翻った。これを見た旧幕府軍兵士は戦意を喪失した。味方だった淀藩や津藩も裏切ったため、旧幕府軍は大阪城まで敗走した。


・この戦いにおける旧幕府軍の敗戦は、戦略戦術が欠如していたことが大きい。伏見戦線は市外戦で大軍の有利さを発揮できなかったし、陣を敷いた伏見奉行所近辺は薩摩兵の陣の御香宮からはなだらかな下りになっており、そこで結局、錦旗に上から見下されたことが大きく戦意を喪失させたのである。鳥羽戦線も鴨川と東高瀬川に挟まれた隘路で泥沼が多く、これまた大軍の移動には適していなかった。


・しかし新政府軍はこの有利さを見抜いて布陣したという記録はどこにも残っておらず、この戦いが西郷の名戦略であるという賛辞もなく、むしろ大久保利通や岩倉具視の知恵である「錦の御旗」が勝敗の帰趨を決したという見方が多い。


・鳥羽・伏見の南方は、桂川、宇治川、木津川の3川が合流しており、大阪に撤退するにはこの隘路を通らなければならない。地形がきわめて複雑になっている上、最近では名神高速道路、京滋バイパス、国道、新幹線、JRなどが狭い地点に入り混じっており、旧幕府軍の撤退経路を探るのはたいへんであった。


B1868年5月 上野戦争

・旧幕府軍の生き残り部隊が彰義隊を結成し、江戸市中を跋扈し浅草本願寺に駐屯し気勢をあげた。
それに対して新政府軍は兵力や軍資金を欠き、積極策を打つことができなかった。


・新政府の首脳は、上野に本営を置く彰義隊の殲滅を目指して長州藩の大村益次郎にその指揮を委ねた。
大村は50万両に及ぶ戦費の調達に頭を悩ましたが、大隈重信からアメリカ艦船を購入する予定の資金25万両を借り、あとは江戸城の宝物を売り払うなどをして調達した。                                


・5月15日未明、江戸城に終結した新政府軍2000人が出陣し上野の山を取り囲んだ。黒門口を固めたのは薩摩、鳥取、熊本の兵、団子坂方面には長州、大村、佐土原の兵、不忍池を挟んだ本郷台には佐賀、津、岡山の兵がそれぞれ布陣した。迎え撃つ彰義隊は約1000名。


・7時半ごろ、黒門口で戦闘が始まった。彰義隊の反撃もすさまじく、午前中は一進一退が繰り返された。黒門口では薩摩兵が激戦を続行していたが、鳥取、熊本の兵が迂回作戦をとり攻めたてたことにより、膠着状況を抜け出した。そのころ本郷台から佐賀藩のアームストロング砲が山内の吉祥閣などに命中し、彰義隊の戦意をくじいた。さらに長州兵の一部が会津兵と偽装して彰義隊の背後から攻撃した。夕方の5時ごろ戦闘は終結した。新政府軍の死者は40余人、彰義隊の死者260余人。


・この戦いの全般は大村益次郎の指揮したものであり、西郷は黒門口の攻撃に終始したわけであり、名作戦を展開したわけではない。戦いの決め手は佐賀藩のアームストロング砲であり、長州兵の奇策であると考えられる。


・なお激戦が展開された黒門口にあった黒門は荒川区三ノ輪の円通寺に移築されており、多くの弾痕跡がなまなましく残っている。


C1877年2〜9月  西南戦争

・1873年、「征韓論」で大久保らと対立した西郷は政府の官職をすべて辞し、薩摩に帰った。
また新政府の要職に就いていた篠原国幹、桐野利秋ら西郷を慕う薩摩出身の若者たちもいっしょに帰国した。
翌年、西郷は彼らとともに、私学校を開設した。中には銃隊学校、砲隊学校を含んでおり、新政府はこれを私兵養成機関として警戒した。また薩摩は新政府の政策を無視することも多く、独立王国の様相を呈していた。


・西郷は若者たちの暴発を戒めていたが、77年1月、私学校の若者たちは政府の火薬庫を襲って暴徒と化した。この決起に西郷は「しまった」と絶句したという。そして2月、「もう何も言うことはなか。おはんたちがその気なら、おいの身体は差し上げもそ」という西郷の答えで西南戦争が開始された。


・この戦争の挙兵の名分は、「政府に尋問の筋これあり」であり、これで全軍をまとめあげ政府に反旗を翻すには薄弱であった。


・戦略についても、

≪上策:全軍長崎に進んで軍艦を奪い、一軍は大阪に突入し神戸を抑えて策源地とし、他の一軍は東京に急行し横浜を抑えて策源地とし、もって天下を制する。中策:若干の監視隊で熊本城を牽制し、他は豊後方面に進出、福岡、小倉の要地をとり門司を抑えて拠点として大阪をとり、他は高知を抑えて天下を制する。下策:全軍で熊本城を囲んでこれを陥れ、もって九州を抑えて中央に突出する≫が検討され、西郷小兵衛は上策、野村忍助は中策、桐野利秋が下策を主張し、結局下策をとることになった。


・兵力差は歴然としていた。最終的にこの戦いに参加した新政府軍は54000人、薩摩軍は24000人であった。

 兵器、艦船、食糧、軍装、軍資金など、いずれをとっても新政府軍と薩摩軍との差は圧倒的であった。


・緒戦の熊本攻城戦では、薩摩軍は13000人、新政府籠城軍は3400人であり、人数面では勝っていたが加藤清正の造った堅城に阻まれて落とすことができなかった。
結局、この熊本城の攻城に時間がかかったっことが致命傷になった。
関ヶ原の戦いのときに徳川秀忠が上田城の攻城に時間を取られたのと同じことになったのである。


・新政府軍が小倉方面から熊本城救援のため南下してきたため、薩摩軍も熊本城の攻城をあきらめ主力が北上し新政府軍を迎え撃つことになった。
高瀬方面で激戦となり、薩摩軍は援軍が加わった新政府軍の前に、田原坂方面まで撤退せざるを得なかった。


・田原坂での17昼夜にわたる激戦も、近代的兵器を擁する新政府軍の勝利で終わった。田原坂資料館には当時の両軍の兵器、軍装などが比較展示してあり、薩摩軍の劣勢がよくわかる。なおこのとき兵士数では双方互角であった。


・その後、新政府軍の衝背軍が八代に上陸し熊本城に入城したため、薩摩軍はその包囲を解いた。50日余に及ぶ熊本城の攻防戦は薩摩軍の敗退で終わった。八代の上陸地には地元の人でもわからないような小さな標識がぽつんと立っている。


・薩摩軍は人吉、都城、宮崎、高鍋、延岡と敗走を重ねた。


・西郷は和田峠で薩摩軍の解散を決定し、死に場所を故郷に求め、可愛岳に上り山中を彷徨しながら薩摩を目指した。延岡市内には旭化成の工場が多く、社員のリクレーションで可愛岳1日登山がよく行われたというので、私も挑戦してみたが、急坂が多くとても登りきれるものではなかったので中途で断念した。


・城山に戻った西郷は私学校の目の前で最期を遂げた。


・この戦いは西郷にとって勝つつもりがなかった戦争であった。野村忍助らが主張した北上作戦にわずかにあったチャンスも熊本城の攻防で時間を取られ、それを逸した。この西南 戦争を見ても西郷が戦さ上手であるとは言えない。                              


Dその他の戦争

・北越戊辰戦争 戦闘への直接関与なし

・函館戦争 戦闘への直接関与なし


附:5.西郷隆盛の胆力


@1864年11月 第1次長州征伐

・蛤御門の変後、天皇から幕府に長州藩追討の命が下り、総参謀を西郷隆盛とする征長軍が編成される。
西郷はこの戦いを「長人をして長人を処置させる」という方針でのぞみ、そのために軍の派遣以前に長州に西郷自らが乗り込んだ。


・この工作は、長州藩3家老は責めを負って自刃、参謀4人が斬首、藩主毛利父子の謝罪状提出など、順調に進んだ。


・しかし五卿の移転問題が解決しなかった。西郷は「薩賊会奸」の首魁として憎まれている敵地:山口に乗り込み、騎兵隊ら諸隊の長に直接会って説得し、征長軍解兵後にすみやかに五卿を福岡藩に移すことで妥協を成立させた。


・この西郷の敵地に身をさらしての交渉、そして一戦も交えずして長州藩を帰順させた胆力と手腕は、高く評価された。


A1866年1月 薩長同盟

・坂本竜馬の仲介で、大久保利通、小松帯刀同席の上、長州藩の桂小五郎との間で同盟締結。


B1867年12月 王政復古のクーデター 小御所会議

・御所の各門を西郷率いる薩摩、芸州、土佐、越前、尾張の藩兵が固め、小御所会議において岩倉具視による王政復古の大号令が宣せられた。


・しかし徳川慶喜の処遇をめぐって意見が対立し、解決の目処が立たず会議は深夜に及んだ。
西郷は「短刀一本あればかたづくこと」とその覚悟と胆力を示し、岩倉具視に決断を促した。
それによって会議は落着した。


C1868年3月13・14日 西郷隆盛・勝海舟会談  江戸城無血開城決定


・東征軍参謀:西郷隆盛は13日高輪で、14日薩摩藩邸で勝海舟と談判を行った。

・勝海舟は無益な戦いを避けるため、江戸城の無血開城を願っていたが、徳川家の処遇などの要求が通らなかった場合は、江戸市中を焼き払い徹底抗戦を行う心底であった。その勝海舟の江戸焦土作戦は「ナポレオンのモスクワ遠征失敗」から学んだものであり、江戸市中に新政府軍を全部引き入れてから火をはなち大混乱に陥れるという作戦であった。そのために勝海舟は江戸中の火消しや魚河岸の連中、やくざ(新門辰五郎、清水の次郎長など)に手を回していた。
同時に江戸湾に多くの船頭を集め、江戸市民を船で逃がし、さらに徳川慶喜をイギリスの軍艦でロンドンに亡命させることまで画策していた。


・西郷隆盛は東征軍の軍資金のことも考慮に入れ余計な戦いを避けようと考えていた。同時に勝海舟の捨て身の戦法も察知していた。その上でまだ旧幕府軍の残存兵がうようよしている江戸市中で、胆力を持ってこの交渉に臨み、江戸城の無血開城という目的を達成した。


D1873年 征韓論

・当時、鎖国政策をとっていた朝鮮政府は、旧幕府から新政府へと政権が変わったことを理由に国交樹立を拒否し、日本人漂流民を放置したり、釜山の外交施設を解体するなどの非礼な態度をとった。


・日本政府は、岩倉、木戸、大久保らが外遊中であったため、留守部隊の西郷隆盛、板垣退助、三条実美らが対応策を検討した。板垣退助は「居留民保護を目的に1大隊を釜山に急派すべきである。その後談判すればよい」と主張した。

西郷隆盛は「まず全権の使節を派遣して談判する。もし全権使節が殺害されるようなことがあれば、そのとき武力を行使すればよい」と話し、「その全権使節は私が引き受ける」と言い切った。三条実美は「大使は軍艦に乗り、兵を率いて赴くがよい」と言ったが、それに対しても西郷は「兵は率いずに礼冠礼衣で礼を厚くして行くべきだ」と主張した。つまり丸腰で乗り込み直談判すると主張し、その役を自分が引き受けると言い放ったのである。衆議は西郷隆盛の派遣でほぼ決定した。西郷は朝鮮を自分の死に場所と考えていたようである。もし朝鮮派遣が実施されていたら、西郷の胆力が遺憾なく発揮されていたことであろう。


・しかし欧州訪問から戻った大久保利通は朝鮮への使節派遣に反対、権謀術策を駆使して征韓論を断固阻止した。


・西南戦争後に岩倉具視は、「あのときに西郷を朝鮮へ派遣していれば」と述懐したという。