小島正憲の凝視中国

読後雑感 : 2011年 第1回 ・ 第2回


読後雑感 : 2011年 第1回 
06.JAN.11
1.「危ない中国、何も知らない中国人」
2.「中国文字文化の旅」
3.「ダライ・ラマ法王に池上彰さんと“生きる意味”について聞いてみよう」
4.「メイドインジャパンと中国人の生活」
5.「中国人のリアル」
6.「もっと中国の研究を」


1.「危ない中国、何も知らない中国人」  福堀武彦著  リトル・ガリヴァー社  2010年8月5日
帯の言葉 : 「知らないと損!!」

この本には、中国で仕事をする人たちを、特別に覚醒させるような役に立つ情報や知識は少ない。日常的にマスコミその他に目を配っていれば、わざわざこの本を買って読まなくても、事足りると思う。福堀氏もあとがきで、「毎日の業務の中で、解決するためのヒントがこの本の中にはたくさん隠されていると信じている。そのことを本書から読み取れない人は、申し訳ないが、本書を読むことによって無駄な金と時間を費やしたことになる。申し訳ないが、その責任は私にはなく、本人にあることを明記したい」と、おっしゃっているので、そのお言葉に甘えさせていただき、無駄な金と時間を使わない方が得策である。

福堀氏は、「私は学生時代学生運動にも参加しており、新宿騒乱事件の際も新宿駅の傍にいた」と語り、この本の各所で自身が、マルクス・レーニン主義に造詣が深いことを披瀝している。しかし私はマルクス・レーニン主義の心髄は、「金儲けは悪である」という認識にあると思っている。福堀氏には一貫して金儲けに専念していながら、自分が悪人であるという自覚がない。また福堀氏は1960年代の後半に、大学で中国語を専攻している。したがって私同様、大学時代に文化大革命に翻弄されたはずであるが、残念ながら、この本からは、あのとき私が嘗めた塗炭の苦しみを感じ取ることはできない。またこの本の発行は8月であり、寸評を試みるには遅きに失しているが、福堀氏が同年配で、しかも日本を代表する大企業の経営の中枢に関わっていたような人なので、あえてここで取り上げてみた次第である。

なお、福堀氏は本文中で、かつての中国共産党の指導者を、毛沢東・周恩来などと呼び捨てにしているが、なぜか1個所だけ、「毛沢東主席が存命のとき」(P.201)と持ち上げている。前後の文脈をしっかり読んでも、その理由がわからない。福堀氏の頭の中が混乱しているとしか考えられない。

福堀氏は、「大企業の中には製造技術者が枯渇しており、中国で働いてくれる製造技術者は中小企業にしかいない」、「いわゆるジェネラリストが少なくなってきている。個々の優秀な技術者が必ずしも経営者・管理者として優秀とは限らない。人の能力を発揮させるために、経営者と技術者の両立が求められている」と書いているが、この点は同感である。

.「中国文字文化の旅」  横田恭三著  芸術新聞社  2010年11月25日
副題 : 「書の史跡・博物館 全域徹底ガイド」

横田氏は本書について、「中国の文字文化に興味・関心のある方が、中国全土の史跡や博物館をめぐるときの参考になるように企画したもの」と、書いている。本文中では、中国を7つのエリア(華北、東北、華東、中南、西南、西北、香港・マカオ・台湾)に分け、史跡・博物館などの見学個所を、各エリアの属する市・省ごとに、地図入りで詳しく紹介している。写真もふんだんに載せているので、読むだけでも楽しい。私も調査のかたわら、この本を片手に、各地の博物館を回ってみたいと思っている。

.「ダライ・ラマ法王に池上彰さんと“生きる意味”について聞いてみよう」 ダライ・ラマ14世、池上彰著
                                            講談社  2010年12月1日
帯の言葉 : 「池上彰&若者たちがダライ・ラマ14世に聞いた50の質問」

この本は池上彰氏が、2010年6月、大学生100人といっしょに訪日中のダライ・ラマ法王を囲んで行った討論会の記録である。本書では、この会の出席者やその質問内容が、どのように選定されたかは明らかにされていないが、この際ここでは、「やらせ」ではないかという詮索は行わない。しかし学生たちの質問が、政治問題に及んでいるのは1個所のみであることから、この会議が周到に準備されたものであることが推測はできる。

そもそもダライ・ラマ氏を「法王」と呼んで、学生たちに「ローマ法王」と同じように崇高な人物であるとの印象を植えつけようとしていることに問題がある。異教徒にとってみれば、ローマ法王もダライ・ラマ氏も一介の人間に過ぎないが、かたや世界のカソリックの頂点に立つ人であり、民主的な方法によって選ばれた人である。かたやチベット仏教というマイナーな宗教の指導者であり、なおかつ現在はチベットを追われ、インドのダラムサラで亡命生活を余儀なくされている人で、宗教の伝統的な方法、つまり非科学・非民主的ともいえる方法で選ばれた人である。それを「法王」という同じ名で呼ぶことに、私は抵抗を感じる。

またダライ・ラマ氏が特別に崇高な人間であると仮定して、彼に「生きる意味」について聞いてみるということにも、大きな疑問を感じる。大胆な比較だが、「オーム真理教の麻原教祖と“生きる意味”について語る」という設定と、どこが違うというのだろうか。これまたチベット仏教を信じていない異教徒にとっては、まったく同じ次元の話であると思う。池上氏がダライ・ラマ氏の宗教家としての偉大さを証明できるのならば、まずそれを徹底的に行って、異教徒をも敬服・尊崇させてから、この会を開催するべきであったと思う。私はチベット仏教やチベット哲学に深い興味を抱いている。しかしながら、それを日本に紹介している文献や機会は極めて少ない。今、行わなければならないのは、ダライ・ラマ氏の名声に乗りかかって、自分の売名を図ることではなく、地味ではあるが、深遠なるチベット仏教や哲学の心髄を日本人に紹介することであるし、その正当な受け継ぎ手としてダライ・ラマ氏を紹介することである。

ともあれ学生たちは造られた舞台に上がって、ダライ・ラマ氏にいろいろな質問を出している。これについてのダライ・ラマ氏の回答は、ほとんど今までに言い尽くされてきたことである。詳細について知りたい方は、本書を読んでいただきたい。さすがに「週間子供ニュース」出身の池上氏だけに、本著はわかりやすい。

ダライ・ラマ氏は、学生たちの「生きる意味」についての質問に、「死はすべての人に訪れます。“死”は必ずやってくるけれども、いつくるのかはだれにもわからない。…意味のある生き方をしていれば、死が訪れても後悔することはありません」と答えている。この答えは消極的である。私は、現代の高齢化社会では、「いかに生きるか」考えるよりも、「いかに死ぬか」を真剣に検討しなければならないと思う。いつ死ぬかわからないからこそ、自らが死ぬ時期を設定し、それに向かって積極的に生き抜かなければならない時代であり、そのための思想が必要なのである。

ダライ・ラマ氏もすでに高齢であり、死ぬ時期を間近に控えているからこそ、「いかに死ぬか」について、卓説を持っているはずである。池上氏は日本の老人たちを集めて、「ダライ・ラマ氏と死ぬ意味について聞いてみよう」という会を催すべきだったのではないか。私はチベット仏教の中から、それを抽出したいと考えている。老人決死隊の構想も、自らが社会に貢献して死んで行く時期を決定するという思想の延長線上にある行動様式である。私がダライ・ラマ氏に即身成仏の戦術を提言しているのも、その思想を根底にしているからである。

4.「メイドインジャパンと中国人の生活」  段躍中編  日本僑報社  2010年12月18日
副題 : 中国若者たちの生の声」・「日本のメーカーが与えた中国への影響」

この本は、日本僑報社が主催する「第6回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集」である。テーマは「メイドインジャパンと中国人の生活」であり、応募の条件は「日本への留学経験がないこと」であったというが、この本に掲載されている文章は非常に上手い。わが社でも中国人留学生の採用試験で、いつも日本語の文章を書かせているが、下手なので閉口している。それに比べて、受賞者たちが来日経験を持っていないのに、これだけの日本語文章を書いているのに驚いた。    

次に受賞者たちが、文章の中で電気製品や自動車などの日本製品を高く評価しているのはよくわかるが、タマゴボーロ、金鳥蚊取り線香、液体ムヒS、ドクターグリップ、白髪染め、使い捨て剃刀、炊飯器、不二屋キャンディ、ソーセージの切り口など、予想外のメイドインジャパン製品の優秀さを取り上げていることには、びっくりした。中には製品ではなくて、「日本製の“地震に面したときの沈着冷静な態度と正しい方法で自分を救うこと”」という思想、あるいは日本人の笑顔、日本製品の説明書などを、中国は輸入しなければならないという主張もあった。しかも高校1年生の作品もあり、その優秀さに脱帽させられた。また受賞者たちの多くが日本のアニメの優秀さにも言及しているが、学生部門の一等賞に「蛍の墓」の感想文が入っており、私はそれを読んで涙を流した。

日本製品を礼賛するだけでなく、自国への内省も忘れず、次のように書き連ねている受賞者がいることに、これまた驚いた。

「今の中国の発展は、北京五輪や上海万博の開催など、これまで日本がたどってきた発展過程と酷似しています。そして、2009年、中国は日本を越えて、GDPが世界2位となり、私はとても嬉しく思いました。しかし、中国のGDP構成は、繊維、農産物、鉱業産物などの割合が高く、IT産業重工業などの割合が低いのです。一方、日本のGDP構成は逆で、特に電子製品やIT産業、自動車産業などは、中国より何倍も高いのです。私はこのようなGDP構成ではなく、ハイテク産業や重工業を振興するより他に、中国を発展させる道はないと思います。…創造性は国の魂であり人間の特権です。他人のものを模倣して盗用していたら、中華民族はまるで国際泥棒ではないでしょうか。中国5千年の底力を蘇らせるためにも、創造力の精神を日本から学び、独創性に富んだ中国らしい中国を創りたいと心から願っています」。

またある受賞者は友人から、「中日が戦争になったら、最初に寝返るのはお前らだ」となじられたと書いている。おそらく中国で日本語を学んでいる学生たちは、大なり小なりこのような偏見の目を受けていると思う。この作文コンクールは、そのような逆境の中で日本語を学んでいる人たちに、大きな励みになっている。やがては彼らが中日友好の架け橋に必ず成長していくにちがいない。その意味で、日本僑報社のこの試みを大きく評価しなければならないと思う。

5.「中国人のリアル」   安田峰俊著  TOブックス  2010年12月31日
帯の言葉 : 「恋愛事情から、お騒がせ大国を“ゆるく”論じてみた」

この本で安田氏は、「“80后”世代と、毛沢東が生きてきた社会主義時代を経験している中年世代(つまり彼らの親世代)との間に意識の断裂がある」ことを、中国の恋愛や結婚事情を通じて、主張している。これは当然のことであるが、この本で安田氏は、過去の中国の恋愛物映画を紹介することによって、読者にうまく説明している。私もこのうちの3本ほどを見ているが、安田氏の紹介には異論がないし、他の作品も見てみたいという気になった。

安田氏もこの本で、タオパオとヤフーのネット販売の提携に注目し、今後の展開に期待しているが、同時にそこに出てくる珍訳にたまげている。それはともかくとして、現在中国の主役の40〜50代は、若きころ、物質面でも恋愛面でもいろいろな制約が多く、フラストレーションをいっぱい溜め込んでいた。それが高年齢になり財政的に豊かになって、自由を満喫するようになってきた。したがってこの年代の女性の購買欲はものすごいものがあり、男性の女性関係に対する羽目の外し方は半端ではない。その結果、中年離婚もきわめて多い。そしてこの後に続くのが、“80・90后”なのである。 中国人の思想は、急激に変化しており、もはや過去からの分析は不要になりつつあるのかもしれない。

6.「もっと中国の研究を」  邱永漢著  グラフ社  1月5日
帯の言葉 : 「もう21世紀だよ。敵をつくるより味方をつくろう。味方にするにはどうすればよいのか」

この本は、邱永漢氏のインターネットサイトでのやり取りの2008年5月〜9月までの分を、収録したものである。邱氏がこの本を2年遅れで出版した理由はさだかではないが、現時点から振り返って、その指摘には参考になるものもある。

たとえば邱氏チベット暴動について、「坊さんでは何百万人ものチベット人にメシを食べさせていくだけの能力がないのです。私ならダライ・ラマ14世はボタラ宮に戻ってもらって仏様にお経をあげてもらい、それとは無関係にチベットの青年たちを大量にアメリカやヨーロッパに海外留学させます。それから先どういう形にするのがいいかは、10年くらいたってから改めて決定します」と軽く提言している。私はこの邱氏の提言ですべてが解決するとは思わないが、これも一つの方法として、選択肢の中に入れてもよいと思う。

また暴動についても、「暴動は(中国人民が)皆殺しにされないことがわかったから頻発するようになったものであって、民主化への中国独特のプロセスと見るべきものなのです。したがって暴動があるということは中国の民主化がはじまったということにほかならず、中国が明るい方向に動いているというバロメーターなのです。同じ暴動であっても、日本人が考えるような反政府的なものではありません。また革命につながるような政治的なものでもないのです」と書いている。少々荒っぽい議論ではあるが、私は当を得ていると思う。

また邱氏は企業の寿命が30年の時代から、現在では10年になっていると言い、「事業に対する対応の仕方も、財産の運用法も、人としての生き方も、抜本的に考え直さなくてはならない時期に、今まさにさしかかっている」と指摘している。私も同感である。

なお邱氏は、「外国に新しい仕事を見つけに行こう」と、日本の若者の尻を叩いている。邱氏は日本の若者を、「日本に育つと日本的な立ち居振る舞いが常識として身につきます。言われたことはきちんとやる責任感とか、同じ事をやっても完璧主義にこだわるとか、対人関係ではサービス精神を貫くとか、日本人としてはごく当たり前のことが、大人になっていくプロセスで自然に身についてしまっているので、それが外国で社会生活をやっていくうえで非常に役に立つのです」と高く評価している。私はこの説には異論がある。やはり海外に出る場合は、一芸に秀でていないと活躍の場はないと思う。ただ日本人の生活習慣を身につけているというだけで、うまく生きていけるほど、海外社会は甘くない。




読後雑感 : 2011年 第2回 
18.JAN.11
.「これから、中国とどう付き合うか」
2.「アジアの潮流と中国」
3.「中国がなくても日本経済はまったく心配ない!」
4.「中国バブル経済はアメリカに勝つ」
5.「日米同盟vs.中国・北朝鮮」


1.「これから、中国とどう付き合うか」  宮本雄二著  日本経済新聞出版社  1月5日
帯の言葉 : 「和すればともに利し、戦えばともに損す」

この本は宮本前中国大使の著されたものであり、さすがに学ぶべき点が多い。尖閣諸島問題以降、一気に反中ム
ードが濃くなってきている日本の社会の中で、それを扇動するような役割を果たしているマスコミ、知識人諸氏に、
ぜひ読んでもらいたい1冊である。

宮本氏は国益について、次のように語っている。私もこの見解にまったく異存はなく、大賛成である。なお宮本氏
は、この文章を本文中で3度も、一字一句まったく同様に繰り返し書いている。私はそこに、国益についての宮本氏
の信念、そして気概と迫力を感じ取った。「中国と安定した予測可能な協力関係を構築することは、日本の国益で
ある。そのために、必要な国民レベルでの関係改善をはかることも、日本国益である。中国という経済空間を最大
限に活用して日本企業を発展させ、産業を強化し、日本経済の成長戦略を描くことも、日本の国益である。中国と
重厚な対話を積み重ね、関係諸国と連携をはかりながら、アジア、ひいては世界の平和と繁栄の協力の構図をつく
りあげることも、日本の国益である。また、中国の外への膨張の動きと中国軍の動静を冷静に見極め、必要な備え
をするのも、日本の国益である」。

宮本氏は、「感謝にこだわる日本、お詫びにこだわる中国」という項を起こして、日中間の戦争賠償問題を次のよう
にうまく解析している。「確かに中国政府は、1972年の共同声明で、はっきりと対日戦時賠償は放棄している。中
国指導部が多くの要素を考え抜き、国策として決めたことであろう。まず、対中侵略の責任を日本の軍国主義者に
負わせることにより、一般の国民には責任はなく、中国人民と同じ被害者であるという論理をつくり、日本との関係
を再構築しようとした。日本と日本人に恨みを持つ中国人が多くいる中で、日本との関係を進めるための論理でも
あった。…(中略)しかし、日本の中国侵略の直接の被害者となった人たちにとっては、“はいわかりました”と言え
る話ではない。彼らが受けた被害や痛みは、軍国主義者なるものが与えたものではなく、普通の兵士、つまり普通
の日本人が手を下し、与えたものである。毛沢東、周恩来という圧倒的権威を誇った指導者が存命中はいざ知ら
ず、彼らが他界すると、この賠償放棄という政府の決定に対する国民の不満は高じてくる」。

この宮本氏の見解を読んで、私は次のように考えを新たにした。たとえ毛沢東を始めとする当時の中国首脳部が、
日本の侵略の責任を軍国主義者に負わせて、日本人の賠償責任を免罪してくれたにしても、日本人がそれに甘え
て賠償責任に頬被りすることは人間として為すべき事ではない。たとえばそれは現代に生きている日本人が、現在
の日本の政治や社会の苦境を、すべて政府の責任に押しつけようとしており、その政府が選挙を通じた国民総意
の結果であり、自らの責任であることを忘れていることと同様である。かつての侵略戦争も軍国主義者だけが行っ
たものではなく、日本人民もそれに呼応したものである。したがって国ベースで賠償責任問題が決着しても、民間ベ
ースでは中国人民が納得の行くまで、物心両面でお詫びをするべきである。ましてや中国の東北地方では、引き揚
げのときに多くの日本人が中国人の世話になって、生き延びてきているのである。私たちの世代は民間ベースのこ
の恩にしっかり報い、日中間の難題を氷塊させ、次世代に怨恨を持ち越させないように努力しなければならない。

宮本氏は国家ベースでの戦後の日本の中国への貢献についても、次のように明確に述べている。「成功した今日と
なってはそうは見えないが、中国の改革開放の道のりは決して平坦なものではなかった。何度も何度も難しい時期
をくぐり抜けてきた。そして、そうした試行錯誤を続け、困難な時期にある中国を支え、懸命に協力したのは日本だ
けであった。現に、改革開放政策の初期のころ、中国に資金と技術の支援をした政府は、日本だけであった。89
年の天安門事件で世界から孤立した中国に最初に手をさしのべたのも、日本政府であった。99年、中国のWTO参
加に対し、主要国の中で最初に交渉を終え、加盟の支持を表明したのも日本であった。これらの事実は、中国の人
たちにも正確に理解し、記憶しておいて欲しいと思う」。

そして宮本氏は、「日本を越えて世界第2位の経済大国となる中国の経済成長はさらに続き、他の新興経済体とと
もに、世界への発言力を増していくことであろう」。そして日本の進むべき道は、「中国にとって必要な、無視できな
い、意味のある存在であり続ける必要がある。そのためには何よりも、経済発展を支える科学技術や快適な社会
をつくりあげる“ソフトパワー”の強化が急務である」と書いている。私は中国が、現在の経済成長をこのまま持続で
きるとは思っていない。中国のバブル経済は必ず数年内に崩壊する。したがってそのとき再び、日本が中国を支え
るときがくると考えている。そのときに備えて、日本は経済体制を万全に立て直しておくべきである。また環境や高
齢化の問題など、中国がすぐに当面する難題について、日本が模範的解決方法を見いだしておくべきである。その
意味で宮本氏の唱える“ソフトパワー”の中に、今後、日本の団塊の世代が実現する理想の社会の思想を付け加
えてほしいものである。

宮本氏は本文中で、次のようなエピソードを書いている。「2006年4月、大使として北京に着任するとき、気持ちは
正直、重かった」、「2006年8月、小泉首相の靖国参拝で李肇星外交部長から呼び出され厳重抗議を受けたが、
さすがに緊張した。マスコミ担当の井出公使が“大使、カメラの前で頭を下げるシーンがあってはいけません”と強く
アドバイスする。文句を言われて頭を下げているという構図はよくないらしい。ところが着席するときには、どうしても
頭を下げてしまう。そこで頭を下げずに着席をする練習をして会見に臨んだ」。私はこの文章を読んで、宮本氏の
率直かつ柔軟な姿勢に感動した。この宮本氏の大使在任中に、私は北京で個人的に面談をさせてもらったことが
ある。今から思えば、せっかく宮本大使の貴重な時間を割いていただいたのに、そのときは適当な話をして終わっ
てしまったような気がするが、私如き者の意見にも、親しく耳を傾けていただいた記憶が残っている。

宮本氏は、「求められるマスコミの役割」という項で、「日本と中国とでは、マスコミの使命は異なる。日本でマスコミ
の最も重要な役割は、権力の監視であり、権力を制約することにある。一方、中国のそれは、党と政府の政策の実
現に奉仕することにある。…(中略)これからますます重要になるマスコミの役割は、異なる視点のニュースや考え
を国民に届けることであろう」と書き、今後のマスコミに政府の監視役などを期待している。しかし残念ながら、日本
のマスコミにも多くの制約があり、今後、ますますその役割を果たせなくなっていくと、私は思う。その代わり、私たち
のような市井の民が、ネットを駆使して自由に私見を展開し、その役割を果たすことができるようになってきている
のではないかと思う。

その他、宮本氏は、外交の基本姿勢や人民解放軍の現状、今後の日本の進むべき道などについて、本文中でそ
の見解を披瀝している。いずれも傾聴に値する。近日中に、その見解に沿いながら、私なりの分析をしてみたいと
思っている。

.「アジアの潮流と中国」  田所竹彦著  里文出版  1月5日
副題 : 「半世紀の変動から見えるもの」   帯の言葉 : 「アジアはどうなる!」

この本は、田所氏の回顧録と呼ぶにふさわしいものであり、本文中には長年にわたって新聞記者として、数々の現
場を歩き切ってきた経験が生き生きと書かれている。田所氏は1935年生まれで、ちょうど私より一回り上の年齢
であるので、ベトナム戦争やインドネシアの9・30事件や、中国の文化大革命などの直接取材体験の描写には、迫
力がある。残念ながら、当時、私はまだ20代のひよっこで、臨場体験を持ち合わせていないので、とても田所氏の
ような活写はできない。

田所氏は田中角栄元首相の日中国交回復交渉を回顧して、次のように率直に述べている。あのとき田所氏が現
場でこのような見解を持っていたということは、当時の新聞記者の水準の高さを示すものではないだろうか。「過去
の日中戦争の賠償は気にかけなくていいという周恩来首相の意向に丸乗りし、…(中略)他国に攻め入って1千万
人もの人を殺傷し、建国後の中国が国際的に孤立していたのをよいことに、賠償を払わないままで済ませることを
喜んでよいものかどうか。自らの歴史の歩みを正す意味でも、金額はともかくこの問題を知らぬふりで通してよいの
か、過去に犯した重大な過誤についてきちんと詫び、それ相応の償いを申し出てからでも遅くはないのではないの
か。あわてて中国に媚びるような感じで飛びつくのではなく、必要な手順を尽くすのが人間としても、国としてもとるべ
き筋道だと当時私は考えたし、いまもそう考えている」。

この本には若干、老人の手柄話のような個所もあるが、回顧録として読めば、それも気にならないだろう。田所氏は
過去を振り返り、それを学ぶことによって、アジアの今後を見極めようとしたのであろうが、残念ながら本書は、その
意図を十分に為し遂げているとは思えない。

3.「中国がなくても日本経済はまったく心配ない!」  三橋貴明著  ワック刊  12月30日発行
帯の言葉 : 「ほんとうは、袋小路に入った中国経済!」

日本の多くの中小企業家は、「中国を利用して一儲けしよう」と考えているわけで、だれも「日本経済は中国なしでは
成り立たない」などとは思っていない。「今は、閉塞した日本よりも、中国の方が儲けるチャンスが多い」と考えてい
るだけである。したがって「中国がなくても日本経済はまったく心配ない」などという命題で議論すること自体が無意
味なことである。しかも三橋氏は本書で、三橋氏自身が、「不可思議に満ちた中国の統計」(P.136)と書いていな
がら、その信頼できない中国政府発表の統計数字を根拠にして、表記のテーマを論究している。その他の情報源
も、サーチナやレコードチャイナという日系の2次情報に頼っており、三橋氏自身が現地で探ったものは皆無であ
る。その意味で、本書は三橋氏の空想の産物であると言ってもよいだろう。さらに三橋氏は本書の題名を、「中国が
なくても日本経済はまったく心配ない!」としているにもかかわらず、「結局のところ、中国は“国民を豊かにする”と
いう目標を忘れた“歪んだ成長”を継続した結果、先進国になれないまま成長の袋小路に突き当たり、そのまま終
幕を迎えてしまう可能性が濃厚だ。これが、本書の結論だ」(P.213)というところに行き着いている。つまり本書
は、中国をこき下ろすことによって、喝采を浴びようとする類の書である。

本書には、中国に関する多くの事実誤認があるが、中でも私が呆れたのは、不動産と住宅(マンション)という言葉
の混同である。私がいつも指摘しているように、不動産という言葉は、土地とその上にある建築物(住宅やマンショ
ン)を指しており、不動産=住宅ではない。三橋氏は「“人類史上前代未聞”の不動産バブル」(P.150)という項で、
中国の不動産バブルについて言及しているが、わずか10ページの間で、不動産という文字を42回、住宅(マンショ
ン)という文字を24回、ごちゃまぜにして使用している。またお得意のグラフの説明でも、同じマンション価格の比較
でありながら、全国版は不動産価格と表記し、上海・北京・広州版は住宅価格と表記している。このような文面にお
目にかかると、私には三橋氏の頭の中が混乱しているとしか考えられない。なお、この10ページの中に、土地とい
う文字は1回も出てこない。これまた三橋氏が土地価格はバブル化していないという事実を知らないか、知っていて
も故意に隠しているとしか、私には考えられない。

また三橋氏は本書の最後で、「中国民事訴訟法231条」に言及して、その異常性と危険性を指摘している。この法
律は民事係争中の人物の中国からの出国を制限するもので、三橋氏によればこの法律により、現在、約100人の
日本人が中国に留め置かれているという。私はこの文章を読むまで、この法律の存在や現状を知らなかったので、
すぐに中国人弁護士に問い合わせてみた。すると弁護士からは、この法律の詳細とともに、「マスコミ報道などがな
いので明確な返答ができないが、100人前後が出国制限をされている可能性は否定できない」という答えが返って
きた。私は引き続いて、この情報を収集するつもりである。

4.「中国バブル経済はアメリカに勝つ」  副島隆彦著  ビジネス社刊  1月9日発行

副題 : 「アジア人どうし戦わず」
帯の言葉 : 「“1ドル=2元=60円”の時代へ。 人民元と中国株は上がり続け、中国は隆盛する」

副島氏は本文中で、本書の題名を「米中激突」としたかったと書いている。その理由を、「アメリカと中国がこれから
軍事的な衝突の危機(およびその回避)を含めて、金融・経済の両面でも大きく競争関係に入っている…。(第2次
対戦のときのような)アメリカによる扇動に乗ってはならない。だから、“あくまでアジア人どうし戦争だけはしない。ど
んなに激しく言い争いし、激論をかわしてもいい。しかし、話し合う”のである。…だから、アメリカに操られた保守派
や、危険な右翼的言論人たちが日本国民を扇動して、再び日本を危険な戦争に引きずり込むことだけは、私たち
は阻止しなければならない」と書いている。私も副島氏の「なにがあっても戦争だけはしてはならない」(P.52)とい
う叫びには大賛成である。ただし、本文中の副島氏の強引な主張には賛同しかねる部分が多い。

副島氏は尖閣諸島問題に関して、「この中国漁船船長の逮捕(拿捕)は初めから、アメリカの指図で行われた。日
中の国境紛争として、日本を中国にぶつける計画としてアメリカのリチャード・アーミテージが司令官となって行っ
た。…日本の海上保安庁が尖閣諸島付近でいつも操業している多くの中国漁船のうちの1隻を、計画的に2隻の
巡視船で両側から挟み込み、必死で逃げようするのを動物狩りのように、追い込んで捕まえた」と書いている。ま
た、韓国の哨戒艦沈没事件についても、「(あれも)アメリカの演出であり、北朝鮮軍の潜水艦からの魚雷発射によ
る撃沈ではなく、韓国の哨戒艦のすぐそばに米原潜が浮上して衝突したものである」と言い切っている。これらの主
張を単純に信じるわけにはいかないが、韓国の哨戒艦沈没事件については私も信頼すべき筋から、「北朝鮮の魚
雷攻撃説は怪しい。それはそのときまったく水柱が立たなかったからである」という話を聞いている。今後、副島氏
の説を空論として葬り去るような、明快な説が論壇上に登場することを期待する。

副島氏もまた、中国の不動産バブルに言及しているが、他者と同じく、不動産・土地・マンションという言葉を混同し
て使っている。そして「李克強副首相の“中国住宅バブル退治”は、うまくいくか。うまくいかなければ、中国バブルは
頂点までいきついて、そして大爆発するしかない。私は、今の中国の指導者たちは馬鹿ではないと踏んでいるの
で、このバブル経済をなんとか乗り切ると思う」(P.95)などと暢気なことを言っている。

いつものように副島氏の推論は、いささか荒唐無稽な感じのするものが多い。またマスコミ報道などの記事を根拠
にしているものがほとんどであり、自らが現地に足を運んで集めた情報は少ない。その上数少ない現地体験も、上
滑りで常識的なものが多く、独特の感性で切り取ったようなものは少ない。それでも副島氏が、今、中国でねずみ講
が流行っていることに言及している(P.136)点は、評価に値する。

5.「日米同盟vs.中国・北朝鮮」  リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ、春原剛著
                                              文藝春秋  12月20日
副題 : 「アーミテージ・ナイ緊急提言  尖閣、尖閣、尖閣、オレたちをなめるんじゃないぞ!」

私はアメリカ関係の情報には疎いので、本書を的確に論評することはできない。したがって本書の中で、私が気に
なった個所をコメントなしで抜き書きしておく。

・春原 : 20世紀初頭、英国との同盟解消を契機に国際社会での孤立を深め、最後には悲劇的な戦争へと突入
してしまった日本に今、同じ過ちを繰り返す余裕も胆力もないはずだ。だからこそ、我々は今一度、ここで日米同盟
の来たし方行く末を冷静に再考する必要がある。その際、自らの胸の内で頭をもたげつつある独立・自立への強い
渇望、あるいは新しいナショナリズムとも真正面から向き合い、それに安易に流されることなく、日米同盟が21世紀
に持つであろう「意味」をみつめなおすべきである。

・アーミテージ : 仮に中国が「連邦制」のようなものを志向するのであれば、それはそれで構いません。しかし彼ら
は基本的に漢民族を中心とした中華国家であり、実際、人口の98%は漢民族系です。客家もウイグル人もチベット
人もとても数としては小さいのです。その事実は中国が今後も「統一国家」であり続けるという見方を裏付けていま
す。

・アーミテージ : 北朝鮮の崩壊ということを考えた場合、ソフト・ランディングのシナリオはあり得ません。まず国内
が混乱し、それが軍部による冒険主義を助長するでしょう。それに難民もあふれ出すでしょう。彼らは食料を求めて
走り回るでしょう。

・春原 : それは普天間基地をはじめ、沖縄に駐留する米海兵隊が日本にとっては実質的な「人質」となっていて、
それを持って「核の傘」の信頼性を担保しているという考え方ですね。

・ナイ : 冷戦時代のベルリンを想像してみてください。人々は皆、「ベルリンのために米国はニューヨークを犠牲
にはしない」と言ってきました。ちょうど「東京のためにロサンゼルスを犠牲にはしないだろう」と言うように。しかし過
去40年間、我々が言ってきたのは、「我々はベルリンを守る。そしてベルリンに駐在している米国の部隊がその防
衛を担保している」ということです。

・アーミテージ : もし、核武装すれば、それはとてつもない金額を核兵器に投じなければならないことを意味しま
す。それは同時に実は核に投じる以上のお金を通常兵器に投じなければならないことはあまり知られていません。
核兵器を持つということは、それだけ通常兵器に使うお金を節約できるということを意味しません。逆に、もっとお金
を使わなければならないのです。

・アーミテージ : 日本と中国は米国の介在なしには決してうまくはやっていけないだろうということです。もちろん、
米国は日本と中国が折り合い良くやっていくことを願っています。ただ、それは日本と米国が一緒にならなければ、
できることではないと私は感じています。