小島正憲の凝視中国

カシュガル近況&ウズベキスタン近況


カシュガル近況   
08.JUN.10
 5月下旬、私は新疆ウィグル自治区のカシュガル市に、「ヤルカンドにおけるウィグル族女性の強制連行」と「アトシュ人」の調査のために、上海→ウルムチ→カシュガルと乗り継いで、9か月ぶりに、再度足を運んだ。残念ながらウィグル語の通訳の問題と準備不足のため、その目的を果たすことはできなかった。それでも多くの重要な事態を見聞することができたので、以下に報告をする。ただし初期の目的達成のために、3か月後には十分準備を整えてから、カシュガルへ再々挑戦する予定である。


1.カシュガルからヤルカンドへ。

@なぜ、ヤルカンドへ行くのか。

 イリハム・マハムティ氏は、「7・5ウィグル虐殺の真実」(宝島社新書・2010年1月23日発行)の中で、昨年のウルムチ暴動を漢族のウィグル族の虐殺であると主張し、それに至るにはヤルカンドで起きた二つの事件が伏線となっていると書いている。


・「実はその時期、東トルキスタンでは一つの事件が大問題になっていました。カシュガル地区のヤルカンドという街で、漢族の小学校の教師がウィグル人の生徒23人に対して性的な暴行を加えていたことで逮捕されていたのです。この犯行は、最後に暴行を受けた女の子が母親に告白して明らかになりました。教師は5月24日に逮捕されましたが、翌6月14日には新疆政府が『教師には精神の異常が見られた』と発表し、教師に実刑を与えるのではなく、中国国内の故郷に送還することを発表します」 (P.22)

・「中国政府は2006年から東トルキスタン地域(新疆ウィグル自治区)で“扶貧政策”と称し、15歳から25歳までの未婚の女性を強制的に連行し、4000km以上も離れた中国内地の工場で働かせる、という政策をとっています。“扶貧政策”といえば聞こえは良いですが、なぜか対象は若い独身女性だけでした。こうして故郷から連れ去られ、遠く離れた土地で賃金の安い労働に強制的に従事させられたウィグル人女性は年間8万人、府の計画では2010年までに40万人にものぼる量を移送するというものでした。(2008年末には、すでに40万人が連れ出された)。なぜ北京政府は若い独身のウィグル人女性だけを選んで故郷から遠く離れた工場に彼女らを送り込んでいるのか。これがウィグルの民族を根絶やしにしようとする彼らの策謀であることは明らかでしょう。40万人もの独身女性が連れ去られてしまったら、それと同じだけの男性が同族の中では配偶者を見つけられなくなることを意味します」(P.140〜141)


 私はこの2件を検証し、さらに自分の仮説を証明するために、ヤルカンドに足を運ぶことにしたのである。ちなみに私は前回のカシュガル市蔬附県や天津市工業団地の調査で、「ウィグル族女性の強制連行の事実はない」ということを検証しておいた。しかしながらイリハム氏らの「強制連行」説を完全に論破するには、私の仮説を豊富な現地資料で裏打ちする必要があると考えている。なお私の仮説は下記の如くである。


・2003年ごろから沿岸部の労働集約型工場では、人手不足現象が起きてきた。

・沿岸部の企業は、中国の内陸部に求人基地を作り、人手の確保に奔走した。それはどんどん内陸部に拡大していき、チベット族やウィグル族の地域にまで達した。(現在ではベトナム・ラオス・ミャンマーなどからの外国人ワーカーを採用しているほどである)。

・沿岸部の企業にとっては新疆の各地方政府の労務輸出部門に取り入って、そこから派遣を受け入れることがもっとも簡便な方法でもあった。当然そこには癒着が生まれ、金銭の授受が起きていた可能性がある。

・新疆の各地方政府では、これが“扶貧政策”を実施する格好のチャンスであるため、積極的に労務輸出を行った。沿岸部企業に、地元送り出し地域へ企業進出を、交換条件とする地方政府もあった。そこでは「強制」という事実はないが、地方政府の中には「業績と欲」に目がくらんだ幹部が、末端行政組織に「割り当て」を行い、強引に労務輸出を行ったところもあると思う。

・沿岸部の労働集約型産業は、繊維、靴、おもちゃなどを中心として女性の職場が多く、そこでウィグル人女性が求められ、それに応じる形でウィグル人男性よりも女性の方が多く派遣された。

・ウィグル人女性は漢族にはない独特の美貌を持っており、それが原因で、沿岸部に出たウィグル人女性が、中国の他の地域から来た女性よりも、沿岸部の漢族男性に弄ばれる率が高かったと思われる。

・それらの事態にウィグル人男性が怒りを募らせていたと思われ、それが時代錯誤の「強制連行」や「民族根絶やし」という言葉を生み出してしまったと考えられる。

・昨年のウルムチ暴動がなくても、ウィグル人は沿岸部に馴染まず、ほとんどが故郷に戻ってしまう傾向にあった。広東省韶関市おもちゃ工場のウィグル人もすべて故郷に戻ってしまった。もし新疆政府に「ウィグル人女性を強制連行して漢族に同化させる」という思惑があったとしても、それは結果としてほぼ失敗しただろう。


※ヤルカンド概況

ヤルカンドは現在、沙車県と表記されている。カシュガル市から東南へ220kmほどのところにある。南の崑崙山脈、北のタクラマカン砂漠にはさまれた地域で、気候は乾燥しており、日照時間は長い。年平均気温は12.3度、年平均降水量は57mm。人口は62万人。ほぼウィグル人である。2000年あまりの歴史を有し、前漢の時代には沙車国として栄え、16世紀にはヤルカンド・ハン国として偉容を誇った。


Aウィグル人通訳、姿を消す。

 カシュガルからヤルカンドへ向かって、国道315号線を10kmほど走ったところに、「烈士陵園」があった。私は、「なぜこんなところに紅軍兵士の墓があるのだろうか」と不思議に思った。かつてこの地で紅軍兵士がウィグル族と戦ったという記録を目にしたことがなかったからである。カシュガルから同行したウィグル人通訳も、この場所に始めてきたという。とにかく門から中に入って見てみると、そこの記念碑には1959年の対インド戦争で亡くなった兵士約300人を祀ったものであると記してあった。この地から崑崙山脈方面へ1000kmほど行ったところに、インドとの国境があり、そこの空喀山口という場所で激戦があったという。墓標を読んで行くと、兵士たちは陝西省や河北省などから来ていることがわかった。


     烈士陵園にて

 そのうちにその墓所の一角にまだ新しい一群のお墓があることに気がついた。そこまで行き、墓碑を読んでみたところ、そこには「1990年4月5日、平息巴仁郷においてウィグル族との戦いにおいて亡くなった御霊を祀る」と書いてあった。つまりこの近くでも民族紛争が起きていたのである。このような墓碑は10以上あった。私はこの衝突があった場所に連れて行って欲しいと通訳に頼んだが、彼はそこを知らないというばかりで、首を縦に振らなかった。仕方がないので地図を広げて見てみると、近くの蔬勒県に巴仁郷という場所があった。

 私が通訳にそこを指さして、「ここに連れて行け」と強く言っているとき、ちょうど一台の軍用トラックが20人ほどの解放軍兵士を乗せて、墓地に入ってきた。私は彼らもお参りにきたのかと思いながら、しばらくその様子を見ていた。するとかたわらにいたウィグル人通訳が、突然大木の影に隠れてしまった。そのまま通訳は解放軍兵士がその場を離れるまで、20分間ほど姿を現さなかった。やっと出てきたとき、彼の顔はひきつっており、隠れた理由を私に告げもせずに車に乗り込んでしまった。30分ほど無言のまま走ったところで、通訳はやっと口を開き、「あんな場所で軍人とあったら、半殺しにされるかもしれない。怖かった」と言った。

 この会話で、この臆病な通訳では今回の私の調査はとても無理だと、私は判断した。

B口蹄疫対策。

 車に揺られながらウトウトしていると、車が急停車し、通訳が降りてくださいという。外を見ると警察が居る。私たちの車の前では、バスから乗客がぞろぞろ降りている。後ろの乗用車からも、男性が数人降りた。私はてっきり検問だと思ったので、車を降りて前のバスの一団について歩いて行った。ところが警察は立っているだけで、特別、何もしなかった。車から降りた多くの人たちも、何もしないでとにかく道路脇を前の方へ進んで行くだけであった。そのうち地面に石灰が一杯撒いてある場所を通らされ、次になにかの液体が染み込ませてあるような古い絨毯の上を10mほど、最後にまた石灰の上を歩かされた。私たちの車はどうしているかと思い見てみると、なにかの液体を染み込ませた藁束が10cmほどの厚さに敷き詰められた10mほどの道を、ゆるゆると走っていた。その最後では白衣の男が噴霧器を持って待ち構えており、車の下と、運転手の足下に薬液を噴射していた。

 ここまで見て、私はこれが口蹄疫の予防対策だと知った。前回カシュガルに来たときには、このようなことは経験しなかったので、通訳に「いつから始まったのか」と聞いてみると、「どうも2〜3か月前らしい」という返事だった。カシュガルからヤルカンドまでの間、このような「口蹄疫予防検問所」が4か所もあった。おかげで靴がかなり汚くなってしまった。

Cナイフの特産品。

 カシュガルとヤルカンドのほぼ中間地点に、英吉沙という街があり、そこの特産品はナイフだという。道路の両側にはずらりとナイフ販売店が並んでおり、中には実演販売をしているような店もあった。私はそのうちの1軒に入って、特産品のナイフを見てみた。たしかによく切れそうなナイフがたくさん陳列してあった。値段は100元〜800元ほどだった。中には同型のものが大中小とそろっており、親子3代の男性が持つという立派なものもあった。それらを値踏みしながら、ふと私は、「なぜこの街ではナイフが特産品なのだろうか」と思った。店員に聞いてみると、500年ほど前、この地方でイスラム教徒と、和田(ホータン)の方の仏教徒が戦ったとき、この地でイスラム教徒が武器として刀を作ったので、その伝統がナイフ作りとして残っているのだという。


 しかし他の店で同じ質問をしてみると、そこの店員は「昔、このナイフは羊などの皮を剥ぐのに使われていました。その名残で現在では護身用や飾り物として使われています」との答えが返ってきた。私にはどうもこの店員の答えの方が正しいのではないかと思えた。

いずれにせよ遊牧民は、このナイフ1本で羊の皮を剥ぎ、食事時に使い、時には武器にも使ったのであろう。それが現在、伝統的工芸物としてこの地に存続したのだと考えられる。最後に私は英吉沙と刻印の入った300元のナイフを買った。

Dヤルカンド市内。

 ヤルカンド市内には警察の姿が少なく、緊張感は少なかった。市内に入るのにも警察の検問はまったくなかった。この点はチベット暴動1年後の周辺都市が、市内へ入る道路を武装警察によって完全に封鎖され、厳しい検問があったのと比べると、雲泥の差であった。市内中心部に入って、いつもの暴動調査のときの要領で、小売店や飲食店での聞き込み調査を始めようとしたが、通訳がまったく指示通り動かないので閉口した。学校の近くに行ったとき、ちょうど下校時間で親たちが子供の出迎えに来ていたので、上記の事件があったかどうかを通訳に聞かせたが、とんちんかんな答えしか返ってこなかった。どうも通訳がごまかして関係のないことを聞いているような気がした。ウィグル人たちも漢族に似ている私の顔を、いぶかしげに見るので、それ以上の追及はやめた。ただし学校の門前には、「私たちの学校は上級機関の指導を歓迎する」という漢語の横断幕が掲げられていた。他の都市では見かけない横断幕だったので、数か所の他の学校にも行って調べてみたが、そこにも同様の横断幕が掲げられていた。しかしこの横断幕と上記の事件の関係の有無については調べようがなかった。

 市内には求人広告が多かった。ことに市中心部に新しくできた商店街には、具体的な待遇まで明記した求人広告がデカデカと出ていた。給与は600元(手当別支給、社保・衣食住会社持ち)から1000元というのが相場であった。


 他の場所でもだいたい3軒に1軒の割合で、店頭に求人広告が貼ってあった。たまたま入った喫茶店にも、野外の大きな木の幹にウィグル語で従業員募集という貼り紙がしてあった。ヤルカンドでもいたるところで、ビルやマンションの建設ラッシュが見られ、経済は超活性化している様子であり、周辺の村の若年労働者を、それらがすべて吸収し尽くしてしまっているのではないかと思わせるほどであった。

Eヤルカンド・ハン国の陵墓。

 市内の中心部に、16世紀にこの地で栄えたヤルカンド・ハン国の陵墓があり、王宮跡やモスクがあった。この王国はカシュガルのアバ・ホジャに滅ばされたという。ここに祀られているアマニサ・ハン王妃は、この地方の舞曲を集大成し、音曲「十二木姆」(:上と下を組みあわせた簡体字)を作り上げたことで有名である。

 ヤルカンドからさらに50kmほど東南に走ったところに、喀拉蘇(カラソ)という街があり、そこから東へタクラマカン砂漠が広がっているという。往復2時間ほどかかるということだったが、せっかくここまで来たのだから、タクラマカン砂漠を一目見ようと思い、行ってみることにした。道中の村は質素な住居が多かったが、砂漠の近くだというのに意外に緑に覆われているところが多かった。視界にはすでに雪山の姿はなく、さりとてカレーズのようなものが作られている様子はない。水はどこから来ているのだろうかと思い、窓外を見続けていると、地下水をポンプで汲み上げている場所をみつけた。そこではきれいな地下水が大量にあふれ出しており、そこから畑地まで溝が掘られ、水が送り込まれていた。そのような汲み上げポンプは道路沿いに、約500mおきに設置されていた。

           

 タクラマカン砂漠の入り口と称される場所には、10mほどの高さの木製の物見台が作ってあった。今にも倒れそうであったが、上がってみると、そこには広大なタクラマカン砂漠が広がっており、壮観だった。その光景にしばらく見惚れていたが、暑くて体がひからびてしまいそうだったので、そこは適当に引き上げた。帰路、喀拉蘇県の街中で、偶然に労務輸出事務所の看板をみつけたので入ってみた。そこでは事務員が一人ひまそうにしているだけで、事務所内は閑散としていた。事務員に通訳を通してウィグル語で、「私はこの村で縫製工場を稼働させたい。600人ほどの若い女性の採用は可能か」と聞いてみた。すると「この村には若い女性はいない。みんなヤルカンドやカシュガルに出て行ってしまっている」との答えが返ってきた。やりとりはウィグル語なので、その真偽を確かめることはできなかったが、その事務員がいかにも面倒くさそうな態度を示すし、通訳がその場を早く離れたいという素振りを見せるので、私もそれ以上の探索はできなかった。


2.カシュガルからアトシュへ。

@なぜアトシュへ行くのか。

先日私は、ウズベキスタンの首都タシケントで、「ウィグル族の間でも商売の上手いのは、“アトシュ人”である」という話を聞いた。この話は初耳であったので、ぜひアトシュへ行き、その真偽を確かめてみたかった。幸い、アトシュ(阿図什)は、カシュガルの近くであったので、ヤルカンド調査と兼ねてその地に出向くことにしたのである。


※アトシュ概況

アトシュ市はカシュガルの北方35kmに位置している。人口は20万人であり、住民の80%がウィグル族。漢時代には疏勒国に、隋時代には突厥に治められていたが、唐時代に入って漢族の支配下になった。古代のシルクロードの要衝であり、現在に至っても依然として貿易が盛んな地域である。なおアトシュをアルトゥシュと表記する場合もある。


Aアトシュ市内。

地図上ではカシュガルとアトシュはわずか50kmしか離れておらず、隣町という感じである。ところが実際に行ってみると、カシュガルとアトシュの間には高い山と河があり、両市はそれらで一線を画されている。同じウィグル族でもカシュガル人とアトシュ人は、山を貫いて道路ができるまではあまり交流がなかったようである。通訳が、「アトシュ人はたしかに昔から商売上手と言われており、多くの人が中央アジアを含めて世界中に散らばっている。それに比べてカシュガル人はカシュガル近辺から出たがらない人が多く、内向的である。市内を調べればその証拠がなにか出てくるだろう」と話してくれたので、アトシュ市内を車で巡回した。

するとある商店街の入り口に、「民族団結は金」という横断幕が掲げられていた。私はそれを見て、まさに商売人の街らしい標語だと感心した。しかしながらバザールにも、博物館にも図書館にも、そこには「アトシュ人の商売上手」を裏付ける証拠は見つけ出せなかった。残念だったが、それ以上手の打ちようがなかったので、アトシュ周辺の文化遺産の調査に切り替えることにした。なお通訳の話によれば、カシュガル市内のビルはアトシュ人所有の物が多いという。

Bサトク・ブハラ汗陵墓。

アトシュ市の西南2kmほどの地点に、サトク・ブカラ汗という名の王の陵墓があった。この王はカラハン王朝で最初にイスラム教に帰依し。それを国教にし、915〜955年まで40年間在位していたという。この陵墓は新疆地域に現存する最古のものであり、しっかり保存されていた。この陵墓がアトシュにあることから、かつてこの地が新疆地域のイスラム教の中心であった可能性が高いと思われる。

C二つの仏教遺跡。

アトシュ西南約14kmの地点に、三仙洞という名の仏教遺跡がある。河で削り取られた岩山の中腹に、高さ2m、奥行き2.7mの洞穴が3つ掘られており、中には10体以上の仏像が描かれている。漢代の作といわれ、中国でもっとも西にある仏教遺跡であるという。

               

 アトシュ南約20kmのところに、莫尓仏塔という名の仏教遺跡がある。砂漠の中に二つの塔が建っている。一つは基礎部分が1辺12.3m、高さ8.4mの“舎利子”と呼ばれている塔、もう一つは底辺が25×23.6m、高さが7mほどの寺院跡。ともに唐代のものとされている。このような仏教遺跡が残っているところから、やはりこの地がかつてはカシュガルより栄えていたことを想像させ、同時にこの地で仏教とイスラム教がせめぎ合っていたことをうかがわせる。

Dナチスと戦うウィグル族。

 昼食を食べるために入ったレストランで面白い物をみつけた。そこの壁にはナチス軍と戦っている兵士の絵が掛かっていた。私が「なぜこんな絵が、ここに掛かっているのだろうか」と不思議そうにながめていると、通訳が「これは第2次大戦にソ連兵として参加し、ナチスと戦ったウィグル族の絵です。戦っているウィグル族の兵士たちが、ラワップ(ウイグル族の民族楽器)を背負っているでしょう」と話してくれた。

 
   ナチスと戦うウィグル族兵士の絵

 第2次大戦当時、イリ地方の若者たちはソ連兵として西部戦線で戦ったのだという。したがってウィグル族は、現在でも中国人という意識が少なく、カザフスタン・ウズベキスタン・キルギスタンなどの国の人々との交流が強いのだという。たしかによくよく地図を見てみると、イリ地方はカザフスタンと草原続きで、新疆地域とは山で遮られており、地形上から見てこの地の住民は、カザフスタンに属する方が自然なのではないかと思われた。次回にはこの地方に足を運び、この地形を見て、ナチスと戦ったという老兵士を見つけインタビューしてみたいと思う。


3.カシュガル市内。

 9ヶ月ぶりに訪れたカシュガルは大きく変わっていた。たくさんの古民家が壊され、高層ビルの建設ラッシュが始まっていた。すでに完成した高層ビルが数棟、建設途中のものが数棟、平地にされ建設予定地とされている場所が数か所あった。このまま建設が進めば、来年の今頃になると、これらの高層ビル群でカシュガルの風景は一変しているに違いない。

        

 たしかに文化遺産であるカシュガル古城は破壊されていないが、エイティガールモスク周辺の古民家は、ほぼ無くなりつつあった。「この古民家の住民はどこに移住させられたのか」と通訳に聞くと、「カシュガル市郊外の3か所に移住している」と言うので、そこまで見に行ってみた。そこには住み良さそうなマンションが林立していたが、通訳の話によればなにかと住民の不満が多いという。市内の高層ビルの建設会社は、カシュガル資本のものが多いという話だったが、当然漢族資本も進出してきているものと思われる。この高層ビル建設ラッシュは、中国政府の4兆元の内需活性化政策が、着実にカシュガルにも浸透してきていることを示していた。なお広東省の深セン市がカシュガル市の経済活性化の後押しをしており、私の泊まったホテルに深セン市が事務所を構えていた。

 次に大きく変わっていたのが、求人広告であった。それらの数はほぼ倍増しており、しかも派手になっており、給与などの待遇を具体的に明記したものが多くなっていた。また前回は見かけなかった政府公認のウィグル語だけの求人広告も出回っていた。

         

 目抜き通りの漢族商店街では、ほぼ2軒に1軒の割合で店頭に求人広告が貼ってあった。求人職種も総経理、店長からワーカー、皿洗いまで多岐にわたっていた。給与は最低が800元(手当別、社保別、飲食住会社側持ち)で、最高は5000元(同条件)であった。

 郊外には、以前にはなかった工場が次々と建てられていた。物流基地という看板を掲げた建物や、原油を備蓄しておくような建築物、太陽光発電研究所と称する工場などが並んでいた。

 このような建設ラッシュの結果、カシュガル市経済が沸き立っており、求人広告の激増はいずこも人手不足に陥っていることを示すものだと考えられる。昨年のウルムチ暴動以来、ウィグル族は中国全土から新疆に戻ってきている。しかしながら中国政府の内需活性化政策に後押しされた活況によって、新疆地区では失業者が増加するのではなく、むしろそれらを吸収してもまだ足りないという状況が出現しているようである。

A大動物バザール。

 ヤルカンドからカシュガルに帰った日が、ちょうど日曜日であり、市内で大動物バザールが開かれているというので、すぐに見に行った。そこには大勢のウィグル族が、山羊・牛・ロバ・馬など持ち寄り、盛んに売買をしていた。値段は普通の山羊で1000〜1200元、牛で8000元ほどだった。この家畜がウィグル族農民の貴重な現金収入となっており、口蹄疫への警戒心の高さも頷けた。

B班超の足跡。

 カシュガル市内南部に、班超と36人の部下の彫像が建てられている。班超は後漢の時代に、当時、疏勒国に属していたこの地に遠征しカシュガルとヤルカンドを降し、36人の部下と共に、17年間統治したという。中国政府は、そのときの遺跡がまだわずかに残っているということを口実に、1994年から2年間をかけて、ここに立派な記念碑を作った。当然のことながら、ここに来るのは漢族のみで、ウィグル族はほとんど来ないという。同行のウィグル人通訳もここに来たのは始めてだと話した。

C香妃墓。

 カシュガル市内西北部に、アバ・ホジャの陵墓がある。この陵墓はイスラム教のモスクとして1640年から造営されはじめ、その後、礼拝の指導者であり、またこの地の統治者であったアバ・ホジャ一族(合計5代72人)が埋葬された。中でも有名なのが、清朝乾隆帝の妃となったイパル汗である。この妃には逸話が残されている。この妃は生まれながらにして体から、香しい沙棗(砂ナツメ)の匂いがただよっており、香妃と呼ばれていたという。アバ・ホジャはこの香妃を乾隆帝に献上し、清朝との和を保とうとした。香妃はやむを得ずその命に従ったが、北京に着いてすぐに服毒自殺をした。嘆き悲しんだ従者たちは棺を車に乗せ、124人が3年かけてカシュガルの地まで運んできたという。現在でも、その棺の運搬に使ったという車が、陵墓内に展示してある。ただし清朝側の記録には、1788年に北京において55歳で病没し、清の東陵に埋葬されたと記してある。近年、中国政府は発掘調査の結果、このことが証明されたと発表している。いずれにせよ現在でもカシュガルの人たちは、香妃服毒自殺説をかたくなに信じており、同時に清朝に降り香妃を献上したアバ・ホジャを嫌っているという。

 香妃の体の回りには、彼女の体の芳香に誘われていつも数十匹の蝶々が舞っていたという。陵墓の中庭では蝶々の飾り物が1セット(10匹)=10元で売られていた。それを漢族女性たちが買い求め、衣服に付けてはしゃぎながら記念写真を撮っていた。ちなみに砂ナツメを食べてみたが、良い匂いもしなかったし、美味しくもなかった。

Dユスフ・ハス・ハシフ陵墓。

 カシュガル市内南部に、ユスフ・ハス・ハシフ(1019〜1085)の陵墓がある。彼は11世紀にこの地で栄えたカラハン王朝時代の哲学者であり同時に文学者でもあった。彼は“福楽智慧”の作者として知られている。この著作は1069年から2年間かけてウィグル文字で書かれ、長編叙事詩の体裁で全編85章からなり、当時の王に献上されたものであるという。陵墓の壁には、その文章の一部分がウィグル語と漢語で彫り込まれていた。

 漢語の方を読んで見ると、その中身は“福楽智慧”という名称に反して、「王への治世・処世の献策」というものであった。私はそれが、「インドのカウティリヤの実理論」や「イタリアのマキャベリの君主論」に匹敵するのではないかと思った。なぜならそこには、「英明な君主は能力があり賢明な幹部を任用しなければならない。また賢哲な人材の補佐が必須である。戦時にはいかに軍隊を指揮するか。戦時にはいかなる計略を用いるか」などという項目が並んでいたからである。私はこれをじっくり読み、日本語に翻訳してみたいと思い、事務所に行きウィグル語で書かれた本を欲しいと言った。ところが漢語のものしかないという。仕方がないのでまず漢訳されたものを買い、ついで市内の古本屋に探しに行った。そこでやっと埃だらけのウィグル語版をみつけ買い求めた。店の主人が「これはもう手に入らない代物です」と話してくれたので、貴重な骨董品を手に入れた気分でうれしかった。

Eモハマド・カシュガル陵墓。

 カシュガル市内から西北へ50kmほど車で走ったところに、モハマド・カシュガル(1008〜1105)の陵墓がある。彼もまた11世紀にこの地で栄えたカラハン王朝時代の言語学者である。彼は若き日にトルコまで旅をし、そこで大いに学び、“突厥大辞典”を著し、その後カシュガルに戻った。この著作はウィグル語版百科全書ともよばれており、当時の各分野の最高の知識を網羅しており、現代でも価値が高いという。彼はこの著作を基に、この地で学校を開き、若者たちの教育・啓蒙活動に後半生を捧げたという。私はこの本も日本語に翻訳してみたいと思い、ウィグル語版と漢語版の両方を買い求めた。

 カラハン王朝時代のカシュガルに、ユスフ・ハス・ハシフとモハマド・カシュガルという著名な二人の学者が活躍していたということは、この時代のカシュガルが繁栄しており、高い文化水準を誇っていたということである。現代に生きる私たちは、その事実やこの文化遺産を、日本を始め世界の多くの人に知ってもらう必要があると思う。同行のウィグル人通訳も、「自分も勉強してみたい」と言い、そこでウィグル語版の本を買い求めていた。




ウズベキスタン近況  
01.JUN.10
 今回のウズベキスタン調査は、最初から難航した。

 本来、ウズベキスタンの首都タシケントへは、ウルムチから中国南方航空が飛んでおり、約1時間半で着けるという話だった。だから私は新疆ウィグル自治区のカシュガルの調査も含めて、上海→ウルムチ→タシケント→ウルムチ→カシュガル→上海の予定を立てて進行していた。ところが3月中旬、その中国南方航空便が突然長期欠航となってしまった。残された道は北京→タシケントしかなかった。結局、私はカシュガル行きをあきらめて、北京からウズベキスタン航空で6時間の空の旅をすることになった。

 さらに直前になってキルギスタンで政変が起きた。その影響で、同行する予定だった漢族の企業家が日程変更を伝えてきた。そのときすでに私は日本でビザを取得済みで、日時は限定されており、再申請して日時を変更するには時間に余裕がなかった。彼は北京で申請しており、勝手に日程を変更してしまったので、結局、私は彼といっしょにタシケントへ入ると、滞在可能日数が4日間しかないことになってしまった。それでもタシケントでの調査行動は、すべて彼に任せてあったので、それに従わざるを得なかった。東京のウズベキスタン大使館に、「現地でのビザ延長は可能か」と問い合わせてみたところ、「不可能」というつれない返事が返ってきた。現地の漢族エージェントに、同様のことを聞くと、「可能。まったく問題がない」という。私はそれを信じて、北京からタシケントへ向かった。

 今回の主要な調査目的は、ウズベキスタンへの中国(漢族・ウィグル族)企業の進出度合い、高麗人と韓国企業のビジネス状況、宮崎正弘氏の天然ガスパイプライン情報の確認などである。

 なお、タシケント到着後、最初の日にジェトロ・タシケント事務所を訪ね、末廣徹所長さんからウズベキスタンの基礎情報を詳しく教えてもらった。

           

1.チムールの末裔とウィグル族。

 ウズベキスタンの首都タシケントの市内の中心部に、大きなチムールの像が立っていた。それはナポレオンのアルプス越えの像のポーズとよく似ていた。チムール帝国の首都はサマルカンドだったが、タシケントの人たちも自らをチムールの末裔と考え、それを誇りにしているようだった。チムール帝国の最大版図は上図のようであり、そこには西方ではイラクやイランから、東方では中国の新疆ウィグル自治区が含まれていた。この時期には、この地域を多くの人間が自由に往来していたわけである。歴史上ではその後、この地域で民族の興亡が繰り返されたが、チムールの末裔を自認するウズベキスタン人とウィグル族は顔もよく似ており、文字や言葉も通じるため、今でも国境に関係なくビジネスを展開している。

※チムール帝国は1370年から1500年まで、西・中央アジアの覇者であった。

             
             チムールの銅像前で                  アブサヒ卸売市場前で

 タシケント最大の日用品の卸売市場:アブサヒに行ってみたところ、そこには3000軒ほどの店舗がならんでいたが、店員にも買い物客にも、漢族の姿はまったく見当たらなかった。また中古自動車市場や中古部品市場:ファラハダにも行ってみたが、同様に漢族は一人も居なかった。また携帯電話や電気製品を扱っているナワイー商店街を歩いてみたが、そこでも漢族には出会わなかった。   

 アブサヒ市場を見て回っていたとき、同行した漢族の企業家が、「怖いのでホテルに戻る」と言い出した。彼は昨年のウルムチ騒動のときに、現場付近でウィグル族に取り囲まれたことがあり、この市場で同じ顔をした人たちに取り囲まれているうちに、そのときの恐怖を思い出し気分が悪くなったというのである。私たちは彼といっしょに、ひとまずホテルに戻ることした。この市場を案内してくれたのは同じ漢族であったが、ハルピン育ちのロシア語が上手な人で、ウルムチ騒動などまったく体験しておらず、このウルムチの企業家の臆病な行動に対して怪訝な顔をしていた。

 それらの市場で売られているものは、大半が中国製品であった。価格は中国国内より3割ほど高いようだった。ウズベキスタンは2重内陸国であり、中国から運ぶには税関の処理などを含めて、物流がたいへんで経費が高くつくのであろうと思った。市場関係者に買い付けや輸送方法について聞いてみた。すると「私たちが北京や広州、ウルムチなどへ買い出しに行ったり、仲買者に頼んだりしている。買い付けた商品は、運送会社に頼めばまったく問題なくここに着く」と、教えてくれた。

 また別の関係者は、「カリモフ大統領の娘が経営する運送会社が、ウルムチ・北京・広州にあり、現地渡しですべてが解決する。2か月ほどかかるが間違いなくタシケントへ着く。現在、われわれが所属する国家はそれぞれ違うが、元をたどればチムールの末裔同士なので、税関などはあってなきが如しだ」と、話してくれた。つまり商品は密輸に近い状態で、遠方の北京や広州から、2回も国境を越えてタシケントまで運ばれているというのが実状のようであった。買い付けられた商品は、いったんウルムチに集められ、そこから鉄道でカザフスタンへ抜け、ウズベキスタン国内に持ち込まれるという。ちなみに運賃は、20フィートコンテナ換算で、5000〜6000US$だという話だった。

 そしてその自称チムールの末裔の男は、おもしろい話を聞かせてくれた。「昔から、カシュガルの近くのアルトシュという街には、商売の上手な人間が集まっていた。そのアルトシュ人の多くが、1962年に中ソの関係が悪化し始めたときに、いっせいにカザフスタンやウズベキスタンなどの旧ソ連側に逃げてきた。そして大半がそこに留まったが、一部は世界に散らばっていき、現在、ウィグル族の世界ネットワークを形成している」というのである。私は彼の話を、にわかには信じることができなかったので、その日の夜、新疆の地図を広げ、カシュガルの近くを丹念に見てみた。するとそこには、たしかに阿図什という地名があった。なお、1962年の4月から6月にかけて、約6万人のウィグル族やカザフ族が新疆のイリ・カザフ地区からソ連へ亡命したという。いずれにせよ、ウズベキスタン首都タシケントの地は、漢族が圧倒的に少数であり、ビジネス界を始めとしてウィグル族の勢力が強い地域であると、私は見た。

2.高麗人と韓国企業。

 昨年末、極東ロシアを訪れたときに、ウスリースクで現地の朝鮮人から高麗民族博物館を紹介してもらった。

 そこで館長さんから、「戦前、この地にいた朝鮮人がスターリンの指示によって、ウズベキスタンとカザフスタンに強制移住させられました。その数は20万人を超えました。移住先のウズベキスタンは荒地で、飢えに苦しみ、そこで10万人が命を落としました。生き残った人たちは懸命に働き、荒地を開墾し、緑野に変え、時のソ連政府から表彰されるほどになりました。彼らは高麗人と名乗り、その地で胸を張って生き抜いていきました。ソ連崩壊後、高麗人の一部が故郷に戻ってきて、この地に高麗民族博物館を建てたのです」と、説明を受けた。下記は高麗民族博物館内にあった強制移住の行程図をデジカメに収めて帰り、それを基に私が再現したものである。


 タシケントの南方50kmほどのところに、高麗人の移住先がある。そこには立派な記念館が建っており、この地で奮闘した高麗人の記録が残してあった。この記念館には「キン・ペン・フワ」という個人名がつけられており、この地で財を成した高麗人が建てたものだということだった。

 中には、高麗人たちがソ連政府から表彰されときの、立派な勲章をたくさん胸につけた高麗人の写真が100枚ほど飾ってあった。共産党に入り、この地の安定に尽くしたり、軍人になったりした人も少なくなかったようだ。

 出口に参観記念ノートがあったので、パラパラとめくってみた。1年分ほどさかのぼって見てみたが、さすがに日本語は見当たらなかった。私は日本語で、私がここを訪ねた理由を書き、高麗人の努力や生き様に敬意を評しておいた。

                
                    キン・ペン・フワ記念館前で          雪に囲まれた高麗民族博物館(ウスリ−スク)

 この記念館の周囲は、一面、見渡す限りの緑野で、それを見ながらすがすがしい薫風に吹かれていると、あの極東ロシアの半年間は雪に覆われる凍土の地よりは、はるかにこの地の方が恵まれているような気がした。記念館の管理者は高麗人だというので、韓国語で自己紹介をしてみたが、反応はなかった。すでに多くの高麗人は現地化しており、朝鮮語を話せないという。高麗人はこの地で綿花栽培を成功させ、特産品にまで育てあげた。私は集落の中に足を踏み入れ、1軒ずつ家庭を見て回った。ほとんどが土塀に囲まれた広い家であり、中庭には野菜が植えてあり、日除け兼用で葡萄棚が作ってあった。それらの家は貧しいという感じはしなかったが、さりとて豊かであるという感じも受けなかった。村には潅漑設備がしっかり作ってあり、中央には幼稚園や学校も整えてあり、モスクもあった。教会は見かけなかった。

 第2次大戦後、生き残った高麗人たちは、再び悲劇的な人生を歩んでいったという。懸命に生き抜き、この地の開拓を行い、旧ソ連邦の経済発展に尽くした高麗人は、朝鮮戦争の勃発に際して、旧ソ連政府の要請に応えて、志願してその戦いの地に赴いた。彼らはそこでも献身的かつ勇敢に戦った。さらに休戦後もその地に残り、国の建設に協力した人が多かったという。ところが時の経過と共に、彼らの消息がわからなくなっていったという。どうも政争に巻き込まれ、粛清されたのではないかとのうわさであった。

 ソ連崩壊後、韓国企業がこの地で出世した高麗人(中には上院議員や大統領とのパイプ役を担える人もいるという)を頼り、低賃金と市場確保、韓国政府の後押しによる資源確保などを目的にしてウズベキスタンへ進出した。ことに自動車の大宇はただちに工場を作り、生産を開始した。今、ウズベキスタンで走っている車の半数ほどが、大宇の現地生産車である。その後、大宇は本国の親企業が不振となったため、現在ではGMがこれらの工場を肩代わりして稼働させている。また韓国企業は、この地の特産品の綿花を利用した繊維業などの工場を稼働させ、その他ではホテルや多くの娯楽産業にも手を出し、成功しているということだった。対ウズベキスタン投資は92年から09年までの累計ベースで157件、5億ドル超を記録しており、ウズベキスタンに在留している韓国人は2000人ほどだという。

 最近、政府が打ち出している経済特区(ナボイ)への進出においては、多くの韓国企業が名前を連ねているが、実際のところは半数以上が、大半が契約調印を済ませたのみで、本社側では進出に否定的なところが多い。なお、ウズベキスタン政府側の投資計画による2010年以降の韓国企業の投資予定額は、21億ドルである。

3.石油利権と中国人(漢族)。

 トルクメニスタンからの天然ガスの輸送については、すでに2009年12月14日から開始されていた。中国とトルクメニスタンは年間300億立方メートルのガスを30年間に渡って供給する契約を結び、それを2本のパイプラインで、ウズベキスタンとカザフスタンを経由して新疆へ送り込む予定であり、その敷設図は下記のようである。そのうち1本はすでに完成済みで、現在は2本目が敷設中であり、2010年9月に完成予定、300億立方メートルの契約量に達するのは2011年末ごろになる予定。

                           

 私はブハラまで行って、この工事現場を見て宮崎正弘氏の説の確認をしたかったが、残念ながら時間がなく断念した。

 ところがタシケント滞在最終日に、お土産を買うために市内中心部のミニデパートに行ったところ、そこで漢族とおぼしき人たちのグループに出会った。彼らはどう見ても労働者風だった。話しかけてみると、彼らは中国石油(ペトロチャイナ)の従業員で、ブハラ周辺で天然ガスのパイプラインの埋設工事をしており、3か月の契約期間を終わり、次の新メンバーと交代し、今晩のフライトで帰国するのだという。私は彼らの証言から、宮崎氏の説は正しいと確信した。

 その晩の北京行きの飛行機は、このような漢族労働者で満杯であった。彼らは空港でも香水やチョコレートなどを買い漁っていた。それを見ていて、やがてこのウズベキスタンも漢族パワーに押さえ込まれる日が来るのではないかと、私は思った。なおこのような中国石油関係者は、天然ガスのパイプライン敷設だけでなく、ウズベキスタンの石油開発にも従事し、全国に散らばっており、その総数は3〜4万人ではないかと推測されているという。なお、現在のところ、タシケントにはチャイナ・タウンはない。ただし中華料理レストランは10軒ほどある。今回私がお世話になったハルピン出身の漢族も、中華レストランを経営しており、私はそこで何回も食事を取った。

 そこには毎日、いろいろな案件を抱えた漢族が出入りしており、情報交換の場所としても利用されていた。ある日のこと、30代後半と見られる漢族女性が、パスポートを片手になにやら頼んでいた。彼女はウルムチ出身であり、キルギスタンでビジネスを行っていたが、政争を嫌って1週間ほど前にタシケントに来たという。しばらくはこの地でビジネスを行いたいので、居住許可を取得して欲しいと頼み込んでいるという事であった。

 この店に来るお客さんたちが、一様にポリ袋を重そうに持って来るので、何だろうかと思って見ていると、それは食事代金を払うためのお金だった。私はそれを見ていて、かつてベトナムで食事代金を支払うために、お客さんがリュックサックにお金をいっぱい詰め込んで持ってきて、お金を支払うのに30分ほどかかっていたことを思いだした。ちなみにこのレストランの麻婆豆腐は6000スフ、近くのマックみたいな店のハンバーガーは4500スフだった。公定レートは1ドル=1582スフであるが、闇レートがあり約1.5倍。この店のウェイトレスの日給は15000スフだということであった。直近10年間のスフの下落率は250%。

 なお、中国とウズベキスタンとの貿易は、ウズベキスタン側の大幅入超であり、機械設備を筆頭にして、衣料品や雑貨など多岐にわたっている。ウズベキスタン政府発表の2010年以降の中国企業の投資額は、38.5億ドルで韓国企業を上回る。

4.日本人の影薄し。

 ジェトロの末廣所長の話によれば、日本企業の投資は低調で、案件としては3件。企業関係者では商社を中心とした駐在員事務所が大半で、そのほかには物流関係の法人が3社。ウズベキスタン在留邦人は約120人だということであった。もちろん私はタシケント滞在中、末廣所長以外の日本人には出会うことがなかった。

5.その他  トルコ、スイスの進出。

 ソ連崩壊直後、この地に最初に進出してきたのは、トルコ企業だった。トルコ人は風貌がウズベキスタン人と似ていることや、同じイスラム教徒であることなどでウズベキスタン人を信用させ、まだ資本主義の商売に慣れていない彼らを手玉にとって、荒稼ぎをしたという。ちょうど中国の改革開放直後に、香港企業が中国を席巻したようなものだったのだろう。現在でも、タシケントにある主要なビルのオーナーには、トルコ企業が名を連ねているという。私がお土産を買ったミニデパートもトルコ資本だと聞いた。

 ジェトロの末廣所長の話によれば、スイスのネスレが2000年にこの国に進出し、フェルガナ地方で乳牛を育て、国内の乳製品市場をほとんど押さえてしまったという。たしかにお土産のチョコレートはネスレのものが多く、試供品を食べてみたが、結構美味しかった。

6.参考資料。

・人口 : 約2750万人

・面積 : 約44万7千万平方km

・人口密度 : 59人/1平方km

・公用語 : ウズベク語

・民族構成 : ウズベク人=80%、ロシア人=6%、タジク人=5%、カザフ人=3%、その他=6%。