小島正憲の凝視中国

転向・変節についての日中考察 & 中国関連本 : 2011年 第5報 


転向・変節についての日中考察
16.DEC.11
 私もそろそろ人生を総括しなければならない時期に差し掛かってきた。

 自分は、若きころ抱いた「青雲の志」?を、いまだ果たし得ていない。自分は、自らの能力に限界を感じ、同時に飯を食うため、転向・変節をして、資本家として生き続けてきた。この不本意な人生をいかに総括すべきか。あるいは再転向して、晩節を過ごすことはできるのか。それはどのような思想的、実践的意味を持つのか。
 今回は、私の最近のテーマである転向・変節について考えてみる。

1.「転向」の定義

@広辞苑 :
・方向、立場などをかえること。
・特に、共産主義者、社会主義者などが権力の強制などのために、その主義を放棄すること。

Aウィキペディア :
・転向とは思想や政治的な主張、立場を変えること。特に、日本で昭和の戦前・戦中の厳しい弾圧により、多くの人が共産主義や社会主義の立場を放棄した現象を指す。転じて、「野球からプロレスに転向」、「理系から文系に転向」、「アイドルから声優に転向」といったように、方向や方針、進路などを変えることも転向と呼ばれる。
・類似する概念として、近世に行われたキリシタンへの改宗、棄教の強要があげられる。棄教したキリシタンのことを転びキリシタンと呼ぶ。戦前には、特別高等警察や憲兵は硬軟あらゆる手段を使って「主義者」の「過激」思想を放棄させようとした。その際に、組織からの離脱を心理的に容易にさせるために、「これは変節ではなく、“正しい路線に転じ向かう”のだ」という論法がもちいられた。これが転向の起源である。戦後、思想・良心の自由が保障されるようになってからは「日和った」、「転んだ」などと軽蔑される傾向がある。

2.獄中18年を非転向で貫き、大著を完成したチベタン・コミュニスト:プンツォク・ワンゲル

 私は、チベット研究家の阿部治平先生の書から、プンツォク・ワンゲルの数奇な人生を知ることができた。彼は秦城監獄に18年間、投獄されており、その間を非転向で貫いただけでなく、勉学に励み、深遠なチベット哲学と実践的な唯物論哲学を融合させ、自らの弁証法哲学を完成させた。私は若きころから、唯物弁証法に興味を持っていたので、この本の中国版を入手し、読んでみた。難解な書であり、あまり理解できなかったが、なぜかそのとき、この「獄中18年の思索の結晶」を、日本語に翻訳し、日本人に読んでもらいたいという衝動にかられた。

《 獄中18年のチベタン・コミュニスト:プンツォク・ワンゲルの生涯 》
・チベット共産党を組織。ダライ・ラマを象徴的存在とし、農牧民からの搾取を軽くし、教育、衛生などの向上を目指す民主主義政府の樹立を目的とした。その後、チベット共産党は中国共産党の一支部に編入。
・中国共産党は、レーニンやスターリンの民族理論に従って中国少数民族の独立国家を認め、それら国家が漢民族国家とともに中華連邦を構成するというソ連型構想を持っていた。若いチベット人たちはこれを深く信じ、共鳴していた。ところが1949年の革命成功を目前に民族政策を自治区方式に転換し、民族独立論を地方民族主義として排除した。
・1951年4月、チベット政府と中国との和平交渉の中国側通訳を担当、「17条協定」の調印に立ち会う。ダライ・ラマと毛沢東の通訳を務める。
・1960年、民族主義者として、隔離審査の後、秦城監獄に投獄。拷問と転向強要の中、自殺を図るが未遂。獄中でマルクスの古典の勉強を始める。「自分が誠実に革命のために生きてきたのに、なぜ反革命とされたのか」を哲学的に解明しようと試みる。ノートはトイレットペーパー、ペンは窓際に落ちていた針金、インクは上衣を洗ったときに落ちる青い水。マルクスやレーニン、スターリン、プレハーノフはもとより、フォイエルバッハ、ヘーゲルなどを熟読し、元来のチベット哲学と弁証法を融合した新たな弁証法哲学の創出に、10年以上を費やす。
・1978年、文革終了後、仮釈放され、「弁証法新探」などを発刊。その後名誉回復。92歳で存命中。北京滞在。

3.獄中18年を非転向で貫いた日本共産党員:志賀義雄

 私は大学時代に、志賀義雄の「獄中18年の思想」という講演を聴いたことがある。その時彼は、すでに日本共産党を除名されていたが、その会場は彼が醸し出す「鬼気迫る情熱」で異様な雰囲気に包まれていたことを覚えている。私は志賀義雄の顔を間近に見て、彼の「獄中18年の思想」に感激したものである。しかしそのとき彼が何を話したかは、まったく覚えていない。つまり「獄中18年の思想」の中身はなかったということである。その後、志賀義雄は多くの日本人から忘れ去られてしまった。同じように獄中を非転向で貫いても、プンツォク・ワンゲルと志賀義雄には大きな差がある。

《 獄中18年を非転向で貫いた元日本共産党員:志賀義雄 》
・一高を経て東京帝国大学に入学。帝大在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年(大正12年)には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。その後は共産党の活動を行ったが、1928年(昭和3年)の3・15事件において検挙され、治安維持法により有罪とされた。獄中生活は1945年(昭和20年)に日本が第2次世界大戦で敗北するまで続いたが、志賀は多くの党員と異なり、獄中でも転向拒否を貫いた。
・釈放後は、衆議院議員に当選するなどしたが、徳田球一らの武装闘争路線に反対し、宮本顕治らとともに国際派(反主流)を形成した。その後、武装闘争を放棄した共産党内で常任幹部会委員として活躍、国会議員にも復帰。
・1963年(昭和38年)、米ソの間で部分的核実験停止条約が調印され、それへの対応をめぐって共産党内で路線闘争となり、志賀はソ連支持、部分核停支持で少数派となり、共産党を除名される。その後、鈴木市蔵や神山茂夫、中野重治らとともに「日本共産党(日本のこえ)」を結成。じり貧で1989年に死去。

4.観念論哲学者としての地位を捨て唯物論哲学に転向した哲学者:柳田謙十郎

 私は高校から大学時代にかけて、柳田謙十郎に傾倒していた。彼の「自叙伝」や「人生哲学」などを読んで、その生真面目な性格に惚れ込んだものである。ことに、すでに著名な観念論哲学者としての地位をかなぐり捨てて、自らの感情に正直に生きようと考え、唯物論哲学の初心者へ転向した経緯や、日本共産党に入党するまでの10年間の葛藤などを読み、感動したものである。私が彼から学んだもっとも大きなものは、唯物論哲学とは関係がないが、「10年1節」という処世術である。つまり彼が「人生を10年単位で、思い切って変えろ」と、書を通じて私に教えてくれたのである。私は今日に至るまで、その教えを忠実に守って生きてきており、22歳から10年単位で、自分の人生を切り替えてきた。現在は、72歳からの5度目の人生を構想中である。結果的に、私の人生は5度の転向・変節を経たことになるのだろうか。

《 観念論から唯物論へ転向した哲学者:柳田謙十郎の生涯 》
・明治26年11月、神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)で、農家の長男として生まれる。父の柳田勘作は南毛利村の村会議員や助役、収入役を務めた。また1.5ヘクタールを耕す農家であった。
・1908年(明治41年)、小学校教師となる。大正3年1月、結婚。
・1922年(大正11年)4月、京都帝国大学文学部哲学科選科に入学。28歳。
・西田哲学の信奉者として生きる。
・1936年、台北大学教師を辞職。
・1950年、57歳でマルクス主義哲学者に転向。
・1960年、67歳で日本共産党入党。
・1983年(昭和58年)1月、日中友好協会会長、労働者教育協会会長を歴任後、90歳で没。

☆その思想遍歴
・私の転換はどこからどう見ても時局の便乗の立場から行われたものでないことだけはなんびとの目にも明らかであったということができるでありましょう。その点は私としても自分の個人的利害の打算ではなかったので、時々柳田は変節漢だなどと罵る者の声がきこえてくることはあったとしても、自らかえりみて良心にはじるようなものはありませんでした。人間はだれでもかわる。もしかわるということがいけないということなら歴史というものは成り立ちません。いけないことは、よいものからわるいものにかわる。進歩的なものから保守反動的なものにかわるということであって、わるいものからよいものにかわってゆく、あやまちから正しいものへと変化すてゆくのは進歩であって変節ではありません。
・私は唯物論者になると間もなく、ひとつの覚悟を決めなければなりませんでした。それは自分がいままで持っていたようないわゆる学界での名誉心を捨てなければならないということでありました。自分が唯物論者となったのは、私が個人として、りっぱな唯物論学者だといわれて、なかまの学者たちからの高い評価をうけることが目的でなったのではない。そうではなくて、その真の目標は労働者階級の解放(人類の解放)ということにあったはずである。もしそうだとすれば、私はどんなに軽蔑されようと、要するに労働者階級の階級的自覚が高まり、これによって彼らの革命的エネルギーがもえあがってくれるならばそれでよいではないか? 自分にはもう個人としてはいかなる野心もなく、またあってはならない。私という人間の存在のすべては労働者階級のためにささげられて、その中に消えてなくなり、そのかわりとして労働者の解放という成果が生まれるなら、私はそこに満足してよろこんで死んでゆくべきではないか! と。
・1960年9月8日、私は日本共産党に入党しました。その理由は、
 第1に、日本の社会が本当に変革されるという時になれば、その最後の中核部隊、前衛部隊となるものはかならず日本共産党でなければならず、そうでない限り日本の革命ということはありえないということが、理論の上からそしてまた現実の上から明らかになってきたこと。
 第2に、日本共産党の党員が、中央から地方にいたるまでいずれもみな腐敗をしらない純真なすぐれた活動家であり、名を求めず、富を願わず、ひたすら働く人々の幸福を求めて、身をささげようとしている姿はいかにも美しい。私は日本の共産党員の、あくまで非妥協的な汚れを知らない精神にほれてしまったのです。
 第3に、いままでの私は、組織の中へ入ることによって自分の個人としての自由が制限されることを恐れる心を克服しえなかったのでありますが、最近になって私はそれではいけない。今の世の中ではどんなことでも個人プレーではだめだ、個人の自由を解放するということでさえも組織的行動によるほかない。これを身体で感じることができるようになりました。そして組織の中に生きるもののよろこびというものをほんとうに心から感ずることができるようになりました。そしてもし私がこうして組織の中に身を投げ入れるとすれば、組織の中の最高の組織であり、鉄の規律をもった組織であるところの日本共産党に入党することが当然のことであると考えるようになったのです。
 第4に、今日必要なことは分裂の中に分裂を加えることではなくて、共産党を強くして統一戦線の道を切り開くことである。私が入党したからといって何の役にも立つものではありませんが、日本の青年たちの中には、私と同じ道を歩むことをねがっている何人かの人々がいる。もしこの人々が私の入党を機会に踏み切って共産党に入党するようになってくださるならば、私自身の働きは無能でも、この入党に何かの意味をもつことになるであろう。
 第5に、野坂議長をはじめとして、蔵原氏や鈴木氏や袴田氏など中央委員会幹部会の同志たちが、つねに私を見守り、私を激励し、あたたかく私をみちびき入れてくださったことも、私の入党の決意を早める役に立ったことはいうまでもありません。

5.「日本人は転向しやすい気質を持っている」 : 王敏氏の見解

 王敏氏は、近著「鏡の国としての日本」で、「一般的に、キリスト教、イスラム教、儒教文化圏の人々は思想を放棄する仕掛けを持っていない。そのため新旧の思想を交換するのも遅いとされている。行動だけでは動かない精神構造になっているからだ。だから幕末・明治維新を画して儒教から西洋思想に乗り換えたり、戦争の敗戦によって急激に変貌できたりした日本が不可思議でしかたがない」と書いている。さらに「新しい思想や学問があると好奇心をみせて飛びつく。日本文化には、思想を、衣服のように四季に合わせて着替える仕掛けがあるとみなければならない。思想を基調にしていなければ異文化の思想との衝突が少なくて済み、受け入れやすくなるかもしれない。感性を基調とした体であれば思想という服を着替えやすいわけである。このような感性重視の関係性思考を文化基調にしている国は多くないだろう。日本文化の独自性を思わざるを得ない」と続けて書いている。

6.「日本人は実用主義的気質を持っている」 : 李培林氏の見解

 李培林氏は、近著「再び立ち上がる日本」で、「“神社”は日本人の実用主義的理性を象徴するものである。日本人は、自分たちが“有用”“有効”と思われるさまざまな外来文化を巧みに吸収することができる。それぞれ出所が異なり、しかもお互いに矛盾している文化や、ロジックの繋がりのない文化など、彼ら自身の文化と衝突するものでさえほとんど気にしない。彼らには、さまざまな異なるものを完全に理解し、融合するだけでなく、さらに新しい実体を作り上げるというような特殊な能力を持っている。言語にしろ、衣食にしろ、企業組織にしろ、権威社会にしろ、すべて多元的な選択によって構成されているが、同時に存在していても互いに矛盾しないシステムになっている」と書いている。

7.「中国人には変節漢が多い」 : 桝添要一氏の見解

 桝添要一氏は、近著「孫文」で、日中間では、「忠誠心」という価値観が根本的に違うといい、中国では「どちらかといえば、勝ち馬に乗ることが重視される」と書いている。そして「中国では、自分が仕えていた主君から権力が失われると思った瞬間に、できるだけ多くの手勢や武器を持って新たな権力の持ち主となる革命派にうつる、というわけだ」、「こういう中国の話と比較対象になるのは、会津の白虎隊だ。白虎隊は、最後まで徳川に忠義を尽くす。中国からすれば、あのような行為はバカに映るのだろう。なぜいつまでも主君に忠義をつくすんだ。さっさと明治政府側に寝返ったらどうだと。中国では、機を見るに敏で、革命軍に寝返ることで高く評価される」と記している。この記述は、博学で緻密な論を展開する桝添氏にしては、いささか粗雑な見解である。中国にも「主君に忠誠を尽くして死んでいき、後世に高く評価されている人物」もいれば、日本でも「簡単に寝返って、その後を新体制でまっとうした者」もいるからである。

8.「節義を全うした中国の義人たち」 : 冨谷至氏の見解

 冨谷至氏は、近著「中国義人伝」で、漢の蘇武、唐の顔真卿、宋の文天祥らの節義を全うした人生を取り上げている。
 漢の蘇武が匈奴に囚われて20年、極寒の地バイカルに単身放逐されても、なお節義を守り生き抜いたことについて、冨谷氏は、「蘇武が貫き通したもの、決して妥協しなかったもの、それは皇帝と臣下、否、個人と個人との間に結ばれた信頼であり、節義ともいうべきその紐帯は、維持し守り続けねばならなかった。節を曲げること、それは相手との信頼関係の破棄のみならず、自己の存在の否定であった。“士は己を知るもののために死す”、これは自己の価値を認めてくれた者に対する恩義であるとともに、自己の存在を価値たらしめるものであった」と書いている。
 唐の顔真卿が玄宗、粛宗、代宗、徳宗と4代の皇帝に仕え、その間、一貫して正義を主張して筋を通し、そのために時の宰相と対立し、幾度となく左遷されたが、彼の学識、度量のゆえにそのつど中央に戻ったことについて、冨谷氏は、「顔真卿が守らねばならなかったもの、それは士大夫、読書人がその学識によって身につけた責任、義務、節義であり、それを守ってきた士大夫としての一族の知の伝統であり、その放棄は自己と顔氏一族の存在を否定することだったのだ」と書いている。
 宋の文天祥が宋滅亡後、北京の牢獄で3年幽閉されても、なお節義を守り処刑されていったことについて、冨谷氏は、「進士、状元という経歴、それが文天祥たち進士合格者の責任と義務であり、守り通した誇りであった」、「(科挙制度)での成功者は、その制度を当然肯定するものであり、制度に基づく組織=国家の体制は是認されるものであり、維持せねばならない。瓦解は、自らの存在の否定に他ならない」と書いている。
 最後に冨谷氏は、「漢の蘇武、唐の顔真卿、宋の文天祥、すなわち彼らが守り通した責務、妥協できなかった価値観、それは彼らがそれぞれ異なる“義”に依ったからに他ならない。蘇武にあっては任侠的信義であり、顔真卿にあっては血統が受け継いできた士大夫の学知・理知とそれに基づく行動であり、そして文天祥にあっては進士及第状元の経歴とその経歴に期待される責任と誇りであった。完遂せねばならない責務、守るべき節義が時代によって違っている以上、“義”は一定不変の意味をもつものではなく、時代による可変性を有する」と書いている。
 続けて冨谷氏は、「社会のエリートとして選ばれた者が有する自覚、責任、義務はノブレス・オブリージェといわれる。私は思う。その社会、その時代の選良意識が強ければそれだけ節義、道義への自負が強い。逆に“義”への意識は、選良であってこそ出てくるものではないだろうか」、「あらゆる方面で格差是正、平等が強調される今日の日本、学力均等、一億総中流意識のなかでは、節義の丈夫を生み出す環境は果たしてあるかと言えば、さあどうであろうか。節侠に生きた蘇武の不屈、知を力とした顔真卿の意地、状元の文天祥の矜持を育んだエリート意識を生み出す原動力は何か.現代社会、今日の日本ではいったい何が現代の義をつくりあげるだろうか。はっきりいって私には見つからない」と書いている。私は同様の言葉が、現代中国にも当てはまると思う。

9.楠木氏三代 : 変節漢を嫌う日本人の性向

 一般に楠木一族の中では、正成と正行がもてはやされ、正儀については印象がよくない。もちろん歴史の彼方の話であり、脚色もあり、その真実の姿に迫ることは容易ではないが、私はこの正儀の人間臭い生き方とその実績を高く評価している。正成は後醍醐天皇に忠誠を尽くし、玉砕覚悟で湊川の戦いに臨み、華々しく討ち死にした。正行も足利直義との連携で南朝を復興すべきと考え、これまた玉砕覚悟で四条畷の戦いに臨み、華々しく討ち死にした。いずれも、一身を犠牲にして、忠誠を尽くしたと伝えられている。しかしあとに残され楠木一族の命運を託された正成の三男、正儀は父と兄とは同じ道を歩まなかった。もちろん正儀も正成譲りの軍略を駆使し、足利軍を幾度も翻弄した。しかし同時に千変万化する南北の朝廷事情や、足利尊氏と直義兄弟などの対立を巧みに利用し、北朝方に肩入れしたり、また南朝方に帰順したりと、楠木一族の存続のためにその態度を変節させた。そして正行死後、ほぼ40年間、楠木一族を守り抜いた。この正儀の変節の生涯を、多くの人はあまり好まない。正成や正行の潔い人生を好む。

《 楠木氏三代 》
・楠木正成 : 1336年7月4日、湊川の戦いで討死。後醍醐天皇に忠誠を尽くす。
・楠木正行(長男)、正時(次男) : 1348年、四条畷の戦いで討死。南朝に尽くす。
・楠木正儀(三男) : 楠木一族の存続のため、北朝軍と戦いを繰り返すが、最終的には南朝と北朝の和睦を目指す。1388年ごろ没。1392年、南北朝合一。

10.経済大国中国の生みの親 : 不倒翁・ケ小平

 GDP世界第2位の経済大国:中国を作り出したのが、ケ小平の改革開放政策であることは、だれも否定できない。ケ小平は、中国人民の生活向上のために、毛沢東の自力更生政策を捨て去り、他力依存の外資導入、つまり改革開放政策に踏み切った。彼は社会主義市場経済という言葉で煙幕をはりながら、社会を変革していった。そして13億の中国人民の生活を飢餓から解放し、豊かさを実感できる水準まで引き上げた。これは歴史に残る偉業である。しかしケ小平の生涯は決して順調だったわけではない。3度の失脚を経験しながら、その都度復権を果たし、不倒翁と呼ばれているほどである。しかもその復帰に際しては、時の権力者に自己批判を繰り返し、いわば変節したように見せかけ、その目的を達している。

《 ケ小平の生涯 》
・1904年、四川省広安県で生まれる。
・1920年、フランスへ勤工倹学。24年、仏で共産党入党。26年、モスクワで共産主義理論を学ぶ。
・1927年、一上:23歳、上海の地下党本部で中央秘書長。
・1932年、一下:百色暴動、ミニ長征の後、江西省中央根拠地で会昌県委員会書記。毛沢東とともに失脚。
・1934年、二上:長征の過程(遵義会議直前)で、毛沢東の権力掌握と共に、中央秘書長に復帰。
          数多くの戦闘指導。党内序列第6位に。高崗事件の処理。反右派闘争の主力。総書記に。
          大躍進政策で毛沢東と対立。 ※白猫黒猫論−@ ※自己批判−A
・1966年、二下:文革で失脚。 ※自己批判−B
・1973年、三上:3月に復活。 ※毛沢東あて数千字の書簡−C 国務院副総理、軍総参謀長に。
・1976年、三下:4月失脚。
・1977年、四上:復活。 ※2度に渡り、華国鋒に書簡−D
・1987年、胡耀邦総書記を解任。
・1989年、天安門事件で趙紫陽総書記を解任−E
・1992年、南巡講話−F
・1993年1月、89歳で死去。

☆ケ小平の生き方は、変節の連続であったとも言える。自己批判を方便に使い、とにかく中国人民の生活の向上に全力を挙げた。改革開放とは、資本主義の軍門に降ることであり、つまり共産主義思想は放棄するということであったが、ケ小平は党外には社会主義市場経済を標榜し、党内には民主集中制の原則を貫き、共産党の政治支配体制を守りながら、人民の生活を、資本主義各国を凌駕する水準まで引き上げた。

@劉伯承同志はいつも“黄猫であれ、黒猫であれ、ネズミを捉えさえすれば、よい猫だ”という四川のことわざを使う。これは戦闘の話をしたものだ。われわれが蒋介石を破ることができたのは、古いしきたりや、昔のやり方で戦ったからではない。すべては状況次第、勝てばよいという考え方だった。

C私は誤りを犯して工作から完全に離れて以後5年余になります。機会があれば工作の中で誤りを改めたい…。私は68歳になるけれども、健康はまだよい。技術的な工作(たとえば調査研究工作)なら、党と人民のためにあと7、8年働けると思う。ほかに要求はありません。主席と中央の指示を待ちます。

E万一、天が崩れ落ちてきたとしても、胡耀邦と趙紫陽がささええてくれるので安心だ。


 以上、簡単に転向・変節について考えてみたが、その是非の結論は出なかった。しかしながら、その人間の生き様が転向であろうが非転向であろうが、「結果として、人民大衆に大きく貢献できたかどうか」が、重要であることがわかった。残念ながら、今まで私は変節漢の類の人生を歩んできた。残すところあと数年の間に、「人民大衆に大きく貢献できる仕事ができるかどうか」を、毎日、自問自答しながら、突き進んで行くことにする。


中国関連本 : 2011年 第5報 
20.DEC.11
190.「紅いベンチャー」  服部英彦著  カナリア書房  8月10日

191.「上海・華東進出 完全ガイド」  NAC国際会計グループ  カナリア書房  9月20日

192.「史料 満鉄と満州事変(上) 満州事変前史」  アジア経済研究所図書館編  岩波書店  9月28日

193.「チェンジング・チャイナの人的資源管理」  白木三秀編著  10月6日

194.「孫文」  桝添要一著  角川書店  10月10日

195.「ポイント解説! 中国会計・税務」  近藤義雄著  千倉書房  10月11日

196.「中国情陸」  柿澤一氏著  メディア総合研究所  10月15日

197.「中国文化大革命のダイナミクス」  谷川真一著  お茶の水書房  10月18日

198.「これから伸びる中国企業地図」  野村総研(上海)  中経出版  10月23日

199.「中国産業地図」  亜州IR編  日本経済新聞社  10月24日

200.「中国義士伝」  冨谷至著  中公新書  10月25日

201.「古井喜美と中国」  鹿雪瑩著  思文閣出版  10月28日

202.「中国 改革開放への転換」  加茂具樹・飯田将史・神保謙編著  慶応義塾大学出版会  10月31日

203.「中国華北農村の再構築」  小林一穂・劉文静編著  お茶の水書房  10月31日

204.「“中国残留孤児”の社会学」  張嵐著  青弓社  10月

205.「それでも、小売業は中国市場で稼ぎなさい」  西河豊著  中経出版  11月3日

206.「中国成長企業50社−長江編−」  NET CHINA・ブレインワークス編  カナリア書房  11月10日

207.「100語でわかる中国」  井川浩訳  白水社  11月10日

208.「長春発ビエンチャン行 青春各駅停車」  城戸久枝著  文藝春秋  11月15日

209.「“対外援助国”中国の創成と変容 1949-1964」  岡田実著  お茶の水書房  11月15日

210.「李鴻章」  岡本隆司著  岩波新書  11月18日

211.「“敗者”からみた中国現代史」  荒井利明著  日中出版  11月20日

212.「“華中特務工作”秘蔵写真帖」  広中一成著  語り:梶野渡  彩流社  11月20日

213.「中国化する日本」  與那覇潤著  文藝春秋  11月20日

214.「中国モノマネ工場」  阿甘著  徐航明・永井麻生子共訳  日経BP社  11月21日

215.「清水安三と中国」  太田哲男著  花伝社  11月25日

216.「アジアの非伝統的安全保障U 中国編」  天児慧編  勁草書房  11月25日

217.「巨竜中国は2022年に崩壊する」  關洸念著  セルパ出版  11月28日

218.「現代中国の消費文化」  松浦良高訳  岩波書店  11月29日

219.「辛亥革命と日本」  王柯編  藤原書店  11月30日

220.「中国の近未来への予言書」  孫樹林著  桐文社  11月30日

221.「中国女性消費者のリアル」  沖野真紀著  カナリア書房  11月30日

222.「中国スーパー企業の研究」  沈才彬著  アートデイズ  12月1日

223.「甦る日本! 今こそ示す日本の底力」  段躍中編  日本僑報社  12月9日

224.「中国の公共外交」  趙啓正著  王敏監訳  三和書籍  12月10日

225.「2025年 米中逆転」  渡部恒雄著  PHP研究所  12月12日

226.「中国文化強国宣言批判」  高井潔司著  蒼蒼社  12月12日

227.「中国の情報通信革命」  エリック・ハーウィット著 三宅功監訳 高杉耕一・黒川章訳  NTT出版  12月15日

228.「知識ゼロからの中国ビジネス入門」  吉村章著  幻冬舎  12月15日

229.「アジア市場を拓く」  川端基夫著  新評論  11月15日

230.「中国は21世紀の覇者となるか?」  ヘンリー・キッシンジャー他著 酒井泰介訳  早川書房  12月15日

231.「日中もし戦わば」  マイケル・グリーン、張宇燕、春原剛、富坂聰共著  文春新書  12月20日

232.「中国・電脳大国の嘘」  安田峰俊著  文藝春秋  12月20日

233.「中国ビジネス 2012」  日経BP社  12月25日

234.「“仮面の大国”中国の真実」  王文亮著  PHP研究所  12月29日

235.「“すいません”が言えない中国人 “すいません”が教えられない日本人」 井上一幸著 健康ジャーナル社 12月31日