小島正憲の凝視中国

G2:米国化する中国 


G2:米国化する中国 
07.DEC.09

  ロス暴動の現場に立って 

 このところ次の世界をリードするのはG2、つまり米国と中国であるという論調が目立つようになった。たしかに経済成長が著しく、13億人を擁する中国は社会の多くの面で急速に米国化しつつあり、やがてG2と呼ばれるのにふさわしい大国となると思われる。

 中国政府の政策ブレーンに海亀派とよばれるような米国帰りのインテリが多いことから、それは当然の帰結であろう。しかしながらそれは同時に米国の暗部を中国社会が取り入れることにもつながる。

 今回は、18年前のロスアンジェルス暴動の跡地の調査と、米国の良心とも呼ばれている社会起業家の枋迫篤昌氏の取材を通して、米国化する中国社会を遠望してみる。ただし私の米国社会の理解はまったくお粗末なものなので、米国通の方々からのご批判をいただきたいと考えている。


1.ロスアンジェルス暴動。


@18年前のロスアンジェルス暴動。

 1992年4月29日、この日のロドニーキング事件(後述)の無罪判決に黒人たちは一様に怒りを抱いていた。
 午後4時、ロスアンジェルス南部のサウスセントラル地域のフローレンス通りとノルマンディー通りの交差点で、黒人が白人の運転するトラックを襲撃した。ここに多くの黒人やヒスパニックの若者たちが集まり、近くのクレンショーブルーバード沿いの商店に放火、店内の商品に略奪を始めた。ロス暴動はまず黒人と白人の人種間闘争として始まった。

 この騒動は少し離れたコリアタウンにただちに広がり、韓国人経営のスーパーなどが放火、略奪の対象となった。韓国人は自警団を組織しバリケードを築き、ライフルなどで武装しこれに対抗したので、ここで銃撃戦が展開された。ここにいたって、黒人と白人との間の人種間闘争が、黒人やヒスパニックと韓国人との闘争にすりかわって行った。

 4月30日には、この暴動がサンフランシスコ、オークランド、サンディエゴなど、ロスアンジェルス以外の街にも拡大していった。ロス市の黒人市長であったブラッドリー氏は非常事態宣言を発し、カリフォルニア州政府と米国連邦政府は、警察2000人、州兵6000人を出動させ武力で暴動を鎮圧すると同時に、陸軍2000人、海兵隊1500人をロス郊外に待機させた。この政府の武力行使によって6日間に渡る暴動がやっと沈静化した。

 この暴動での死者は58人、重軽傷者2200人、逮捕者10,000人以上(42%が黒人、44%がヒスパニック)であった。放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件に達し、商店などの被害総額は10億ドル以上であった。

 なおロス市内のダウンタウンも放火略奪の対象となり、一時はリトルトーキョーにあったホテルニューオータニも襲撃されるという情報が飛び交い、ちょうど宿泊中であった日本の海部俊樹首相が避難する一幕もあったという。

Aロス暴動の原因。

 従来、ロスアンジェルスのサウスセントラル地区は黒人の居住地域であったが、そこにヒスパニックが進出してきていた。また米国の韓国人ベトナム帰還兵への優遇策などによって、韓国人もここに入り込んできて大きなコリアタウンを形成していた。ヒスパニックや韓国人はそれまで黒人が引き受けていた単純労働をさらに安価で請け負い、黒人の仕事を奪うこととなった。ことに韓国人は日夜をわかたず勤勉に働き続け、その多くがまたたくまに酒屋や雑貨店を営むようになっていったので、黒人の怨嗟のまとになった。また韓国人の中には露骨に黒人を蔑視するような風潮があり、黒人との間で一触即発の状態であったという。

 1991年3月3日、黒人男性ロドニーキング氏がレイクビューテラス付近でスピード違反により検挙され、白人警官たちに激しい暴行を加えられ、瀕死の重傷を負った。この暴行の現場がテレビで繰り返し報道されたので、白人に対する黒人の怒りが鬱積していった。約1年後の1992年4月29日、黒人陪審員不在の裁判の結果、白人警官たちに無罪の表決がくだり、とうとう黒人の怒りが爆発したのである。

 1991年3月16日には、韓国人商店でオレンジジュースを買おうとしていたナターシャ・ハーリンスという名の黒人少女が、韓国人女性店主に射殺されるという事件が起きた。この模様は店の防犯ビデオに写っており、それには黒人少女と女性店主のいさかいの後、少女が商品をカウンターに置き店を出て行こうとしたとき、女性店主が少女の後頭部を拳銃で撃ちぬいた様子が克明に残っていた。

 この事件も同年11月15日に、異常に軽い判決が出され、黒人の韓国人に対する怒りを増幅させていたので、黒人の白人に対する暴動は容易にその対象を韓国人商店への略奪暴行に変えていったのである。

 なお、ロス暴動の発端となった白人のトラック運転手は、たまたま現場付近にいた黒人住民たちの手で助けられ、一命を取り留めたという。

 また、1965年8月にはサウスセントラル地域でワッツ暴動と呼ばれる大規模な黒人暴動が起きており、約27年を経て再び同地域で酷似した暴動が起きたわけである。もちろんこのときは黒人と白人の対立が中心であり、ロス暴動ほど人種間対立が複雑ではなかった。このときも数千人の警官の出動の結果、6日間にわたった暴動がようやく鎮圧された。34名が死亡、1000名が負傷、4000名が逮捕され、不動産の被害総額は3500万ドルに及んだという。

B現在のロス暴動跡。

 今回私は、ロスアンジェルス暴動の跡地を見るために、現地の日本人ガイドにその案内を頼んだ。まずワッツ暴動跡にあるワッツタワー、そして暴動勃発地点のフローレンス通りとノルマンディー通りの交差点、クレンショーブルーバード沿いの道、コリアタウン、リトルトーキョーなどに行きたいと申し込んだ。するとその男性ガイドは「ワッツタワー周辺は黒人やヒスパニックの居住地域であり安全ではない。私もロスで30年観光ガイドをやっているが、ワッツタワーには2回しか行ったことがない。コリアタウンとリトルトーキョーについては問題がないが、その他の場所では道路を走るだけにして欲しい」と答えた。さらに「サウスセントラル地域では殺人事件が毎日5件起きており、もしそのような場面に出くわしたら、私はお客さんを放り出して逃げます」と脅かしてきた。この答えに私は一瞬びっくりしたが、ここまで来て引き下がるわけには行かないと思い、彼に命を託すことにした。

 男性ガイドは地図を見ながら車を運転し、ワッツタワーに着くまでに道を3回間違えた。おかげで黒人やヒスパニックの居住地域をよく見ることができた。それらはスラム街というほどではなかったが、かなり汚く半壊しかけた住宅も多かった。

 

     ワッツタワー前で

 ワッツタワー周辺は彼が言うほど危険な感じがする場所ではなかったが、彼は念入りに駐車場の安全を確認していた。小さな広場にスペインのサクラダファミリアを模したような鉄骨のタワーが組み立てられていた。すぐ側に記念館のようなものがあり、中にはワッツタワーの歴史の紹介や黒人芸術家の絵画の展示がしてあった。訪問者記帳ノートがあったのでめくってみたが、日本人らしき名前は皆無であった。この記念館?にはワッツ暴動についての記述はなかった。そのような書物もなかった。ちなみに10月に訪れた韓国の光州事件跡には、壮大な記念塔、広場、墓地、記念館などがあった。また事件を詳細に描いた書物やDVDなども発売されていた。もちろん日本語版も用意されていた。さらに訪問者記帳ノートには、100名に1名ぐらいの割合で日本人の名前が記されいた。

 さらに男性ガイドの車で、サウスセントラルの主要道路沿いを走ったが、街角のところどころに黒人やヒスパニックがたむろしており、そこには白人や東洋人の姿はなかった。暴動勃発地点も通過したが、車から降りることは止められたので窓から写真を撮るだけにした。

 コリアタウンで昼食をとって、リトルトーキョーに向かった。リトルトーキョーの周辺もあまりよい雰囲気ではなかった。私はダウンタウンのシェラトンホテルに宿泊しており、地図上ではリトルトーキョーまでそんなに遠くはないと思ったので、夜は歩いて来て日本食を食べると話したら、危ないので止めた方がよいと言われた。

 彼の言によれば、とにかくロスでの黒人の失業率は25%を超えており、治安が悪化してきているからだという。仕方がないので、ホテルの隣の売店でハンバーガーを買って食べることにした。その晩、「地球の歩き方」のロスアンジェルスのところを読んでみたら、やはりダウンタウンの夜の出歩きは止めた方がよいと書いてあった。ついでにネット上でも調べて見てみたが、ほとんどが同意見であった。ちなみに当然のことながら、「地球の歩き方」にはサウスセントラルの記述はないし、ワッツタワーもない。多くの観光客には、この地で大規模な暴動が起こったことなどには興味がないのだろう。

Cロス暴動は終わっていない。

 翌日、私はビバリーヒルズに行き、マイケルジャクソンの豪邸の前で写真を撮り、またゲッティセンターへ見学に行った。その一帯は米国を代表するスーパーリッチの居住区であり、昨日までのスーパープアーの居住区とは天国と地獄ほどの差があった。またこの地域には観光バスがたくさん走っており、日本人観光客も多かった。貧富の格差が歴然とした二つの居住区が、同じロス市内に同居しているのを目の当たりにして、私はまさにこれが米国だと実感した。

 

    マイケル・ジャクソンの豪邸前で

 現在、米国では格差がますます拡大している。それでもただちに暴動が起きるという気配はない。小康状態である。それは米国政府の諸政策が功を奏しているとも考えられる。しかしながらロスアンジェルスでは、ワッツ暴動以後27年間、黒人層の救済のために幾多の法律が施行され、手厚い保護政策が実施されたにもかかわらず、それらの力ではロス暴動を回避することはできなかった。

 やがてロス暴動後、20年が過ぎようとしている。この間、またいろいろな優遇策がなされたが、事態は大きく変わっていない。だから次の暴動がいつ起きてもおかしくはない状況ではある。米国流資本主義や民主主義では暴動を根絶することは不可能なのかもしれない。

 中国では昨年のチベット、今年のウルムチと民族暴動が続いている。今後も、米国帰りの海亀派は、民族暴動を根絶するために幾多の優遇策を打ち出し融和を図ろうとするにちがいない。しかし中国首脳が米国流資本主義や民主主義とは違う独自の新たな道を歩み始めなければ民族暴動は解消しないかもしれない。

D余談 : スーパーのショッピングカート。

 米国のスーパーマーケットに入ってまず驚くことは、ショッピングカートが馬鹿でかいことである。日本のスーパーのカートの3倍ほどある。次に驚くのは、多くのお客さんがその大きなカートを商品で満杯にして、レジに並んでいることである。あまりに購入商品が多くレジに時間がかかるので、小額者用の専用通路ができているほどである。思わず米国人は不要なものまで買い込んでいるのではないかと疑ってしまう。

 さらにほとんどのお客さんが現金で払わず、カードで決済をしていることにも驚く。これらを見ていると、米国人の旺盛な消費力が不況下でもさして変わっていないのと、それを可能にしているのがクレジットカードシステムであるということがよくわかる。その結果として、クレジットカードの多用で、収入を上回る消費をしてしまい自己破産に追い込まれる米国人がきわめて多いということも実感できる。

 中国のカルフールのショッピングカートも米国のものに負けず劣らず大きい。そのカルフールで、数年前までは白人などがその大きなカートに商品を満載して、誇らしげにレジに並びカードで決済をしていた。昨今では中国人もその真似をして大きなカートに商品を山積みにしてレジに列を作るようになった。さらに決済方法は半分ぐらいがカードを使用するようになった。

 このように都会の中国人の消費スタイルはほぼ米国並みになってきている。それでもまだ中国ではスーパーが田舎まで進出していないし、クレジットカードも庶民の手に行き渡っていない。したがって大手スーパーが中国の津々浦々まで進出し、中国人のほぼ全員にクレジットカードが行き渡れば、中国の消費はまだまだ大きく伸びる。さらに、当然、中国人は米国人化し、自己破産するまでクレジットカードを使い続けるだろうから、消費は空前の規模まで伸び続けるかもしれない。なお、中国では消費者金融も緒に就いたばかりであり、一般庶民に本格的に解禁されれば、これも個人消費を大きく後押しすることになる。

E余談 : コンピューターは即断力を鈍らせる。

 ホテルのロビーには無線LANが通じており無料で使用できるので、夜になると多くの人がノートパソコンを抱えてそこに集まってくる。白人もいるが中国人もいる。それは北京語が飛び交っているのでよくわかる。日本人と韓国人はほとんどいなかった。これはワシントンのホテルでも同様だった。彼らは一様に画面に食い入るようにしてキーを叩き続けていた。

 私はメールをチェックするだけなので30分ほどでそこを切り上げたが、彼らがあまりにも真剣に画面に向かっていたので、数時間後にロビーに再び行ってみると、彼らは同様の姿勢で黙々とそれを続けていた。

 私はコンピューターの出現が人間の頭脳を変化させているのではないかと思っている。もともとあまり暗算が得意ではないと言われていた米国人が、ますますその部分を劣化させているのではないかとも思っている。私はコンピューターが無用であると言うつもりはまったくない。しかしながら人間にとっては自分の頭をフルに使って計算をすることがきわめて重要であり、すべてをコンピューターに依存することは危険だと思っている。

 だから経営者には自分の頭の中で計算できる範囲内での経営スタイルを確立しておくことが必要であると考えている。会社経営においては、現在では経営者が自社の経営状況を把握するのに、コンピューターなしでは不可能となっている。その結果、パソコンの画面上で複雑な計算をしなければ、経営上の重要な決断ができなくなっている。しかしながら経営には即断を要する場合が多々あり、その都度画面を覗き込みキーを叩いていたのでは間に合わないことが多い。また画面上で余計な数値を見続ける結果、疲れて肝心要の数値を見落とし、戦略を誤る可能性が強い。

 だから私はつねに自分の頭の中で暗算できる範囲の経営を心がけ、画面なしで即断できる態勢で商談に臨んできた。つまり会社の財務状況を、流動資産−(流動負債+固定負債)としてつかみ、その範囲内で戦略決定を迅速に行っていた。

 もちろんこのデータを出すまでには、コンピューターの力を借りなくてはならないが、この数値が頭に入っていれば現場での即決が可能であるし、経営戦略を大きく誤ることはない。

 さらに手形を切らず、仕入れたものは入金よりも早く支払うシステムにしておけば、キャッシュ残高だけでも財務状況の判断が可能である。この状態で無借金経営を貫いていけば絶対に会社は安泰である。

 これが私の取ってきた経営スタイルである。これならばパソコンの画面をのぞかなくても、あるいはロビーに長時間居座り続けなくても、十分に経営は可能である。

 残念ながらこの経営スタイルを取っている経営者は、米国でも中国でも極めて少ない。多くの経営者がコンピューターの画面が万能だと信じ込み、自分の頭の能力を劣化させているのが現状ではなかろうか。これが金融工学という化け物に世界が蹂躙されている真因であると私は考えている。


2.米国の良心を担う日本人 : 社会起業家=枋迫篤昌氏。


 枋迫篤昌氏は米国で、「出稼ぎ市民や途上国貧困層など、通常の金融サービスにアクセスすることができない顧客層に対し、プロフェッショナルなサービスを適正な価格で提供する金融サービスのインフラづくりを目指す」ことを企業理念として、マイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーション(MFIC)という会社を、2003年6月に立ち上げた。

 それから6年が経過し、MFICは大きく成長した。現在では、資本金は20億円に達し、米国内に13店舗、240以上の代理店網を持ち、世界約90か国への送金網を確立するに至っている。事業内容も、「@米国内の出稼ぎ移民等、低所得層に対するリテール金融サービス、A途上国のマイクロファイナンス金融機関への融資、B国際資金決済インフラ普及を通じた途上国開発プロジェクト実施、C米国金融機関に対する送金、資金決済システムの販売・プロセスサービス提供等」と多岐に渡ってきている。

 この枋迫篤昌氏の事業は米国内でも高く評価されるようになり、彼は社会起業家としていろいろな場所で大きく取り上げられるようになった。それでも彼はそれにあぐらをかくことなく、「MFICがサービスを提供するのは、これまで何百年もの間、金融機関が顧客と見てこなかった社会底辺層の人たちです。実はここに可能性を秘める大海原があることが見えてきました。“アンバンカブル”と呼ばれる銀行口座を持たない人が世界人口の2/3を占めています。この人たちに挑戦するチャンスを提供すれば、何百倍にも転換するエネルギーを秘めているのです」と語って、常に店頭へ顔を出すことを忘れず、なおかつ世界中での提携話や開発プロジェクトを進行させるために、フライングCEO(空飛ぶ経営トップ)と呼ばれるような多忙な生活を送っている。

 今回私は、枋迫篤昌氏に直接話をうかがいたいと思い、ワシントンの本社を訪問した。本社の応接室で私は枋迫氏から米国のおかれている現状と今後の展望、事業の発展状況などをじっくりお聞きすることができた。さらに街中にある店舗まで案内していただき、現場で日常業務の一端を見せていただいた。

 枋迫氏は応接室で、「ブッシュ政権時代の米国について、それを米国民は“失われた8年”と呼び、あまりそれに触れたがりません。むしろチェンジを合言葉に登場したオバマ大統領と共に、米国を作りなおそうという気持ちを抱いています。米国の人口は約3億人ですが、そのうち銀行にまったく相手にされないような極貧層が5500万人、なんらかの原因で銀行取引ができなくなった層が5000万人、計1億500万人、つまり総人口の1/3が銀行との取引ができない貧困層として存在しています。しかし私はこの貧困層こそが米国を変えていく原動力になっていくと信じています。なぜなら私の顧客であるこの貧困層の人々と接していると、彼らが健全で未来に向かって明るく生きているということが実感できるからです。彼らは中南米や東欧から米国に移民してきて、過去の自分の生活と比較して、懸命に働けば報酬を得ることができるこの米国のシステムに喜びを感じています。そしてアメリカンドリームを夢想して、昼夜を問わず働き続けています。そして得たわずかの収入の中から、故国に残っている家族に送金できるという幸せを実感しているのです」と穏やかな口調で、しかも情熱にあふれたまなざしで、私に話してくれた。

 さらに彼は、「実際に店頭で、彼らの生き生きとした顔を見てください」と言い、わざわざ車で20分ほどの距離にある店舗へ連れて行ってくれた。店内は20uほどの広さで、明るく開放的な感じであり、とても金融機関と思えないようなアットホームな雰囲気であった。店員が業務をおこなうカウンターと顧客の間にはガラスなどの仕切りはまったくなく、店員と顧客はまさにフェイスツーフェイスで、大きな声を出せばツバが相手の顔にかかるような距離であった。

 

    枋迫氏とMFICの店舗前で

 私は業務を行っている店員さんの後ろに立って、しばらく業務内容やお客さんの様子などを観察していた。この店では通常日ならば1日に350人ほどの来店者があり、店内はごったがえしているということだったが、ちょうど休日であったため来店者はちらほらだった。それでもちょうどヒスパニックの若者が100ドル札を手にして故国への送金のためにやってきた。送金手続きは30秒ほどしかかからず、あっという間に終わった。枋迫氏が「これで即刻、故国での出金が可能です」と言われたので、そのスピードにびっくりした。先進各国の大銀行でも海外への送金は即座にはできないからである。  

 次に来たのは、子供を抱えたヒスパニックの女性だった。今度は10ドル札を差し出し、なにやら手のひら大のカードを買っていった。私が不思議そうな顔をしていると、枋迫氏が「あれはテレフォンカードです。これもサービスのうちです」と話してくれた。その後、数人のお客さんが来店したが、枋迫氏が話してくれたように、彼らの顔には倦怠感のようなものは感じられず、一様に明るかった。店員さんたちの表情もにこやかで、親切丁寧な応対が行われていた。CEOである枋迫氏も一人一人のお客さんにスペイン語で丁寧にあいさつを交わしていた。 

 これらの業務を見ながら、私は枋迫氏に「これまでに業務遂行上でトラブルはなかったのでしょうか」と聞いてみた。すると彼は胸を張って「まったくありません。私どもの店に来てくださるお客さんは、他の金融機関ではまったく相手にされない人たちです。だから私どもの店でトラブルを起こせば、故国に送金することもままならず、米国ではまともに生きていけません。そのことはお客さんがよく承知していらっしゃいます」とにこやかに返事をしてくれた。そして「今や米国の3Kの仕事はこのような人たちの手で担われています。彼らは嬉々としてその仕事を行っています。今まで、その仕事に従事していた黒人たちは、政府の救済策や補助金漬けで怠け者になってしまいました。また彼らはアメリカンドリームを捨て去ってしまいました。これは米国の大きな矛盾ですが、新たにヒスパニックや東欧から来た移民層がその役割を担い、アメリカンドリームを追い駆けるようになっています」と、説得力ある口調で話してくれた。

 私はこの光景をじっくり見て、これが枋迫氏の語る「米国の新たな強さ」であることを実感した。

 中国社会も貧富の格差が急速に拡大している。しかしながら中国政府の4兆元の財政出動は、中国人民の間にチャイニーズドリームの再創出を可能にした。