小島正憲の凝視中国

道教と和諧社会


道教と和諧社会  
02.MAR.10
 中国で今、道教が静かなブームになりつつあるという。かつて共産主義の教科書には、宗教はアヘンであると書いてあった。また文化大革命の時代には、紅衛兵が仏教・道教・儒教などの寺院や建物、仏像、ご神体などを破壊し尽くした。

 あれから40年ほどが過ぎ、今では中国社会の中に宗教も同居するようになった。儒教は孔子学院という形をとり、中国政府の後押しで世界各国にその影響力を広げており、仏教寺院も中国各地でずいぶん復興している。

 道教は日本人にはなじみの薄い宗教であるが、近年その力を盛り返しつつある。中国政府も和諧社会と折り合いのつく道教が、社会安定のために有用だと考えているようである。

              
                上海浦東にあるコツ堂廟:崇福道院内の「建設和諧社会」の横断幕

1.長春観と武当山

 昨年の11月15日、湖北省の武漢の道観(仏教における寺院):長春観で、呉誠真大師(52歳の女性)の方丈就任式が行われた。方丈とは道教大寺院最高指導者の呼称で、女性がその地位に着くのは、1800年余の道教の歴史上初めてのことであるという。男性でも方丈になるには、特別な修業を続け、戒律を守り、徳が高くなければなれないそうである。私はこの情報を聞いて、ぜひこの女性方丈に会ってみたいと思った。幸い、呉大師が湖北省政治協商会議の常務委員となっておられ、私の合弁公司の総経理も政治協商会議に名を連ねていたので、そのつてで会わせてもらえることになった。

 長春観は武漢の中心部にあり、周囲を高層マンションなどが取り巻いていた。山門には小さな三つの入り口があり、一般大衆はこれをくぐって入り、自らを三界(衆生の暮らす世界)と遮断するという。道観内はかなり広く、多くの建物があり、老子像などもあった。その他、数多くの私の知らない神様が祀られていた。

 この日は春節前で、一年のうちで一番忙しいときであるにもかかわらず、呉大師は私を自室に招き入れ、ゆっくりと対応してくださった。私は、呉大師について、「修業を積んだ偉い女性方丈だから、きっと華奢で雲の上にでも浮かぶことができる仙人のような人だろう」と想像していた。ところがそれとはまったく逆の大柄な恰幅のよい方だった。声も大きく、ときおり大声で笑われ、その仕草などを見ていると、近所のおばさんと話しているような気がした。私はこれが道教の良さなのかもしれないと思った。呉大師はまず私に、「なにが聞きたいのですか」と明るく問いかけられた。私が「道教とはなにを教えているのですか」と、素人丸出しの質問をすると、嫌な顔もせずそれに丁寧に答えてくださった。それは人間の思想や健康維持に関する話が主だった。話の最中に、呉大師の携帯に5分おきぐらいに電話がかかってきていた。私はそれを見て、現代の方丈は、文明の利器を使い、空中を飛び回っておられるのだと思った。

              

 30分ほど話をうかがって私が席を外そうとすると、呉大師は私を食事会に誘ってくださった。呉大師の弟子は1万人を超えるそうだが、今日は弟子の一部と記者、政府関係者など、100人以上を招待しているという。私はその雰囲気を体験してみたかったので、お言葉に甘えて参席させてもらった。その宴会では呉大師の隣に私の席が用意されており、驚いた。出された食事は、野菜や穀類のみで素菜料理と名付けてあった。仏教で言うところの精進料理と同じようだと思った。野菜や穀類で上手に魚や豚肉の形が作られており、味もそれなりに美味しいものだった。もちろん酒類はいっさいなく、宴会では薬草茶での乾杯が続いた。下戸の私はたいへん助かった。宴会は日本の忘年会のようなもので、にぎやかだった。

 その日の夜、気功の達人がちょうど武漢へ来ているというので、会いに行った。彼は仏教の少林寺と並び称される道教の修験道場である武当山の道長であった。事前に、「道長は気功の達人で川面を走って渡ることができ、初対面の人でもすぐに内心を読み取ってしまう読心術を心得ている」と聞いていたので、おそるおそる会ってみた。ところが道長もこれまた決して仙人のような人ではなく、ひげを除くと近所のおじさんのような人であった。道長の話では、武当山は明の永楽帝のとき開山され、その建造には延べ30万人が動員されたという。そこでは現在、400人の道士が太極拳などを始め、仙人になる修業しているという。道長と、とりとめもない雑談をして、別れ際に道長の名刺をいただきたいと申し出たら、「名前は李光福というが名刺はない」とやんわり断られた。

        
          左は李道長、右は合弁公司の総経理

 翌日、私は朝早く起きて武当山に向かった。武漢から高速道路を4時間ほど西北に向かって早朝の霧の中を走った。武当山は一大観光地であった。麓の駐車場には登山専用のバスが約50台、ずらりと並んでいた。夏の観光シーズンにはたいへんな込み合いになるという。ちょうど私が訪れたときは、冬季であり観光客もまばらだった。10人ほどの観光客がいっしょにバスに乗り込み、頂上を目指した。麓でも風が吹いていて寒かったので、山頂はもっと寒いだろうと思い、案内係に聞いてみると、「1度から18度」と素っ気ない返事だった。1度と18度ではまったく違うので、再度聞きなおしたが同じ返答だった。私は何かの間違いだろうと思って、それ以上は聞かなかった。30分ほどバスで登っていくうちに、だんだんと天気が悪くなり、とうとう雨が降ってきた。山頂には、バスの終点から今度はケーブルカーで1.7kmほど昇っていかなければならないという。その乗り口付近はすでに濃い霧で覆われ、数メートル先が見えなかった。私はこの霧ではどうせ頂上に行ってもなにも見えないだろうと思い、止めようかと思った。しかし道士たちの修業の様子も一度見たかったので、景色が見えなくてもよいと思い直し、そのままケーブルカーに乗り込んだ。

 ケーブルカーはエレベーターのように垂直にぐんぐん昇っていった。霧も濃くなり、窓の外は真っ白で何も見えなくなった。そして窓の隙間から寒気が入り込んで、身も心も縮みあがるほど寒くなってきた。ところがものの5分ほど昇っていくと、うっすらと樹木が見えてきた。そしてさらにそれらの木々の枝がぴかぴかと光ってきた。私は瞬間的に「これは霧氷だ」と思った。その美しさに見とれているうちに、あたり一面の霧がさっと晴れ、太陽の光が燦燦と輝いてきた。ケーブルカーが雲海の上に出たのである。周囲の景色はまさに下界とは別世界であった。桂林の山々が雲海の上に突き出ているような情景だった。その絶景は言葉では表せないし、私の安物のデジカメではそれを撮ることも不可能であった。ケーブルカーの終点に降り立つと、不思議なことに暖かかった。コートが不要なほどだった。そこでやっと私は「1度から18度」の意味がわかった。まさに山頂は仙人の住む世界であった。私は「明の永楽帝はどのようにしてこんな山を探し当てたのだろうか」と思った。 

 そこから狭い階段をかなり上っていったところに道観があったが、道士がのんびり洗濯などをしているだけだった。すでに午後だったので、午前中の修業時間は過ぎてしまっているということで、残念ながら太極拳の練習風景は見られなかった。ただし道士の最初の修業の「天秤棒での水桶担ぎ」の道具が置いてあったので、それを担がせてもらって記念撮影をした。道士たちはこれに水を満杯にして走り、一滴もこぼさないという。とても私にはできない芸当であった。

                

 さらに山頂を目指して階段を上っていくと、頂上には金色に輝く道観があった。さすがに紅衛兵もここまで上ってきて破壊することはなかったので、明の永楽帝が建造した道観が健在であった。それはすべて銅で作られており、それが陽光に当たり燦然と輝いて、金色に見えるのである。まさに神秘的な美しさであった。さらに周辺の建物は強風に耐えられるように、すべて石造りで頑丈に作ってあった。この山頂に、これらの歴史的建造物が残されていることに、私は感動した。

 途中の道観では、道士たちが本を読んだり、お経を唱えたりしていた。どんなお経かと思って、それをぱらぱらとめくってみて驚いた。そこには「臨兵闘者皆陣列在前」と書いてあったからである。私は若い頃に、この呪文を恩師から日本の山岳修験者のもので、「リーダーはいつも陣頭指揮に立たねばならない」という意味だと教えてもらったことがある。以来、私は自分の心の中に怯む気持ちが湧いてきたとき、これを心の中で唱えることにしていた。ところが父親の葬儀のとき、たまたま宗派の違う僧侶がやってきて、お経の最後で、この呪文を大声で唱えた。私はそのとき、これは山伏の呪文なのに、どうしてお坊さんが唱えるのかと思って不思議であったが、忙しさにかまけてそれを深くは追究しなかった。私は武当山の頂上でのこの呪文との出会いに、なにか運命的なものを感じた。そこで日本に帰って調べてみると、この呪文はもともと道教のもので、抱朴子の中の一説であることがわかった。それが日本の山岳修験道や仏教に伝わったものらしい。正確には若干、唱え方が違うようだが、道教が原典であることには間違いがないようである。

2.中国人にとって道教とは何か 

 さて、そもそも道教とはどんな宗教なのだろうか。以下、「中国人の宗教・道教とは何か」(松本浩一著 PHP新書)に学びながら考えてみる。

 松本氏は、まず簡単に、「仙人とは山の頂上に住む人で、下界である世の中すべてを見渡すことができる超人であり、俗人とは谷の底に住む人で、目先のことしかわからない凡人である。道教は俗人を仙人に昇華させる宗教である」と説く。私はこの説明は言い得て妙だと思った。

 次に松本氏は、「道教は、仏教やキリスト教のように誰か創始者がいて、その人が唱えた教えによって経典が作成され、その教えを人々に広めるために教団が形成される、といった過程を経て形成されていったのではない。日本の神道などと同じように、社会的生活の中から自然に形成されてきた、いわゆる自然宗教という性格を持っている」と書き、その教えは、@中国の古代宗教、A神仙思考、B黄老の学、C陰陽五行思想などに淵源を持つと分析している。

 一方、儒教は「支配階級のためのものであって、庶民とは無縁のものであった」と言い切り、「道教はもともと太平道と五斗米道という、混乱の世に信仰と呪術を核に結成された宗教結社を、その源流としている」と書いている。たしかに儒教とは違い、このような宗教結社は、特に王朝末期に世の中が乱れてくると反乱を引き起こし、それが王朝交代のきっかけとなることもあった。明王朝が成立する際の白蓮教の反乱などもこの例である。

 当然のことながら、歴代王朝はこのような宗教結社を体制側に取り込み、その維持に利用することに努力した。唐の玄宗皇帝は、道教・儒教・仏教の順で守護し、それらを体制の延命に役立たせようとした。明の永楽帝も、道教を保護し、武当山に本山を築造し、経典の集大成ともいう「道蔵」の編纂を行い、それによって自らの地位を権威付けようとした。

3.私の中の老荘思想

 道教はまた老荘の思想だと言われている。私は老子と荘子について次のように理解している。徳間書店の「中国の思想 第6巻 老子・列子」によれば、老子または老子道徳教と呼ばれる書物は、比較的長期の年月にわたって、幾人かの人々の手を経て、改訂を加えられたものであるという。またその思想の根幹は下記のようなものであるという。

 「無為―それは、道を認識し、道の働きと一体化することである。換言するなら、法則を把握して、その法則をとことんまで利用することである。人はだれしも、“美”はつねに美であると考える。美は同時に“醜”でもあることを知らない。だれしも“善”はつねに善であると考える。善は同時に“悪”でもあることを知らない。“有”と“無”、“難”と“易”、“長”と“短”、“高”と“低”、“音”と“声”、“前”と“後”、これらの対立する概念は、あくまで相対的な区別にすぎない。相互に連関し合い、限定し合い、転化し合って、ひとつの統一をなしている」

 この老子の思想、つまり存在するものすべてを対立の関係においてとらえる考えは、春秋時代以前、すでに陰陽二気の説として生まれているが、老子はこれを一歩進めて、対立物の相互転化の法則を発見したのである。私はこの老子の思想から学び、自らの心の中に二重人格説を構築している。

 荘子は、戦国中期(西暦前4世紀)の思想家:荘周の著作とされる書である。かれは老子とともに、“老荘”と称せられ、儒家、墨家と鼎立する道家の中心的思想家とされている。荘子については、その膨大な著作をすべて読み込んだわけではないが、なぜかその茫洋とした思想に、私は大きな魅力を感じる。ことに「夢に胡蝶となる」という一説は、私の心を捉えて離さない。

 「いつだったか、荘周つまりこのわたしは、夢で胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶だった。心ゆくばかり空に遊んで、もはや荘周であることも忘れ果てていた。ところがふと目覚めてみれば、まぎれもなく人間荘周である。それにしても、荘周が夢で胡蝶になったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか」
 上記、「徳間書店 中国の思想 第12巻 荘子」より。

4.上海の道観

 私は上海に帰って、市内の道観を調べてみた。すると驚くことに、上海だけでも46か所の道観があることがわかった。ちなみに仏教寺院は76か所、キリスト教会は7か所、イスラム教のモスクは6か所、関帝廟は8か所、孔子廟は1か所。代表的な道観は下記の4か所であった。そこで私はそれらの道観に行き、中国の一般大衆がなにを求めてそれらに参詣しているのかを見てみることにした。

・白雲観 黄浦区西林後路 

・城隍廟 豫園の隣 

・コツ堂廟 浦東新区三林レイ岩南路 

・欽賜仰殿 浦東新区源深路

 最初に行った白雲観には、平日にもかかわらずたくさんの参拝客がいた。彼らの行動をじっくり見てみたが、その参拝方法に特別のしきたりはないようだった。多くの人が観内の販売店で大きな線香のようなものを買い、それに火をつけ、うやうやしくかかげ、神殿内のご神体に向かってなんども頭をさげ、大きな香炉の中に立てていた。周辺はその煙で充満していた。神殿に入る前の小部屋で、大勢の人が赤い紙袋に紙銭をいっぱい詰め込んでいた。小部屋の奥の方で、その紙袋と紙銭が100〜500元で販売されていた。神殿内には中央に主神が3体、その脇に多くの神様が祀られており、その前に先ほどの赤い紙袋がたくさん積まれていた。その赤い紙袋に書かれている文字は、病気平癒、家内安全、商売繁盛などであった。とにかく大勢の人が主神の前で頭をなんどもさげていた。その中の数人に、拝んでいる主神の名前を聞いてみたが、誰もはっきりと知らなかった。主神が誰であろうとそんなことは関係がないという感じであった。

        

 次に城隍廟に行ってみた。この道観は上海の有名な観光地である豫園の隣にあった。私は豫園にはなんども行ったことがあったが、すぐ隣にこのような道観があることすら知らなかった。なにやら気恥ずかしかったが、中に入ってみると立派な道観であった。壁に掲示してあったこの道観の沿革の中には、文革時代に破壊され、1994年に再建されたとはっきり書いてあった。参拝方法は白雲観と変わらなかった。ただし主殿に行くまでの側道に、干支ごとに多くの神様が祀ってあり、さらにその神様の下に生まれ年が書き込まれていた。私の生まれ年を探していくと、あまり聞いたことがない神様に出会った。これが私の守護神なのだろうと思って、近くにいた道士にその名前を聞いてみたがよくわからなかったので、デジカメで写してきた。参拝客も自分の守護神などに、あまり興味がないようで、そに立ち止まってお祈りをしているような様子はなかった。

 余談だがミャンマーでは自分の生まれた曜日で自分の守護神が決まっており、パゴダの周りをそれらの神様が取り巻いており、敬虔な仏教徒のミャンマー人たちが自分の守護神の前で、大勢お祈りを捧げている。その守護神とは動物であり、鳳凰や象、獅子などがあり、なぜかその中に“もぐら”がいる。私の守護神はその“もぐら”であったので、あまり気持ちが乗らず、結局守護神にはお祈りをしないで帰った覚えがある。

 コツ堂廟も大きな道観であった。ここでは観内で病気平癒の祈願をしていた。道士の一人が長剣を振り回し、口から水を噴出して殿内を歩き回り、他の道士たちが一人の中年男性を前にし、木魚を叩いてお経を読んでいた。聞いたところでは、仏教のお経のようにも聞こえた。

  

 ここの主殿は三清殿で、たしかに元始天尊・霊宝天尊・道徳天尊の三神が祀られていた。さらにその主殿に至る側殿には、多くの神が祀られていた。私にはその名前がまったくわからなかった。また多くの参拝客もだれも深くそのことを詮索していないようであった。とにかく病気平癒・家内安全・商売繁盛を祈るばかりであった。よく見てみるとまだ合格祈願や交通安全は少ないようであった。

 考えてみれば日本でも、自分が祈る対象の神様や仏様の詮索をあまりしない。これまた余談だが、私の岐阜の自宅の近くに“御首”という名前の神社と、軍神として有名な南宮大社がある。この二つの神社の神様は古くから仲が良くない。なぜならその昔、平将門が関東の地で討たれて首だけが京都に運ばれたという。将門の首は郷里恋しさのあまり、ある日、空を飛んで関東の地を目指した。ところが首が大垣の近くまできたとき、南宮神社の弓矢の名人といわれた宮司がその首を射落とした。その首の落ちた場所に、地元の人が神社を作り、平将門の御霊を祀り、御首神社となったのである。だからこの二つの神社の神様はいまだに喧嘩をしていると、私は判断している。ところが最近の若い人たちはこのいわれを全く知らず、二つの神社のはしごをして両方に願を掛けている。これでは絶対に神様は願いをかなえてくれるはずがないと、私はいつも思っているのだが、いかがなものか。

 上海の4か所の道観では、ともに占いやおみくじの類は売っていなかった。しかしどこの道観でも干支ごとに今年の運勢を占った大きな貼紙がしてあった。それらを見比べてみたがほとんど同じで、私の猪年は運気が最高でなにごとにも絶好調と書いてあった。ついでに妻の戌年のものを見てみたが、これは私と全く反対で衰運であった。ちなみに日本の高島易断の運勢占いでは、今年の私は運気低迷で、妻は運気上昇との卦が出ていた。私は道観内の運勢一覧表を見て、同じく陰陽5行説に基づく易に起源を持つ占いでも、こんなに違うものかと思った。

 どの道観でも私がよく知らない神様がいっぱい祀ってあった。また道教と関羽様とは直接関係ないと思うのだが、関帝聖君として、側道に祀ってあるところが多かった。聞くところによれば台湾の道観は、儒教・道教・仏教の神仏、民間で祀られている地方神など、あらゆる神仏のオンパレードといった様相を呈しているという。参拝者の方も、神様の前で仏教のお経を唱えている人も少なくないという。

 いずれにせよ、人民大衆にとってみれば、自分が幸福になればどんな神様でもよいわけであり、中国政府にとってみれば、民心安定と和諧社会の建設のために道教が役に立てばよいのであろう。