小島正憲の凝視中国

光州事件とソウル五輪&キューバ雑感


光州事件とソウル五輪 
18.JUN.10
 私は1987年から90年にかけて、韓国と深い関わりを持っていた。

 ちょうどそのころ韓国は“漢江の奇跡”の延長線上で、めざましい経済発展を遂げていた。私はこの実態に着目しそれを解析するために、友人たちと共に徐載軾先生に学び、その結果を「恨の経済」(徐載軾著:日本経済評論社刊)として出版した。

 徐先生は戦前、ソウル帝大卒業後、日本の高等文官試験に合格、日本政府発令により京畿道金浦郡守に任官された。戦後、米軍政庁発令により京畿道安城郡守となり、李承晩政権時代には財務部会計局長(日本の大蔵省主計局長のような部署)の任にあり、朝鮮戦争を政府要職中に経験し、退官後は韓一銀行頭取、大韓証券取引所理事長、韓国プラスティック工業社長、韓国火薬グループ顧問などを勤められた。徐先生は当時、激動の韓国を生き抜き、身をもって体験した経済発展を語ることができる第一人者であった。徐先生は日本語と英語にも堪能であり、前掲著はまず日本語で書かれ、日本で出版された後、韓国語に翻訳されソウルでも出版された。

 同時期に私はバブル直前の日本の好景気の中で超人手不足に悩み、小島衣料の日本脱出を考えていた。先生との出会いは私の韓国進出決断を後押しした。私は徐先生にすべてを依託し、ソウルでの縫製工場を稼動させることになった。そのときちょうど韓国では、盧泰愚政権の民主化政策のもとでソウル五輪が開催され、国民を熱狂させていた。同時に韓国でも、超人手不足状態となりつつあり、労働争議の嵐が吹き荒れ始めていた。私の工場も例外ではなく、稼動開始直後から苦境に立たされ、私は韓国進出を悔やんだ。そのとき中国では天安門事件が発生し、世間の耳目を集めていた。それは私に9年前の光州事件を思い起こさせた。

  

   

 1990年夏、私は韓国を撤退し、中国への工場進出を決めた。それから18年、中国はケ小平の南巡講和を経て高度成長を遂げ、北京五輪を開催するまでに力をつけた。同時にさしもの13億人の中国も人手不足状態に陥り、胡錦濤政権は五輪開催を前にして労働契約法の改正に踏み切った。その結果中国でも私は、人手不足に悩まされ、激しい労働争議に巻き込まれかねない状態に遭遇することになった。

 私はこのような韓国と中国での工場操業の経験から、光州事件からソウル五輪にいたる経過及びその結果と、天安門事件から北京五輪にいたる経過とその結果の両者が、きわめて相似していることに注目しているのである。今回は、光州事件とソウル五輪の関係を分析してみる。


1.光州事件の真相。

 1980年5月下旬、全羅南道光州市で、軍の空挺部隊と光州市民・学生が激しい市街戦を展開した。それは暴動という類のものではなく、数百人の光州市民・学生がほとんど全員、銃やダイナマイトなどで武装し、道庁にこもって軍と戦ったという点で、内戦に近いものであった。その結果、市民・学生の死亡207人、負傷2392人、その他の犠牲987人に及んだ(2003年政府発表)。これに対して市民団体は行方不明者や後遺症を含めた死者は606人と発表している(2005年)。軍・警察関係者にも26人の死亡、253人の負傷者が出たと発表された(1980年戒厳司令部)。

 光州事件は1979年10月26日、朴正煕大統領が側近に射殺されたところから幕が開いた。それはあまりにも突然だったため、韓国軍部内は一時的に混乱したが、全斗煥国軍保安司令官が12月12日粛軍クーデターを敢行し、軍の実権を握った。他方、憲法の規定により大統領代行となった崔圭夏国務総理は、12月21日の大統領就任式で「公明正大な選挙を早期に実施する」ことを宣言し、翌年の2月29日、金永三、金大中らの公民権回復を行った。この結果、国民の間には民主化の期待がふくらみ、韓国全土でデモが頻発し、事態は騒然となっていった。

 学生運動は学園の民主化や軍事教練反対のための闘争を展開し、全国各地で街頭デモを行った。ソウルでは5月15日に10万人あまりの学生がソウル駅前に集合し気勢をあげたが、市民の呼応が少なく軍隊の介入がうわさされたため、指導部は解散を決めた。後にこれは「ソウル駅回軍」として、革新陣営から非難の的となった。しかしながら、光州では学生が引き続きデモを敢行していた。

 5月17日、政治の実権を握ろうと窺っていた全斗煥らは、崔圭夏大統領の裁可を受け、金大中をはじめとする政治家や学生運動指導者、労働組合幹部らをいっせいに逮捕し、政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などを盛り込んだ戒厳布告を発表した。この金大中の逮捕は、彼の出身であり政治的基盤である全羅南道の市民の蜂起をもたらし、ことに光州では「即時釈放」を求める市民や学生が決起し街頭デモを繰り返した。しかし同日、光州の学生運動指導部にソウルの学生運動指導幹部が警察に急襲され逮捕されたという情報が伝わり、光州の学生運動指導者たちはただちに光州を逃げ出したり地下にもぐった。このとき麗水に身を隠した全南大総学生会会長の朴寛賢は、その後逮捕されたが、戦線離脱した心の痛みを抱えながら、獄中でハンストを繰り返し、29歳で死亡した。

 5月18日未明、全斗煥らは第7空挺旅団の33・35大隊を光州に急派し、全南大と朝鮮大に配置した。早朝、校門前に集まった学生たちは、指導部を欠いており、事情が飲み込めないまま、軍に蹴散らされたが、再び光州駅前広場で隊列を整え、道庁に向かう錦南路をデモ行進した。これに対して軍は、学生たちを手当たり次第に殴打し、服を剥ぎ取りトラックに放り込んだ。この日だけでも400人以上の学生が連行され、その多くが行方不明になったという。

 5月19日、軍の蛮行に激昂した光州市民が加わり、デモ群集は2万人に膨れ上がった。衝突は21日まで続いたが、鎮まらない市民に対して、軍が一斉射撃を行ったため、駅前広場は血の海になった。これに対して市民たちは軍の武器庫を襲い、銃やダイナマイトなどを持ち出し武装して軍と戦った。市民側では退役軍人が指揮を執っていたといわれている。また市民たちの間には兵役経験者も多数いて、武器の扱いには慣れていたという。(私は、これが光州事件を市街戦にまで拡大させた大きな要因であると思っている)。この反撃に慌てた軍は、一時的に光州市内から撤退した。市民や学生たちは、全南道庁を占拠し籠城態勢をとった。

 5月22日朝、光州市街はいわば解放区のようになり、市民の自主的な清掃活動や今後の戦いのための準備が始められた。市民・学生の中では、武装解除して政府との対話を方針とする穏健派と、武装闘争続行を唱える強硬派に別れ、激しく意見が戦わされた。

 25日、強硬派からなる新執行部がつくられ、再度の軍との衝突が不可避となった。(このときの穏健派指導者の金昌吉氏は、現在、木浦で個人事業を営んでおり、「当時の状況下で、市民の犠牲を最小限に減らそうとしただけで、10年間、誤解と非難を受けたが、なにも言わずに自分の生活だけを充実させてきた。共に苦労して被害を受けたもの同士が、互いに理解しようとする態度が不足している」と述べている。私は、これは貴重な発言であると思う。歴史上ではともすれば主戦・強硬派が注目されやすいが、実際には穏健・妥協派の方に実利がある場合が多いからであり、光州事件も例外ではないと考えているからである。できうれば近日中に金昌吉氏に会って、その存念を聞いてみたいと思っている)。

 5月27日未明、軍は6000人を超える兵士を投入し、最後まで道庁に立てこもっていた250人あまりの市民・学生(10人の女性を含む)を攻撃した。市民軍は果敢に応戦したが、約1時間の交戦ののち鎮圧された。投降したものも容赦なく射殺された。こうして光州事件は市民や学生の多大な犠牲の上に終結した。この光州市民・学生の義挙は韓国独特の地域主義が影響を及ぼし、また情報も遮断されていたことから、ソウルなどの他地域には波及しなかった。この点で、全斗煥の策謀は成功したかに見えた。


 現在、光州事件に関しては、その真相を伝える多くの本が発行されており、「光州5・18」というDVDも出されている。私はこのDVDを見ながら、幾度となく涙を流した。また光州市に足を運んで現場を歩いてみた。そこには光州市民の手で、光州事件を風化させないためにと、激戦を思い起こさせる全南道庁や事件後多くの市民・学生がつながれた獄舎など、多くの事跡がしっかり保存されている。記念館も随所に設けられており、日本語のパンフレットも取り揃えてある。そこには「5・18民衆抗争は民主主義の松明である。光州は民主、自由、正義の生きた教材である」と書いてあった。なお、韓国では光州事件を「5・18民衆抗争」とよんでいる。

            
市民軍が立てこもった道庁                   全南大学内の記念館
2.光州事件からソウル五輪への経過。

 1980年9月、全斗煥は大統領に就任した。全斗煥はまず全力で経済の立て直しを図り、その結果、就任当時の経済成長率マイナス4.8%、物価上昇率42.3%、貿易赤字44億ドルという状態を、1987年には経済成長率プラス12.8%、物価上昇率0.5%、貿易黒字114億ドル、国民一人当たりGNP3098ドル、国民総生産1284億ドルと、主要な経済指標のほとんどを上向かせることに成功した。

 この間の事情を徐先生は前掲著で次のように述べていた。「第5次5ヵ年計画(1982〜86年)は、朴時代の高度成長政策によって累積された種々の問題点を一つ一つ解決していくこと、さらに経済を飛躍的に導いていくという『一面安定、一面飛躍』という野心的な政策を取った。また朴政権末期からようやく強くなってきたインフレーション傾向に対し、物価を抑えるという政策も一応成功をおさめた。計画最終年の1986年には、卸売物価の下落をふくむ前例のない物価安定をもたらし、年12〜13%の経済成長率と45億ドルの国際収支の黒字という快挙をなしとげた」。

 これらの経済面でのめざましい成果に自信を持ち始めた全斗煥は、「1983年末から翌年初めにかけて、『和合路線』と称して、反政府勢力に対する一連の宥和措置を発表した。光州事件以後の除籍学生の復学、学園自律化、政治活動規制解禁措置などがその内容だった。アジア大会(1986年)やソウル五輪(1988年)の開催地にふさわしい政権の正統性の樹立、有力政治家や宗教人からなる批判勢力の抱きこみ・体制内化と急進学生の孤立化などがこの和合路線によって描かれたシナリオだった。だがこの『和合路線』は、民主化運動を一気に活気づけることになった」(「韓国現代史」 文京洙著 岩波新書)。

 ソウルでの五輪開催は、全斗煥政権発足直後の1981年9月にIOCで決定されており、誘致計画自体は朴政権時代に策定されていたものである。全斗煥はこのソウル五輪を国威発揚、国民の団結の絶好の機会と捉え、同時に経済成長の負の部分から人民の目をそらせるために利用しようとした。しかしこの五輪開催は同時に全斗煥政権に政治・経済の民主化という外圧ももたらした。全斗煥は光州事件の当事者としての後ろめたさを持っており、早期にそれを払拭しておく必要があった。それが上述の「和合路線」の伏線になっていたといえるのである。

 全斗煥政権のこの妥協は、その政権末期に、民衆運動を最高潮に盛り上がらせた。1987年6月には全国各地でデモがくりかえされるようになり、6月26日の「国民平和大行進」には、34の都市と4つの郡で100万人以上が参加し、韓国現代史上、最大規模の反独裁民主化運動となった。その結果1987年、「6月29日、新軍部政権は、直選制改憲、拘束者釈放、言論の自由の保障、地方自治制の実施、大学の自律化、そして反体制運動の赦免・復権などを盛り込んだ『6・29民主化宣言』の発表を余儀なくされる。新軍部の敗北であった。翌年にソウル五輪を控えていたこともあって、6月抗争は、軍の投入による流血事態には至らなかった」、「6月抗争によって開かれた政治空間を舞台に7月から8月にかけてこの労働者たちの争議やデモが全国的に噴出した」(前掲「韓国現代史」)。

 徐先生はこの間の事情を、「全斗煥政権末期には、学生デモが激化し、与野党の憲法論議が膠着状態となり、混乱と対立の解決策を容易に見出すことが困難な状態となった。そのさなか1987年2月、全斗煥氏は、彼が当初いっていた平和的政権移譲という公約を無視するかのように、1988年のソウルオリンピックの後に改めて憲法論議をするのが、オリンピックを成功させるための唯一の方法であるということを理由に、暫定的に彼の政権をオリンピック後まで延長するという(少なくともそのような印象を受ける)提案をした。この提案は、学生デモに一般大衆が大挙参加するという結果を招いた。時の与党・民正党の代表であった盧泰愚氏は、党総裁であった全斗煥大統領にも事前協議をせずに、『6・29措置』という英断を下し、野党の主張を全面的に収斂する大統領中心制憲法の制定、金大中氏を含む政治犯の政治的自由の回復などを中心とする民主的大譲歩を行った」(「恨の経済」)と書いている。

 「6月民主抗争は政治の民主化だけでなく社会全般の民主化を促進した。経済発展の担い手でありながら経済発展の成果配分から疎外され、権力と事業主が要求するままに劣悪な条件で長時間労働を余儀なくされた労働者が自身の権益のために6月抗争直後から数多くの事業場で闘争を繰りひろげた」、「1987年6月29日から9月末までに発生した労使紛争は3311件であり、そのうち争議をともなった紛争は3235件、争議参加者は122万5830人に達した。韓国史上最大であるばかりか世界的にも稀有の出来事であった」(「韓国現代史60年」 徐仲錫著 文京洙訳 明石書店)。

 このような社会状況の中で、1987年12月、全斗煥の後継者として盧泰愚が大統領に選出された。盧泰愚は目前に迫ったソウル五輪を成功させるために、どうしてもこの社会不安を払拭しておく必要があった。また国民を団結させ社会を安定させるために五輪を利用しようとした。盧泰愚はまず光州事件を「民主化のための努力」であったとして、それまでの評価を一変させた。1988年9月、ソウル五輪で韓国は華々しく世界にデビューした。ソウル五輪で韓国は、金12・銀10・銅11を獲得し、メダル獲得数でソ連、米国、東ドイツにつぐ第4位となり、韓国人の自負心を大いに高め、盧泰愚の企図は達成されたかに見えた。

 しかしソウル五輪の大成功にもかかわらず、韓国人民の光州事件への怒りは消えず、その年の12月、全斗煥はすべてを捨てて山中の寺へ隠遁せざるを得なかった。さらに引き続き労働争議の嵐は吹き荒れ、法外な賃金アップや過激な労働争議が繰り返された。これに嫌気がさした外資の撤退が続き、中小企業の倒産や海外転出などが相次ぎ、韓国経済は停滞局面に入っていくことになった。

 徐先生は当時の状況を、「1987年5月以降、民主化の波に乗って、労使紛争が頻繁に起こったことがあった。それはすべての企業におよんだといってもいいほどで、相当な期間続いた。その原因は、勤労者のうちに民主的自己主張が生起したことによるものであった。これは賃金抑制策への反発や、あるいは労働組合結成への抑圧策への反動や、あるいは使用者の反倫理的横暴に対する反発などが複合的に絡み合って長年の膿がいっせいに噴出したものであった」(「恨の経済」)と書いている。

 1987年から89年にかけて、労働者大闘争が全国の事業場と路上にあふれた。この期間に起きた労働争議件数は、それ以前10年間に起きた争議件数の合計の2倍に及んだ。1989年3月に起きたソウル地下鉄のストライキと蔚山現代重工業のストライキは、戦闘状況を彷彿とさせた。韓国の労使関係は戦闘的に急変し、国家競争力は弱まり始めた。そしてそれは1997年の通過危機につながった。

 1989年5月、私はソウル五輪の熱気がまだ残り、同時に労働争議の嵐が吹き荒れている渦中のソウルに工場進出した。私が進出を決めた理由はきわめて単純で、韓国女性の甘言に騙されたからでもある。その経過を詳しく知りたい方は拙著「アジアで勝つ」(1997年刊)を読んでいただきたい。私はその著書で当時の状況を振り返り、「韓国の縫製業界は、そのときすでに人手不足の状態であった。力のある管理者は従業員をひきつれて工場を転々と渡り歩いていた。いっそのこと、そのような人間に頼んで楽に人集めをしようかとも考えた。しかし日本人の私に百戦錬磨の彼らを使いこなせるはずもなく、思いなおして、徐秀麗と協力して一人ひとり求人して回った。そして、ようやくのことで、パートのおばさんを含め50人ほどの従業員がそろった」、「しかし、そのうち韓国の人件費が、うなぎのぼりに上昇し、日本の6割を越えるようになってきた。その結果韓国で生産をし続けるメリットがなくなってしまった。また本社からの持ち出しの方が多くなり、これ以上の経営を続けることが困難となってきた」、「その時期、韓国では労働争議の嵐がふきあれていた。衛生TVでは、韓国に進出していた日本企業が撤退する際、退職金のことでもめて、韓国人社員が日本の本社までおしかけ、門前で座り込みをするというような映像が報道されていた。それらをみるにつけ、はたして無事撤収できるか、私にはまったく自信がなかった。なにしろ私は一人であったから、大勢の韓国人につるしあげられることも覚悟していた」と書いている。

 そんな私を見兼ねて、ある日、取引先であった三星物産の繊維部長が、三星傘下の韓国企業とセットでのインドネシアへの工場進出を勧めてくれた。地場の韓国の中小企業も賃金アップと労働争議に困り果て、韓国脱出を図っていたのである。そのとき私はすでに中国進出を決めていたので、その話には乗らなかったが、その韓国の中小企業は数か月後、予定通りインドネシアへ転出した。


3.ソウル五輪後の韓国経済。

 ソウル五輪を成功させた盧泰愚政権も、その後の民主化の流れに抗しきれず、自らの身の保全を考え、野党の金永三との合同という奇策を弄し、ここに「軍部執権勢力と穏健野党との大妥協」が成立し、その結果1992年12月、金永三が大統領となった。金永三はただちに政治・経済の民主化に着手し、経済面では金融実名制を電撃実施し、政治面では全斗煥と盧泰愚を逮捕し二人に囚人服を着せた。その間、韓国経済は毎年10%近い経済成長を遂げ、表面的には順調に伸びているように見えた。

 金永三の任期が終わろうとした1997年末、突然、韓国の外貨準備が底をついてしまった。GDP世界11位の経済大国が不渡りの危機に陥ったのである。1970〜80年代に奇跡のような成長を遂げた韓国が、国家崩壊の危機に瀕したのである。この事実は、それまでの韓国の姿が砂上の楼閣であったことを証明した。韓国がこの危機に遭遇してしまった根源の一つは、光州事件からソウル五輪にいたる過程で、為政者たちが労使関係に適切に対処してこなかったことに求めることができる。

 現在の韓国経済をどのように評価するかは、かなり見解が分かれるところであるが、徐先生は1987年の段階で韓国経済が克服しなければならない弱点について、「韓国はいま、1987年から始まった第6次経済5ヵ年計画に基づき、先進諸国の仲間入りをはたそうと国をあげて努力している。その場合、二つの大きな課題が前途に横たわっている。すなわち先進国にふさわしい資本力と技術力、この二つの大きな能力を自分の力でつけることができるかどうか、ということである。では、はたして韓国には、資本力と技術力はあるのだろうか?」と問いを発し、「韓国の金融機関は一般に、約30%の不実貸出金(不良債権)を持っている。この意味において、韓国経済の資本力はいまだ十分ではない。資本の創出能力は金融機関の不実性を除去しないかぎりは、つくりえない。韓国の通貨、ウォンがいまだに国際為替市場に登場できない理由もここにある」、「60年代以降、韓国が急成長したかげには、もちろん、海外からの技術導入が大きな役割をはたしたことはまちがいない。しかし、自分の技術としてそれらを体得し、そこからさらに新しい技術を開発するということは、当時、時間的にも、技術的にも不可能に近いことであった。韓国では基礎技術がなかったことに加え、自らの技術を開発するのに必要な人材や人力の確保はもとより、技術開発投資そのものが貧困であった。そういうわけで、当分のあいだ、韓国における自己技術の開発は望むことが難しく、今後の課題として残らざるを得ない」と、書いている。

 この徐先生の指摘は、現時点の韓国経済にも当てはまるのではないだろうか。まず資本力については、1997年の東南アジア通貨危機に際して、韓国自体がデフォルト状態に陥り、IMFから巨額の資金援助を受けなければならなかった。またウォンも1980年には1ドル=580ウォンであったものが、1997年の通貨危機のときは2000ウォン台となり、その後持ち直したものの2009年には1600ウォン近くの安値をつけた。日本円がほぼ一貫して円高基調で進んでいるのと比較すると、ウォンはきわめて脆弱であると評価せざるを得ない。

 次に技術力を見てみると、たしかにサムソンを中心とするIT産業はめざましい発展を遂げているが、その他の分野の技術力は日本を凌駕する位置までには至っていない。それは韓国からの製品輸出が増えれば、日本からの部品輸入が増えるという構図が、いまだに続いているという事実を見れば一目瞭然である。つまり日本の部品供給なくして韓国の輸出はできないとうことである。しかも韓国の輸出合計の84%は、薄型テレビなどに代表されるわずか13品目で占められており、きわめて限られた商品が輸出を支えているということで、日本のように幅広い商品群を持っているわけではない。

 最近、サムスンの巨大投資に代表される韓国経済の好調ぶりを評価する声が高いが、本当に韓国経済はそんなにすごいのか、真剣に検討してみる必要がある。その第一点はサムスンなどの投資が一点突破主義であることである。韓国企業の多くは、ここぞというときに巨額の投資を集中的に行うが、もしその過剰投資がはずれたら、いかにサムスンといえども命取りになりかねない。日本企業の場合は、今程度の投資ならば企業規模と売り上げ構成からいって、外れてもダメージにはなるが、一気に会社が行き詰るほどにはならない。

 次に韓国ではベンチャー企業など、中小企業が育ちにくい。アジア通貨危機の際、政府主導で一業種一社に企業統合を断行し、生き残った会社の競争力を強くするように誘導した。しかも韓国には中小企業を積極的に支援する金融機関も存在せず、財閥企業でなければ高い金利(現在7〜8%)を払わなければならない。その結果、韓国には巨大企業と零細企業という構図ができあがっており、中規模の企業が切磋琢磨して、伸びていく土壌が用意されていない。

 さらに時の為政者たちは、光州事件の影を背負いながらソウル五輪を行わなければならなかったため、その過程で労働運動に対する譲歩を重ね、韓国の労使関係を「労使対決型」にさせてしまった。その負の遺産は現在にいたるも解決していない。


4.労使協調。

 徐先生は、労使関係について、下記のように書いている。

 「使用者と労働者とは、対立関係にありながら、しかも協調関係にある、という二律背反的関係を持っている。そこにはおのずから難しい問題が含まれている。使用者がもっぱら自分の利益のみを追求することになれば労働者に犠牲を強いることになり、反対に労働者が自分の利益にあくまで固執するなら、企業の存立そのものを危うくすることになる。両者とも、結局は不利益になるという結果に陥る前に、両者の主張の接点を発見し、協調を維持し、労使関係の安定のために、相互に努力しなければならない。企業において使用者は、労働者が最大限の能力を発揮することができるように配慮しなければならない。労働者は適正で合理的な報酬を企業から引き出し、自分と家族の生計と将来の生活設計に不都合が生じないように努力しなければならない。それが引いては企業の安定と成長をもたらすのである」、「日本では毎年、春闘という恒例の闘争が行われるのであるが、結局は話し合いによる、双方の歩み寄りで解決している。この日本的解決は、一つの型として定着している、といえよう。韓国における今後の労働問題も、話し合いによる協調をさけて通ることは絶対に不可能である」(「恨の経済」)

 日本の春闘が模範になるかどうはともかくとして、徐先生の忠告にもかかわらず、韓国ではいまだに労働者が労使関係において、「労使対決型」を押し進めている。光州事件とソウル五輪の後遺症から、いまだに脱却できていないということである。

                                                         

※上記の拙論には、下記の著作から多くの引用をさせていただいた。
・ 「恨の経済」  徐載軾著  日本経済評論社
・ 「韓国現代史」  文京洙著  岩波新書
・ 「韓国現代史60年」  徐仲錫著  文京洙訳  明石書店
・ 「韓国現代史」  木村幹著  中公新書
・ 「韓国歴代大統領とリーダーシップ」  金浩鎮著  つげ書房新社
・ 「光州 5月の記憶」  林洛平著  高橋邦輔訳  社会評論社
・ 「光州事件で読む現代韓国」  真鍋裕子著  平凡社



キューバ雑感 
15.JUN.10
 5月29日〜6月4日、私は6泊7日の旅程で、学生時代の友人たちとキューバを訪ねた。

 その目的は、現実のキューバの姿を見て、私たちが青春時代にあこがれ追い求めた社会主義革命の是非を検
討するためである。とはいうものの私は、往きの飛行機の中でキューバ関係の本を2冊読んだだけの、にわかキュ
ーバウォッチャーであり、到底この国の心髄に迫ることなどできない。したがって以下の雑感には見当違いの個所
が多くあると思っている。しかるべきときにこれを再考するつもりなので、ご容赦願いたい。

     

1.フィデル・カストロのキューバ。

@フィデル・カストロの支持率は90%以上。

フィデル・カストロは、一昨年、健康上の理由で国家評議会議長や軍の最高司令官を退任したが、いまだにその支
持率は90%を超えているという。今回キューバを訪問した私たちの共通した疑問は、「なぜ50年間も、フィデル・カ
ストロの治世が続いているのか」というものであった。旅行中にキューバにも鳩山首相の辞任が伝わり、1年に満た
ない短期政権が続いている日本の現状と比較して、私たちは余計にその感を強くした。以下に、その長期政権の
根源を探求してみる。なおフィデル・カストロは、現在83歳であり、国家評議会議長の任は弟のラウル・カストロが
継いでいる。

※キューバの人口は約1100万人。国土面積は日本の本州の半分ほど。公用語はスペイン語で、首都はハバナ。
原住民はスペイン人による虐殺や疫病によって絶滅。

A清廉潔白な指導者。

フィデル・カストロは清廉潔白な指導者である。他の社会主義国の領袖たちのように、愛人などのうわさもない。もち
ろん不正蓄財などはまったくないし、質素な暮らしぶりが報じられている。さらに国中のどこにも彼の彫像はなく、個
人崇拝の対象となるのを、フィデル・カストロ自らが排しているという。

反面、愛国者や共に戦った革命の英雄の彫像が、キューバ国内のいたる所に建てられている。サンチャゴ・デ・ク
ーバ市内には、第1次キューバ独立戦争を指揮したアントニオ・マセオ将軍の巨大な像がある。

                     
                 巨大なアントニオ・マセオ像             ホセ・マルティ

この像には100トンの鉄が使われているという。第2次キューバ独立戦争を率いた愛国の英雄・ホセ・マルティの像
は、キューバ全土に数多く建てられている。墓所はサンチャゴ・デ・クーバにあり、儀仗兵にしっかり守られている
し、首都ハバナには立派なホセ・マルティ記念館がある。チェ・ゲバラについても、記念霊廟がサンタクララ市内にあ
り、ハバナにはチェ・ゲバラ研究所もある。

 

なによりあのゲバラの男らしい顔は街中の壁や農家の塀など、いたる所で見かけることができる。キューバ国民
は、それらの英雄像をいつも尊崇しているようである。ただしその中に、フィデル・カストロの像は含まれていない。 
サンチャゴ・デ・クーバの郊外にサン・ファンの激戦地がある。そこは1898年、キューバ国民のスペインからの独
立戦争にアメリカが介入し、大激戦となった地点である。そこにはスペイン軍の陣地跡や、キューバの愛国兵士の
像、参戦したアメリカ兵の像、ご丁寧にも結果としてキューバをアメリカに売り払うことになったゴメス将軍の像、など
が小高い丘のあちこちに建てられている。私には、「愛国兵士の像だけでなく、今では敵側に回っているアメリカ兵
の像などが、なぜここに建てられているのか」が、たいへん不思議に思われた。それをガイドさんに聞いてみると、
「キューバの教育では、『歴史を公平にしかも忠実に見る』ということが重要であると教えている。この地は敵味方を
平等に保存しており、ありのままの歴史を学ばせるための絶好の場所となっている」と話してくれた。私はこの激戦
地跡に、フィデル・カストロの実直な思想が体現されていることに感動し、再度、ゆっくりその全域を見回した。

Bグァンタナモ基地を抱えたままの50年間。

フィデル・カストロはモンカダ兵営の襲撃の失敗、グランマ号での上陸作戦の失敗、シエラマエストラ山中での2年間
の雌伏の時期を耐え抜き、アメリカをバックにしたバティスタ政権を倒した。彼は最初から社会主義を目指したわけ
ではない。しかしながら目と鼻の先に亡命キューバ人の地域を持ち、国内にグァンタナモ基地を抱えたまま、アメリ
カから経済封鎖をされ、結局、頼る先はソ連しかなかった。こうしてフィデル・カストロは社会主義国を目指すことに
なった。

C地上最後の楽園?

現在キューバでは、税金がなく、教育と医療が無料であり、その拡充に精力が注がれ続けている。まさにキューバ
では“地上最後の楽園”を思わせるような治政が実行されているのである。識字率は99.8%に及び国民の大半が
高校を卒業している。また医師の数は国民165人当たり1人と世界一多い。名医も多く、わざわざ他国からキュー
バに来て手術を受ける人も多くなってきているようであり、今回、私たちはキューバ入国に当たって、全員に障害保
険の保険証の持参が義務付けられた。またハイチの地震のときには、多くの医者がただちに現地に派遣されたし、
南米各国への医師派遣が活発に行われているという。先進資本主義各国がいずれも、教育や医療の問題に悩ん
でいるときだけに、たしかにキューバ国民は、この面ではたいへん恵まれているようである。


     小学校の授業風景

キューバではソ連邦崩壊後、原油供給などが中断し経済事情は極端に悪化した。生活物資が不足し、化学肥料な
どもまったく手に入らなくなったため、食糧生産にも困った。苦肉の策として、キューバ政府は有機農法に転換した。
それが功を奏して、現在では有機農法大国として諸外国から注目されるようになり、その視察団が訪れるほどにな
った。今回、私たちの旅行中も食材のすべてが有機農法で作られたもので、安心して食べることができた。ただし
「美味しいでしょう」となんども聞かれたが、グルメではない私にはよくわからなかった。しかしこの面でもキューバ国
民は、大量の化学肥料や公害で汚染された食品を食べさせられている国民より、はるかに食生活が安全であり、
まさに楽園に住んでいるといえる。食後、私は通訳さんから有機農法の根幹は、アメリカミミズを使っているというこ
とだと聞いて、その皮肉に思わず笑ってしまった。

またキューバ政府は革命当初から宗教に関して比較的寛容(政策や一般民衆段階での動揺は生じた)で、キリスト
教や、黒人奴隷がアフリカから持ち込んだ民間信仰なども許されている。他の社会主義国であったように、「宗教は
アヘンである」と言い、排撃するような傾向は少なく、国民は心置きなく信仰に耽っており、それも人心の安定に一
役買っていると思われる。サンチャゴ・デ・クーバの市内には、黒人の民間信仰の場所が記念館として残されていた
し、郊外のビルヘン・デ・タリダの地には「ハーフのマリア様」を祀った約200年の歴史を持つ立派な教会があった。

フィデル・カストロは今でも、理想に燃え、知識人の養成に注力しており、中南米諸国などに医師や教師などの人材
派遣を行うことで、自国の経済を発展させようとしているし、同時に派遣先国の発展にも貢献しようと考えている。

D楽園の住人は自堕落?

キューバ社会は、フィデル・カストロが命を賭けて作り上げてきた楽園であるにもかかわらず、残念ながらその楽園
の住民たちには、カストロの理想と熱意が十分伝わっていないように見受けられた。

街角には物乞いが多く、観光客にボールペンなどの小物を無心する輩も結構いた。私もある観光地で、うっかりこ
れらの輩に日本製の三色ボールペンを貸してしまい、盗られてしまった。また平日にもかかわらず、公園でトランプ
などに興じる大人も多かった。それでもそれらの中に子供の姿が少なかった。ことに他国でよく見かける子供の乞
食はまったくいなかった。不思議に思って通訳さんに聞いてみると、「キューバでは機会の平等が完全に保障されて
います。すべての子供に勉学の機会が保障されており、みんな学校で勉強していますから子供の乞食はいません。
大人の乞食が多いのは、彼らの自堕落な生活の結果です。キューバでは結果の平等については保障していませ
ん」という模範的回答が返ってきた。

キューバでも他の社会主義国同様に、「一生懸命に働いても、さぼっていても、得るものは同じ」であるため、近年国
民に労働意欲が薄れてきたという。国民全体が自堕落な方向に流れているという。最近になって政府は、これを防
止するために、国民に土地を貸し与え、自分で土地を耕し生産したものは自分の所得になるという方針を打ち出し
ているという。これなどはかつての中国で、毛沢東の大躍進政策で疲弊した農民たちに、劉少奇らが「自留地」を認
め、農民の労働意欲をかきたてようとしたのと同じような気がする。今回、私たちは労働者風の人たちが、土地を
開墾しているのを見かけることができた。


      土地開墾の様子

これらの結果、キューバでは小金持ちが出現し始め、格差が現れはじめているようでもある。また上は清廉潔白だ
が、中間以下は結構わいろやコネが横行しているという。それでもまだまだ一生懸命働かない人が多く、ほとんど
の人は1か月間のバカンスをしっかり取るという。またキューバでは住環境などが悪く、新築のマンションは少なか
った。建築資材もまた配給であり、満足に補修できないこともこれに輪をかけている。街中にもデパートのようなもの
がなく、一般商店にも品物が少なく、20年前の中国を思い起こさせるようだった。また店員たちのサービスもよくな
かった。キューバの主力輸出製品である葉巻についても、同行していた愛煙家によれば、カストロ愛用のコヒマブラ
ンドも値段が高いだけで、美味しくなかったということだった。またラム酒についても、同行の酒豪たちは製造直販の
店で試飲してみただけで、誰一人としてみやげ物に買おうとしなかった。

フィデル・カストロの理想に反して、キューバ国民の中には働かないで手っ取り早く金を稼ごうとする人間が多くなっ
てきているという。中でも高等教育を受けた若い女性が、観光客などを相手にして春をひさぐことなども増えてきて
いるらしい。ただし私は今回の旅行では、そのような場面を見かけなかったが。

せっかく楽園に住みながら、なぜに人間はかくも愚かなのか。残念ながら私はこのようなキューバ社会の現実を見
て、性悪説を再確認せざるを得なかった。


2.チェ・ゲバラとキューバ。

@チェ・ゲバラの「革命戦争回想録」。

ゲバラは革命戦争の過程を克明に記録していた。また革命成就後、生き残った多くの戦友たちからの証言をもと
に、その記録に朱筆で訂正を加えていた。ゲバラの「回想録」は1963年に初版が出されたが、なぜかゲバラが書
き込んだ個所の訂正がなされていなかったという。2006年ハバナのチェ・ゲバラ研究センターから、改めてチェ・ゲ
バラの「キューバ革命戦争回想録」が出版され、その邦訳が2008年に中公文庫から出された。序文で娘のアレイ
ダ・ゲバラ・マルチは、「あなたが現在手にしている本は、既刊書のどれよりも精確かつ完璧なのである。また同時
にそれは、チェ自身が筆を入れた原本の復刻版でもあるのだ」と書いている。

ゲバラはこの著書の中で、「フィデルは素晴らしい指導者だ」、「フィデルに叱責された」、「フィデルの見立てが正し
かった」、「われわれの一戦よりもフィデルの勝利した戦闘の方がはるかに意義深いものであった」などと、なんども
フィデル・カストロを讃えている。その反面、ゲバラ自身については、シエラマエストラ山中を逃げ回っていた様子
や、裏切り者の処分に悩む心境、脱落者や逃亡者に始終目を光らせている姿などを、淡々と記述している。ゲバラ
の戦功として名高い“サンタクララの戦い”についても、その叙述はきわめて控えめである。この著書からは、ゲバラ
がフィデルを尊崇し、全幅の信頼をしていたことが読み取れるし、キューバ革命の主役はフィデル・カストロで、チェ・
ゲバラは脇役だったことがよくわかる。

Aゲバラの魅力。

「回想録」の中でゲバラは、次のように内省している。シエラマエストラ山中を行軍していたときゲバラは、アリディシ
オという農民出身の兵士が、隊列から落伍したあげく、ピストルを売り払い軍隊とコネをつけるつもりだと吹聴して回
っていることを聞きつけた。「当時は革命にとって難しい時期であった。私はその地域の長としての立場からいたっ
て手短な調査を命じた。そしてアリディシオは処刑された。今日なら、はたして彼は極刑に値するほど罪深かったの
であろうか。また革命の建設段階に役立てるために彼の生命を救えなかったものか、われわれには自問する余裕
がある。戦争は険難に満ちた苛烈なもので、敵の攻撃が高潮にあるときはたとえ疑惑に過ぎなくとも叛逆行為を許
容することはできない。数ヶ月前の、ゲリラ活動がまだずっと弱小であった頃なら、あるいはその数ヵ月後の、われ
われがより強くなった時であったなら、彼を救えたかもしれない」。 このような内省の弁は、革命に成功した他国の
領袖たちからはあまり聞いたことがない。深い内省力を持ち、なおかつそれを「回想録」として公言する謙虚さを備
えたゲバラは、やはり傑出した素晴らしい人物であった。

またゲバラはこの「回想録」の中で、「殺された子犬」と題した逸話を書いている。これもシエラマエストラ山中を敗走
中、隊の後ろをずっと1匹の子犬が付いてきたときの話である。その可愛い子犬は隊員たちになつき、隊にはぐれ
まいとして必死に付いてきたという。しかし時折その子犬が吠える声は、敵に隊の位置を知らせる絶好の合図とな
った。仕方なくゲバラは隊員の一人にその子犬を絞め殺すように命じた。そして子犬は殺されたが、隊員たちの間
にはやるせない感情が流れた。その晩、隊員たちがある農家で食事をしていたとき、そこに再び、殺された子犬に
そっくりの別の子犬があらわれ、「隊員たちに、人懐っこい、いたずらっぽい、ほんの少しだけ咎めるような眼差しを
向けた。そのとき微かな動揺が隊員たちを捉えた」と、ゲバラはその心情を吐露している。「回想録」の中のこのくだ
りは、革命家ゲバラの体内に人間的な熱い血が流れていたことを証明している。

その後ゲバラは、革命勝利後に与えられていたキューバ国籍と要職をすべて返上し、フィデルに「諸国民が私の支
援を求めている。キューバの指導者としての責任を持つがゆえに君(カストロ)にはできないことがあるが、それをす
るのは私には可能だ。私たちの別れのときが来た」と、「別れの手紙」を書き、死を覚悟の上でボリビアの革命戦争
に身を投じていった。

若き日の私たちは、このようなゲバラの颯爽とした生き方にあこがれたのである。

Bサンタクララのゲバラ。

ゲバラのボリビア行きの真相については、当時の中ソ関係を投影し、ソ連になびくフィデルと毛沢東思想に近いゲ
バラとの確執の結果だとも言われている。あるいは脇役のゲバラへの主役のフィデルの嫉妬であったとも。その真
因はともかくとして、私は、キューバ革命戦争はフィデル・カストロの透徹した戦略眼によって成功に導かれており、
ゲバラはそのフィデルのもとで戦った一指揮官であり、戦術には長けていても戦略を構築することはできなかったと
考えている。そのゲバラがキューバ革命の成功体験を引きずって、ボリビアに赴いてもよほどの幸運に恵まれない
限り、キューバ革命の再現はあり得なかったのではないかと思っている。

いずれにせよゲバラは1967年にボリビアで殺された。その遺体は1997年になってようやく発見され、キューバへ
帰還した。現在、キューバ中央部のサンタクララにゲバラの記念霊廟が建立され、そこに遺体が埋葬されている。

「フィデル・カストロは、ゲバラの死の翌年1968年を“英雄的ゲリラの年”と定め、ゲバラを幼稚園から大学までの
教育課程に“期待される革命的人間像”として導入した。ゲバラは死によって、キューバ革命の建設過程で新しい役
割を公式に担うことになったのだ。社会主義、勤労、克己、清貧、無私無欲、自己犠牲、不正義との闘い、帝国主
義に対する抵抗と戦い、同志愛、国際主義などを体現した偉人として、精神・思想教育の中心に位置づけられたの
だ」(「回想録」中公文庫版:伊高浩昭氏の解説から引用)。


  ゲバラ霊廟前で

死せるゲバラが、生けるフィデルに活用されたということなのだろうか。若き日の私たちもこのフィデルの手のひらの
上で踊っていたのだろうか。それでも私は、サンタクララの記念霊廟の中で、ゲバラの熱き魂に触れ、背筋をシャン
と伸ばした。


3.中国とキューバ。

@中国人移民。  

1886年にはキューバでも奴隷制度が完全に廃止された。その代わりに中国などから契約で労働者が移入され、
その結果として中国人の移民が増えた。その流れは相次ぐ独立戦争で中断されたが、ハバナ市内には中華料理
街があるし、広い墓地がある。

               
               中国人墓地                   中国が贈ったランプ

A中国の革命支援。

中国はキューバ革命成就後、その政権を支援した。ことにカストロの教育重視の政策に呼応して、白墨や鉛筆など
を大量に援助した。中でもまだ電気が通っていない地方での勉学のために、ランプを大量に送ったという。ハバナ
市内の識字運動博物館にはそれらの現物が展示されており、そのランプの下で勉強に励む子供たちの写真が掲
示されている。

B現在の中国との関係。 

現在、中国はキューバに積極的に支援の手を差し伸べており、貿易相手国として第2位を占めている(第1位はベ
ネズエラ)。石油やニッケルの採掘なども手がけている。中国がキューバなどラテンアメリカとの関係を強めている
背景には、資源の確保またはアメリカ一極体制の排除の狙いがあると見られている。ちなみに私たちが各地で観
光に使ったマイクロバスは中国製 だった。ただしキューバ政府は、かつてのソ連との関係に悩んだ経験から、中
国にすべてを依存するような関係に陥らないないように配慮しているという。


4.日本とキューバ。

@支倉常長の像。


    支倉常長の像

ハバナ市内の公園の一角に支倉常長の像があった。私はキューバと支倉常長の因縁をまったく知らなかったの
で、びっくりした。そこには「1614年7月23日、支倉常長が仙台藩主伊達政宗の命を受け、“慶長遣欧使節”の途
中で、一行約150人を連れてキューバを訪れた」と書いてあった。彼らはキューバを訪れた最初の日本人だったと
いう。なおその像や解説版は仙台育英高校の手で作られていた。

A中日ドラゴンズのリナレス選手。

数年前、キューバからリナレスという野球選手が、日本のプロ野球の中日ドラゴンズに入団した。かつて“キューバ
の大砲”と呼ばれ世界大会などでもその名を馳せたリナレス選手は、その活躍を期待されたが、まったく成果を残さ
ず消えていった。キューバに帰ったリナレスを待ち受けていたのは、市民たちの冷たい視線であったという。なぜな
らキューバではスポーツ選手といえども、教育無料化の中で、「国民の手で育てられたわけであり、その成果は国
民に還元されなければならない」という認識が国民の間に定着しており、もし個人的理由で海外に出ようとするのな
らば、いったん引退してその後に出るという暗黙のルールがあるようなのである。ところがリナレス選手は現役のま
ま国を出てしまったらしい。現在では、かつてのキューバの英雄もその面影がまったくないという。