小島正憲の凝視中国

読後雑感:2010年 第9回・第8回


読後雑感 : 2010年 第9回 
21.MAY.10
1.「中国経済の正体」
2.「現代中国の社会とくらし」
3.「激動! 中国の『現在』がわかる本」
4.「さくらの気持ち パンダの苦悩」


1.「中国経済の正体」  門倉貴史著  講談社現代新書  2010年4月20日発行

 この本は、現時点での中国の一般的な見方を書いたもので、ことさらに新しい視点もないし、あえて買ってまで読む必要はない。この程度の情報ならば、日々、テレビのニュースやマスコミ各紙を見ていればそれで十分である。私も雑感を書くまでもないと思ったが、本文中に誤認情報が多く含まれているので、下記にそれを指摘しておく。

 門倉氏は冒頭で、「このまま中国経済に混乱が生じることなく、また世界経済にアジア通貨危機やリーマン・ショックのような突発的異変も起きなければ、高い経済成長と対ドルでの人民元上昇の効果が重なって、中国のGDPが米国のGDPを追い上げて行き、早ければ2024年に米中の経済規模が逆転、中国が世界最大・最強の経済大国になり、黄金時代を迎えると予想される」と主張しているが、これはあまりにも荒唐無稽であり、1年先の世界情勢が誰にも読めない現状で、なおかつ激変がないと仮定した上での10年以上先の予測は無意味である。

 門倉氏は、「グーグル問題で明らかになった中国市場の異質性」と題して、グーグルの中国撤退問題について論じているが、その見解は常識的かつ皮相なもので、この問題を通じて現代社会の暗部に迫ろうとしたものではない。

 さらに、「(リーマン・ショック時に)中国国内で金融システム健全性が保たれたため、欧米諸国の経済にダメージを与えた“貸し渋り”や“貸し剥がし”が生じることはなく、金融部門から企業部門、家計部門への潤沢なマネーの供給が続いたのである。それだけではない。中国経済が世界不況の影響を受けにくかったもう一つの理由は、世界不況に陥る以前から、中国の経済成長パターンに変化が生じていたという点だ。中国は、それまでの輸出主導の経済成長から内需主導の経済成長へと変貌しつつある。…(略)。内需主導の高成長は、自分の国の力だけで独自に成長をしていることを意味するわけだから、米国や欧州経済が失速するなど、海外経済が変調をきたしても、それによって景気が左右される度合いが小さいということになる」と書いているが、これはまるで間違っている。

 まず中国では2007年末に、強烈な金融引き締めがあり、“貸し渋り”や“貸し剥がし”の嵐が吹き荒れた。門倉氏はまったくこのことをご存知ないようだ。その上、改正労働契約法の施行が重なり、2008年上期には外資の大量撤退という事態が起き、五輪を前にして中国経済は大変調をきたしたのである。そこで中国政府は金融引き締めの解除、労働契約法の弾力的運用、内需の拡大に踏み切らざるを得なかった。そこにリーマン・ショックが襲来したのである。門倉氏はこの過程をまったく理解しておらず、はなはだしい認識不足であるといえよう。

 しかも「危機に直面してからの政策対応も他国と比べて迅速であったと評価できる」と臆面もなく書いているが、中国政府はリーマン・ショック以前の2008年7月に政策転換を決定しており、迅速なのは当然のことであり、このことを知らない門倉氏は、事態の本質をまるでわかっていないと言わざるを得ない。

 またバブル現象についても、他の多くのチャイナ・ウォッチャーと同様に、不動産資産バブルという表現を使い、マンションと土地を峻別しておらず、この点でも認識不足を露呈している。

 新疆ウィグル自治区での騒乱についても言及し、「中国では、ウィグル族のような少数民族と漢民族の間で経済格差が大きく開いており、そうした格差問題に対する政府への不満がこの騒乱の火種になったと考えられる」と書き、どうしても格差問題と結びつけたいようだが、私はこの騒乱は格差問題が主要な根源ではないと考えている。

 「米中両国の対立の構図は、中国の人権問題の領域にも広がってきている」と書き、中国が国際的に非難を浴びている人権問題を具体的に列挙している。しかし門倉氏は、9・11以降、米国政府も「愛国者法」などの制定により、自国民に対して激しい人権弾圧を行っている事実については口をつぐんでいる。

 一人っ子政策のマイナス面に関連して、「人口ボーナスは2015年になくなる?」と書いているが、すでに超人手不足という現象が生じてきており、現場では「人口ボーナスは2005年ごろに消滅していた」と考えられる。

 無視できない”地下経済“の存在として、「隠れた経済活動は一般に、”地下経済“と呼ばれ、脱税や賄賂、武器の密輸、違法薬物の取引、売春などによって構成される」と書き、その規模は「オモテの経済規模の3割に達していると指摘する向きもある」と続けている。私はこれに「もぐり企業」を付け加えるべきだと考える。おそらく「もぐり企業」は正規の企業と同数ぐらい存在していると考えられる。したがってそれを加えると、”地下経済“はオモテの経済規模の5割以上になるかもしれない。

 門倉氏のこの本から、ただ1点のみ、新しい知識を得ることができた。門倉氏は「日本の企業が中国で環境ビジネスを展開する際には留意すべき点もある。日本の環境技術、省エネ技術に対する“強制実施権”の発動だ」と書いているが、この“強制実施権”という法規に関しては、その運用方法も含めて十分に検討しておく必要があると思う。これについての指摘は、今のところ他のチャイナ・ウォッチャーにはない。


3.「現代中国の社会とくらし」  姜波・嬌学真共著  大学教育出版刊  2010年4月12日発行

 まずこの本は、2002年の故橋本竜太郎元首相との対談から始まっている。そこでは岡山が、古くは奈良時代の遣唐使の吉備真備から始まって、魯迅と内山完造、全日空の岡崎嘉平太社長など、中国との交流が深いという話で盛り上がっている。また郭沫若氏が岡山旧制六中で学んだことも誇らしげに語られている。残念ながらこの郭沫若氏について、私はあまりよい印象を持っていない。なぜなら私が若いときに、文化大革命に触れた最初の一報が、「過去の私の作品をすべて葬る」という彼の自己批判だったからである。彼は毛沢東に素早く寄り添うことによって自己の延命をはかったのである。

 それはさておき、この対談の最後で橋本氏は、「中国が本当に強敵になると思うのは、産油国から輸入する国に変わった時点。中東の石油の買い付け合戦になれば、手強いでしょう」と語っているが、この対談が約10年前に行われたものだということを考えると、この発言は的確に未来を予測していたと言える。

次に大連の日中友好大連人材センターでの人材育成状況、大連国際マラソン大会などの話題が書き込まれている。

 また音楽の巨匠小澤征爾氏が幼少期に6年間北京に済んで居たことや、その家がまだ残存しており、彼がたびたびそこを訪ねていることなどが紹介されている。

 中国では、「一人っ子政策の結果のニートやネット依存症などが激増しており、人民レベルでの助け合い運動が始まったり、国家レベルで解決策が検討され始めている」、また「大卒の就職難に見られるように高学歴者の人材供給が過剰傾向にあるのに対して、技能労働者など専門職の人材供給不足が深刻化している。まさにミスマッチが生じているのである。この矛盾を解決するために、政府は専門学校教育に重点的に予算を投入し始めているが、解決するにはほど遠い感じである」という。

 私事にわたって恐縮だが、私は大学を卒業してから家業を継ぎ、夜間の洋裁学校へ通い基礎技術を学び、生産現場で応用技術を体得した。また経営者仲間といっしょに勉強会を組織し、そこで講師を招き、経営学や会計学を実践的に学んだ。したがってかつての日本の中小企業経営者は、技術者であり同時に経営者でもあったといえる。このような日本人経営者たちが日本の高度成長経済の一面を支えてきたのである。ところが中国の若者たちは現場での肉体労働を通じての技術習得を嫌い、オフィスワークばかりを望む。ここにミスマッチの大きな思想的根源があるのである。若者たちのこの思想的弱点を解決しない限り、中国政府が専門学校教育に大金を投入しても、ミスマッチ解消に効果があるとは思えない。

 農村問題について筆者は、「村をはじめ企業や個人投資家などが国内外の需要を狙い、分散した農地を借り集めて大型農業、集約農業を営むビジネスが活発になっている」と書き、農村女性企業家や特殊農業投資家を紹介している。そしてそれらの企業家たちに、自分の土地を貸し出し、そこで労働者として働く人民の姿も描いている。また成功例として、北京市延慶県の有機野菜・イチゴ、遼寧省大梨樹村のリンゴ・桃、遼寧省盤錦の米、瀋陽市許家村のトウモロコシ・米・コウリャン、甘粛省静寧県のリンゴ、陝西省延安県のリンゴ、陝西省呉起県のメタンガスなどを上げている。このような農村の改革例への着目とその研究が進めば、今後、中国の農村についての見方が大きく変わって行くだろう。

 老人問題についても筆者は言及している。「中国では2030年代には高齢者人口が4億人となり、老人の介護が大きな問題になるとされている。中国の介護事情は、大きく分けて親族介護、施設介護、在宅介護の3パターンとなっている。そのうちでも親族介護が伝統的な介護手法で、施設介護は子供が親不孝とみなされるため、なかなか進んでいない。したがってほとんどが家庭でお手伝いさんを頼んで介護している場合が多い。ところが最近ではそのお手伝いさんも、人手不足のため来てくれる人が少なくなり、公的ヘルパー制度の拡充が望まれている」。中国では老人問題については、まだ検討され始めたばかりである。それでも中国全土のどこでも、高齢者が朝な夕なに、公園やマンション前の広場に集まり、集団で踊りや太極拳などを楽しんでいるのを見ることができる。私は、日本にはないこの習慣が、老人の健康管理や孤独死防止に最高だと思う。

 漢方薬について筆者は、「中国の漢方薬総輸出額が7億ドルで、日本のそれが128億ドルだ」という。数字が反対なのではないかと思って読み直したが、間違いではなかった。中国の漢方薬はその製造過程の近代化が遅れており、その効き目が日本製より劣ると思われているようだという。そういえば私も20年ほど前、中国の知人に、日本から「救心」を買って来てくれと頼まれ、これは漢方薬で中国が本場なのにと不思議に思ったことがある。

 筆者はその他、中国人のライフスタイルの変化、文化の行方、環境問題、捨て子の問題などを書き連ねている。それぞれ視点が違い興味深い。


4.「激動! 中国の『現在』がわかる本」  天児慧監修  PHP文庫刊  2010年3月17日発行

   副題 : 「省別で見る“超大国”の意外な素顔」

 天児氏は「はじめに」で、「読者のみなさんが気軽に楽しみながら目を通していただき、いつの間にか中国理解が深まっていたならば、制作者一同にとっては望外の喜びである」と書いている。たしかにこの文庫本を読めば、中国の膨大な基礎データがすんなり頭の中に入ってくるような気がする。ちょっとした暇をみつけて、この文庫本を手にして読み続ければ「中国理解」が深まると思う。

 本文中には、私も知らなかったことが書いてあったりして、おもしろく読み進めることができた。
 たとえば、「中国は北部、西部、南部は国境を挟んで14の国と隣接する。ギネスブックには『もっとも国境で接する国の多い国家』として認定されている」、「古くからチワン族の兵士は『狼兵』と呼ばれ勇猛であることで知られており、倭寇の鎮圧に動員されたこともある」、「海南島は古くから流刑地とされ、唐代の政治家・李徳裕や北宋代の詩人・蘇軾など多くの政治家や罪人がこの地に左遷、流刑された」、「中国におけるHIV感染者のうち、約6割は雲南省の住人であるといわれている。この地域で麻薬を使用していた人間が、麻薬と共にHIVウィルスを運んできたとされる」など。

 また中国の商人の栄枯盛衰などもわかりやすく書いている。
 「山西地域は、唐代の最盛期に中国有数の経済先進地域となった。このため、同省付近からは『普商』や『山西商人』と呼ばれる商売人が数多く誕生している。以後、20世紀初頭までは全国に張り巡らせた商業ネットワークを駆使し、両替・貸付などの金融業によって巨万の富を築いたという」
 「徽州は現在の安徽省南部にあたり、徽州出身の商人は『新安商人(徽商)』と呼ばれ、明から清の時代にかけて山西商人と勢力を争った。新安とは徽州の旧称で、貧しい山間部に暮らしていた彼らは生計を立てるために行商を始め、やがて塩や茶の売買で財を成す」
 「浙江省の人々は伝統的に商売がうまいといわれており、とくに上海の発展と蒋介石率いる国民党との癒着で勢力を伸ばした浙江財閥が有名だ」、「浙江省の中でも、とくに商才に長けているのが南の温州の人々だ。150万人以上が中国各地で商売を営み、50万人近い人々が華人としてヨーロッパを中心に世界各国へ散らばっている。彼らは利益を優先し、儲かる仕事であれば何にでも手を出すとされ、『中国のユダヤ人』という異名があるほどだ」など。

 さらに新疆ウィグル自治区のイスラム教徒について、次のような記述をしている。
 「新疆ウィグル自治区の回族は、唐の時代に中国に来たアラブやペルシャの商人たちが最初の起源とされている。彼らは明清時代に行われた漢化政策によって漢族の姓を名乗り、漢語を話し、漢族と婚姻関係になるなど漢族と同化していき、今日の回族の原型となった。こうした背景から回族は、『漢語を用いたイスラム教徒の末裔』であるといえ、中華人民共和国の成立後に回族というジャンルで括られた人たちといえる。この点で中国国内のほかのイスラム系の少数民族であるウィグル族やキルギス族、ウズベク族などが、民族が形成されたのちにイスラム教を受容したことと比較して決定的な違いであり、回族を特徴づけるものだろう」。
 この記述が全面的に正しいかどうかは、現在の私の力では判断できない。明清時代に、回族が時の政策にしたがって漢化したことが、彼らにどのような結果をもたらしたのかを、誰かに解析してもらいたいとも思う。それがある意味では、中国政府のウィグル・チベットなどの少数民族政策に大きなヒントを与えるのではないだろうか。

 この本の記述の中には、中国の現状に関する誤認もあるが、中国全体を誤解させるほどの決定的なものではないので、ここではその指摘を略す。


4.「さくらの気持ち パンダの苦悩」  唐亜明著  岩波書店刊  2010年3月25日発行

 ちょっとふざけた題名の本だが、中身はそこそこ面白い。
 まず唐氏は中国をパンダにたとえ、「パンダを観察すれば、その母国の中国もみえてくるような気がしてならない。たとえば、世界は広いとはいえ、自分に取って代われるものなどないという『唯我独尊』の旺盛な自己意識、他人が何といおうと自分のいつものやり方を通すような行動様式、いつ飢餓に見舞われるかわからない危機感、食に没頭する習性、『草食』に転化したが『肉食』に戻らない保証は不明瞭…。当然、パンダの苦悩も困難も中国のものであり、中国の苦悩も困難もまたパンダのそれに似ているかもしれない」と書いている。

 さらに唐氏は中華思想について、「中国人の多くは、“徐福”こそ日本人の先祖だと思っている。こうした認識があるからこそ、日本人に対しどこか優越感をおぼえるのであろう。中国は古くから文化的に優れ、日本人にあらゆるものを教え、人種的にもつながっている。それなのに、近代になって、先生であった中国を平手打ちにしたばかりか、その後も十分な反省と補償もしないで、金持ちだからといって傲慢になっている。そういう日本人にがまんがならない。これは少なからぬ中国人の本音であろう。ある意味で普遍的な気持ちといっても過言ではない」、「一方でぼくはそういう気持ちには真実も含まれているにせよ、一種の偏見と先入観でもあると思う。逆に日本人から見れば、中国人のこのような発想こそ、典型的な中華思想ではないかと、反発したくなるであろう」と書いている。

 唐氏は、「日本ではときどき、『中華思想』ということばを耳にするが、中国にいたころはいちども聞いたことがなかった。中国人のほとんどはこの四文字でつづられた概念にぴんと来ないと思う。中国のどんな辞書にもこの単語はのっていない。はじめてこのことばの意味を知ったときには、日本人が中国人を矮小化するためにつくった名詞だろうと思った」、「アヘン戦争以来、列強に侵略され悲惨な歴史を味わった中国人が持っているある種のコンプレックスも、いわゆる『中華思想』の裏返しともいえよう」、「中国はいずれ超大国になり、中国人が鼻高々に海外の街を闊歩する時代がいつの日かきっとやってくることを、中国の人々は心底望んでいる。これも『中華想』の現われであろうか」と書いている。 

 続けて唐氏は、「近代になって、西洋から伝わった新しい概念などは、日本語から取り入れたものがどの国のものより多かった。しかしこのことはほとんどの中国の人々に認識されていない」、「日本語の外来語がなければ、現代中国語もないといっても過言ではないかもしれない」と記している。たしかに私の多くの中国の親しい友人たちのかなり学歴の高い人たちでも、中国で日常的に使われている哲学や政治用語が、日本から逆輸入されたということを知らないし、認めたがらない。

 唐氏は日中の労働観についての相違について、「古来、知識人が肉体労働を蔑視する風潮は、いまもほとんど変わっていない」、「ぼくは日本に来て、いわゆる頭脳労働と肉体労働に対する意識が中国とは違うのを感じた。日本では、中国に存在している肉体労働への蔑視はオモテにはあまりみえない。知識人も黙々と肉体労働をすることはめずらしくない。たとえば、中国なら編集者は肉体労働系のことは、どんどん人を使って処理するが、日本ではほとんど編集者自身でやらなければならない。それに対して文句を言う人も少ない。ぼくがいる出版社は編集者になる前、まず倉庫などで本の仕分けなどの仕事をしてからということになっていた。最初は抵抗があったが、いまではとてもよい体験だと思っている」と書いている。私はこれこそが、現在の中国の大学卒の就職難の思想的根源だと考えている。中国の大卒者の多くが、肉体労働の現場を忌避し、最初から給与の高い事務職に着くことを望んでおり、そこに大きなミスマッチが発生しているのである。

 唐氏はカナダへの中国人の移民について、私と同じような分析をしている。「もともとカナダへの中国人の移民史は長く、19世紀半ばにアメリカのゴールドラッシュを目指して海を渡った人々、北米大陸横断鉄道の建設に従事した労働者たち、国内戦争から逃れた難民、文化大革命後の留学ブーム、香港返還前の大量移民…。さまざまな事情で母国を離れた中国の民が夢を求めて、この『新大陸』に腰を落ち着けた」。

 なお唐氏の次の述懐から、兵役を経験しておらず、銃を扱うことを経験していない私たち日本人にはない危険な発想を感じた。「私の住んでいる杉並区はカラスが特に多いような気がする。時には、エアガンでもあれば、それをもってベランダに出てやろうかという衝動にかられることもある。14歳からソ連との戦争にそなえて軍事訓練をうけてきたぼくは、射撃には自信がある。百発百中とはいかないかもしれないが、若いころ見についた技はやはり強いものだ。残念ながら日本ではその才能を発揮するところがない」。私は人を殺傷する技術を学ぶ必要はないと考える。唐氏のような温厚な人物にさえ、このような思考を持たせてしまうからである。

 韓国の光州事件でも、中国の文化大革命でも、米国のロス暴動でも、被害を拡大させたのは武器の使用に長けた若者たちであった。だから人間は絶対に武器の使用方法を学ぶべきではないと考える。

 日本人は、若者たちに武器の使用方法を学ばせないような環境を堅持してきた。最近私は、このことは日本が世界に誇るべきことだと思っている。

 これらの他、この本には中国人と日本人の習性の比較、いろいろな面白いエピソードなどが書き連ねられている。



  

読後雑感 : 2010年 第8回
07.MAY.10
1.「現代中国女工哀史」 
2.「中国新声代」 
3.「中国人の本音」
4.「感動中国!」

1.「現代中国女工哀史」  レスリー・T・チャン著  白水社刊  2010年2月28日発行

  副題 : 「将来の希望、恋、お金、あくなき向上心、そして故郷に残してきた家族への複雑な思い。よりよい暮らしを夢見て村を飛び  出し、広東省の工業都市に出稼ぎに出た若き女性労働者たち―。“世界の工場”で働く彼女たちのたくましく、したたかな生きざまを等  身大の視点で描いた傑作ドキュメント」。

 この本の日本語題名は、中身を正しく表していない。
 この本の原題は、「Factory Girls : From Village to City in a Changing China」であり、素直に訳せば「変化する中国の出稼ぎ農民女工」というところだろうか。私ならば、本書の中身を正しく反映させ、「激変する中国のしたたかな出稼ぎ女工」というタイトルにする。しかしそのようなタイトルでは一般読者の耳目を集めず、たいして売れないだろう。やはり訳者や出版社が考えた、「現代中国女工哀史」の方が売れるにちがいない。しかしながらこの本の中からは、「哀しさ」という情景を探すのは難しい。むしろ女工たちがマルチ商法に手を出し儲けようとしたり、男性たちを手玉に取ったりするなど、その「たくましさ」や「したたかさ」に驚かされる方がはるかに多い。副題からも「哀しさ」をうかがわせる文句は読み取れない。したがってこの本を「哀史」と表現するには、かなりの無理がある。

 日本には大正末期、細井和喜蔵が書き残した「女工哀史」という書物がある。「現代中国女工哀史」という題名を見て、日本人はどうしてもその細井の名著を思い浮かべてしまう。訳者や編集者はおそらく日本人のその心情に訴えて、この本の売り上げの増大を図ったのではないか。このようなやり方はあまり進められたものではない。

 またこの本が描いている女工の実態は、2003〜7年までのものであり、現状(2010年現在)とはかなりかけ離れている。現在は超人手不足が進行し、完全な売り手市場になっており、いわば「女工天国」になっているからである。つまり描かれているのは「過去」の女工の姿であり、「現代中国」のものではない。「過去」の女工の姿を、わざわざ「現代」と名付けて、売り出すということは、日本の一般読者に誤った中国像を植え付けることになる。だから題名には「過去」のことであるということが、明確にわかるようにするべきであった。それが訳者や編集者の良心というものである。たしかにこの本に描かれている過去のことは、間違いではない。しかし上記のような理由で、この本は悪書の部類に入るのではないかと、私は考える。さらにこの本を日経新聞の2/28付けの書評欄が取り上げ、「中国現代史」の好著として紹介しているが、題名についてのコメントはない。

 巻末の解説で、伊藤正(産経新聞中国総局長)氏は、「本書は民工の置かれた状況を描き、告発するのがねらいではない。そうではなく、民工自身が出稼ぎをどう考え、どんな生活をし、何を求めているか―を探り、従来軽視されてきた農民たちの主体性に光を当てることで、出稼ぎがもはや暗黒の世界ではないことを明らかにしている」(P.450)と書いている。ならばなぜ、題名を「女工哀史」としたのか、私には理解できない。

 意外にも本文中に、著者レスリー・チャン氏が、出稼ぎ女工の一人の旧正月の里帰りに故郷へついていく場面がある。そこは湖北省の東部の黄梅の近くであった。偶然にも私は、17年前にその黄梅のすぐ近くの村で合弁工場を稼動させ、1年間ほど働いていたことがある。そこには、中国を代表する医・薬学者で「本草綱目」を著した李時珍の活躍場所で立派な記念館があり、黄梅近辺の村民はそれを誇りにしていた。また中国三大京劇のうちの一つと呼ばれる黄梅京劇の発祥の地でもあり、旧正月などには村民が集会所のようなところでそれを観劇するのが常だった。さらにこの地には甲羅にふさふさとした緑の藻が生える亀が生息しており、これが村民の自慢の種であった。レスリー・チャン氏の本文の中には、これらのことがいっさい出てこない。私はついつい本当にこの人は現地に行ったのだろうかと、疑ってしまった。


2.「中国新声代」  ふるまいよしこ著  集広舎刊  2010年2月18日発行

・村上龍氏の推薦の弁 : 「現代中国の“旬”の声。故宮とスターバックス、というタイトルから何をイメージするだろうか。私たちは“現代中国”をほとんど知らない。隣国の巨人を、まず知ることから始めなければならない。本書は最良のガイドブックである」。

 この本は、ふるまい氏が中国各界の著名人:18氏に行ったインタビュー集であり、約3年前(2007年5月〜08年9月)、月間「論座」誌に連載されたものである。したがって激変する中国の現状を語るには、すでに賞味期限が切れているのではと思う。しかしながら、逆に3年前にふるまい氏と対談した著名人の中の誰が、その後の中国の変化を的確に予測していたかを検証するには、絶好の材料であるとも考える。またふるまい氏は、インタビューを思い立った理由として、序で、「中国で起こる事件、あるいは中国社会の出来事について、日ごろから中国社会に向けて発言している中国人識者の話を、そのまま日本の読者に伝えたい」、「現実を知る人たちの声をもっと日本の読者に伝えたい」と語っている。

 たしかに本文中で、この18氏は中国社会についての自分の考えを、ふるまい氏に率直に語っている。しかしながら日本でも同様なように、識者の発言が現状を正しく反映しているとは限らない。やはりその発言を現場や歴史で検証してみなければ、その真偽は判断できない。ふるまい氏には、今回の発刊にあたって、インタビュー結果を再録するだけでなく、それらの発言を自らが検証し、そのコメントを付け加えてもらいたかった。出版までの3年間という歳月は、そのためにあったのではないだろうか。それでも本文中の18氏の発言は、なかなか読み応えのあるものである。

 この本に登場する18氏の中で、私がよく知っているのは、経済学者の郎咸平氏である。本文中の対談は2007年4月のものであるが、そこで郎咸平氏は下記のように語っている。「(中国の)台頭は表層現象で、実際には土地だけ売って台頭しているんです。中国は大きい。中国が台頭している理由は国が非常に大きいからです。一人ひとりの生産力を発揮することができればものすごいことになるくらい大きい。購買力が増大すれば、影響力は高まり、それを大国の台頭と言っているんです。台頭の過程で注目すべきは、中国企業の競争力がそれに伴って上昇しているか、そこが心配なんです」と言い、「(中国で膨れ上がっているのは)国有企業、地方政府、そして不動産業です。そのほかの民営企業やほとんどの製造業は厳しい状況にある。…(略)。民営企業の財源はほとんどが地下経済で合法的なものではない。…(略)。中国は非常に栄えているように見えますが、それは表層だけでほとんどの民営企業はやせ細っている」と語り、その民営企業も「地方政府が腐敗していて、投資の回収が保障されないから」、民営企業の再投資意欲は低く、稼いだカネは株式市場や不動産に向いたり、アメリカへあるいは日本へと持ち去られることが多い。だから民営企業は萎縮し続けていると解説している。

 そして郎咸平氏は、「企業家が企業をやりたくないから不動産を買う。…(略)。中国のすべての問題は結局腐敗に行き着く。不動産のバブル、株式市場のバブル、ビジネス環境の劣悪さ、物件法の施行不能、どれもが腐敗が原因です」と続け、胡錦濤政権が腐敗の取締に躍起となっているから、クリーンで公平・公正なビジネス環境が整えられ、中国は第2段階の経済発展を果たすようになると、予想している。

 この対談がちょうど、陳良宇上海市党書記の汚職摘発の時期に行われていたことを考えれば、郎咸平氏が胡錦濤政権の腐敗取締りに大きな期待をしたことは納得できる。しかしながら、その後の3年間の歴史的経過の中で、腐敗が減少の方向に進んだとは言いがたく、むしろ拡大傾向にある。それでも中国経済は中国政府の破天荒の財政出動の結果、破格の成長を見せ、経済発展の第2段階に入った。皮肉にも結果的に、郎咸平氏の予測の半分は当たったわけである。

 歴史学者の袁偉時氏は対談の中で、「(自分の原則は)自分が見たもの、確証を取れたものを書く」であると語り、日本の明治維新の長所と欠点を述べ、それと比較して中国の洋務運動の失敗を取り上げている。さらに日本が明治維新のとき、政府が多くの反対を押し切って、国有企業を民間に払い下げ、それがその後の経済成長を推し進めたと述べ、今の中国でも国有企業が流出することになっても構わないから、どんどん払い下げよと主張している。

 農村企業経営者の孫大午氏は、「違法資金調達」の罪で逮捕され、4年の執行猶予終了直後、この対談に臨み次のように語っている。「農村での企業の資金調達はきわめて難しく、95%以上の企業が民間からの(違法?)な資金調達でやりくりしている。もし司法機関が真剣に調査をすれば農村企業の95%の経営者が逮捕されるということである」。

 この対談後、すでに2年間が過ぎようとしているが、いまだに農村の金融機関は発達せず、親族間の貸し借りや地下金融がはびこり、果てはネズミ講まがいのものまで拡大しつつある。さらに孫大午氏は「1978年から88年にかけてが、農村の発展が最も進んだ」と言い、「その後は地方政府の官僚化が進み、政府の各部門の権益が法制化されたため、農村が閉塞状況に陥った。いわば農村が許認可権限を握る共産党役人の飯の種になり、農村が疲弊したのである。農村における幾多の規制を緩和すれば、農村は大きく発展する」という趣旨の発言をしている。

 社会学者の李銀河は、「現代中国では性のモラルが崩壊しつつあると言われているが、中国の家族主義はまだまだ根強くて、多くの人たちが家庭のために結婚している。中国の伝統文化、意識は家族主義的で、個人主義の社会ではない」と語っている。

 国際問題評論家の邱震海氏は、日中関係について、「日本はイデオロギー的には西洋と同じかもしれませんが、アジア人の思考方法を持ち、アジア人の情感があり、アジア人の行動を取る。我われ東アジアの二つの民族の間で、これまでの恨みやこだわりを解決し、それを乗り越えることができれば、東アジアは運命共同体となることができる」と語っている。

 また中国脅威論については、「それは2重構造の脅威になっている。つまり中国の台頭が西洋社会に対して世界的に新たに勢力地図の書き換えを迫っていることと、そしてそれが共産党の支配する国であること」と解説している。さらに「中国の五輪開催はWTO加盟のごほうびだった。中国側も引き換えに人権の改善などを承諾した」と言っている。その結果、中国政府は労働契約法などの改正を行い、自らの首を絞めたのであり、西洋社会の思う壺に嵌ったのである。

 チベット問題についても、「我われにとって大事なのは、現実的にはどうすればそれをもっと合理的にできるかということ。ダライ・ラマもチベットの独立を求めていないのに、なぜ西洋の知識人がチベットの独立を主張するのか?この点が我われと西洋の間で明らかに違います。しかし、いかにチベットと中国の関係をもっと融和させていくか?中国はもっとチベット文化を尊重することはできないのか?チベットの人々一人ひとりが人格的、精神的な信仰の面でさらに十分な尊重を受けることはできないか?こういった課題をみなが考えなければならない」と語っている。

 コラムニスト・文化人の梁文道氏のチベット問題に関する発言は、傾聴に値する。梁文道氏は、「チベットが将来独立するかしないかに関わらず、まず我われは『独立してもしなくても我われは引き続きともに生きていかなければならない。どうやったら、ともに落ち着いて、平和に、誰もが尊厳を持って暮らしていけるのか?』を認識すること、ぼくはこの問題に関心がある。その状態に達するためには、お互いにもっと多く理解しあわなければならないから、教育や社会制度のすべてを変えなければならない」と言い、「中国政府はダライ・ラマを罵るべきではない。しかし今問題なのは、ダライ・ラマを最も嫌っているのは北京の中央政府ではなくて、チベット自治区政府の、特にチベット人関係者だということです。彼らは、もしダライ・ラマが戻ってきて、チベットにある程度の自治がもたらされることになったら、自分たちの利益が損害を受けることを恐れている。

 また現在の時点で本当に困っているのは北京当局ではなくて、ダライ・ラマです。ダライ・ラマは存命中に問題を解決したがっている。というのも、ダライ・ラマが亡くなれば海外のチベット独立運動には象徴がいなくなり、ばらばらになってしまうからです。これこそが中国政府でチベット問題を語る『タカ派』が狙っていることです。しかしそこには代償がいる。急進派が力を伸ばせば彼らはテロリスト化する可能性が大きく、事態はより複雑になる」と語っている。さらにチベットの農奴制にも触れ、「確かに昔のチベットは本当に農奴制度で80%の人が農奴であり、多くの人が悲惨な状況にあったことは間違いない。しかし彼らの多くがそれを問題視しておらず、信仰こそが大事だと考えていた。そんな農奴たちの多くが、自分とその所属する貴族や地主との関係を圧迫された関係とは考えていなかった。それと同時に、多くのチベット人が革命時に、自分は解放されたと思ったのも確かです。そして文革のとき、寺院の略奪や破壊に関わったのも漢人ではなく、多くがチベット人だった」と、その複雑な状況を述べている。

 2007年香港特別行政区行政長官選挙立候補者という肩書きを持つ梁家傑氏は、「北京の指導者が国の中でどこかを実験場にして民主化を進め、民主選挙で生まれた政府との協力、相互の関係を学ぼうとするのであれば、香港は最良の選択肢です」と語っている。

 ウェブビデオクリエイターの胡戈氏は、「中国の作品は戦争物以外、もう全部悲劇ばっかり。とても悲惨な境遇にある人物がこれまた悲惨な目にたくさん遭って、非常に悲惨な人生を送る。そういうの、見たくないんです」と述懐している。


3.「中国人の本音」  安田峰俊著  講談社刊  2010年4月19日発行

  副題 : 「中国ネット掲示板を読んでみた」

 この本を読んでも、中国人の本音はまったくわからない。だからこの本を読むのは、時間の無駄である。
 安田氏は、“はじめに”で「中国人の考え方をダイレクトに知るためにはどうすればいいのか。そんな疑問に応える手段として、この本では中国のネット上に残された庶民の書き込みに注目してみることにした」、「「右や左のタテマエに色づけされた理想のイメージより、われわれは現実を知りたいのである。そんな眼で中国を見たい人は、ぜひ本書のページをめくってみてほしい」と書いている。そして最後に、「幸いなことに、この本で紹介してきたネット上のさまざまな書き込み内容からもわかるように、少なくない中国人たちはわれわれとの会話が成り立つ人々だ。匿名やハンドルネームで気楽にホンネを書き込むというインターネット文化を共有している人も多い」と結んでいる。

 この本の大きな特徴は、掲示板に書き込まれている事例に具体的なものが皆無だということである。匿名やハンドルネームで登場している人物は決して気楽ではなく、周到に身分を秘匿しており、どこからも付け込まれないように具体性を消している。したがってそれらはすべて抽象的、仮想的にならざるを得ない。したがってそこでは具体的な現実はいっさい語られることはない。ネット上に現れるのは、無責任な流言飛語の類である。それを本音などと思うのは、まったくの誤解である。インターネット時代だからこそ、真実を掴むために保たなればならないのは実事求是の姿勢である。ネット上の情報を鵜呑みにするのではなく、それを自分の目で現場で確認すること、あるいは現場発の署名入りの良質の情報を入手できる体勢を確立しておくことが肝要なのである。


4.「感動中国!」  谷崎光著  文芸春秋刊  2010年4月15日発

  副題 : 「女ひとり、千里をいく」 … 楊逸さん大絶賛!「喜怒哀楽―表情豊かな母国と新たに出会わされた」 

 この本はおもしろい旅行記である。私も少しひまになったら、この本をガイドブックにして、本の中で紹介されている街や村を歩いてみたいと思う。谷崎氏は、女ひとりで普通の観光客が行かない中国のすみずみにまで出かけ、その風景を歴史やその地で起きた最近のできごとを絡めて書き込んでいる。中でもそこかしこで起きる、悪徳観光商人や小悪徳一般庶民などとのいさかいの描写は、思わず噴出すほどおもしろい。

 最後まで一息で読んで、ふと気がついたのだが、私もこの2年間、暴動調査で中国のすみずみまで出かけてきたし、ついでにその近辺の調査観光を行ってきた。しかし谷崎氏の歩いた場所とは、ほとんどダブっていない。なぜなのかと思いながらもう一度、最初から谷崎氏の足跡を見直してみて、気がついた。谷崎氏は、現代中国では「紅色旅遊」として政府が勧奨している、毛沢東などの活躍を記念した場所には、まったく足を踏み入れていないのである。私は「長征」の足跡を始めとして、それらをほとんど踏破し、調査記を書いてきた。したがって私と谷崎氏のものを両方合体させれば、完璧で良質な中国旅行のガイドブックになるのではないかと思った。