小島正憲の凝視中国

河北省承徳市=歴史的・人工的多民族融和都市


河北省承徳市=歴史的・人工的多民族融和都市
03.SEP.10
1.承徳市と香妃。

 晩餐会の席上、承徳市政府幹部が、「承徳には、ウィグル族の香妃も乾隆帝といっしょに、たびたび遊びに来た。乾隆帝は香妃のために廟も建てた」と誇らしげに語った。それを聞いて私は反射的に手を上げ、「私は3か月前にカシュガルに行ったが、彼の地では香妃は北京に着くと同時に自殺したと語り継がれているし、香妃墓には遺体をカシュガルまで運んだ棺車まで展示してある。もし香妃がこの承徳で楽しく過ごしていたという証拠があるのならば、それはもっと大きく宣伝すべきである」と発言した。

 すぐに団長の大西広教授も、「もしそれが本当だとすれば、歴史的に貴重な事実であり、承徳市は積極的に取り上げるべきだ」とたたみかけて発言された。


それを受けて市政府幹部はたじろぐ様子も見せず「たいへんよい
提案を受けたので、現在建設中の博物館が完成したら、その旨
を明示する」と言ってのけた。

 晩餐会終了後、私は市の外事弁公室の担当者に、「明日、ぜひ
その廟に連れて行ってください」と頼み込んだ。彼女は少し困った
ような顔をしながら、「明日は時間に余裕がないので行けません」
と言った。私が「どうしてもその廟を見てみたい」と食い下がると、
今度は「イリ廟には道路事情が悪くて行けません」とはっきり断っ
てきた。私は彼女のその答えから、廟の名前がイリ廟であるとい
うことを知ったが、同時に大きな疑問を持った。なぜなら同じ新疆
ウィグル族地域でもカシュガルとイリとはかなり離れており、香妃
はイリとは無関係であったからである。そこまで考えたとき私は、
市政府幹部の話が「作り話」ではないかと思った。
そして上級幹部のその「作り話」がばれるのを防ぐために、部下の担当者が必死で私がそこに行くのを阻んでいるのではないかと考えた。私はその健気な気持ちを汲んで、それ以上追及せず、この件についてはあらためて独自に調査をすることにした。

 8月10日から22日まで、私は大西広教授を団長とするチベット調査団に加わり、2年ぶりにラサに入ることにした。

 上記はまずその予備調査として、承徳市にある小ポタラ宮を訪ねた日(8/12)の晩餐会でのやり取りである。私はチベットから帰京後(8/28)、単身で再度、ことの真偽を確かめるため承徳市に入った。事前にネット上で、承徳市について検索していたところ、「熱河古蹟と西藏藝術」(五十嵐牧太著、昭和17年洪洋社刊、昭和57年復刻、第一書房刊)という本が目に飛び込んできた。さっそく取り寄せて読んでみたところ、それは満州国時代の熱河省承徳市の調査記録であった。そこには戦前の承徳市の実情が、多くの写真や図面を用いて詳しく描かれていた。私はその本をすみずみまで読んだが、香妃のことは1行も出てこなかった。それでも私はその本を片手に、承徳市をくまなく歩くことにした。


 承徳市は北京から高速道路を北東に走ること2時間半、万里の長城外の位置にある。清朝の時代、康熙帝が避暑のためにそこに別荘を建て始め、乾隆帝がそれを拡充し、やがてはそこで政務も行うようになり、いわば副都のようになった場所である。市の中心部にその名も「避暑山荘」という豪勢な一大公園がある。五十嵐氏によれば、その昔、この一角に温泉が湧出していたことから、ここを「熱河」と称し、満州国時代にはこの地域を「熱河省」と呼んでいたという。以前から私は、南方でもないのになぜこの地域が「熱河省」と呼ばれるのか不思議であったが、これでそのなぞが解けた。今も、この「避暑山荘」の裏口近くに、「熱河」と刻まれた石碑が建っている。五十嵐氏の本の中にもその石碑の写真はあるが、現在のものは裏に1957年製と刻まれており、代替わりしているようであった。

 

 康熙帝は、「朕は万里の長城は築かない。民族融和を実現し、万里の長城を無用物にする」と言い、この「避暑山荘」の周囲に、多くの廟や寺院を建て、そこに多民族を居住させ、民族融和の村を実現しようとしたという。乾隆帝もこれに続き、満族・蒙古族・チベット族・回族・ウィグル族などの壮大な寺院を次々と建立した。後にそれは「外八廟」と呼ばれることになった。その寺院群の中に、ラサのポタラ宮に似せて乾隆帝が作った「普陀宗乗之廟」(小ポタラ宮)がある。

 「外八廟」と称されてはいるが、実際には12か所の寺院があった。五十嵐氏の調査では11か所とされており、そこには広縁寺が含まれていない。なぜ「外八廟」と称されているかについても、清朝の時代の寺院管理区分が8か所であったという説、12か所の中で建築様式にラマ教の影響が濃厚であるのが8か所であったという説、単純に大きな寺院が8か所であったという説などがある。私は12か所の寺院の全部をじっくり見てまわったが、すでに朽ち果てている寺院が数か所あり、それらは戦前の軍閥時代に荒らされた結果であり、日本軍が仏像などを盗んだり、文革期に多くの財宝が運び去られ、破壊された結果の姿でもあった。また現在は人民解放軍の療養所の中にあって確認できない寺院などもあった。それら12か所の寺院の、私の調査については、五十嵐氏の調査などと比較しながら、別項2、に記しておく。

 それでも現在、多くの寺院が、現中国政府の手によって、立派に再建されつつある。ことに現在、「外八廟」周辺の広大な地域の環境整備が大々的に行われており、個人住宅などがほとんど取り壊され、1年後には緑地化され、一大観光地化されるという。

 中国政府は、承徳市を歴史的・人工的他民族融和都市つまり和諧社会のモデル地域として売り出そうとしているようである。

 現在、承徳市の人口は340万人ほどで、その中に満族・モンゴル族・回族・朝鮮族などの少数民族約130万人が漢族と同居しており、3か所の少数民族自治県もある。

 確かに「外八廟」の中には、「安遠廟」(通称イリ廟)と呼ばれる寺院があり、それは新疆ウィグル自治区イリ地方の寺院「固爾扎廟」に似せて作られており、そこにウィグル族が移住してきたという。私はその廟内をくまなく探しまわったが、予想通り香妃のことはどこにも書いてなかった。またその他に「外八廟」には、乾隆帝がパンチェン・ラマ6世のために、チベット自治区シガツェのタシルンポ寺を真似て作ったという「須弥福寿之廟」という寺院もある。さらに西方諸部族の帰順を記念し、各部族の融合を願って建てた「普楽寺」もある。これらを見ていると、清朝の最盛期とされている康熙・雍正・乾隆の3皇帝の時期でさえも、皇帝たちは民族融和に腐心していたということがよくわかる。

 五十嵐氏も上掲著で、清朝の皇帝たちのその胸のうちを、「清朝としては、蒙古よりさらに深く西藏を懐柔しなければならないのであり、蒙古、西藏を敵としたのでは清朝は不安に堪へぬのである。清朝が中原の文化に酔って油断して居れば、反覆常なき蒙古、西藏などが背後から起こって清朝を壊滅してしまふかもしれないのであった。それが為に清朝の政策としてはどうしても、蒙古、西藏と提携しなければならないのであって、これを行ふには宗教に依るがよいと考へたので、蒙古、西藏のほとんど狂信しているところのラマ教を崇敬しかつ保護して行ふべきことが思ひつかれたのであろう。康熙帝は即位16年、長城以外の蒙古の地を巡遊して、適当な足溜まり即ち別荘を造らうと考へたのである。そしてその地が物色された結果として今の承徳が選定されたのである」と、書いている。

 私は足を棒にして「外八廟」を回って香妃の足跡を探したが、結局それはどこにも見当たらなかった。そしてやはりあの市政府幹部は「作り話」をしたのだとほぼ断定した。

 最後に私は、「避暑山荘」の中の博物館で参考資料を買い求めホテルに戻った。深夜、なかなか寝付けなかったので、ベッドに寝転びながら先刻買ってきた参考資料に目を通してみた。その中の1冊で、「承徳寺廟概覧」という本に、承徳市には「外八廟」以外に100か所以上の寺廟があったと書かれており、それらが詳しく紹介されていた。それらを読み進めていくと、その最後のページにイスラム寺院のことが書いてあり、そこに香妃の字が躍っていた。

 私はベッドの上に座り直し、そこを真剣に読んだ。承徳市には3か所のイスラム寺院があり、康熙帝が「避暑山荘」を造り始めてから、この地に人夫などとして動員されてきた者たちの中にはイスラム教徒も多く、それらのために東清真寺が建てられ、乾隆帝の時代には西清真寺も建てられたと書かれていた。そして香妃は両寺によく訪ね、さまざまな寄進をしたという。残念ながら、東清真寺は当時の建物ではなく、まったく新しいモスクになってしまっているが、西清真寺の建物は当時の面影を残しており、そこには香妃が寄進したといわれる提燈があると書いてあった。3か所目のイスラム寺院は市内から30分ほど離れた場所にあり、香妃とは関係がないようであった。

 私は翌日、帰国便を遅らせて、この寺院を探し回った。両寺は観光地ではないため、ガイドも運転手もその所在地がまったく分からず、その上、朝のラッシュや朝市と重なって車が遅々として進まず、いらいらするばかりであった。やっとの思いで東清真寺にたどりつくことができたが、やはりそこには何も歴史的なものは残っていなかった。

 次いで探し当てた西清真寺ではイマーム風の老人が、異教徒の私を寺院の中まで案内してくれ、「これが香妃の寄進した提燈だ」と教えてくれた。

           

私がしげしげと見ながら写真を撮っていると、彼は「残念ながらこれは本物ではない。本物は文革のときに壊されてしまったので、私が忠実に再現したものだ」と話してくれた。私は彼のその言葉を信じ、じっとその提燈を見続け、同時にあの市政府幹部の顔を思い浮かべながら、「あの話は本当だったのだ」と思い、自分の早とちりを恥ずかしく思った。そしてこの提燈を、その再レプリカでよいから博物館に飾り、その由来を明示し、民族融和を謳いあげるべきだと考えた。

 もちろんカシュガルの人たちが、その香妃は偽者であると強弁することもできる。しかし文献上では香妃は北京で天寿を全うし、清の歴代皇帝が眠る東陵に葬られているという。私はできるだけ早い機会に東陵に行って、それを確認してみたいと思っているが、そこまでしなくてもどうやら香妃論争は、この西清真寺の提燈という物証の出現で、北京側に軍配を上げることができそうである。


2.「外八廟」紹介。  寺廟の紹介は創建年代順。

 

@溥仁寺  1713年(康熙52年)創建。

・康熙帝の時期に創建された現存する唯一の寺院。前寺と呼ばれていた。
・康熙帝の60歳(満寿)を祝うために、帰順した蒙古族一統が廟宇建立を願い出たので、康熙帝がこの地を定めた。

     
・建物は漢族様式で、質素。細部にラマ教的手法。
蒙古族の負担の軽減のための康熙帝の配慮と見られている。
・現在、修復中のため、拝観できず。
・五十嵐本には、「荒廃何れも甚だしく全く手の降し様もなく」との記述。

A溥善寺  1712年(康熙51年)創建?。

・建物は漢族様式で、質素。細部にはチベット様式が見られたという。
・溥仁寺と相前後して建立とされているが、1920年代に軍閥によって破壊され、現在、何もその痕跡は残っていない。

   

私営の工場用地の中に、枯れた松の大木があり、そこがこの寺院の所在地とされている。後寺と呼ばれていた。
・五十嵐本にも、「今は各宇倒壊、僅かに東西配殿を残すのみで、廃墟に等しい」との記述。

B普寧寺  1755年(乾隆20年)創建。

・総面積33,000平方mの気宇壮大、壮麗豪華な寺院であり、俗に大仏寺と呼ばれている。
・1755年、乾隆帝はジュンガル部ダワジ汗の反乱を平定。10月、蒙古4部族の代表が乾隆帝に謁見のため承徳を訪問。乾隆帝はそれを記念して、壮麗な普寧寺を建立。その名には、「天の下、普(あまねく)、永遠の安寧を」との願いが込められているという。
・漢様式とチベット様式を融合させた建造物であり、乾隆帝の民族融合の苦心作とも思われる。

   

・寺院内の後部にある「大乗之閣」の中には、高さ23mほどの金漆・木彫の千手千眼観世音菩薩が安置されている。木造仏像としては世界最大のものであり、乾隆時代の傑作とされており、一見の価値あり。
・現在、中国北方最大のチベット仏教の活動拠点となっている。寺院内に多くのマニ車がしつらえてある。
・五十嵐本では、「乾隆25年5月、ジュンガル地方の平定を記念して建立」と記述。

C普祐寺  1760年(乾隆25年)創建。

・普寧寺の一角に建っている。現在、一部の建造物が修復中。純然たる漢族様式。
・戦前に、日本軍が「羅漢堂」から、五百羅漢をこの寺院に移設したという。しかし普祐寺に現存する羅漢は175体。

   

・寺院内には、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパと、その両側にダライ、パンチェンの両高弟が祀られている。

D安遠廟  1764年(乾隆29年)創建。

・新疆イリ地方のアムルサナの反乱を打ち破ったダシタワ部の部族が、清朝に帰順し移住してきたので、乾隆帝がその遠来の部族の安寧を祈念し、イリ河畔の「固爾扎廟」に似せてこの寺院を建立した。俗にイリ廟と称す。
・安遠廟の名前には、遠方を安定させ、辺境の各民族をまとめ、北方の守りを固め、国家の統一を維持するという意味が込められている。

   

・総面積26,000平方mの壮大な廟。現在、一部の建造物が修理中。寺院内には香妃に関する掲示はまったくなし。なお五十嵐本にも、香妃の記述は一切なし。五十嵐本では、「大体の形式は漢族様式であるが、チベット式の相当に加味された普度殿と呼ぶすこぶる異彩を放つ魁偉な建物がある」と記述。
・「承徳寺廟概覧」には、伝説と断った上で、「乾隆帝が香妃のホームシックを和らげるために、毎年承徳の避暑山荘に誘ったがそれでも香妃の憂いが晴れないため、この地にイリ河畔の固爾扎廟に似せて廟を建てた。そして避暑山荘内に香妃のために“暢遠楼”を建てた。香妃はその楼から安遠廟をながめて心を慰めた」との記述あり。ただし証拠はない。

E普楽寺  1766年(乾隆31年)創建。

・乾隆帝は北方および西方の諸部族を平定したのち、それらの諸部族を団結させ、清朝に帰属させ続けるため、宗教政策として、また封建統治強化の活動の場としてこの寺院を建立した。
・普楽寺という名前は、乾隆帝自らが、范仲淹の「岳陽楼記」の中の名句から取った。「普天同楽」という意味。
・前方部分の建造物は漢族様式。後方部分はチベット様式で、円形の建造物。その内部に立派な立体曼荼羅あり。また歓喜仏が10体ほど展示してある。これらも一見の価値あり。

  

・五十嵐本には、「旭光閣内陣中央に高さ1米半ほどの見事な石造須弥壇を設け、その上端周囲に山岳、火焔などの木彫物を置き、中央に四面凸字形をなす木造彩色の異様の壇ともいうべきものが置いてある。これ即ち立体曼荼羅であり、曼荼羅を立体に組み立てたものであって、インド・チベット以外に見ることのできない貴重な資料と言われている。ただ惜しむらくはこの立体曼荼羅に安置されてあった、本尊および周囲に置かれてあった仏像、仏具の全部は持ち去られ、どこに何物が安置されてあったか知るべくもなく、今はただ唐金製の歓喜佛が一基置いてあるのみである」と記述。

F普陀宗乗之廟  1767年建立開始、1771年(乾隆36年)完成。 

・普陀宗乗はチベット語の「ポタラ宮」の漢訳である。この廟は「外八廟」中最大であり、チベットのポタラ宮を真似て作ってあるため、「小ポタラ宮」と呼ばれている。

  

・普陀宗乗之廟は、乾隆帝の60歳、皇太后80歳を記念して建造されたものであり、その祝典には蒙古、新疆、青海など各地の少数民族の代表がこぞって参加した。なおこのときトルグート部が帰順してきたので、乾隆帝はこのことを石碑に刻んだ。
・普陀宗乗之廟は、一見すると城塞のような建造物であり、五十嵐本では、「普陀宗乗之廟は乾隆帝が、一朝有事に城塞として使用すべき思慮のもとに造営されたのではないかと考えられる」として、多くの根拠を記述している。

G広安寺  1772年(乾隆37年)創建。

・寺院の痕跡は、現在、人民解放軍の療養所内にあり確認できず。
・五十嵐本では、「本寺はチベット様式濃厚な、変わった寺であったようである。今は崩壊せしのみでなく土民により礎石などまで持ち去られ、まったくの廃墟と化している」と記述。

H殊像寺  1774年(乾隆39年)創建。

・殊像寺は、乾隆家廟と呼ばれ、五台山の殊像寺に似せて作られた。建造物は満族ラマ様式。

  

・五十嵐本では、「他の寺廟の多くがモンゴル・チベットなどの民族を対象として作られたの対して、この殊像寺は満州民族のために経営されたものである。この寺に限り満州人のラマ僧を置いてあったのであるが今なお踏襲されている」と記述。
・現在は、未公開で拝観できず。

I羅漢堂  1774年(乾隆39年)創建。

・浙江省海寧にある安国寺に倣って建てられた漢族様式の寺院。
・五十嵐本では、「安国寺の羅漢堂は康熙6年に建立されたもので、この地に行幸された乾隆帝が羅漢像に興味を持たれ、この熱河にそれを模して造られたのである。五百羅漢像は満州国にては、他には見ることができず、珍しきものとされている。他の寺廟と異なり、民衆の信仰者が多い」、「あまりにも荒廃した堂宇は日に月に危険な状態となりつつあるので、堂内に安置の仏像全部は昭和11年、やむなく普祐寺殿宇に移され安置保護されている」と記述。

                

・現在、羅漢堂の所在地も人民解放軍の療養所内にあるため、確認できず。
・現在、羅漢堂周辺は大規模な環境整備中であり、ほとんどの民家が移転済みであったが、小高い山の上に1軒のみが居残っており、強制立ち退きに抵抗している様子だった。その民家で羅漢堂の位置を聞くと、山の下に広がっている軍隊の施設の中を指差し、そこに小さな石碑のみが残っていると教えてくれた。

J広縁寺  1780年(乾隆45年)創建。

・外八廟中、もっとも小さな寺院。普寧寺の駐車場の隣地に位置している。
・乾隆帝70歳を記念して建立。

  

・現在、完全な廃寺。寺院内では花の栽培が行われている。

K須弥福寿之廟  1780年(乾隆45年)創建。

・須弥福寿之廟は、乾隆帝70歳を記念するため、わざわざチベットのシガツェからパンチェン・ラマ6世が、2万キロを歩いてきたことに、乾隆帝が感銘して建立した寺院。シガツェのタシルンポ寺に似せて造った。

  

・多くの少数民族の代表がこの廟に参集し、乾隆帝の長寿を祝った。
・その後、パンチェン・ラマ6世は疱瘡のため北京で死亡。