小島正憲の凝視中国

チャイナ・ウォッチャーの「立ち位置」について 


チャイナ・ウォッチャーの「立ち位置」について 
20.APR.10
1.チャイナ・ウォッチャーの責務

 今、チャイナ・ウォッチャーに課せられている任務は、「誤認情報の悪循環」を絶つことである。

 現在、中国情勢は時々刻々と変化している。半年前の情勢認識が陳腐化して使い物にならないほどであり、よほど目を光らせ、耳をそばだて、足繁く現地を歩いて見ないと、情勢認識が実情に遅れを取る。残念ながら日本のマスコミやチャイナ・ウォッチャーと称される人たちは、その中国の変化のスピードについていけず、かなり遅れた情勢認識を社会に喧伝している。そしてその古い情勢認識つまり誤認情報を受け取った多くの人たちが、今度はそれを根拠にして持論を展開して行く。いわば日本では中国に関する「誤認情報の悪循環」が起こっているのである。

 日本経済新聞の4月11日付けに、「今を読み解く」というコーナーがあり、そこに菱田雅晴法政大学教授の「深刻な中国農村の貧困」という論文が掲載されていたので、読んでみた。菱田教授には申し訳けないと思うが、論文の内容は「過去を読み解く」というものに近かった。まず菱田教授は前半で中国の格差問題について、昨年12月に発刊された「現代中国の格差問題」(谷口洋志ほか著)から中国農村の貧困問題を俯瞰されているが、これとても過去のもので、現在の沸き立つような中国農村の実情とは程遠い。今年2月発刊の「拝金社会主義 中国」で著者の遠藤誉教授は、「(現在の農村への中国政府の経済政策の波及効果は)中国が改革開放を成し遂げたのと同じ程度の効果を持つだろう」と語っているが、私は現在の農村の実情はこの表現に近いと考える。

 次に菱田教授は、「貧者を喰らう国」(阿古智子著:昨年9月発刊)から、「農民と市民を戸籍によって区別する制度が貧困脱却をむつかしくしている」という言葉を引用しているが、この情勢認識はすでに2年ほど前の古いものである。遠藤誉教授は前掲書で、現在、「都市の大学生の間では農業戸籍に戻ろうとする逆流現象がおきている」と指摘している。私の調査でも沿岸部諸都市では、人手不足解消のために出稼ぎ農民工の確保・定着を目指して戸籍問題を棚上げにしたり、優遇政策を打ち出したりしている。それでも出稼ぎ農民工は、都市の物価高ことにマンションの高騰を嫌って、出身地近郊の職場に戻ってしまっており、沿岸部諸都市の人手不足は解消されていない。今や出稼ぎ農民工は、農業戸籍を確保し、その恩恵を守ろうとしている。はなはだしい場合には、自分たちの戸籍がある土地の上に、共同で許可なくマンションを建てて、既成事実化し大儲けする農民も出てきている。今後、これが全国に蔓延する気配であり、政府はこの対策に頭を悩ますことになるにちがいない。

 最後に菱田教授は、2005年に出版された「中国農民調査」、昨年10月出版の「発禁『中国農民調査』抹殺裁判」まで引っ張り出し、「中国の役人と村人の間には身分の差ともいうべき越えられない一線が存在する」と書いているが、現在、安徽省の当地では、すでにかなり実情が変わっており、この事件も風化しつつあると聞いている。なにしろこの両著はともに300ページ近くの大著であり、私もじっくり目を通している時間がない。幸い、安徽省の現地近くに中国の友人がいるので、7月にはこの本に沿って、現地調査を行いたいと思っている。

 菱田教授は、今年2月10日に「中国 基層からのガバナンス」という本を編著として発刊されている。この本のすべてを詳細に読み込んだわけではないが、残念ながら情報はかなり古く、この本を読んで現在の中国を理解しようとする試みは無理であろうと思われる。中でも、于建エ氏の「社会的『泄憤』事件とガバナンスの苦境」論文においては、引き合いに出されている事例が2004年から2007年とかなり古く、これでは現状分析は不可能である。また于氏は論文の冒頭で、「中国社会における群集性(=集団争議)事件を類別することは非常に重要かつ複雑である。その重要性とは、もしこうした事件の性質や特徴に対して科学的定義を行うことができなければ、正しい処理も困難となるからである」と書き、現在中国で発生している群集性事件を、「権利維持抗争、組織犯罪、社会的泄憤事件、情動発散」の4者に分類して論理を進めている。この手法自体は間違いではないが、私はまず量的分析が先ではないかと考える。騒動の規模と実情を確実に把握しなければ、質的分析を先行させてもその検討結果は的外れになるのではないか。おそらく于氏は騒動の現場をつぶさに調査しておらず、その重要性に気がついていないのではないか。もし于氏がこの論文を書く前に、労を惜しまず、グーグルで「中国 暴動情報検証」と検索していれば、私のタダの最新現地情報を入手することができ、この論文も時代遅れにならずにすんだと思うのだが。さらに言えば、この論文の最大の欠陥は、チベットとウルムチの騒乱について、一言も語っていないということである。この研究会では、この点が論議には上らなかったのであろうか。

 おそらく菱田教授の日本経済新聞の小論は、今後、日本の各界で参考にされ引用されて行くにちがいない。なにしろ著名な教授が日本経済新聞に載せた「今を読み解く」という小論であるから、日本の中国観や世論形成にも一定の影響力を及ぼすに違いない。

 チャイナ・ウォッチャーとしての私の責務は、これらの「誤認情報の悪循環」を絶つことであると考えている。


2.著者・出版社は無責任でよいのか

 3月26日、上海で手広く事業を展開していたU社が大阪地裁に民事再生法を申請した。負債総額は368億円。このU社の代表者は、かの有名な美人でやり手のT女史である。U社については、かなり以前からその派手な事業展開に疑問を持つ人が多く、「第2の尾上縫」と噂する人もあった。しかしなぜか、その美人社長の手練手管に騙される人も少なくなかった。新聞や雑誌などのマスコミに登場することも多く、2007年には「中国ビジネス虎の巻」という「自著」を幻冬舎から出版した。また09年4月には、「きらめく女性経営者32人」(産経新聞出版刊)として堂々と紹介され、昨年11月28日、BS朝日の「賢者の選択」という番組に「中国ビジネスで大成功した女性実業家」として出演したばかりだった。

 私は同業であり、10年ほど前には取引もあった関係で、T女史の人柄や能力、仕事振りなどについてはよく知っていた。だから「中国ビジネス虎の巻」が、鳴り物入りで出版されたとき、びっくりした。とにかくその表紙に、うそ八百が並べられていたからである。そこには「ついに出た!本当に役立つ中国ビジネス虎の巻 真の成功者が語るチャイナビジネス実践術」という字句が踊っており、本の帯には「世の中に出回っている中国ビジネスに関する出版物は山ほどあるが、核心にふれたものは見当たらない。すでに中国に進出している日本企業やそこで働く日本人を見ていて率直に感じるのは、あまりにも中国のことを知らなさ過ぎるということだ。本書は、中国ビジネスの袋小路に迷い込み、身動きが取れず、その解決方法を探して苦悶されている日系企業や日本人の方々にもきっと役立つものと思う」と書かれていた。

 日本経済新聞や繊維関連業界紙にも大きな広告が掲載され、同様の宣伝文句が紙面を賑わした。この本は売れ行き絶好調で、続巻まで発刊された。私はこの本をすぐに購入して読んでみた。そしてそのとき、おそらくこの本は本人が書いたのではなく、T女史の側近のあの彼が書いたに違いないと思ったものである。それはともかくとして、多くの読者が「真の成功者が語る」というキャッチフレーズと、それが幻冬舎から出版されているということ、日本経済新聞にデカデカと広告が出ているということなどに幻惑されて、この本を買い求めた結果、売れ行き絶好調ということになったのであろう。ちなみに私の本の方がよほど中国ビジネスの役に立つと思うが、こっちはさっぱり売れなかった。

 わずか2年後に、その本の著者=「中国ビジネスの真の成功者」が率いる会社が、民事再生法を申請したのである。著者はもとより、幻冬舎や日本経済新聞、テレビなどのマスコミ関連者は、この事態に責任を取らなくてもよいのだろうか。U社は昔からその経営スタイルに問題があり、T女史にもよからぬ噂がつきまとっており、編集者やディレクターが少し調べていれば、マスコミに登場させるような人物ではないということがわかったはずである。それにもかかわらず大々的に宣伝し、多くの読者を惑わした彼らの責任もまた大きいのではないか。なぜならT女史のこの活躍振りを見て、取引を行い、損害を被った人も多いと聞いているからである。また「きらめく女性経営者」として紹介された他の女性経営者たちも、T女史と同様の詐欺師まがいの人物と思われ、風評被害を受けた人もあると聞いたからである。

 長々とU社のことを書き連ねてきたが、最近続々と出版されている「中国関連本」に関して、私は著者も出版社も関連する人たちも、無責任な人が多すぎるのではないかと言いたいのである。このU社:T女史の事例は極端であると思われるかもしれないが、多くの日本人に間違った中国観を植えつけているという点では、他著も大同小異だと考える。


3.チャイナ・ウォッチャーとしての私の立ち位置

 私は中国を貶めるつもりもないし、中国にへつらうつもりもない。したがって反中でも親中でもない。ただし多くの自称チャイナ・ウォッチャーたちが、ことさらに中国を貶めようとすることを座して見過ごすことはできない。

 阿古智子早稲田大学准教授が昨年9月に、「貧者を喰らう国」という本を出版した。ネット上ではこの本に対して、「中国の農民工や地方の貧困層にスポットを当て、中国社会の暗部をえぐりだした」好著とか、「筆者自身、かなりの生活の苦労を経験したらしい。そういうもの同士の共感が底辺に流れているように思える。筆者は中国の現状を調査し、本として書くとき、つねに日本のことを思い浮かべながら書いたという。そのあたりがこの本の優れた点でもある。書店に行くと中国関連の書籍がたくさんあるが、日本人の書いたその多くのが、そういう視点を欠いた蔑視と差別と、いたずらに脅威をあおるような本である。この本はそういう本とは一線を画した非常に貴重な一冊である」などと、賛美の声が多く寄せられている。

 私はこれらの声は過大評価であると考える。なぜなら、まず題名が悪い。阿古氏自身も後に別の場所で、「たしかにこのタイトルでは誤解を招きかねないだろう。配慮が足りなかったかもしれない。だが本を読めば分かっていただけると思うが、私は研究者として中国をより深く理解するために、“反中”でも“親中”でもない立場を貫こうとしたつもりである」と、述べている。すでにこの言葉に阿古氏の限界が現れていると私は思う。「この本をたくさん売るためには、この題名はインパクトがあってよい」とあっさり認めてしまえばよいのに。そうでなければ阿古氏は、なぜわざわざ題名を「貧者を食う国」ではなく、「貧者を喰らう国」にしたのかを説明する必要がある。「喰らう」という表現は下品であり、これは相手を貶めるときに使う表現である。この本の内容から考えて、「貧者を食う国」の方が学者の書いた本の題名としてはよりふさわしいと考える。これは反中とか親中とか言う以前の問題である。阿古氏から、あえて「喰らう」という表現を使い、中国を貶めようとした根拠を聞きたい。

 私は昨年の6月に新幹線の中で、たまたまWEDGEを開き、阿古氏の「“溢れる失業農民” 崩れる中国の成長モデル」という小論を目にした。あまりにもその記述が現実から遊離していたので、「2年遅れの中国認識」と題して反論を書き、ネットに流した。その後、阿古氏から私の関係者に口頭で文句はあったようだが、正式な反論はなく、すでにかなりの年月が経った。その間に、中国は世界経済を牽引するようになり、「崩れた」のは阿古氏の小論の方であることが明らかとなった。したがってここではその小論と同工異曲の「貧者を喰らう国」の中身についての反論は省く。

 しかしその後、私はある場所で、阿古氏の「自らの立ち位置についての見解」を目にした。それは立派な論調であったが、かなり違和感も覚えた。以下に私の立ち位置を述べながら、阿古氏の立ち位置意識について論じる。

 私は戦後、人間として、日本という地で、この世に生を受け、中小企業家、つまり資本家階級に位置して生きてきた。これが私の属性であり、これらに規制されながら、もがき苦しんで生きながらえてきたというのが私の実態である。私は戦後の“民主主義教育”の影響を色濃く受け、共産主義思想に傾倒し、学生運動にのめり込み、その結果文化大革命に翻弄され挫折し、食うために家業を継ぎ、意に反して資本家階級に属することになった。したがって胸中では、「金儲けは悪である」という考えと、「金儲けがしたい」という心が、四六時中喧嘩していた。その後、日本国内では企業が成り立たなくなり、中国の地に工場進出しなければ潰れるという状況に追い込まれた。私の胸中には、「中国人民からの収奪は、是か非か」という新たな論争が付け加わった。それでも食っていくためには、それらの矛盾に目をつぶって前進する以外に方法がなかった。そして定年を迎え、ふと自分を振り返ったとき、自分自身が立派な2重人格者になっていることに気が付いた。私は「中国ありのまま仕事事情」(中経出版刊)で、その心情を下記のように書いておいた。

 私は2重人格者としての自らの人生を反省し、自らの立脚点を明確にしておくために、あらゆる機会にあらゆる場所で、次のように明言している。

≪私の反省≫

@社長(資本家)として、社員(労働者)からピンハネ(搾取)して生きてきたこと。

A中国に進出して、安い労働力を利用(搾取・収奪)し、金を儲けてきたこと。

Bわが社だけが金を儲けて生き残り、多くの同業他社を、廃業や倒産に追い込んだこと。

C自分は暖衣飽食の生活を堪能し、次世代に莫大な国家債務を残し、死んでいくこと。

D地球温暖化など、自分たちの撒き散らした弊害を、解決の目処すら立てずに死んでいくこと。

 阿古氏の場合は日本人であり、高度成長期生まれで、文化大革命を体験していない世代である。そして所属する階級はプチブルインテリゲンチャであり、労働者と同一階級ではない。ましてや異国の中国の民とは別世界、別階級の人間である。阿古氏は「“民”と交わる中国研究の可能性」を探り、「意識的に中国の“民”と交わってフィールドワークを行うことに重点を置いてきた」と書いているが、この姿勢では中国の民と交わることはほぼ不可能である。

 阿古氏の階級は、間違いなくプチブルである。また中国の民を題材にして食っている人間である。したがって当然のことながら、中国の民と同一化することはできない。阿古氏がそのことに良心の呵責を感じ、自分の中に激しい葛藤を抱え、さらにカネと名誉のためにもがき苦しんでいる自分の姿を、中国の民の前にさらけ出さない限り、中国の民は阿古氏を仲間として受け入れないだろう。どんなに阿古氏が現在の姿勢のまま中国の民と交わろうと努力してみても、中国の民にしてみれば、隣国のプチブルが物見遊山に来ている程度にしか思わないだろう。また阿古氏が自分自身を2重人格であると自覚して、その立ち位置から負い目を感じながら、中国の民に接しなければ、中国の民を真に理解することはできないだろう。残念ながら、そのような心情を阿古氏が吐露している文章にはお目にかかったことがない。

 阿古氏は、「私は依然、研究者としても教師としても方向性を定めきれていないというのが正直なところである。しかし、中国の“民”は私に考えるための材料を数多く与えてくれる。“民”と共に葛藤しながら、少しずつでも学びを進めることができればと思う」と書いている。私は阿古氏が、2重人格であるという自覚のもとに、中国の“民”に食わせてもらっていると明言できる立ち位置に納まったとき、はじめて中国の“民”が心を開いてくれると思う。

 チャイナ・ウォッチャーはすべからく2重人格であるということを自覚し、日本人に正しい中国情勢を伝えなければならない。中国を貶める必要はない。中国にへつらう必要もない。しかし、実事求是を原則として、日中両国人民の近未来に役に立つ建設的な情報を流すべきである。いたずらに売名を図るべきではない。ましてやそれで儲けようなどと考えるべきではない。