東アジア 駆け足レポート 《 沸き立つ東アジア 》
東アジア 駆け足レポート《 沸き立つ東アジア 》 |
13.OCT.10 |
9月26日から10月9日まで、東アジアの諸都市(ヤンゴン・バンコク・ダッカ・ジャカルタ・コロンボ)を、経済面での調査と、暴動や内乱の結末を見届けるのを目的として、駆け足で回ってみた。今回のレポートは、私の浅薄な知識や人脈に基づく調査であるため、誤認や的外れの点が多いと思っている。またこのようなフィールドワークやレポートには、「学問的な価値はない」と指弾されるのもよくわかっている。したがって私は、それぞれの国について仮説を立てて考えておき、この仮説を検証するため、今後、東アジア諸都市の定期的駆け足調査を行い続けたいと思っている。 また今回、それぞれの国で、日本人同業者とのつながりをつくることができた。この関係を活かして、近日中に「東アジア縫製業連絡協議会」を立ち上げようと思っている。またこれを核にすれば、華僑・印僑を含めた国際版協議会を組織するのも夢ではないと思っている。 ※なおコロンボやダッカは東アジアの地域には入らないと思うが、経済圏としては組み入れて考えた方がよいと思うので、あえてこの表題にした。 1.ヤンゴン 長年にわたってミャンマーを牛耳ってきたタン・シュエ議長は、現在、73歳の高齢である。政府側も人民もそして隣国の中国も、タン・シュエ後を視野に入れ、動き出そうとしている。そして中国から逃げ出した仕事があふれかえっている。 @ミャンマー概況 ・人口:約5000万人 ・首都ネピドー 最大都市ヤンゴン ・言語:ビルマ語。 ・多民族国家:ビルマ族68%、シャン族9%、カレン族7%など。北部では、コーカン族などが武装闘争展開中。 ・宗教:上座部仏教80%、キリスト教4%、イスラム教4%など。 ・1948年に英連邦から独立。 ・1990年の総選挙で、アウンサン・スーチー女史が率いる国民民主連盟が圧勝したが、軍部はそれを無視、軍政続行。2006年、首都をヤンゴンからネピドーへ移す。2007年9月、ヤンゴンで暴動勃発。軍部は2010年11月に総選挙を20年ぶりに実施すると発表。 ・1$=900チャット(ただし闇レート。市場では実質的にこのレートが通用。公定レートは1$=6チャット) チャット高の傾向。 昨年は1$=1200チャットぐらいまで安くなった模様。 ワーカーの平均給与:月額40,000チャット=約4000円。 Aヤンゴンと私 私は1997年にヤンゴンで縫製工場を開始したが、予期せぬ東南アジア通貨危機に遭遇して、工場経営に行き詰まり、せっかく600人規模にまで拡大したその工場を泣く泣く手放した。私が工場から立ち去るとき、手塩にかけて育てたミャンマー人幹部たちが、「もう一度、ヤンゴンで工場を作って下さい。私たちは待っています」と声をかけてくれた。また数か月後、通訳をしてくれていた若いミャンマー人男性が、「どうしても小島さんの下で働きたい」と、手紙ですがってきた。そこで私は彼を中国の工場で、ミャンマー再挑戦というときの準備のために、工場管理全般を勉強させることにした。彼はまじめに5年間ほど勉強を続けた。3年ほど前、彼と私はヤンゴンでひとまず、CADでのパターン作成の仕事をするために小さな会社を立ち上げた。その後、その会社は一進一退を繰り返していたが、彼はその仕事のかたわら衣料品のミャンマー国内販売を手がけたいと言い出した。それほどリスクがある商売ではないので、私はそれを承諾した。今ではそれが10店舗ほどに拡大している。 私はヤンゴンでの仕事の合間に、戦前の援蒋ルートを辿って、中国との国境沿いまで車で走ったことがある。そのとき途中で、日本軍の兵士がインパール作戦時に作った小さな湯治場を発見した。おそらくその周辺には多くの兵士が眠っているのだろうと思い、私はその場で合掌し、彼らの冥福を祈った。 Bホテルで取引先に遭遇 ヤンゴンに着いて、荷物を置くためにまずホテルに向かった。私はホテルのロビーに入って、驚いた。なぜならロビーの片隅で取引先の繊維商社の顔なじみの部長さん以下、その会社の数名の生産担当社員が、数台のパソコンを取り囲み、ロビーのソファーを占領して、真剣な顔で会議をしていたからである。私は今まで、そのホテルではほとんど日本人にあったことがなかったので、そのことにまず驚き、次いで彼らが顔見知りの取引先であることにたまげ、なおかつ彼らがロビーを占拠していることに呆れたのである。部長さんにあいさつをしながら、その会議の様子をそれとなくうかがうと、どうもヤンゴンの工場へ投入した仕事の納期が大幅に遅れていて、それを追及するためにヤンゴンへ部員総出動という態勢となり、ホテルの部屋の中ではネットがつながらないので、もっともつながりやすいロビーでの会議という羽目に陥っているようだった。 その後、ヤンゴンの同業者に会って情報を収集したところ、このところヤンゴン近辺の縫製工場に中国の工場でキャンセルされた仕事が殺到しており、それぞれキャパオーバーで大幅納期遅れが発生しており、それを督促・追及するために多くのアパレル会社の担当者がヤンゴンに来て、工場に張り付いているようだという。 C開国の兆しか? ミャンマーでは11/07に総選挙が行われることになっており、テレビや新聞などでは政見放送や投票場所、方法などの説明が流されていたが、街頭には総選挙を通知するような看板や広告はまったく見当たらなかった。ただし政府は北部の少数民族との紛争地域では総選挙を実施しないと発表している。この総選挙は2007年の暴動の再発を怖れた政府の妥協の産物とも言われている。長らく軍政を続けてきたタン・シュエ議長も73歳の高齢となり、軍政内部でもタン・シュエ後への思惑が飛び交い、そこに民主化への外圧も加わり、ミャンマー情勢は大きく変わろうとしている。 総選挙をひかえて、政府は幾多の経済活性化政策を実施し、同時に人民への懐柔策を打ち出している。たとえばトラックやバスの輸入自由化を行い、同時に今までに密輸された乗用車で、ナンバーが取得できないため、地方でのみ乗り回されていた車に、登録を許可しナンバーを付与した。またガソリンスタンドの民営化、発電所の民間払い下げ、港湾業務への民間参入許可、銀行業務の民間開放、学校経営の民間開放などを次々に実施している。 これらの規制緩和政策の実施とともに、ヤンゴンでは、長い間建設途中で止まっていたビルの建築などが開始され始めており、ヤンゴン市内の主要幹線では、電線や光ファイバーの地中埋設工事も行われていた。また元国営通信社跡地には、アジア最大のショッピング・モールが建設予定であるという。街中の女性たちもファッショナブルになっており、ジーパンやスカート、ワンピース姿なども多くなり、民族衣装のロンジーを駆逐しそうな勢いである。 Dタイ暴動の意外な余波 今年5月のタイでの暴動後、タイとの国境貿易が不調となり、ヤンゴン市内ではタイ製品が少なくなって、中国製品が多くなってきているという。巷では、11/07の総選挙をひかえて、北部少数民族地域で紛争が勃発した場合、中国との国境貿易も途絶え、中国製品も市場から消えることを怖れている。政府もコーカン族との交戦を予測し、中国政府と国境付近の調整を話し合うために、タン・シュエ議長が9/07、急遽、北京へ飛んだ。昨年8月には、ミャンマー北部のシャン州コーカン地区で、政府軍とコーカン族が交戦し、巻き添えになるのを怖れたミャンマー人3万7千人ほどが、中国の雲南省臨滄市鎮康県南傘鎮に逃げ込んだ(詳しくは、昨年11月の私の現地レポート「その後のミャンマー難民」を参照)。政府もヤンゴン市民も、このような事態が再発することを怖れているのである。 Eひたひたと押し寄せる中国の影響 中国は待ってましたとばかり、タン・シュエ議長を歓待し、その意向を快諾したという。また同時にヤンゴン・ネピドー間の高速鉄道建設を請け負ったという。その工事は、ネピドー側ではすでに始まっており、2012年には開通する計画。これで、現在車で9時間かかっているヤンゴン・ネピドー間が3時間になる。政府は2013年に、ネピドーでアジア運動大会を開催する模様。私は、次回のヤンゴン入りのときに、ネピドーまで行って、この工事の進展具合を確かめるつもりである。なお最近、中国はヤンゴンの人民広場を買い占めた。この場所は、ミャンマーの誇る文化遺産シュエダゴン・パゴダと旧国会の真ん中に位置しており、中国の天安門広場のような地点である。 中国に買い占められた人民広場 Fその他 ・ミャンマー政府は北朝鮮からの武器を輸入しているという。 ・数年前、軍政権内部の権力争いで失脚した当時のナンバー2のキン・ニュン氏は、自宅軟禁中。 ・2007年の暴動のとき、日本人ジャーナリストの長井さんが射殺された場所は、現在、元通り屋台などが立ち並ぶ繁華街となっている。当時、公式には600人が殺されたという報道であったが、実際には2000人余。いまだに800人余が拘束、釈放されていない。 2.バンコク タイ政局に大きな影響力を持っていたプミポン国王は83歳の高齢で、現在入院中ということもあり、赤シャツも黄シャツもプミポン後を考え画策している。もちろんここにも中国の影がちらついている。バンコクは東アジア交通の要であり、今後はその面で大きな役割を果たすのであろう。 @タイ概況 ・人口:6300万人。 ・宗教:上座部仏教95%。イスラム教4%。 ・タイ全国に7000社にも及ぶ日系企業が進出している。自動車関連産業の進出が多い。 ・すでにタイでは若者は3Kの仕事を嫌い、労働集約型産業では人手不足現象が取り沙汰されるようになってきている。 ・1$=約30バーツ。 ワーカーの平均月額給与:約23000円。 Aバンコクと私 21年前、私はタイのバンコクで、サイアム・カジュアルという現地縫製会社の技術指導兼検品を行っていた。この会社は3000人ほどの縫製工場で、ヨーロッパ向けの仕事が主体であった。その工場が日本の繊維商社と組んで、日本向け輸出に取り組むことになり、私がそこに技術指導に入ったのである。その会社は華僑系で、同族経営に徹しており、長男は本社を守り、次男はイギリスの大学を卒業したあと、ヨーロッパ向け営業を担当し、三男は横浜国立大を卒業し、日本向け営業を担当するという仕組みを作っていた。三男はその名をブンチャイさんといい、優秀でとても優しい人であり、その後も親しく付き合っていた。ところが彼は5年ほど前に工場内の感電事故で亡くなってしまった。これで私のバンコクでの人脈は切れてしまった。 今回のバンコク調査にあたっては、バンコクでコンサルタント会社を経営中のF氏(法政大学の増田辰弘教授の紹介)から、現地でいろいろ教えていただいた。 赤シャツに破壊されたビル Bタクシン(赤シャツ)対アピシット(黄シャツ) 国王と僧侶が治める穏やかな国だったタイが、今やテロの恐怖におののき、非常事態宣言を再延長しなければならない状態になっている。バンコクでは今年の5月、治安部隊の強行突入により、赤シャツ(反独裁民主同盟)のデモ隊が排除され、多くの犠牲者が出た。その後、バンコクでも大型ショッピングセンターや国営テレビ局で爆発があった。また地方でも爆弾騒ぎが続いている。 今回の赤シャツの一連の運動は、単なる偶発的なものではなく、冷静に計算され潤沢な資金を背景にしたものと考えられる。また赤シャツは黄シャツの支援を表明しているバンコク銀行を標的にし、破壊・略奪を行っている。 一方、08年12月の発足以来、アピシット政権は一貫して中国との友好関係を打ち出している。中国も09年6月、アピシット首相の北京入りを歓迎し、協議の結果、タイの高速鉄道の建設、原子力発電の技術協力、大型車両製造などで合意している。 Cタイを貫く東西南北の「経済回廊」 それでもバンコクの街中では、そのようなきな臭さをあまり感じさせない。タイは東アジアの交通の要としての姿を現しつつあるからである。タイを中心とするメコン地域において現在、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジアを結ぶ何本ものハイウェイの建設工事が進んでいる。アジア開発銀行の融資や日本のODAによって工事が進む、いわゆる「経済回廊」である。ひとつは、北は北京から昆明経由でラオスを経てタイに入り、バンコク経由外周道路を通り、マレーシアのクアラルンプールそして南はシンガポールへと続く「南北経済回廊」。もう一つは、ベトナムのダナンからタイ内陸部を横断し、ミャンマーのモーラミャインに続く「東西経済回廊」。すでにこの回廊の実現を見越して、ミャンマーのダチャイに、タイ資本の手で巨大な工業団地が造成され始めている。この団地に至る道路は、映画「戦場に架ける橋」で有名なクワイ河を通過するという。次回、ぜひ行ってみたいと思っている。 3.ダッカ ダッカには依然として華僑の影は薄い。もちろん中国の影もない。ただしここにも中国からあふれ出した仕事が殺到している。日系企業もユニクロをはじめとして、拠点作りを急いでいる。その足下を見透かしたように、今年7月には労働者の激しいストとデモが起き、最低賃金が大幅に引き上げられた。 @バングラデシュ概況 ・人口:約1億5200万人。 面積の小さい国を除くと、世界でもっとも人口密度の高い国。 ・1971年にバングラデシュ独立。 その後クーデターで政権が転覆するなどしたが、1990年以降は安定。 ・宗教:イスラム教83%、ヒンドゥー教16%。 ・1$=70タカ。 タカ安傾向。 ワーカーの平均賃金:月額4000〜5000タカ=5000円〜6000円。 Aダッカと私 17年前、私は当時16歳の次男を、ダッカに一人で放り出した。そのときホームステイをさせていただいたのが、モンターズ・ブイヤン氏宅である。私の目的は、暖衣飽食な日本社会にどっぷりつかり、自堕落な生活を続ける次男に、世界最貧国での生活を体験させ、目を覚まさせることであった。残念ながら、ダッカに行っても次男はあまり変化を見せず、その目的は達成できないまま1年間が終わろうとしていた。日本に帰国する予定の月に入って、次男は運良く腸チフスにかかった。異国の地で、さぞかし心細かったと思うが、私たち夫婦は一切、助けの手を差し出さなかった。もしダッカの地で命が果てるならば、それもその子の運命と腹を決めていた。また、そのような逆境から這い上がって来てこそ、その子に生きる力がついてくるのだと考えていた。私たちは長男も長女もそのような逆境を体験させてきたので、次男だけを例外扱いにする気はなかった。それでも腸チフスは日本では法定伝染病なので、病名を聞いたとき、若干動揺した。しかしブイヤン氏が、「ダッカではそんなに騒ぐほどの病気ではない」というので、次男の命を彼らに託した。次男は1か月ほど入院していたようだが、その後無事に日本に帰国した。そしてこの腸チフス罹患騒動が、次男の性格に少し変化をもたらした。 昨年10月、そのモンターズ・ブイヤン氏が、「日本に行くので、会いたい」と、連絡を入れてきた。さっそく会ってみると、ブイヤン氏は、「ダッカに大学を作りたいので、協力をしてほしい」という。私はすぐに承諾したが、とにかく現地を見てみることが大事だと思い、今年の1月にダッカに行った。ついでにダッカの縫製工場事情を探るため、わが社の幹部を同行した。そしてダッカで数社の縫製工場を見学しているうちに、ポスト中国の一番手はここではないかと思った。 さっそくブイヤン氏に仲立ちになってもらって、合弁事業の相手を探した。とんとん拍子というわけには行かなかったが、7月には相手先が決定し、8月にはテストラインの開始、10月2日にオープン式典開催という運びとなった。もちろん大学の設立準備も平行して進んでいる。 Bオープン式典騒動 わが社の合弁事業はほぼ順調に進み、8月末時点で、10月には操業が開始できる見通しが立った。そのとき合弁相手側が政府の役人や同業者を呼んで、盛大にオープン式典をやりたいと言ってきた。わが社はあまり派手なことは好まず、どこの国でもこっそり開業し、大げさな式典は極力避けてきた。だからバングラでもオープン式典など、毛頭やる気はなかった。ところが合弁相手側がどうしてもやりたいというので、仕方がなく、式典の一切をバングラ側がお膳立てするという条件でそれを承知した。その後、10月2日に挙行という日程のみが知らされただけで、開催日の10日前になっても具体的な式次第や、招待客などがまったくわからなかった。いらいらしながら待っていると、1週間前になってやっと通知がきた。招待状が遅れた理由を合弁側は、「バングラ人はあまり早く招待状を出すと、それを忘れてしまう。だいたい1週間ぐらい前がちょうどよい」と、弁解した。ところがこれが大きな問題を引き起こしたのである。 招待状発送から2日後、日本の本社にバングラ在住のある日本人から電話が入り、「10月2日の同時刻に、日本独資のM社の開業式典があるのをご存知ですか。M社は半年ほど前から、この式典を準備しており、日本から大勢のお客さんも駆けつける予定です。バングラの日本大使もそこに出席されます。昨日、貴社のオープン式典の招待状が私どもにも届きました。これを見たダッカの日本人の中には、“小島衣料は喧嘩を売る気か?”とたいへん怒っている人もいますよ」という忠告をいただいた。たしかにその電話の主の忠告のように、わが合弁会社の招待状は常識外れであり、わざわざ式典をぶつけてきたと思われても仕方がないものであった。しかし期日が間近に迫っており、どうしようもなかった。 オープン式典で挨拶する私 当日、わが合弁会社のオープン式典は、バングラ工業大臣ほか250名余のバングラ人客と10名ほどの日本人客に参席していただき、盛大に開催された。ブイヤン氏が日本大使館にも招待状を出したので、篠塚大使には前半をM社、後半をわが合弁会社に出席するという心配りをしていただいた。本当にありがたかった。また、翌日M社にお詫びの電話を入れたところ、担当者から「わが社の社長はなんとも思っていません。これからいろいろと情報交換しながら仲良くやりましょう」というありがたいお言葉をいただき、ほっとした。 わが社は、韓国・中国・ミャンマーなど、多くの国で縫製工場を作ってきた。その形態は合弁・独資など様々であったが、それらすべてに最初から“現地化”という方針を貫いてきた。したがってどの国でも、その国に存在している日本人組織とはほぼ無縁に近かった。今回のバングラでも、わが社は一切をブイヤン氏に委ねており、バングラ既存の日本人組織にはまったく顔を出さず、仁義を切っていなかったため、今回のような問題が持ち上がってしまった次第である。 Cストライキ騒動 7月19日から22日にかけて、ダッカでは縫製工場の従業員5000人余が賃上げストを行い、激しい街頭デモを繰り広げ、アシュリア工業園区では、道路沿いの工場に投石したり、50台に及ぶ警察車両をひっくり返すなどの騒動となった。 22日には警察1000人が出動し、ゴム弾や催涙弾を発射し、数名を拘束し騒動を鎮めた。少なくとも100名の労働者と40名の警察が負傷した。 投石で窓ガラスを壊された縫製工場 バングラデシュには、縫製工場が4500社以上あり、それらはダッカとチッタゴンに集中している。また縫製人口は350〜400万人といわれている。今回のストやデモで、労働者は現在1768タカである最低賃金を6000タカにまで引き上げることを求めた。これに対して、政府は最低賃金を3000タカに決定した。その結果、この賃金アップに耐えきれない弱小企業の倒産が相次ぐことになり、労働市場で労働者が供給過多の状態になっており、現状では企業側の口コミ求人募集にも数倍の応募があり、会社の門前に職を求めて労働者が列をなす光景は、20年前の中国を思い起こさせる。またバングラデシュの輸出の8割を繊維産業が支えており、政府は縫製工場経営者たちの声を無視することはできない状況である。 D工業用地なし、新規キャパに限界 バングラデシュの工業団地には、すでに空き地が全くなく、団地内で新規に工場を建設することはほぼ不可能である。また工業団地外で新規に工場を開業しようとすると、数多くの許認可が必要であり、それらを全部クリヤーしようとするとほぼ2年かかるという。したがってバングラデシュでは既存の工場以外で、すぐに生産を拡大しようとしても限界がある。このような状況の中で、大手の縫製工場は欧米向け輸出で満杯であり、日本向け輸出ができるキャパは全くない。 Eその他 ・バングラデシュは緩やかなイスラム教国であり、今回のオープン式典での宴会には、テーブルの上にアルコール類がずらりと並び、それをバングラ人がぐいぐい飲んでいた。 ・各工場の出入り口には、銃を持ったガードマンが待機している。大型工場では20名ほどいることもある。これらは政府管掌のガードマン会社からの派遣社員であるという。労働者が街頭からこれらの工場になだれ込めば、当然、銃が乱射される可能性がある。したがって労働者は投石程度で済ませており、絶対に工場内には踏み込まなかった。 4.ジャカルタ インドネシアはGDP年6%成長を遂げ、経済は活況を呈している。しかもそれを内需が牽引しているという。インドネシアでは1998年に暴動でスハルト政権が崩壊し、この国にいた華僑が大きな被害を受けた。それまでにインドネシアに進出していた日本のアパレル企業も、この年を境に次第にこの地から去っていった。しかし10年余を経た現在、中国から押し出された仕事が、ここでもあふれかえっている。日本のアパレル企業のジャカルタ詣でが、再び始まっている。 @インドネシア概況 ・人口:約2億3100万人。 ただし人口の約6割がジャワ島に集中しているため、人口密度は日本の約3倍。 ・若い人が多く、これから人口ボーナスを期待できる国。 ・石炭や天然ガスなどの資源が豊富。 ・1998年、東南アジア通貨危機に見舞われた結果、経済が大混乱に陥り、30年間続いたスハルト政権が崩壊。 ・インドネシア人民の怒りは、当時、インドネシア経済の7〜8割を握っていたという華僑に向かった。チャイナタウンはもとより、華僑の商店や銀行などが破壊、略奪され、かなりの華僑が殺害された。 ・1$=8750ルピア。 ルピア高の傾向。 ワーカーの平均月給:約15000〜20000円。 Aジャカルタと私 20年前、私が韓国のソウルで縫製工場経営に悪戦苦闘していたとき、見かねた韓国人の同業者が、「小島さん、私はジャカルタに工場を作ります。いっしょに行きませんか」と、声をかけてくれた。私はそのとき、「地獄で仏に出会った」ような気がして、その誘いに乗ってみようと思った。しかしちょうど同時に、大先輩の(株)サンテイの社長から、中国への工場進出を誘われていたので、ひとまず先に中国の工場を見てみることにした。そしてその視察旅行中に、私は中国進出を決断した。もしこのとき、ジャカルタに先に行き、そこに工場進出を決めていたら、現在の小島衣料はなかったであろう。なぜならジャカルタに進出した友人の韓国企業は、東南アジア通貨危機に翻弄され、韓国の本社もろとも倒産してしまったからである。結局、ここでも私のジャカルタとの人脈は切れてしまった。 今年の7月、取引先の商社のK氏から、「現職を一時離れて、インドネシアのジェトロにEPAアドバイザーとして出向する」とのメールが入った。K氏とわが社は長い付き合いであり、K氏のインドネシア好きはよく知っていたので、この赴任はK氏自らが望んだものであることはすぐにわかった。私は今回、このK氏を頼ってジャカルタに入った。 Bジェトロでの講演 ジェトロで講演中の私 K氏にジャカルタでの工場視察を頼んでいたら、逆に、「中国情勢と海外での企業展開」というテ―マで講演をして欲しいと頼まれてしまった。これは「飛んで火にいる夏の虫」だと思ったが、引き受けることにした。当日はジャカルタ周辺の日本人企業家が30名ほど、ジェトロの会議室に集まっておられた。私は中国情勢について話し、やがて中国の労働集約型産業は競争力を失い、その仕事がジャカルタにもあふれ出てくると主張しておいた。 C暴動後、日本企業総撤退 暴動後、経済の混乱が続く中、日本の商社やアパレル企業は稼働させていた工場を、地元企業に売り渡したりして、ほとんど撤退してしまったという。バンドンにはまだ日系企業のスラックス工場ががんばっているというので訪ねてみた。ジャカルタから3時間ほど車で走ったところに、その工場はあった。ここにも現在、欧米から仕事が殺到しており、数日前には、日本の繊維商社が久しぶりに訪ねて来たという。しかしながらこのバンドンでも、ローカル工場は内需を扱い、外資系工場は欧米向けで満杯である。欧米向けと比べて、日本向けは発注量が一桁から二桁少なく、品質の要求は10倍厳しく、しかも単価は安い。そんな仕事はどこの工場でも見向きもされないと、その日本人経営者が話してくれた。 5.コロンボ 昨年5月、内戦が終了し、経済は上向き基調。この国にも中国の影がちらついている。 @スリランカ概況 ・人口:約2000万人。 民族構成:シンハラ人74%、タミール人18%、ムーア人7%など。 言語:シンハラ語とタミール語。 宗教:仏教70%、ヒンドゥー教15%、キリスト教8%、イスラム教7%など。 ・1948年2月、イギリス連邦内の自治領として独立。 ・1983年、シンハラ人とタミール人との大規模な民族対立が起こり、内戦状態となる。シンハラ人は中南部を拠点とし、中国からの資金、武器供与などを受けた模様。タミール人は北部ジャフナを拠点とし、インドの支援を受けた模様。 ・2009年5月、シンハラ人の政府軍が北部のタミール人地域を全面制圧。内戦終結。 ・100スリランカ・ルピー=78円=0.95$ スリランカ・ルピーは安定。 ・ワーカーの給与は15,000(12,000円)〜20,000(16,000円)スリランカ・ルピー。 ・電力、水事情問題なし、ガソリン代は日本並みで高い。 ・主要産業は縫製業、農業。 Aコロンボと私 2か月ほど前に、見知らぬ人から私のパソコンに、「スリランカのコロンボで綿織物工場を開始したいので、相談に乗って欲しい」というメールが入ってきた。私は、「今更、綿織物工場を作っても、失敗するだけなのに」と思い、お断りの返信をしようとしたが、ふと8年前にマダガスカルに工場調査に行ったとき、たまたま見学させてもらったスリランカ人経営者の縫製工場が、すばらしい管理をしていたことを思い出した。そのとき、その経営者はスリランカにはたくさんの繊維関連工場があると話してくれた。私はそれを聞いてスリランカにすぐに行って見たかったが、その地が内戦状態に陥り、拡大する様相を見せていたため、それをあきらめた。私はメールの相手であるY氏に会ってみることにした。 1か月ほど前、私はY氏に名古屋で会い、詳しい計画を聞いた。すでに販売先が確定しており、工場も内戦中に停止を余儀なくされたものを安価で買収するという。そしてなによりも彼のつかんでいるスリランカ人脈がきわめてしっかりしているようだった。しかしながらY氏自身は長年、自動車関連産業の経営に携わってきており、繊維関連産業には素人なので、私に工場などの目利きをしてほしいという。私は日程を調整して、今回の東アジア駆け足調査の最後にコロンボに行ってみることにした。 B巨大な縫製工場あり、世界一ECOな縫製工場あり。 今回のスリランカの繊維産業調査には、スリランカ通産省紡績局の局長自らが、2日間ずっと私たちに付き添ってくれた。そのおかげで、今まであまり紹介されてこなかったスリランカの繊維産業のベールをはがすことができた。もっとも局長の話によれば、スリランカには千人規模の縫製工場が100社以上あるが、紡績・紡織・染色などの繊維の川上産業はほとんどないという。スリランカはダッカと同じく縫製業が国の基幹産業となっており、輸出の大半を占めているという 私たちはまずコロンボから南東へ車で3時間ほど走ったところにあるジーンズ工場の見学に向かった。会社の外観はそれほどでもなかったが、縫製現場に入ってびっくりした。工場内は整理整頓が行き届いており、ジーンズの品質もかなり高いものであったからである。社内が全面的に写真撮影禁止となっていたため、映像で見せられないのが残念である。なおスリランカの工場はどこも写真撮影禁止で、きわめてガードが堅かった。案内してくれた工場責任者によれば、その会社はスリランカ国内資本であり、社歴は13年で、その工場を基幹としてスリランカ国内に6工場があり、従業員総数は6700人。その工場だけでも月産80万本のジーンズを生産しており、そのほとんどがリーバイスからの受注で、欧米に輸出。生産ロットは10万本単位であり、資材はパキスタン・インド・中国・トルコなどからの輸入。最終工程では、値札付けもされていたので、見てみると40$台のものがほとんどだった。現在、日本の店頭では、10$以下のジーンズが主流であり、とても日本のアパレルが低価格ゾーンの製品の生産を依頼できるような工場ではなかった。現在、リーバイスなどの取引先からの発注がどんどん増えており、スリランカ国内の田舎の地方に分工場を拡大する予定だという。 次に見学した工場は、ナイキのニットシャツの専属工場であった。この工場も素晴らしかった。工場内のあちこちに、KAIZENや6Sという標語が貼られており、技術・工程管理も細かいところまでしっかり工夫されており、コンプライアンス対応も完璧だった。なおこの工場の従業員は1400人。 ECO工場の看板前で記念撮影 最後にECO工場として売り出し中の縫製工場を見学して、私は唖然とした。なぜなら私はこの歳になるまで、このような素晴らしい作業環境を整えた縫製工場を見たことがなかったからである。工場内は温度・湿度・CO2・ダストなどが自動管理できるようになっており、集中管理室でそれらはリアルタイムで計測されていた。工場内に走り回っている車は全部電気自動車でCO2対策を行っており、工場の屋根には明かり取りの窓がたくさん取り付けてあり、節電しながら照明効果を上げ、雨水を地下タンクに溜め、それをウオッシング作業やトイレの水に使用し節水に努め、なおかつそれを浄化し広い庭の芝生に散布し、池に流し込みアヒルや魚を飼っていた。風通しがよくきれいな食堂が中庭に作ってあり、その側にATMや医務室などが並んでいた。ゴミも完璧に分別回収されていた。この素晴らしい会社もスリランカ資本であり、33年の社歴を誇り、マークス&スペンサーの専属工場で、全量をヨーロッパに輸出しているという。セキュリティもしっかりしており、入り口で一切の持ち物の工場内への持ち込みを禁止されたので、映像で見せられないのが本当に残念である。 靴下の製造工場にも行ってみた。ここは薄暗い工場で、あまり見るべきものはなかったが、ちょうど退勤時間にさしかかり、おもしろい光景をみることができた。この工場では出退勤管理に指紋認識式のタイムレコーダーを使用しており、終業のベルがなると同時にその前に200名ほどの従業員が列を作ったが、みんなが次々と手際よく人差し指を電話のような形をしたものに差し込ん行き、それはあっという間に終わり、全員がいなくなってしまった。 指紋認証式タイムレコーダー この器械は300$ぐらいだというので、わが社の合弁工場でも導入したいと思った。これを導入すれば、欠勤率などもリアルタイムで把握可能だからである。 いずれにせよ、スリランカの工場はどこも巨大で活気に満ちあふれており、すべてレベルが高く、それらの工場のすべてが欧米向けの仕事で満杯であり、いずれも拡大基調であることがわかった。 C綿織物工場への挑戦 Y氏といっしょに、綿布の紡織工場を3か所見てみた。それらは縫製工場とはまったく違い、いずれも薄汚く、整理整頓が行き届いていない工場であった。ただしそれらの工場の値段は土地を含めてもかなり安く、私は買い時だと思った。なお、中国では多くの綿紡織工場が整理淘汰され、中古の織機が安価で出回っているので、それを買い占めてスリランカに輸入してくれば、すぐにかなり大きな紡織工場の操業が可能であると考えた。念のため、紡績局の局長に中古機械の輸入は可能かと聞いてみると、生産に使うものならば免税扱いであるという返事だった。また現在、綿糸は中国・パキスタン・インドなどから買い付けているということだったので、相談の結果、中国での綿糸買い付けについては、私が中国で調査してみるという話になった。結局、私はY氏のこの綿織物工場構想に一口乗ってみることにした。この手を打っておけば、スリランカの現場の生の情報が入手可能だと思ったからである。 Dしのびよる中国の影 スリランカの南端にハンバトタという港があり、現在、そこに中国が2000億円を投下して拡大築港中である。政府はそこをハブ港として世界貿易の中心にしようとしている。さらに港周辺を経済特区に指定し、中国に見倣って、世界各国から工場誘致を行い、一大工業地帯を築く予定であり、すでに道路などのインフラは整備が終了しているという。私はこのハンバトタへ行って、現場をこの目で確かめたいと思ったが、コロンボから車で5〜6時間かかるというので、今回は断念した。次回にはぜひ行ってみたいと思っている。 |
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