極東ロシア近況
極東ロシア近況 |
13.JAN.10 |
「デルス・ウザーラ」?…。 ウラジオストックの民俗博物館を訪ねたとき、玄関を入ったところに、ロシア軍人の
大きな肖像画があった。私がそれをながめていたら、「小島さんは『デルス・ウザーラ』を見ましたか」と、通訳の ロシア人が私に聞いてきた。私はかすかに、黒澤明監督の作品の中にそんなタイトルの映画があったことを 思い出したが、口には出さなかった。 その映画は黒澤作品にしては、当時(35年前)評判があまりよくなかったので見ていなかったし、なによりも その肖像画と映画が、頭の中でまったく結びつかなかったからである。怪訝な顔をしている私に、通訳が肖像画を 指しながら、「このアルセーニエフ大尉があの映画の主人公の一人です」と説明し、「黒澤明監督は偉大な人です ね。素晴らしい映画を作ってくれました」と付け加えた。私はその言葉を聞いて日本人として「デルス・ウザーラ」を 見逃していたことを恥ずかしく思った。 帰国後、すぐにレンタルビデオ店に借りに行った。ところが他の黒澤作品はたくさんあっても、「デルス・ウザーラ」
だけはどこにも見当たらなかった。店員に聞いても「誰も借りないので、置いていない」という。その後大きな店を 3軒探し回ったがどの店にも置いてなかったので、仕方なくネットで検索して購入し、正月休みに見てみた。 「デルス・ウザーラ」とは、1900年初頭に極東ロシアを探検した帝政ロシアの軍人:アルセーニエフ大尉とそれを 道案内した現地の猟師:デルス・ウザーラの友情を描いた映画であった。舞台は極東ロシアを中心に展開されてお り、黒澤明監督が2年間に渡って美しい風景を撮影した作品であり、私は名作だと思った。 1.綏芬河総合保税区 まず私は牡丹江へ飛び、牡丹江市の政府の人といっしょにマイクロバスで、ロシア国境に隣接する綏芬河総合保 税区に行った。この保税区は4月に認可されたばかりということで、周囲の柵ができているだけで、インフラ整備は あまり進んでいなかった。保税区の主任から、保税区は中央の道路をはさんで細長く、面積は1.8平方キロである という説明を受けた。さらに主任がこの保税区のいろいろな特典を解説してくれたが、まだ具体的な大型工場の誘 致は決まっていない様子だった。 2.綏芬河からバスでロシア側へ 次に綏芬河からバスでロシアへ入国した。中国側の出国手続きは簡単に済んだが、ロシア側の入国手続きに、 約3時間かかり、閉口した。とにかくロシア人の買い物ツアー客つまり担ぎ屋さんが多く、しかも入国審査窓口が3 か所しかなく、それに加えて要領の悪いロシア人係員が作業を滞らせていたからである。面白いことにロシアへの 荷物の持ち込みは重量30kgまで無税という規則になっており、担ぎ屋さんたちが軽くて値段の高いものを運ぶの で、大きくかさだかい荷物でバスが満杯になっていた。こうしたロシア人がこの税関を1日で2000人通過していると いう。これでも減った方で、金融危機前は5000人を越えていたという。 3.パクロフカ ロシアに入り、まずパクロフカにある俄羅斯華宇経済合作区内の黒竜江華宇工貿(集団)有限公司の事務所を訪 ねた。そこで総経理からこの会社や合作区の状況を聞いた。この合作区は黒竜江省東寧とは山を挟んで反対側に あり、中国側の東寧税関から30kmで、1時間もあれば来ることができるという。私は綏芬河税関を通ってきたので ずいぶん遠く感じたが、この合作区と東寧とは指呼の間であり、東寧最大の企業である華宇工貿(集団)有限公司 が、ここに進出しているのも頷けた。なお東寧にあるのは2級税関であり、外国人はそこを通過できないということで あった。 それにしてもこの公司はロシアの領土内に広大な農場や工業団地を持っており、なにかロシア政府との間に特別
な関係があるのかと思い、総経理にそれを聞いてみた。総経理はかすかに笑みを浮かべながら、「わが社のトップ の奥さんはロシア人です。だからこの土地も奥さん名義です」と種明かしをしてくれた。それでもその農場や工場に 中国人労働者が多数働いていると聞いていたので、さらにその点を突っ込んで聞いてみたところ、外国人労働者が ロシアで働くには就労ビザが必要であるが、それは申請すれば交付されるという。またその人数は工場の規模や 業種などによって細かく枠が設定されており、1年更新ビザ、毎年1回の申請で締め切りは3月1日などと説明してく れた。つまり申請さえすれば、意外に簡単に就労ビザが取れるような口ぶりだった。 総経理が座をはずしたとき、側にいた事務担当者が私に、申請書類の書き方などがきわめて難しくなんども書き 直させられるし、そのたびに袖の下も要るのでたいへんだとこぼした。 まず私は農場に連れて行ってもらうことにした。総経理は「農地は一面の雪だから、行っても仕方がないですよ」 と言いながら、30分ほど離れた場所へ案内してくれた。農地は2000ヘクタール以上あるという説明を受けたが、 そこには雪景色以外なにもなく、それを確認することはできなかった。この農地では主に飼料用のとうもろこしを作 っており、近くの農場で豚を1万頭、食肉用鶏を5万羽、卵用鶏を5万羽、飼育しているという。さっそくそこに連れて いってもらったが、家畜伝染病予防のため畜舎には入らせてもらえなかった。豚肉や鶏肉、たまごはロシア市場に 出荷されているという。屋外では寒風吹きすさぶ中、30人ほどの中国人がとうもろこしの乾燥作業を行っていた。 私はその姿をデジカメで撮っていたが、零下20度を下回る寒さに数分も耐え切れず、車の中に逃げ込んだ。農作 業のできる季節には、中国から農民をさらに100人ほど連れてくるという。 車の中で、総経理に朝日新聞に載っていた「リャリチの農場」について聞いてみた。ちなみに12/12付けの朝日 新聞の西村記事には、「ウスリースク近辺のリャリチ村に、東寧華信経済貿易という中国の会社の農場があり、約 6千ヘクタール農地と約8千頭の養豚業を営んでおり、そこに150人の中国人労働者がいる。極東ロシアには約2 000の中国系農場が進出。耕作地は35万ヘクタールに達している」と書いてあった。私の問いに総経理は首を傾 けながら、「リャリチという村はここから遠く、そこに大きな農場があるとは聞いたことがないし、東寧では私の会社 が最大であるが、東寧華信という会社の名前は知らない」と答えた。さらに、「たしかに最近、極東ロシアでは韓国 人経営の農場も増えてきたが、中国人も含めて外国人が経営する農場は、多くても100社を超えることはない」と 言い切った。 私もこの西村記事にある2000社はオーバーではないかと思う。もしここに2000社も外国人経営の農場が出現 したら、まさに極東ロシアは外国人に占領されたような状況となり、そのようなことをロシア政府が看過するはずが ないと思うからである。 雪に覆われた広大な農場 工業団地の靴工場 次に私は工業団地へ案内してもらった。俄羅斯華宇経済合作区内には、3箇所の工業団地があり、35ヘクター ルの土地に1,000uを超える建物が10棟ほど建っており、現在も増築中。そこでは靴・家具などの工場が稼動し ており、現在、中国人労働者が800人以上、ロシア人労働者が70人余り働いているという。その中の一軒の靴工 場に入ってみた。生産ラインで働いているのは中国人ばかりだった。ロシア人を探したところ、最終の製品箱詰め の場所でその姿を発見することができた。中国人工場長にロシア人の働きぶりを聞いてみると、「技術の必要な場 所は任せられない。単純工程をピースペイでやらせるとよくがんばる。それでも終業時刻が来るとさっと帰ってしま う」と話してくれた。 そのロシア人労働者の月給は4〜7万円だという。また「ここにいる中国人はほとんどが浙江省から来ており、月 給は3000〜6000元(約4.5〜9万円。食費・寮費・医療費・本国往復旅費などは会社負担)である。この工場で 製造した靴は、ロシア国内市場で販売しており、関税がかからないので競争力があり、よく売れている。各地の市 場に卸しているのだが現金決済なので、中国国内販売よりも、売上代金の回収が2か月早く、資金繰りが楽であ る」などと語ってくれた。 私が2003年にウラジオストックに来て工場調査をしたときには、この地で韓国人の工場が十数社稼動していた。 そのとき韓国人経営者たちは、口を揃えてロシア人の怠惰なことを言い募り、儲からないとこぼしていた。その韓国 人は数年前、ほとんど撤退してしまった。そこには関税の問題など、ロシア側の法律問題の煩わしさがあったと聞 いている。韓国人が撤退したあと、この地に上手に中国人が入り込み、「怠惰なロシア人問題」も、「煩わしい関税 問題」もクリヤーして、現在では結構儲けているようである。 4.ハバロフスク ウスリースクから夜行列車でハバロフスクへ移動した。夜明けに着いたハバロフスクは、予想外にモダンできれい な町だった。駅前のファーストフード店でハンバーガーを食べアメリカンコーヒーを飲んで、市内の卸売市場の視察 に向かった。日本の国際展示会場のような大きな建物の中に200軒以上の店があり、そこには中国製品が溢れ かえっていた。それぞれの店の販売員はロシア人が多かった。建物の外にもずらりと店が並んでいた。その数はお およそ500軒であった。私はこの零下20度近い戸外で、よく商売ができるものだと感心しながら、同時にコチコチ に凍った道で滑って転ばないように気をつけながら店頭を見て回った。戸外店での販売人はほとんどが中国人であ った。もちろん製品もまたほとんどが中国産であった。私は中国パワーに圧倒された。 製品は結構高く、たとえばシンプルなダウンコートに、日本円に換算して2〜3万円ほどの値札が付いていた。ま だ交渉の余地はあるとは言うものの、やはり高いと思った。そのときロシア人の通訳が「ロシアは世界一物価が高 い」とつぶやいたので、「極東の一般のロシア人の月給は4〜6万円ほどだと聞いているが、なぜ物価が高いのか。 こんなに高くては誰も買えないではないか」と聞いてみると、「ロシア人にはいろいろな副収入があるので」と彼は口 を濁した。同行してくれていたロシア通の日本人が、そのやり取りを聞いていて、「一般にロシア人は別荘を持って おり、そこで週末を過ごし、そこにある小さな畑で野菜などを作っており、いわば自給自足している。また二つの職 業を掛け持ちしている人も珍しくはない」などと補足説明をしてくれた。 私は「別荘」と聞いてなにか釈然としない気がしたが、その場ではそれについて質問しなかった。帰りの車中で彼 が窓の外を指差して、「あれが別荘です」と教えてくれた。それは「別荘」などという代物ではなくて、小屋と呼ぶのが ふさわしいようなみすぼらしいものであった。それでもそれが延々と続く景色を見ていると、物価高の社会でのロシ ア人の生活防衛手段が少しわかるような気がした。ただしモスクワ近辺のロシア人の平均月給は10万円に近くな っているという。 ハバロフスクの戸外の卸売り市場 ハバロフスクののシナゴーグ その後、市内のスーパーや百貨店などを見て回ったが、そこら中にあまりにも中国製品が多いので、担ぎ屋さん だけではこの量を賄いきれないだろうと思い、「正規の輸入ルートはどこにあるのですか」と聞いてみると、アムール 川の対岸に撫遠という1級税関があり、そこから輸入されるという。私はその地名を聞くのは始めてだったので、ロ シア側からそこを遠望したいと思い、アムール川の岸辺まで連れて行ってもらった。川は完全凍結しており、歩いて 中国側に行けるような様子だったが、うっすらと降っていた雪にかすんで、対岸の様子はわからなかった。 ハバロフスクからユダヤ自治州のピロビジャンまではそんなに遠くはない。だからきっとこの地にもユダヤ人がい るに違いないと思い、「ハバロフスクにシナゴーグはありませんか」とロシア人通訳に聞いてみたら、やはりあるとい うので、今度はそこに案内してもらった。残念ながら門が閉ざされており中には入れなかったが、それはダビデの星 を掲げた立派な建物であった。その威容から判断して、ハバロフスクにはまだ相当数のユダヤ人が住んでいると思 った。最後に日本人墓地を訪ねて、冥福を祈った。 5.ウラジオストック 再び夜行列車に乗り、ウラジオストックに戻った。夜行列車での往復で、2日間シャワーをしていなかったので、ま ずホテルにチェックインし、ひげを剃り、頭を洗い、身だしなみを整えてから、高級ブランドを扱うという百貨店の視 察に向かった。その百貨店は5階建てで、1フロアーには10店舗ほどが並んでいた。 店にはたしかに中〜高額のブランド商品が並んでいたが、どこか雑然とした感じであった。ZARA、H&Mクラスの ブランドのダウンコートで、5〜8万円ほどの値札がついていた。百貨店は正札販売で値切ることはできないので、 この価格はかなり高いと感じた。最上階には、先日東京でオープンして話題となっていた床面がプラスティックのス ケート場があり、子供たちが楽しそうに滑っていた。私はそれを見て、わざわざお金を払ってここでスケートをしなく ても、外の道路はコチコチに凍っており、本物のアイススケートができるのにと不思議に思った。 ウラジオストクの中国人小売店内 次に朝日新聞に載っていたスポルチープヌィ市場に行ってみた。そこはウラジオの台所とも呼ばれている場所で、 大きな建物の中に中国人の営む小売店約1000社が集中していた。しかもその市場は現在も拡大中で、新築の建 物が完成すればさらに500社が増えるという。ここにも戸外店舗がたくさんあり、そこでは生鮮食料品を売ってい た。建物内で販売している商品は大半が軽工業製品で、そのほとんどが中国製であった。ここの市場の商品もそん なに安くはなかった。各店舗の販売員はほとんど中国人であり、これらの建物のオーナーもすべて中国人だという。 この市場では、1店に1人の割合でロシア人の雇用が義務付けられているということだったが、ロシア人販売員の 姿はほとんど見かけなかった。店頭を見回っていると、ある店で販売員がベトナム語の新聞を読んでいるの見かけ た。聞いてみるとベトナム戦争時にここに来てそのまま居残り、ロシア国籍を取得してここで働いているという。これ も前記の規則をクリヤーする巧妙な一手段だと思った。とにかく私はここでも圧倒的な中国パワーを見せつけられ た。 朝日新聞には、「市当局がこの地域の一部を中国に75年間貸すことを承諾したという情報が流れた。これは正 式な決定ではなく、ウラジオストック経済発展戦略の検討案の一つであったようだが、ウラジオのロシア人たちを震 撼させた」と書いてあった。この市場の中国人関係者にその話を聞いてみると、笑いながら「あれはうわさだよ。ロ シア人がそんなことを許すはずがない。それでも昔からここに住んでいるロシア人たちは、心の中ではモスクワやチ ェチェンからマフィアが来るよりも、中国人の方がまだましだと思っているみたいだよ」と話してくれた。 ホテルへの帰路、ウラジオ駅付近で、がらすきの中古自動車倉庫を見た。数年前までは大きな倉庫が満杯で、そ の影響で陸揚げ作業も滞り、他の港の活用が真剣に取沙汰されていた。ところが昨年の中古車関税の大幅アップ でこの事業がまったく採算が合わなくなり、輸入はぱったり止まってしまった。今や港では大型倉庫が無用の長物と 化し、無残な姿をさらしていた。 「中国分裂 七つの理由」で宮崎正弘氏が書いているように、ウラジオ市内は建設ラッシュであった。港近くの道 路上にはルースキー島へ向かう橋の橋脚がニョキット建っていた。この工事は地元のロシア企業が受注したもの を、日本の石川島播磨が下請けしているという。市内のビルは中国系企業が下請けしているものがほとんどだとい う。 ウラジオストク市内に立つ橋脚 その日はいちだんと寒く、ルースキー島へは湾が荒れているという理由で、ナホトカへは道路が凍結しているとい う理由で結局行けず、宮崎正弘氏のレポートの確認はできなかった。ただしロシア人通訳が、「昔は、ウラジオは軍 港、ナホトカは商業港と分けられており、両港が栄えていたが、ウラジオが民間に開放されてから、ナホトカが衰退 しチャイナタウンなどもなくなってしまった」と話してくれた。 6.ウスリースク 再び、綏芬河国境を通って中国に入国するために、ウスリースクに立ち寄った。この地に昨年9月、高麗民族博 物館がオープンしたと聞いていたので、「なぜこの地に朝鮮族の博物館ができたのだろうか」と疑問を持ちながらそ こに行ってみた。こじんまりとした博物館であり、展示物も少なかったが、担当者の朝鮮族系ロシア人が懇切丁寧な 解説をしてくれたので、疑問は解けた。 高麗民族博物館 彼の話によれば、第2次世界大戦時、ナホトカの北方にパルチザンスクという場所があり、そこを拠点にして多数 の朝鮮族が抗日の戦いに参加していたという。朝鮮戦争には主に白頭山を根拠地にした金日成率いるパルチザン が活躍したので、戦後、ロシアのパルチザンスクを根拠地にしていた朝鮮族は、スターリンの命によって、強制的に 中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンに移住させられた。これは白頭山パルチザンとの権力争いに負けた結 果とも考えられる。なお極東ロシアでは朝鮮族を高麗人と呼んでいるという。 近年、中央アジアで生き残った彼らの子孫が、そこから帰って来て、ウスリースク近辺に2万人以上住み着くこと になった。そこでこの地に高麗(朝鮮族)民族博物館を建て、民族の歴史を語り継ごうということになり、ロシア語と 朝鮮語で書かれた高麗新聞を発行したり、建物前の庭で民族舞踊を教えたりしているという。なお、中国の地図で 極東ロシアのパルチザンスクを探したところ、「遊撃隊城」という地名が記されていた。この地名はロシア語読みを 漢字表記したものではなく、まさにピッタリの意訳であり、その機転には感心した。 7.帰路 帰路のバス内は中国人ばかりだったので、ほぼ1時間で、すべての手続きを済ませ中国に入国することができ た。 8.余記 @この旅行中、どこでもロシア人たちは中国人のことをCHINESEと呼ばずキタイと呼んでいた。また中国人たちはロ シア人のことをRUSSIANと呼ばずウォロス(俄羅斯)人と呼んでいた。ちなみに広辞苑には、「キタイとは昔の契丹 国を語源としたロシア語の中国の称であり、ウォロスはロシアの異称である」と書かれている。キタイという呼称に は、ロシア人たちが「極東ロシアに中国人には来て欲しくない」という心情と 「中国人なしではやっていけない」とい う実情が複雑に絡み表現されているような気がした。またウォロスという呼称には、「極東ロシアの地はもともと中国 のものだったのに」という中国人の恨みと嘆きの感情が乗り移っているような気がした。 A通常、極東ロシアという場合は、沿海州・ハバロフスク州・マガダン州・カムチャッカ・サハリンなどを含み、人口は 700万人ほど(朝日新聞では646万人、ロシア人が1990年から2割減とレポート)であり、ハバロフスクは流動人 口を含め80万人、ウラジオストックは80万人、ウスリースクは20万人。その中に中国人労働者や中国人販売員 など商業従事者が20万人ほどいるという(朝日新聞も同様の中国人の数を載せている)。 B中国に戻った日のホテルの食堂で夕食に、立派な魚の頭が出た。美味しかったので、服務員にその名前を聞い てみたら「カラスガレーです」と言い、ついでに「ロシア沿海州で獲れ、胴体は切り身で日本、頭は中国に来ます」と 教えてくれた。「尻尾はどこに行くんですか」と聞き返したら、「わかりませんが、多分地元民が食べるのでしょう」と いう返事だった。 C今回の極東ロシア旅行は、終始、零下15〜25度の世界であった。寒さはさほど感じなかったが、とにかく滑って 転ばないように歩くのがたいへんだった。小股でチョコチョコ歩くのと、たくさん服を着ているので体力をかなり消耗 し、疲れた。最後にはとうとう転んで、尻をしたたかに打つおまけまでついた。やはり厳寒のロシアは訪れたくないと 思った。 |
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