小島正憲の凝視中国

日中死生観比較 その1〜徐福と姥捨て〜 


日中死生観比較 その1〜徐福と姥捨て〜 
24.JUN.11
1.徐福

 徐福は謎の多い人物である。中国には徐福のゆかりの地が多数存在しているし、日本にも徐福到来の地が数多く残されている。そしてその謎を解くため、日中双方に研究会が組織されており、多くの人が徐福伝説を追いかけている。 

 司馬遷の「史記」によれば、2300年ほど前、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に不老不死の霊薬があるので、それを持ち帰り献上する」と具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女や多数の職工を引き連れ、大量の食糧や金銀財宝を持って日本へ渡航した。しかしその後、徐福は中国へは帰らず、日本の王となったという。いずれにせよ徐福の日本への渡航目的は「不老不死の霊薬」を手に入れることであり、それは古来、中国人が「不老不死」を強く希求していたということの証左である。「不老不死」つまり個人の「長寿」が、中国人の究極の死生観であったことを示している。

 中国の徐福ゆかりの地は、北から順にあげると、遼寧省の綏中、河北省の秦皇島、滄洲、山東省の龍口、琅ヤ台、江蘇省の連雲港、浙江省の寧波、岱山などにある。その中で、1993年10月には、江蘇省連雲港市カン楡県金山鎮后徐阜(福)村が「徐福の生まれ故郷」として認知され、盛大な「中国徐福会」の成立大会が催された。先日、まず私はその連雲港市にある后徐阜(福)村に足を運んでみた。今後、時間の余裕をみつけ、他の徐福ゆかりの地にも順次訪ねて行きたいと思っている。

 私は連雲港の空港から、携帯電話のナビに「后徐阜(福)村 徐福祠」と打ち込んで、その指図に従って車を進めた。1時間ほどで后徐阜(福)村に着いたが、徐福祠はなかなかみつからなかった。なんども地元の人に聞いて、そこに辿り着いた。たしかに門前には徐福祠という看板があり、その由緒が書いてあったが半分剥げており読むことできなかった。また祠自体もみすぼらしいもので壁には亀裂が入っていたし、屋根瓦も割れ、そこから雑草が生えていた。しかも門には大きなカギがかけてあった。がっかりして私がしばらくその場に座っていると、どこからか徐福に似た老人が現れて、門を開け中に入れてくれた。祠内も荒れており、雑草がかなりはびこっていた。その老人が口をもぐもぐさせながら、この祠は28年前に建立されたが、5年ほど前に別の場所に新しい徐福廟ができたので、いろいろなものがそちらに移転してしまい、この祠には何も残っていないという。帰り際にお礼を言いながら、その老人に名前を聞くと、「徐福の71代目の子孫、徐広法」とはっきり答えてくれた。

  

 古い資料によると、この徐福祠の周辺に、徐福が生活した家や徐福の渡航船の建造現場、渡航出発地点、霊薬栽培畑などがあるはずであった。周辺を歩いてみると、たしかにそれらは保存されていたが、碑が傾いていたり、壊れかけたりしていた。

 次に徐福廟に行くため、その場所を村人に聞くと、そこはすぐにわかった。車で走っていくと、遠くからでもきらびやかな廟の屋根がはっきりわかった。廟の入り口近くには、10mほどの巨大な石造りの徐福像が立っており、その周辺には立派な公園が作られていた。徐福廟は先刻の徐福祠の10倍ほどの広さで、なおかつ豪華であった。その廟の右側には、さらに立派な道観風の建物が建設中であった。まさにそこでは徐福を観光で売りだそうとするこの村の魂胆をありありと見せつけられた。

  
       連雲港市カン楡県の徐福廟

 日本の徐福到来の地や徐福に縁のあると地としては、南から順にあげると、児島県の串木野市・坊津町・屋久島・種子島、宮崎県の宮崎市・延岡市、佐賀県の佐賀市・佐賀郡・山内町・伊万里市・武雄市、福岡県の八女市・築紫野市、高知県の土佐市・須崎市・佐川町、山口県の上関町・豊北町、岡山県の倉敷市、京都府の伊根町、和歌山県の新宮市、三重県の熊野市、愛知県の名古屋市・小坂井町、静岡県の清水市、山梨県の富士吉田市・河口湖町・山中湖村、神奈川県の藤沢市、東京都の八丈島・北区王子、秋田県の男鹿市、青森県の小泊村、北海道の富良野市などがあげられる。

   
      新宮市の徐福公園

 それぞれの場所には、古くから地元の人たちの手で守られてきた徐福の墓や像などが遺されている。手始めに私は、新宮市と熊野市に行ってみた。

 JR紀勢本線の新宮駅前に降り立つと、すぐ目の前に立派な徐福公園がある。この公園は1994年に完成されたもので、総工費が6億円ほどかかったという。日本国内はもとより香港などからの寄付でまかなわれたようである。

   

 公園内には徐福像(平成9年建立)や徐福の墓(元文元年:1736年建立)、徐福の重臣7人を祀るという七塚の碑(大正4年建立)、由緒板(平成6年:中国山東省龍口市より寄贈)などがある。また園内では徐福が追い求めた不老不死の霊薬と言われる「天台烏薬」の木が育てられており、この霊薬から作られた健康食品が、売店で売っている。そこには徐福グッズもいろいろと取りそろえてある。この徐福公園の近くに阿賀須神社があり、その境内にも徐福の墓がある。さらにそこから海辺に50mほど行った所に徐福上陸の地と称する碑がある。ちょうどそこにはお椀をふせたようなこじんまりとして綺麗な形の山がある。地元の人はこれを徐福が捜し求めた蓬莱山であるという。
※なお詳しいことをお知りになりたい方は、(財)新宮徐福協会 TEL0735−23−3333 和歌山県新宮市徐福一丁目4番24号へお問い合わせください。

 新宮市からJR紀勢本線を少し北上すると、三重県熊野市に入る。熊野市の波田須駅の近くに徐福の宮があり、ここにも徐福の墓がある。山の中腹にあるこの宮からは、眼下に広大な太平洋を見渡すことができる。また周辺には棚田が広がっており、それらの景色を楽しみながら山を登っていくと、そこに徐福茶屋がある。そこで休憩させてもらい、徐福の宮とその先に広がる太平洋をながめると、なぜか自分がはるばる中国から渡ってきたような爽快な気分となる。

  
     熊野市の徐福の宮

 このような徐福のゆかりの地が、九州から北海道まで全国各地にあることについては、当時、中国から多くの職工が渡来し、各地でその技術を伝授した。それがいわば弘法大師の事績のように、徐福伝説として残ったのではないか。あるいは徐福の船団は小さな船で日本海横断を試みたわけで、それらが目的を果たすために、難破することを避け、意識的に多くの場所に辿り着いた結果ではないか、などと考えられている。


2.姥捨て

 かつて日本には棄老の習慣があった。この棄老つまり姥捨てという言葉は、若者の立場からのもので当事者のものではない。棄てられる当事者は、その習慣を喜んで受け入れており、その意味から考えれば棄老あるいは姥捨てという言葉は適切ではない。今、私の頭の中にはそれを上手く表現する言葉が浮かんでこないが、とりあえず「自己犠牲的自棄」とでも書いておく。この習慣を突き詰めて行くと、「即身成仏」という思想に至るのではないかと私は考える。またこの「即身成仏」こそが日本人の究極の死生観ではないかと思う。

 「姥捨て」思想は、深沢七郎の手によって「楢山節考」として著され、広く世に知らされた。またそれは今村昌平監督によって映画化された。私は若いときにその映画を見た。私はその映画のラストシーンが、今でも忘れられない。私はこれが日本の誇る「姥捨て」思想であると思う。私の妄想をからめて、そのラストシーンを下記に描き出しておく。

 緒方拳の扮する息子が、坂本スミ子が演ずる老婆を姥捨て山の奥深くに置き去る。そのとき雪がちらつく。緒方が振り返ると、岩の上に端座した坂本は、叱りつけるようなかつ微笑むような顔で、手を振り緒方を追いやる。その坂本の姿は、みじんも悲哀を感じさせなかった。むしろ生き仏さまのように見えた。緒方は一目散に家に駆け帰る。家では、すでに坂本が使っていた服や帯を、嫁や娘が着用し、まめまめしく働いている。そこには昨日まであった坂本の存在は、まったくなかった。緒方もなにごともなかったように、すっとその生活に溶け込んでいった。

 長野県を走るJR篠の井線に「おばすて」とい名の駅がある。この駅に降りると、姨捨(おばすて・うばすて)山を見ることができる。この山の正式名称は冠着山(かむりきやま)で、冠山とも更科山とも称され、古くは小長谷(おはつせ)山とも言われていた。この地が「おばすて」と呼ばれるにあたっては諸説があるが、古称の「おはつせ」がなまって「おばすて」となったという説もある。いずれも「姥捨て(うばすて)」という棄老伝説の出所が、この地であることを裏付ける学説はない。しかし「おばすて」駅近くの長楽寺境内には、俳聖松尾芭蕉の「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」という句碑がある。少なくとも、芭蕉の時代には、すでにこの地が「うばすて」の地として有名であったことがわかる。なおこの句からは、同時にこの地が「田毎の月」として、棚田に映る月が美しく見られる場所として、古来、名勝地であったこともわかる。

    

 また、「おばすて」駅に積まれているパンフレットには、故郷の民話として「姨捨山伝説」が載せられており、この地が日本各地にある棄老伝説の地の一つであったことを明示している。それでも地元の人達は、この地が「うばすて」の地としてよりも、「名月の里:姨捨」や、「重要文化的景観:姨捨の棚田」の地として有名になることを望んでいるようである。長楽寺に置いてあった地元の古老が著した小冊子には、「姥という字は老女を指し、姨という字は母の姉・妹を指している。姥と姨は異なる」と、わざわざ強調して書いてある。ちなみに広辞苑で「うば」という字句を調べて見ると、「姥・媼」という漢字で「老女、老婆、おうな」という解説が、「おば」という字句では「老婆、姥」という漢字で、「(おほばの略)年取った女。おうな。ろうば。ばば」という解説が出てくる。また反対に芭蕉の句は、もともとは「ひとり泣く」だったものを、地元の人が「ひとりなく(無く)」に変え、碑に刻んだとも言われている。

 ともあれ、古来、日本には各地に棄老の風習があった。それは深沢七郎の「楢山節考」や柳田國夫の「遠野物語」にも取り上げられている。歴史上には、「大和物語」(950年ごろ)、「今昔物語集」(1120年ごろ)、世阿弥の謡曲(1363年)でも見受けられる。しかし歴史上に書き残されたものは、棄老を美談としてではなく、棄老の風習を破った親孝行息子を誉めたたえる物語となっている。つまりこれらはすでに親孝行という儒教思想で脚色されたものとなっており、この時代に、棄老の風習が思想的に遺棄されたことがわかる。