小島正憲の凝視中国

「中国経済がダメになる理由」 vs 「あと5年で中国が世界を制する」


「中国経済がダメになる理由」 vs 「あと5年で中国が世界を制する」
(石平・三橋貴明共著 PHP 09年5/01刊)   (副島隆彦著 ビジネス社 09年9/05刊)         
29.OCT.09
 巷では、昨今、民主党のアジア重視外交の表明のせいか、こんな題名の本が売れているという。

 どちらも中国経済の今後を論じているのだが、結論は正反対である。

 一体、どちらの本がより実態に近いのであろうか。

 今回はそれを検討する。各項冒頭の○×△は、その主張の正誤を示す。


1.「中国経済がダメになる理由」の正誤。

@×「中国の失業者は1億人に近づいている」

 三橋氏は本著の冒頭で、「現実には民工を含めた中国の失業者が1億人に近づいている」と、大ウソをついている。

 彼はその論拠として、

 「中国当局は2008年の失業率について4.2%、失業者総数が886万人になったと発表した。失業率が4.2%で、失業者総数が886万人ということは、中国の労働人口は2億1千万人と計算される。人口が12億人を超える中国は、わずか2億人が働くだけで成り立っているわけだ。
(中略)
 民工を含む中国の失業率は、中国社会科学院の社会青書によると、なんと9.4%という高水準に達しているという。人口が10億人を超える国で、失業率が2桁に近いのだ。つまり失業者は1億人に近づいている」

 と書いている。

 まさにわけのわからない統計数値を引っ張り出してきて、結論を「失業者1億人」と当てずっぽうに言っているのである。

 中国では5年前ほどから、人手不足状況が進行している。
 中国には「失業者はいない」と言い切っても言い過ぎではない。

 三橋氏が論拠として引き合いに出している社会科学院もこれを認め、農民工が枯渇することに強い危機感を表す声明を発表している。

 私はこれまでに多くの現場検証を行い、中国全土で人手が不足していることを証明してきた。
 中国のどんな田舎に行っても、街の多くの飲食店や小売店などの店頭には、求人広告が貼られている。

 つまり人手不足なのである。

 三橋氏が言うように、1億人も失業者がいるのならば、どんな職種にも失業者が殺到するはずであり、求人広告など出そうものならば応募者が将棋倒しになるぐらい集まるはずである。

 だが実際には、100人を募集してみても数人しか集まらない。中国は深刻な人手不足状態なのである。

 深セン市人力資源・社会保障部門の報告によれば、8月の深センの労働力不足は12万人に及ぶという。
 広東省全体でも事態は同様に人手不足であり、それぞれの市の労働局が中国の各地方に求人活動に走っているのが実状である。

 他の各省でも事態は同じである。
 浙江省義烏市の労働市場では、労働者を募集する企業のブースが建物の外まではみ出し、交通渋滞が起きるほどであるという。

 江蘇省の蘇州工業園区では3月から「労働力不足」の兆しが見え始め、今では約5000人もの労働力が不足している。

 これらの人手不足現象の理由については、2003年度に私がすでに分析し発表しているので、それを参照していただきたい。その後、人手不足状況は金融危機を経た現在でも、本質は変わっていない。

 大卒の就職難を取り上げて、失業者が多いことを傍証としようという学者や中国ウォッチャーがいるが、それは間違いである。

 大卒の就職難現象は彼らの「ぜいたく病」の結果である。
 彼らは手を汚さず汗をかかないで済み、給料が高い職場を望んでいる。また一人っ子なので親も、大学まで出したのにということで、高望みをして安易に就職させない。肉体労働や安月給のところに行くぐらいなら、遊んでいてもかまわないという風潮なのである。

 したがって大卒の就職率などまったく参考にならない。それが証拠に、就職できない学生が、飢えて暴動を起こしたなどという話は聞いたことがない。

 私は三橋氏に頼みたい。「中国のどこでもよいので店頭に求人広告が貼ってない街をみつけて教えて欲しい」と。私はすぐにその地に調査に飛んで行く。


A×「中国全土において暴動が年間9万件以上起きている」

 日本には「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳があるが、まさに石平氏は文中で見てきたような真っ赤なウソをついている。

 私も一昨年、「中国で年間9万件の暴動発生」という情報を聞いた。しかし私はそのときすぐに頭の中で計算をしてみた。1年間で9万件ということは、35で割り(中国全土で35省)、さらにそれを365日で割ると、約7件となる。

 つまり私が住んでいる上海市だけでも毎日7件の暴動が起きている勘定になる。

 そのように計算してみると、どう考えてみてもこの数字を、私は信じることができなかった。

 もし上海市内で暴動が毎日7件も起きているとするならば、私の周辺でも頻発しているはずだし、当然のことながら私はそれらを目にしているはずだからである。

 暴動という字句に該当しないような、夫婦喧嘩や交通事故の喧嘩も含めれば、9万件になるかもしれないが、上海市内で1000人を超すような暴動を、私はこの数年見たことがない。

 ところがその後、石平氏だけでなく多くの中国ウォッチャーたちがこの中国当局発表の統計数字を引用して、あたかも中国が暴動で崩壊するようなデマを流すようになった。

 そこで私は、中国各地で起きているという暴動を、できるだけ現地に足を運びくまなく調べ、9万件の中身を検証することにした。

 ところがしばらくして、情報の中には、暴動、騒乱、騒動、騒擾、抗議行動、デモ、ストなどの言葉が入り交っており、その定義がきわめてあいまいであることがわかった。

 仕方がないので、私が独断で下記−Aのような判断基準を作り、できるだけレベル3以上のところに調査に行くことにした。

 そしてその結果を、毎月各位に送信し、半年後には下記−Bのような中間結論を出した。暴動調査を始めてから、これで約1年半になるが、基本的にはこの中間結論を修正する必要はないと考えている。

 私の調査では、レベル2以上の暴動は1年間に多く見積もっても1000件ほどである。

 08年3月ラサでチベット族、09年7月ウルムチでウィグル族の暴動が起きたが、この2件だけがレベル5以上で、真の意味での暴動という表現に該当するものである。

 その他の「暴動」についてはその都度、情報発信をしておいたので、真相は解明できていると考えている。

 この1年半で暴動レベル3以上のものは、わずか数件であった。これらの「暴動」で中国が崩壊すると大騒ぎする方が異常である。

 石平氏は、各種の発行物で暴動の典型例として、いつも2008年6月に起きた貴州省瓮安県の事件を上げている。

 この事件は地元のやくざが複雑にからんだ事件であり、石平氏の言うような「虐げられた民衆の共産党政府への怒りの声」などと単純に割り切れる暴動ではない。

 石平氏は現地に行って調査をしているわけではなく、伝聞だけで作文をしており、結果としてデマを流しているのである。

 この事件の詳細については、拙論「長征と貴州省暴動」を参照していただきたい。

 貴州省瓮安県の事件に続いて、石平氏は08年7月に起きた上海での警官殺し事件、また同月に湖南省で起きたガスボンベ自爆事件などを上げて、これらの「暴動」で中国が崩壊すると主張しているが、これらの事件は日本を含む資本主義国でも相当数起きており、ことさらに中国を名指しするほどのものではない。

 もし石平氏が、09年度に起きたレベル3以上の暴動ついての情報をもっているのならば、ぜひ私に一覧表にして送信して欲しい。私はただちにその現場に駆けつける。

 石平氏の手元には、年間9万件の暴動情報があるはずだから、それは簡単なことだろう。


A.≪私の暴動評価基準≫

暴動レベル0 : 抗議行動のみ 破壊なし

暴動レベル1 : 破壊活動を含む抗議行動 100人以下(野次馬を除く) 破壊対象は政府関係のみ

暴動レベル2 : 破壊活動を含む抗議行動 100人以上(野次馬を除く) 破壊対象は政府関係のみ 

暴動レベル3 : 破壊活動を含む抗議行動 一般商店への略奪暴行を含む  

暴動レベル4 : 偶発的殺人を伴った破壊活動

暴動レベル5 : テロなど計画的殺人および大量破壊活動

B.暴動の傾向 ― 中間結論

@暴動レベル3以上のものは少ない。暴動レベル5以上のものは、チベット暴動だけである。

A原因は多岐にわたり、民衆の不満が些細な理由で、どこでも、いつでも爆発する状態である。

※現状の中国では、一般人民の順法意識が低く、すぐに暴力行為に訴えることが多い。

これを中国人の国民性として考え、今後も暴動が続発すると理解するか、あるいは経済の発展と共に、中国人に順法意識が根付き、暴力行為が漸減していくと理解するか、そのどちらかは今のところ結論が出せない。

B当事者に暴力組織関係者が含まれることが多い。

C当事者は公安や政府の建物を標的にして襲撃している。
  ※一般商店などへの破壊・略奪行為は、チベット暴動以外にはない。

D野次馬が当事者の約10〜30倍集まる。

E野次馬が便乗暴徒化する可能性がある。

※過去の中国の歴史上では、このような野次馬の便乗暴徒化が、大動乱につながった例も少なくない。


B「不動産はバブルになっている」

 三橋・石平氏に限らず、日本のすべてのマスコミや中国ウォッチャ―は、この点で大きなミスを犯している。

 中国ではマンションは大きく値上がりしているが、土地はそれほど値上がりしていないからである。

 したがって「マンションはバブルになっている」と書くべきなのである。不動産とは「土地および建物」なのであるから、マンションだけを不動産と称するのは正確ではない。それでなくても日本人の頭の中には90年代初頭のバブル経済がこびりついているので、不動産バブルと聞けばすぐに土地とマンションを想像してしまい、大きな錯誤を犯してしまうからである。

 中国の事情は、それとはかなり違う様相を示しているのである。

 最近やっと住宅用地の競売や農地の売買の記事を、ちらほら目にするようになったが、それはあくまでもマンション用の住宅用地で、一般の土地のものではない。

 ここまで私は土地の売買と簡単に表現してきたが、正確にいえばそれは、「土地使用権」の売買であり、中国では土地そのものの売買はできず、なおかつ使用権の売買も簡単ではない。いろいろな制約があり、税金関係も複雑である。

 したがって海外の一般人が簡単に参入できる分野ではない。
 だから土地についてはバブル状態になってはいない。もし三橋・石平の両氏はこれから文章を書くときは、不動産バブルと書かないで、マンションバブルと明記すべきである。

 ただしこれは日本のマスコミ全部がそうであるから、三橋・石平の両氏が間違っても仕方がないとは思うが。

 私は三橋・石平両氏に、この文章を書くにあたって参考にしたと思われる中国全土の住宅用地以外の土地の値上がり一覧表を、ぜひ送信してもらいたいと思う。

 もしそれらの土地情報が仕入れられれば、私もまだ中国で一儲けできるからである。


C「外貨準備高はあてにならない」

 三橋氏は、「外貨準備高など、一国の対外資産における“政府の保有分”にすぎない。“国債金融市場で一段と存在感”云々と言うのであれば、外貨準備高ではなく、“対外資産の総額”について語らねばならない」(「中国経済・隠された危機」P.152)と書いている。

 この点については、私も同感である。

 ちなみに外貨準備高について、Wikipediaでは、「中央銀行あるいは中央政府の金融当局が外貨を保持している外貨の量を外貨準備高という。金融当局は、対外債務の返済、輸入代金の決済のほか、自国通貨の為替レートの急変動を防ぎ貿易等の国際取引を円滑にするために、外貨準備を行う。外貨準備は“国民経済の貯金”などとも呼ばれる。ただし、あくまでも主目的は為替変動への準備であり、外貨準備高の大きさが対外資産の大きさを表しているわけではないことには注意を要する」と説明している。

 一昨年まで、中国は人民元高を狙った操作を防ぐために、会社に一定額以上の外貨の保有を許可しなかった。

 つまり会社に外貨が流入してきたら、ただちに強制的に人民元への両替をさせていたのである。したがって会社にはほとんど外貨が残っていない勘定になる。

 また中国では外貨の稼ぎ手の6割は外資だと言われている。

 つまり中国政府の持っている外貨は外資のものであり、一時的に人民元に両替されているだけである。もし外資がいっせいに外貨を持ち出すことになれば、政府の外貨準備高は急減するはずである。このような事態が起きないという保証はどこにもない。

 これに反して、日本では民間会社がかなり外貨を保有しているし、対外資産も持っている。だから政府手持ちの外貨つまり外貨準備高をはるかに超えた対外資産を日本全体で保有していることになる。

 さらに日本には外資の参入が比較的少なく、中国のように外資の撤退で外貨準備高が揺らぐということにはならない。

だから三橋氏の言う「外貨準備高で、その国の経済の強弱を計るのは適切ではない」という見解は頷ける。


D「中国に代る次なる一手」

 三橋・石平の両氏とも危機感を煽るだけで、この書の中では対処策を示していない。

 仕方がないので三橋氏の前著「本当にヤバイ!中国経済」前著を見てみたところ、彼は対処作として「筆者はスタグフレーションで中国経済が崩壊する、具体的には株式と不動産バブルが崩壊し、都市部の失業率が2桁に達し、経済成長率が1桁の前半にまで落ち込むと確信している」と予言し、その対処策として次の2点をあげている。

 彼は、第一に「理想的には、対中投資と対印投資の規模を拮抗させ、リスクをヘッジすることが望ましい」、次に「中国一本槍で輸出ビジネスを展開している企業は極めて危険である。この問題に対処する方法は一つだけである。対外投資の分散化と同じように、資本財の輸出先を分散化することでリスクを回避するしかない」と言っている。

 こんな対処策ならば素人でも言える。

 三橋氏には次なる刊行物では、絶対安全かつ独創的儲け口を、ぜひご教授願いたいものだと思っている。

 なお私は自らの実戦経験を総括して、数年前に対処策として「チャイナプラスワン」について書いておいたので参考にしてもらいたい。


E「国債の引き受け手がない

 三橋氏は前著「中国経済・隠された危機」 P.160で、「中国財政省が7月17日に実施した6か月物の国債入札は、応募者が少なくこの2週間で3度目の札割れとなった」と書いている。

 私は勉強不足のため、この情報の出所を確認できなかったので、この件については明快なコメントができない。

 ただし10/12付けの日経新聞は、「人民元建て国債 人気殺到。 香港、応募 販売枠の2倍」との見出しで、「募集後わずかの期間で個人投資家が殺到し、20日の締め切りまでにさらに応募が膨らむ可能性が高い」と報じている。

 この相反する現象を三橋氏はどのように解析するのであろうか。


2.「あと5年で中国が世界を制する」の正誤


@×「巨大な中国の労働市場では若い女達が余っている」

 副島氏は本著のP.213で上記のように書き、「中国の若い女達の労働力は農村からあふれ出してきて常に余っているから奴隷みたいに売り買いされている」と続けている。

 この記述はあまりにも現実離れしているので、バカバカしくて反論する気にもならない。

 この点から判断して本著は読むに値しない。


A×「“世界に先がけた中国経済の驚くべき回復力”の根拠」

 副島氏は、「世界に先がけた中国経済の驚くべき回復力」という項目名を付け、上海株式市場の急回復を根拠にして、「米欧日先進国の苦境を尻目に、中国の経済回復は今や達成された」と断定している。

 経済回復の指標として、株価の動向を持ち出しても論拠としては薄弱である。

 株価そのものがなぜ反転上昇したのか、あるいは経済急回復の原因は何なのかを分析しなければ意味がない。

 副島氏はリーマンショック以降の迅速な中国政府の対応が、急回復の原動力であると言っているが、これも科学的分析にはほど遠い。

 中国経済の減速は、すでに2007年末から急激に始まっており、それは五輪を控えた中国政府の失政の結果である。

 07年末、中国政府は人民を沈黙させるために、インフレ退治のための強烈な金融引き締めを行い、さらに労働者を暴動に走らせないために、労働者の権利を保護する労働契約法の施行と全労働者の社会保険への加入を公司に義務付け、最低賃金も大幅アップに踏み切った。

 その結果、08年に入るや賃金を含む福利厚生費などの大幅なアップで、赤字に転げ込んだ外資の撤退が相次いだ。

 なかには韓国企業のように派手に夜逃げする経営者も現れた。

 中国政府はその事態を、最初は軽視していたが、5月ごろになって経済に影響が出始め、政府首脳は大慌てで、手分けをして各地に実態把握に飛んだ。

 その結果、地方では容易ならざる事態が進行していることが判明した。

 政府はただちに金融引き締めを緩和し、労働法関係も弾力的な運営をするように下部に通知した。しかしながらいったん撤退した外資は戻らず、落ち込んだ経済は即座には回復しなかった。

 そこで新政策として、内需の拡大に目をつけ、家電の農村販売の優遇措置を打ち出した。また企業に資金が潤沢に回るように、各種の金融機関の創設を決めた。

 華々しい五輪の舞台裏で、中国政府首脳は経済を回復させるために、涙ぐましい努力を続けていたのである。

 不幸にもそこにリーマンショックが重なってきたのである。そのとき中国政府首脳は、経済危機を回避するために、躊躇なく4兆元の財政出動を決定した。

 すでに政府首脳間に、大規模な財政出動不可避のコンセンサスができあがっていたからそれは簡単であった。だから中国経済は、慌てふためく「米欧日の先進国の苦境を尻目」に、「驚くべき急回復」を示したのである。

 つまり、中国はリーマンショック以前から経済危機打開策を打っていたのだから、急回復するのが当然の事態であり、リーマンショック後に慌てふためいて経済政策を検討している他の先進国とは、スタートラインが違い、1週早く走っていたと考えれば特別に驚嘆するほどのものではないのである。

 しかしながら中国は、他の先進資本主義国のようにリーマンショックで経済危機に陥ったわけではないので、対策は財政出動だけでは不十分である。

 中国政府の失政そのものを検討し、より根源的な問題に手を打たなければ、財政出動というカンフル剤が切れたときには、再び危機が訪れるのは必定である。

 この危機から脱却する方法について、中国政府首脳も先進国のエコノミストも、明快な主張を持ち合わせていない。

 副島氏は、表面的な中国経済急回復の現状を見て、「あと5年後で中国が世界を制する」と断定しているが、それは早計である。


B×「今の政治体制に逆らわない限りはなにをやってもよい」

 副島氏は、上記のように書き、「中国の国民がそれぞれの経済活動で、一人一人が豊かになることを中国共産党は規制しようとしない」と付け加え、中国経済の急成長の要因を政府による規制が少ないことに求め、「日本も中国に見習って、本当の意味での官僚による統制からの規制撤廃をやらなければならない」と結んでいる。

 これも副島氏の中国に対する著しい誤解から生じているもので、企業がこの言を信用して中国に進出したら、たいへんな目に遭うだろう。

 中国には規制がないのではなく、規制があっても目こぼしや裁量余地があり、それを前提にして成り立っているのが中国社会なのである。

 一般にそれは「上に政策あれば下に対策あり」といわれている。

 最近では商業活動のかなり細部に渡るまで、法律や規制が整備されてきており、それに熟知していないと思わぬところで大怪我をする。

 たとえば08年1月施行の労働契約法についても、内容は日本の労働基準法よりもはるかに会社側に不利な内容になっている。

 だから政治体制に逆らわないからといって、会社側による労働者の理由なき解雇が、簡単にできるわけではない。

 しかしながらこの法律の適用も、全国一律ではなく、各地方によってかなり弾力的に運用されている。また会社側が行政との間に、どのようなパイプを築いているかで、大きな差が出てくる。

 しかも中国の難しさは、行政の担当者が変わるとそれまで目こぼしされていたものが、厳格な規制や法律の適用のもとにさらされる場合があり、目こぼし分が過去にさかのぼって追求されることがあることである。

 だから副島氏のように呑気なことは言っていられない。

 最近では、国家財政が窮迫してきたので、税金の取り立てが厳しくなり、過去においてあいまいにされ課税されてこなかった分まで、推定課税されるような事態も生じてきている。

 また、外資がいざ撤退というときになると、それまで規制の網を情状酌量で見逃されていた分などが、すべて浮上してくる。

 さらに、いろいろな法律上の特典などを利用して企業運営をしていた場合、それらが厳格に査定されるので、それを一つ一つクリアーしなければならず、かなりの長時間を要する。

 ことに現金などの資産が残っており、それを持って帰ろうとする場合は、最後に外貨管理局の送金許可を取るまでは息が抜けない。

 それらの手続きはあまりにも煩雑なので、韓国企業のようにあっさり夜逃げしたほうが得策である場合もある。

 副島氏の言うように、中国はそんなにおおらかな国ではない。


C「中央アジアの時代が始まった」

 副島氏は、「世界の中心はいずれ中央アジアに移る」、「あと3年したら、カザフスタンのアルマティに世界の金融中心が誕生する」、「中国はユーラシア大陸の中心部に向かって勢力を伸ばしていく」と書き、その根拠として、「世界史が500年ぶりに海運の時代から、再び陸上輸送(トラック・鉄道)の時代に大きく変わりつつある」からであると述べている。

 この主張の論拠は薄弱であるが、着眼点としては評価できる。

 先日、私がウルムチに調査に行き、漢族の商人と話していたとき、彼がウズベキスタンに販売網を広げていると語っていた。

 中央アジア諸国は不均等ではあるが、結構豊かになってきているからだという。
 韓国企業もスターリン時代の朝鮮人の強制移住の人脈で、カザフスタンにはかなり進出している。

 このような中央アジアの今後の経済成長に着目する副島氏の主張は、検討に値すると思う。

D「東北地方の分析」

 副島氏は、本書の終わりに近い部分で、「私は2008年の12月に中国東北地区(旧満州)へも調査に行った」と書き出し、瀋陽、丹東、大連、などについて調査報告らしきものを書いている。

 これらはあまりにも常識的であり、間違いではないが、素人の旅行感想文の域を出ていない。

 また憶測で書いている部分が多く、このような記述を臆面もなく展開する副島氏の見識を疑う。

 たとえば、副島氏は、「今の日本政府は、毒ガス兵器を貯蔵していた場所の洗浄代と、731部隊の被害者への補償で、おそらく1兆円を国家予算として組んで、中国側にお金を払っている最中だ。これを誰も言わない。日本国内では報道しないことになっている。反中国右翼言論人たちも大きく騒がない。騒ぐと731部隊問題の闇を自分たちの手で暴き出すことになり、やぶへびになるからである」と書いているが、この記述もかなり見当はずれである。

 私はこの毒ガス兵器の大量に埋まっているハルバリンのある吉林省敦化市の経済顧問をやっているので、この事情については副島氏よりは詳しい。

 この事業は、一説には総額7兆円を越すと言われており、日本側は内閣府、中国側は人民解放軍が担当し、現在、着々と進行している。

 日本からはすでに元自衛隊員や某民間企業社員など数十名が現地に派遣され、任務を遂行している。

 しかしながら今のところ、その中身や進行状況については公表されていない。なにしろ両国ともに国家機密に関する特例扱いで、経済顧問の私にすら肝心な部分はつかめない。

 日本国内での報道が少ないのは、反中国右翼言論人の問題ではなくて、内閣府官僚に切り込まなかった従来の日本の政治家の側の怠慢である。

 今秋、民主党政権に交代したので、おそらくこの問題にもメスが入るだろう。

 もし新政権が敦化市側への交渉の窓口を必要としているのならば、私は橋渡し役を買ってもよいと考えている。


3.どちらにも軍配はあげられず。

 どちらの本も、きわめて粗雑な中国分析である。 

 しかしどちらの本もPHP、ビジネス社という著名な出版社から刊行されておりかなり売れている。だから著者と出版社はかなり儲かっているだろう。

 しかしどちらの本も日本社会に、中国に関する間違った情報を撒き散らしているという点では同罪である。

 これらの本を読んで、誤った認識を身に付け、間違った人生選択をする日本人も相当数いるだろう。
 それを彼らの自己責任と言ってしまえば簡単だが、著者や編集者、出版社は責任を感じなくてよいのであろうか。





*小島氏のレポートにある「長征と貴州省暴動」を、参考のため以下に再録しました。

  また「チャイナプラスワン」にかかわる小島氏のレポート、コメントは末尾に参考リンクを提示しました。  

参考 「長征と貴州省暴動」 04.AUG.08 
 

 1935年1月、紅軍:第1方面軍は、長征途中で貴州省を横断した。そのとき遵義市で、共産党の重要な会議が開かれ、そこで毛沢東が指導権を奪取したと言われている。さらにその後、毛沢東は赤水河の渡河作戦を指揮し、国民党軍を翻弄しその追撃を振り切った。これによって毛沢東は共産党内に不動の地位を確立したと伝えられている。しかし最近になって、これらの事実を見直すような見解が発表されるようになった。

 2008年6月28日、日本のマスコミでは中国貴州省瓮安県で2万人を超える規模の暴動が起きたと報道された。 この瓮安県の位置を地図で確かめてみると、それは遵義市の近くであり、紅軍:第1方面軍もその周辺を通過し、戦っている。そこで今回、私は長征(“遵義会議”と“四渡赤水”)とこの瓮安県の暴動の調査を兼ねて、7/23〜27の5日間、貴州省の現地を歩いてみた。


1.貴州省暴動の実相

 現在、瓮安県では、外国人の取材活動は許されておらず、私は中国人を装って隠密行動を取らなければならなかった。したがってカメラで生々しい現場を撮ることはできなかった。それでも事前に現地の通訳と入念に打ち合わせておき、いろいろな人から多くの貴重な情報を得ることができた。その結果、日本のマスコミでは報道されていない重要な事実が、数点、判明した。


@まず、日本のマスコミの貴州省瓮安県の暴動に関しての報道を整理しておく。

 日本経済新聞7月1日付けは、「6月28日貴州省瓮安県で数万人規模の暴動が発生した」と伝え、さらに「同県では6月下旬、少女暴行事件が発生。公安局が容疑者数人を逮捕後間もなく釈放したため、親族らが28日、公安局に抗議に向った。容疑者には地元公安局幹部の親族がいたとされ、不透明な捜査を巡り住民らの不満が爆発、暴動に発展したと見られる」と付け加えている。

 時事速報:7/02付けは、「香港紙:リンゴ日報は、瓮安県の暴動のきっかけとなった少女殺人事件を、もみ消そうとしたのが同省公安庁長(警察本部長)経験者だとの説がインターネット上で流れていると伝えた」と報道した。

 時事速報:7/03付けは、「死亡した少女の捜査を巡る警察への不満がきっかけとなって発生した瓮安県の大規模暴動で、地元政府は1日夜、記者会見し、少女の死因は水死で自殺と発表した。遺族らが疑った性的暴行の形跡はなかったと強調した。政府は情報公開により、事態収拾につなげたい考えだ。警察は暴動の発端について、自殺との判断を受け入れなかった遺族の求めに応じ、検視を再び実施し、その結果に遺族もいったんは納得したが、少女の親類が約300人を集め、デモ行進、暴徒も加わって騒ぎが拡大したと説明した。発表によると、省政府や公安当局の庁舎が焼打ちに合うなど大きな被害が生じ、警察官ら150人が負傷したが、死者はいない。警察は、地元の暴力組織メンバーら約50人を拘束、暴動が悪質な不法分子による犯罪であると訴えた」と伝えている。


A瓮安県暴動の実態

 上記のような日本のマスコミ報道と、私が見聞した現地の状況とは、以下の諸点でかなりの相違がある。

・ 第1点は、この暴動が2千人規模であり、数万人という報道はオーバーであり間違っているということである。暴動現場は旧市街の真ん中にあり、政府と公安の庁舎はL字型に建っていた。その前は道路と広場になっており、道路の突き当たりが政府庁舎、公安庁舎と道路を挟んで反対側に、一般商店が並んでいた。その広場に通じるすべての道は、車が対抗して通れないほど狭かった。私はその広場の真ん中に立って、壁面が破壊され修復中の政府と公安庁舎を見上げた。そしてその広場で暴徒が走り回り、投石や放火をしている様子を想像してみた。そしてこの広場に入ることができるのは、2千人が限度であると確信した。さらに狭い道路を50mほど行ったところに、人民武装部の建物があり、それはまったく破壊されていなかった。つまり暴動は広場だけであったということであり、そこに数万人が集結することは物理的に不可能だと断定できる。タクシーの運転手に聞いてみたところ、広場に暴徒が2千人強、狭い道路を含むその他の場所に野次馬が数千人だったと話してくれた。

・ 第2点は、瓮安県の暴動では政府と公安庁舎だけが破壊されており、チベットの暴動とは違って、一般商店には、被害がまったくなかったという点である。マスコミはこの点をまったく報道しておらず、チベットと同じ暴動という表現を使用している。政府への抗議に限定されている行動と、一般商店の破壊略奪を伴う行動とは、明らかに違いがある。この点を区別して報道するべきではないか。

・ 第3点は、この暴動の主体が暴力組織であったという点である。広場近くのレストランの主人に聞いたところ、この瓮安県は中国でも偽札が多いことで有名な場所だそうであり、その店でも勘定の際には神経を尖らせているという。おもしろいことに広東省あたりの偽札は最新IT技術を駆使して作られているが、瓮安県の偽札は手作りだそうである。この瓮安県には大きな暴力組織が3つあり、それらが始終抗争を繰り返しており、レストランや商店なども、これらの暴力組織に日本でいうところの“みかじめ料”を払わないと恐くて営業できないという。今回の暴動は、これらの暴力組織の抗争に公安が巻き込まれたというところではないかということだった。

・ 第4点は、瓮安県は黔南布依族苗族自治州に属しており、少数民族地域である点である。ただし布依族と苗族を合わせても5%ほどであり、残りの95%は漢族だということだった。瓮安県の人口は4万人で、周辺人口を合わせれば46万人ほど。この自治州の南部の方では、少数民族が半数を超える県があり、貴州省の東南部には苗族を中心にして自給自足状態の少数民族も多数存在している。貴州省の少数民族は雲南省とは違い、あまり観光地化されておらず有名ではない。レストランの主人の話しによれば、今回の暴動には民族問題は絡んでいないということだったが、チベット問題と比較検討するためにも、マスコミはこの点を開示しておくべきではなかっただろうか。ちなみにレストランの看板料理は布依民族料理であった。

・ 第5点は、瓮安県の近くにアジア最大の燐鉱石の採掘場があり、数年前にその鉱山の拡大が行なわれ、農民の土地が強引に接収されたため、それに不満を抱いている人間が多いという点である。またその接収の際に、暴力組織が絡んでおり、その恨みや対立抗争も尾を引いているという。

・ 第6点は、タクシー運転手の話によれば、少女が暴行され殺されたというのは作り話で、実際には夕方、2人の友人といっしょに酒を飲んだ少女が、発作的に川に飛び込んだので、友人たちは慌てて助けたが、すでに死んでいたのだという。運転手は、慎重に言葉を選びながら、その少女の関係者に問題の人たちがいたようだと話してくれた。


B瓮安県の暴動は、マスコミが大規模な暴動に仕立てあげたものである。

 暴動を、民衆の不満の爆発と理解することは間違いではない。現代中国に、民衆の間に多くの不満が鬱積し、それが政府機関の破壊という行為に向わせているという底流が存在していることは否定できない。しかしながら、事態を詳細に眺めていくと、底流だけではない多彩な要素が絡んでいることがわかる。むしろその要素の方が強く影響を及ぼしている場合もある。したがってすべての暴動を一律に、虐げられた民衆と腐敗した政府との対立という単純な構図でのみ語るのは、真実を誤認する危険性がある。

 7/27の日本経済新聞は、社説「五輪を迎える中国:人権の改善と民主化を加速する契機に」と題して、「中国では今年、多くの死傷者を出した3月のチベット騒乱など暴動やテロ未遂事件が続発している。6月下旬も貴州省で住民3万人と警官隊が衝突した。農民や住民らによる暴動は年間数万件に達する。経済の高成長が続く反面、貧富の格差や官僚腐敗で民衆の不満が高じ、社会不安を増幅している現実を反映している」と主張している。この中の貴州省の住民3万人の暴動という表現は事実誤認であるし、チベット騒乱についてもまだその評価は確定していない。これらを引き合いに出して中国の現状を語るのは軽率である。


C貴州省瓮安県の暴動の結末

 時事速報:7/14付けによれば、「貴州日報は、瓮安県の大規模暴動をめぐり、同省公安庁は12日までに355人を取り調べ、100人を身柄拘束し、このうち39人は暴力組織メンバーだったと報じた」

 時事速報:7/23付けによれば、「22日付けの香港各紙は、中国共産党貴州省委員会は19日、黔南布依族苗族自治州の幹部会議で、同自治州党委の呉廷述書記を解任し、省農業庁の黄家培庁長を後任とする人事を発表した。大暴動に絡む懲罰人事とみられる。この暴動は、県党委書記・県長・県公安局長らに続いて、省主要幹部の一人である自治州トップが更迭されるという異例の事態に発展した。暴動の背景には現地当局の横暴や腐敗に対する長年の不満があるとされ、一連の人事は“人民に近く”“人を持って基本とする”といった方針を掲げる胡錦涛主席ら中央指導部が指示した可能性が大きい」

 新華社:7/26付けによれば、「7/25、瓮安県公安当局は今回の暴動の首謀者として、暴力団“玉山幇”の幹部:韓波ら30人を逮捕した」


2.“遵義会議”と“四渡赤水”


@通説:長征における“遵義会議”と“四渡赤水”

 1934年10月、中央根拠地を出て長征の途についた第1方面軍(10万人)は、1か月後の湘江の封鎖線突破にあたって、莫大な被害を受け、兵力を3万人ほどに減らしてしまった。この戦いが終わると、党中央の軍事指導に対する兵士の不満は急速に強まった。このとき毛沢東は指導部メンバーから外されていたが、貴州省に近い通道で開かれた軍事委員会で、「湖南省北西部へ向かい賀竜の率いる第2方面軍に合流する計画を放棄し、貴州省の遵義方面へ向う方針」を提起した。朱徳を始めとする軍の指揮官はこの提案を呑んで、貴州省の遵義を目指した。

 1935年1月、遵義において拡大政治局会議(いわゆる“遵義会議”)が開かれた。会議ではまず、共産党書記の博古がそれまでの軍事路線の誤りを認める発言を行なった。ついで周恩来が戦法の誤りを認め、素直に自己批判した。3人目の発言者は毛沢東で、博古と李徳のこれまでの軍事方針を、「防御では保守主義、攻撃では冒険主義、退却では戦闘主義」と激しく批判した。4人目は王稼祥で、今後は毛沢東が紅軍総指揮の任に当たるべきだと発言した。さらに朱徳などの幹部が毛沢東支持の発言を行った。3日間の討議の末、毛沢東を主席とする中央軍事委員会が統一指導を行なうことになった。この“遵義会議”以降、中国共産党内における毛沢東の指導権が確立したのである。

その後、毛沢東は張国Z率いる第4方面軍と合流することを目指し、遵義を出発し四川省東南部を目指した。貴州省と四川省の境界には赤水河が流れており、紅軍の行く手を阻んでいた。さらに蒋介石は合流を阻止するために、四川省東南部や湖南省南部に大兵力を展開し、紅軍を迎撃する態勢を整えていた。毛沢東は土城鎮の近くで赤水河を渡り、四川省に入り、予定通り北上する構えを見せておき、再度、太平鎮と二郎鎮の近くで赤水河を渡り、蒋介石の兵力の手薄になっていた遵義へ戻る戦術を取った。慌てた蒋介石は地方軍閥に遵義から出て、婁山関で紅軍を食い止めるように指示したが、彭徳懐率いる紅軍部隊に蹴散らされた。こうして紅軍はふたたび遵義に戻った。

2月、蒋介石は遵義に居座っている紅軍を、貴州省や雲南省の軍閥を貴陽に集め、南方から攻撃させた。毛沢東は四川省東南部へ向けると見せて、茅台鎮で、三度、赤水河を渡った。そのとき貴陽にいた蒋介石と宋美齢は、これで四川省東南部と湖南省南部に展開している軍閥部隊や国民党正規軍と、貴州省・雲南省から攻め上げる部隊で、紅軍を包囲殲滅できると喜んだ。それらの兵員数は50万とも75万とも言われており、水も漏らさぬ包囲網となっていた。ところが毛沢東は反転して、二郎鎮と太平鎮で、4度、赤水河を渡り、急行軍で遵義の横をすり抜け、蒋介石と宋美齢が陣取っている貴陽を直撃する方針を取った。

そのとき貴陽の蒋介石の手元には、部隊がほとんど出払ってしまっており、手薄であった。蒋介石は毛沢東のこの奇想天外な作戦に驚愕し、貴陽を脱出しようとしたが、すでに飛行場は紅軍に押さえられていたため、逃げ出すために馬とカゴを手配したほどであった。さらに毛沢東は貴陽を攻めると見せかけて、南方をするりと通り抜け、雲南省東部へ入った。ここは軍閥が四川省東南部へ出撃してしまっており、ほとんど抵抗がなかったので、そのまま昆明近くまで進撃し、直前で右旋回し、四川省との境界である金沙江を目指した。このように毛沢東の卓越した“四渡赤水”戦法により、紅軍:第1方面軍は国民党軍を翻弄し、窮地を脱した。


A私の見た“四渡赤水”戦術

 毛沢東の“四渡赤水”戦術は、蒋介石を驚愕させ、翻弄した。これは日本の関ヶ原合戦のとき、徳川家康を驚愕させた「島津義弘の敵中突破」を思い起させる。これがまさに軍事の天才:毛沢東の名前を、天下に響き渡らせた名作戦である。これは「孫子の兵法の中の示形戦法」を、縦横無尽に駆使したお手本のようなものである。牛若丸と弁慶のように、蒋介石は毛沢東が西へ行くと思って待ち伏せていると、毛沢東は反対に東にあらわれ、敵を引き回し、各個撃破し、撃滅戦に出て、兵員と武器弾薬を補充し、味方の損害を最小限に食い止め、包囲網を抜け出し、しかも敵の本陣に肉薄した。この作戦は激賞に値する。

 私は遵義で現地の観光ガイド(日本語通訳兼任)を頼んで、運転手付きレンタカーを借りて赤水河ヘ向った。車中でガイドさんと行程の打ち合わせを行なったが、“四渡赤水”の話がどうしても噛みあわなかった。彼は「すべての渡河点を見たい」という私の望みについて、「毛沢東が渡ったのは1か所だから、それを見ればよいのではないか」と主張するのである。彼は遵義生まれであり、重慶の大学で日本語を学んだという若者で、流暢な日本語を話し利発そうな男であった。その彼が、前の晩に“四渡赤水”のことをインターネットで調べ上げた結果だと言って、「紅軍の3万超の大軍が、土城鎮付近で、4度に分けて赤水河を渡ったこと」を“四渡赤水”というのだと力説する。もちろん地元の観光ガイドの彼も、現場には行ったことがないという。私は論争をあきらめて、とにかく土城鎮の“四渡赤水記念館”に案内してもらうことにした。

悪路を走ること6時間、へとへとになって土城鎮についた。立派な記念館だったが、オフシーズンだということで見学者はだれもおらず、照明がすべて消されていた。それでも記念館の案内人が照明を点け、丁寧に説明してくれた。“四渡赤水”の戦闘経過が非常によくわかる掲示がしてあり、同行したガイドの彼も目を丸くして見入っていた。そして私に深く頭を下げ、自分の誤りを認めた。私は彼とのやりとりの中で、地元の観光ガイドでも“四渡赤水”を知らないぐらいに、中国人の間では長征が風化してしまっているのだと思った。

記念館を出て、土城鎮、二郎鎮、太平鎮とそれぞれの渡河地点を見て回った。それぞれが車で20分ぐらいの位置にあった。赤水河は8年前に見た金沙江や先月見た大渡河と比べると、穏やかな河であった。川幅も狭いところでは50mぐらいで、うまく浅瀬をたどれば渡河はそんなに難しくないような気がした。ただしその名の通り、赤濁した河であった。

茅台鎮は遵義の方へ、3時間ほど戻った上流にあった。有名な貴州茅台酒の産地で、街中に甘い酒の香りがただよっていた。長征途中の紅軍兵士がここを通ったとき、酒の飲める兵士はたらふく飲み、飲めない兵士は疲れた足を酒で湿布したという。街の真ん中に、渡河記念碑があった。そこは少し川幅が広くなっており、船でないと渡るのは無理なようであった。現在でも、この赤水河には橋が少なく、渡し舟が活躍しているという。途中の川べりには、ところどころにエンジンのついた船や手漕ぎの船が係留してあった。

翌日、婁山関に出かけた。確かに「一夫関に当たれば、万夫も開くなし」とうたわれた“函谷関”に匹敵する要害だった。以前私は、上海の婁山関路という住所に住んでいたので、この場所がなんとなく身近に感じられた。長征当時は湖南省側から遵義へ入るには、この難所を通る以外に道がなかったという。彭徳懐が銃を据えつけて激戦を展開したという山頂には記念碑が立っていた。共産党関係の人たちが、革命歌をうたいながら次々と昇ってきて、そこで記念写真を撮っていた。


B通説“遵義会議”の見直し

 通説では、華麗なる“四渡赤水”作戦で、遵義会議で決定した毛沢東の指導権が名実共に確定したと言われていた。ところが最近の研究では、その裏側で彭徳懐と劉伯承をトップに据えようとした動きなどがあったと伝えられている。そして毛沢東が完全に指揮権を掌握したのは、金沙江を渡り、四川省の会理会議であったという説が有力となっている。

・ 林彪は、“四渡赤水”から四川省の会理までの間で、彭徳懐と劉伯承をトップに据えようという画策を行なった。“遵義会議”以後、教条主義者たちは毛沢東の指導に納得できなかったので、ひそかに毛沢東をトップの地位から引きずりおろそうと考えた。ことに林彪は聶栄シンに、毛沢東の“四渡赤水”作戦を批判し、「四川省の南部に向うのは、太平天国の石達開がかの地で全滅した例があるように、たいへん危険である。この際、トップを変えるべきである」と告げたという。さらに聶栄・左権・羅瑞卿などの前で、彭徳懐に電話をかけ、「毛沢東の指導はよくない。貴方がトップに立ってください。このまま毛沢東の指導に従っていけば

失敗することは目に見えている。我々は貴方の指示に従い、貴方といっしょにやりたい」と話したという。しかしそのとき、彭徳懐は断ったという。その後、林彪は共産党中央の洛甫宛てに上記の内容の手紙を書き、聶栄シンに合意サインを求めた。しかし断られたので、単独で手紙を出したという。

出典 「大長征」:李慶山(中国人民解放軍軍事科学戦争戦略研究員)著

・ 彭徳懐の「自述」によれば、劉少奇は楊尚昆と連名で、会理会議前に中央軍事委員会に電報を打ったという。その内容は具体的にはわからないが、劉少奇は彭徳懐に、「現在、兵士は戦いで死ぬことは恐れていないが、負傷するのを恐れている。急行軍や夜行軍は恐れていないが、病気で落伍することを恐れている。これは革命根拠地を持っていないことへの恐れである。“遵義会議”で四川省に根拠地を作ると決定したとき、それを兵士たちに告げるとたいそう喜んでいた。しかし今はその希望が消えてしまった」と話し、中央宛の電報に賛意を求めたが、彭徳懐は断ったという。

・ 毛沢東と周恩来が金沙江渡河を指揮しているとき、洛甫から林彪の手紙が転送されてきた。事態を重く見た毛沢東は、全軍を渡河させてから、行軍中に周恩来、王家祥、朱徳、博古、李徳などと意見交換した後、会理県城で政治局拡大会議を開いた。会議の席上、毛沢東は林彪の挑発的な手紙に対して、「貴方は子供でなにもわかってはいない。今の時期、直接敵と戦うのはよくない。回り道の作戦こそが最適なのである」と軽く一蹴し、再度、指導部全員の意志を結束させた。



*「チャイナプラスワン」についての小島氏のコメント、リポートは下記リンクなどを参照。