その後のミャンマー難民
その後のミャンマー難民 | ||
05.NOV.09 |
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8/27 雲南省臨滄市鎮康県南傘鎮へミャンマーから難民が流入。 難民キャンプ 1.一般マスコミ報道 ・ミャンマー北東部シャン州コーカン地区でミャンマー政府軍と少数民族コーカン族の武装勢力との間で武力衝突が起き、8/08ごろからコーカン族住民が難を避けて、ミャンマーと中国の国境沿いの町、鎮康県南傘鎮に続々と越境流入。その数は3.7万人に及んだ。中国側は難民キャンプを用意するなど人道的に対応。 ・今回の戦闘について、コーカン族武装勢力は「ミャンマー軍事政権が少数民族に圧力をかけ、民兵組織を政府の国境警備隊に組み入れようとしている」と声明文を発表。ミャンマー政府当局が「麻薬製造を理由にコーカン族を押さえ込もうとしている」との見方を示した。8/31時点では衝突が沈静化、ミャンマー人は帰国を始めた。 ・当然のことながら、ミャンマーの旧首都ヤンゴンには影響はまったくなし。 ・参考 : 地図上の瑞麗に至るミャンマー側の道路は、戦前の援蒋ルート。 2.ミャンマー側からの報道 ・2008年に制定された新憲法によれば、2010年度の総選挙実施後は、すべての少数民族は武装放棄をさせられ、その武装部隊は国境警備隊としてのみ存続できるということになった。これに対して、各少数民族は武装解除を受け入れず、憲法の改正を要求していた。現軍事政権は、総選挙前に少数民族の武装解除をある程度進め、総選挙を有利に展開しようと企んでおり、コーカン族をその先例にしようとした。ところがコーカン族が武装解除に頑強に反対するので、軍事政権は地元警察にこの地域に麻薬工場があるという情報を提出させ、それを口実にコーカン州に侵入した。政府軍とコーカン族軍との間で戦闘となり、政府軍側に立つ地元警察10名ほどがコーカン族軍に殺害された。コーカン族側8名、政府軍側に25名ほどの死亡者が出た。 ・地元住民3万7千人が、この衝突の巻き添えになるのを恐れ、中国側に避難した。難民の中には、もともと中国籍で、商売をするためにミャンマー側に行っていたものが半数ほどであったという。コーカン州で商店や小工場を営んでいた中国人の一部は、避難せずそのまま留まったが、政府軍に殺害されたという情報もある。 ・中国政府はそれらの難民に、居住用に大量のキャンプを提供し、水や食料、衣料を与え、医療班も準備した。さらにミャンマー政府に国境地帯での紛争を止めるように警告し、ミャンマー難民が早く戻れる安定した環境を作るように要求した。 ・10月に入り、ミャンマー難民はじょじょに帰っており、10/10時点では半数ほどがキャンプ地に残っている。 ・今回の政府軍の軍事行動は、少数民族との停戦協定を勝手に破ったものであり、今後の各地の少数民族の動向が注目される。 少数民族は26、部族まで数えると130以上に及ぶ。 ビルマ族が68%を占める。仏教徒が90%。 1962年から軍事政権が続き、1990年の総選挙ではアウンサンスーチー氏が率いるNLDが圧勝したが、軍事政権はそれを圧殺し今日に至る。 欧米諸国は経済制裁を課している。 ・公定レートは1ドル=6チャット、闇の実勢レートは1,010チャット (09年10月時点)。 3.実態 ・雲南省臨滄市鎮康県南傘鎮へは、昆明空港経由徳宏芒市空港へ、そこから南傘鎮行きのバスに乗り、山中の未舗装の悪路を走ること12時間で着く。現在道路修理中であり、2年後には8時間ほどに短縮されるとのこと。 なおバスは1日1便。途中で警察により麻薬と武器所持摘発の厳重な検査あり。30人乗りのバスで約1時間を要した。 バスの同乗者には、なにやらいわくありげな人物が多かった。 ・8月初旬、ミャンマー側から大量の難民が税関の建物内の通路や近くの脇道を通って中国側へ避難してきた。しかし、逃げてきたのはミャンマー人というよりもミャンマー内の特区で働いていた中国人も多かったという。 ・南傘鎮は近代的なビルが立ち並ぶ立派な街であった。大きな出入国管理事務所や税関があり、ミャンマー難民キャンプはそこから500mほど離れた場所にあったという。10月末にはミャンマー難民はすでに全員が帰国しており、そこはすでに空き地となっており、30人ほどの軍人が訓練をしていた。 南傘税関前で 難民キャンプ地跡 ・南傘鎮からミャンマー側へ国境を超えた地点に、中国人が自由に出入りできる特区があり、そこの一部に老街とよばれる場所がある。南傘鎮のバスターミナルの壁の地図にも、バス路線が国境外の老街まで行くように書かれている。 バスターミナルの壁の地図 ・老街にはカジノや麻薬を扱う場所が多数あり、多くの中国人が賭け事に熱中し、麻薬を吸い女性と遊ぶためにそこへ出かけているという。私が税関前でウロウロしていると、タクシーの運転手が側に寄ってきて、「老街まで500元で行かないか。3時間あれば一遊びできるよ」とさかんに誘ってきた。「ビザを持っていないのでダメだ」と断ったら、「中国人はだれもビザなんて持っていない。2〜3日間で帰ってくればOKだ」としつこくつきまとう。 私は行って実態を見てみたいと思ったが、自分が日本人であることを考えて断念した。彼から逃げるように大通りに出ると、そこにはタクシーが10台と3輪車が10台ほど並んでいた。老街で遊ぶ中国人の送迎用だという。今は昼間だからまだ少ないが、夜は多くの車で混雑するという。立派な税関がある割には、運搬用のトラックはほとんどなかった。 ・ミャンマー側と中国側は小さな川で区切られており、それが国境であったが、水が流れていないため、だれでも勝手に渡ることができる。現に私の目の前で3人の男が川を渡って、ミャンマー側へすたすたと歩いていった。監視カメラはついているが、咎めるものはだれもいないようであった。ミャンマーと中国の国境線は、このように意外にルーズなところが多い。 国境を歩いて渡る男たち ・私もそれにつられて川のふちまで行き、写真を撮っていたら、突然、軍人が4人出てきて、「撮影はだめだから全部消せ」という。そんなに強い口調ではなかったが、なにしろ完全軍装の兵士たちが私を取り囲み、銃を突きつけてきたので、一瞬、緊張した。直前に撮った画像のみを消すと、それで放免してくれたのでほっとした。 ・南傘鎮でいろいろな資料を調べていると、今回の騒動の意外な面がよくわかってきた。 南傘鎮の一帯は、三国時代に蜀漢の諸葛孔明が攻めて来て、それ以降中国に帰属したが、辺境の地であることから、明快な国境を形成していたわけではなかった。 明末には大量の漢族がこの地に流入し、ミャンマー側にあふれ出した。現在のコーカン族はこの末裔ではないかといわれ、中国語では果敢族と表記されており、言語も基本的には漢語を使用している。 清末に国力が衰えたので、ミャンマー側からイギリス軍の圧力がかかり、中国側は現在の国境線まで押し戻され、そこで国境線が定められた。しかしミャンマー側には依然として漢族が居座り、武装した集団を形成した。 1960年代にミャンマー共産党軍が中国政府の支援のもとに、ミャンマー共産党員の彭家声を頭目としてコーカン地区を制圧した。その後、1980年代にミャンマー共産党内部で分裂が起き、ミャンマー軍事政権と中国政府との間に和解が成立し、1989年、この一帯がミャンマー内に中国人が自由に出入りできる特区として承認された。 この特区は独自の軍事力を保持した。特区の主席は彭家声。ただしその後、中国政府や国際世論からの麻薬栽培への強い圧力があり、2003年、彭家声は麻薬栽培から一般農業への全面的転換を宣言した。 残念ながらその政策は成功せず、農村は疲弊し疫病が流行し、その上暴動が発生し279名が死亡するという事件が起きた。その後、国際的な人道支援(日本も含む)を受けながら、再建途上にあった。そこに今回の騒動が起きたのである。 騒動後、彭家声主席はどこかに雲隠れしてしまったので、現在は白所成元副主席がその席に就いている。 なおコーカン地区では、人民元を使用、学校では雲南漢語を教え、携帯電話も中国移動通信を使用している。 ・今回のミャンマー難民騒動は、10年以上前に、ミャンマー・タイ・ラオスの黄金の三角地帯に君臨していた麻薬王クン・サーが、ミャンマー政府に投降したときのことを、彷彿とさせるような事態である。 ・今回のミャンマー政府軍とコーカン族武装勢力との衝突の理由は、マスコミ報道のように「民兵組織の国境警備隊への編入」だけではなく、おそらくこの特区にまつわる利権争いがあるのではないか。 ・これらの歴史的経過と、この地がミャンマー側からも中国側からも辺境の地であるという理由から、両国とも国境線はあるが近隣の住民の自由な往来を厳しく取り締まっていないのである。なお、中国とミャンマーの国境には大木が植えてあるだけのところもあり、両国の住民が自由に行き来している場所が多い。それでも中国側は麻薬の流入に対しては厳しい検問を行っている。 4.ミャンマーハイウェイの夢は? ・私は先日、カシュガルからイスラマバードの手前までKKH(カラコルムハイウェイ)をひた走って、中国政府が実際にパキスタン側のKKHの拡幅工事を、全面的に支援していることをこの身で実体験した。 ・中国政府はミャンマーに対しても、10年以上前から、戦前の援蒋ルートを拡幅してミャンマーハイウェイの建設を支援すると発表している。私は10年前にこの情報を確かめるために、このハイウェイの中国側の起点の瑞麗に行ったことがある。そのとき中国側(芒市→瑞麗)の道路はそんなに悪くはなかった。しかしミャンマー側の道路は悪路の連続だった。中国側からは越境できなかったので、私はヤンゴンからマンダレーを経て、国境まで走る予定を立てて走ったが、途中で橋が半分壊れていたり、がけ崩れで道路が塞がれていたり、その上検問になんどもひっかかり、あと一息でムーセ(中国地名:瑞麗)に到達できなかった。当時、私はヤンゴンで工場を稼動させていたので、中国からの物流の可能性を探っていたのである。 ・今回、私は再び芒市から瑞麗まで走ってみたが、道路は10年前とあまり変化がなかった。カシュガルからタシュクルガンへの高速弾丸道路とは雲泥の差であった。関係者の話によれば、5年後を目処にハイウェイの建設が進んでいるという。 瑞麗税関前のトラック ・ところが瑞麗税関では驚いた。駐車場には10トン級のトラックが100台以上並んでいた。貿易量は飛躍的に拡大しているようだ。私は今に至るも、ミャンマー側のあの悪路が修復されたという話は聞いたことがないが、この貿易量から推察して、意外に早くミャンマーハイウェイが完成するかもしれないと思った。 |
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