小島正憲の凝視中国

鄭成功と毛沢東


鄭成功と毛沢東
01.JUL.09

明末の功臣、鄭成功の母親が日本人であることを知る中国の人は少ない。

そしてその鄭成功が日本に援軍を乞うていたこと、さらに鄭成功軍の中で雇兵として日本武士が活躍していたことなどは日本人でも知らない。
また鄭成功と毛沢東の戦術が似通っていることについては、ほとんどだれも言及していない。


2月16日付けの時事速報に、鄭成功の船の設計図が長崎県の平戸でみつかり、それを台湾の台南市が借り受け、当時の船を復元することになったという記事が載った。


それを見て私の心中には、10年ほど前に読んだ「明末の風雲児鄭成功」(寺尾善雄著 東方書店刊)という本から受けた記憶がよみがえった。さっそく私はその本を倉庫の奥から探し出し読み直してみた。今回は、その本を手がかりにして鄭成功の跡をたどり、毛沢東の戦術を考えてみた。


ちなみにこの鄭成功の生き様は、近松門左衛門の手によって「国姓爺合戦」という題名で浄瑠璃として脚色され、1715年に初演、3年越しに17か月間続演、のちに歌舞伎化、そして現在に至っているという。


1.日本:長崎県平戸市


長崎の平戸は古くから中国との交易の窓口として栄えてきた。

この地方の豪族であった松浦氏は海外貿易で巨大な富を蓄え、その力を背景にして長崎一円の諸豪族を征服していった。

なかでも松浦隆信は戦国大名にまでのしあがった。その隆信は中国の海賊として日本と明との貿易に活躍していた王直を保護し、平戸に居宅を構えさせ、密貿易に従事させた。

松浦一党は王直の10年余の活躍で得られた富によって、武器などの購入が可能となり、ますます勢力を拡大していった。

そこにポルトガル船が入港するようになり、堺や博多などの商人も訪れ、平戸は大きく発展していった。

さらにオランダやイギリスが来港するようになり、江戸幕府の命により港が閉鎖され、長崎にその役割を奪われるまで、平戸は繁栄を謳歌した。


王直から約30年後、松浦家第28代当主の隆信(上述の隆信とは別人)は、中国福建省の海商鄭芝龍を重用し、地元の診察所の娘田川マツを娶らせ、平戸に住まわせた。

そして二人の間に1624年7月14日、福松のちの鄭成功が生まれた。

福松は、やがて明朝の臣となった父芝龍の招きにより、わずか7歳で単身渡海した。


田川マツは平戸から15キロほど離れた紐指の里で、診察所を営む医師の田川七左衛門松庵の一人娘として生まれ、成長してからは父親を手伝い、治療や製薬、調剤なども引き受けていた。
そこにはオランダ人や中国人が航行中の病を治すために多く訪れたので、マツは自然に彼らの母国語を話すようになっていた。その患者の中に、鄭芝龍も混じっており、かいがいしく働くマツの姿を見初めたという。


松浦隆信は鄭芝龍を膝下に引き込むために、田川マツとの婚約を勧め、川内村の土地を与え、居宅と診察所を築造させた。
結婚2年後、マツは臨月の身で川内浦の浜辺を散策していたとき、急に産気づき、波打ち際の巨岩の影で男児を産み落とした。

この子は中国名を「森」、日本名を「福松」と名づけられ、すくすくと育っていった。


このときの巨岩は後になって「児誕石」と呼ばれ、地元住民の手で大切に保存され、現在に至っている。



     鄭成功の児誕石 


また川内浦には鄭成功廟があり、居宅跡にはマツが植えたといわれるナギの巨木がそびえたっている。


私は松浦史料博物館を訪れ、係員に鄭成功の帆船の設計図を見せて欲しいと頼んでみた。すると、それは設計図ではなくて、南京船・寧波船と書かれた完成図であると教えてくれ、その図を見せてくれた。

私はその完成図に船の各所の寸法が細かく記入してあるのを見て、それを参考にすれば設計図がなくても復元可能ではないかと思った。


2.中国:福建省泉州・厦門市


厦門市から東北へ車で1時間ほど走ったところに泉州市があり、鄭芝龍・鄭成功父子はそこに拠点を置いていた。

泉州市は宋・元時代には海港として繁栄をきわめ、「海のシルクロード」の起点になっており、マルコポーロはこの泉州を「東方見聞録」の中で、エジプトのアレキサンドリアと並ぶ世界最大の港と紹介している。


この街で鄭芝龍・鄭成功父子は海上貿易を握って巨額の富を築き、その経済力を背景に明の復興を願って清と戦うことができたのである。
泉州には当時の歴史的遺産として、開元寺、中国で一番古いといわれているイスラム寺院(現在は門だけが残る)、宋代に築かれたという石橋(万安橋、安平橋)などが多く残されている。

このころ厦門はまだ寒村であったが、泉州港は次第に土砂で浅くなり、後年、厦門港にその地位を譲ることになった。


泉州市から南へ1時間ほど走った海に面した地点に(石井鎮)に鄭成功居館跡、居城跡、鄭成功記念館などがある。

鄭成功記念館は海をにらんだ絶好の位置にあり、広さは3000uを超え、山に沿って階段状に建てられている。

1982年に香港華僑の手によってこの地に完成させられた。



   泉州の鄭成功記念館前で 


記念館内部をじっくり見て回ったが、目新しい資料はなかったし、売店にも参考書物はまったくなかった。鄭成功の生母が日本人であったことは展示してあったが、大きな扱いではなかった。ましてや日本武士が傭兵として活躍していたとか、鄭成功がなんども日本に援軍を要請していたなどという展示はどこにもなかった。ただし鄭成功が日本の実弟に送った書などの展示があった。


30分ほど車で走ったところに、鄭成功夫妻の墓がある。これまた山すそに階段状に築かれており、広大な規模を誇っていた。

鄭成功は実際には台湾で死んだのだが、清朝の援助もありここに移築されたという。

泉州市の街中をのぞむ山頂に、馬にまたがった金色の鄭成功像がそびえていた。案内書には出ていなかったので聞いてみたところ、2年ほど前に建てられたという。それは泉州市の人民が、今でも鄭成功を郷里の英雄として誇りにしていることを象徴しているようだった。


鄭成功は7歳でこの地に来て学問にいそしんだという。

父親の鄭芝龍は明朝から、海商としての経済力と海賊としての軍事力を頼みとされ、重臣に取り立てられた。しかしながら清軍が日増しに強大になるにしたがって、鄭芝龍は清軍に寝返った。鄭成功はその父親と決別し、鄭氏一族を束ね、明朝の再興のために働くことになった。そしてその戦術の巧みさと軍律の厳しさによって、鄭成功軍は清軍に各地で勝利するようになった。

さしもの清軍も戦線が伸びきり、満州八旗などの直属部隊だけでは戦いが不可能になりつつあったからでもある。そこで清軍は韃靼の騎馬兵を雇い、最前線で戦わせた。海戦が得意な鄭成功軍はこの韃靼騎馬兵に手を焼いたという。


そこで鄭成功は日本に援軍を依頼した。その回数は合計23回(1645〜1686年)に及ぶ。

ことに第4回目のものに対しては、徳川御三家が派兵に積極的で、紀伊侯は「天下に浪人を募ったらすぐに10万人ぐらいは集まるだろう。自ら総大将になって攻め入り、日本武士の手並みを見せてやろう。あぶれている浪人対策にもなる」と大乗り気であった。

その後幕閣が検討を重ねたが、ちょうど内政に多くの困難な事案を抱えており正規に派兵をするというところまでには至らなかった。

それでも日本には、巷に浪人が余っており、由比正雪の乱が起こるなどしていた時期で、彼らが雇い兵として鄭成功軍に馳せ参じた。その数は数千人に及んだという説もある。


日本武士は甲冑に身を固め、頬当をつけ、3人1組で戦い、鉄人と呼ばれ恐れられた。1人が大盾を持ち、その後ろで長刀を持った1人が馬の足を払い、さらに1人が刀で落馬した兵を切り殺したという。

さすがの韃靼騎馬兵もこの日本武士のチームワークの前に屈したので、鄭成功軍は陸戦でも優位に立ったという。


鄭成功は勇躍して、「復明抗清」の旗を掲げ、大船団を組み、長江を遡上し、清軍の重要拠点の南京の攻略を目指した。

しかし残念ながら羊山まで来たときに暴風雨に遭い、多くの艦船を失った。また味方陣営の内紛なども加わって、戦況はじょじょに不利になっていき、泉州へ引き上げざるを得なかった。

追い込まれた鄭成功は厦門の鼓浪(コロンス)島で兵を訓練しながら、台湾をのぞみ、そこに移住し軍を立て直すことを決意した。

現在、コロンス島には巨大な鄭成功像が台湾をにらんで、聳え立っている。


3.台湾:台南市


台南市に着き、私はまず鄭成功の船の再現場所に行ってみた。

それは林黙娘公園近くの安平港を臨む木造船専門のドックで行われていた。



     鄭成功船 復元ドック 


そこの壁にはしっかりとした参観者用の展示がしてあり、松浦資料博物館から借り入れてきたと明記して、1706年の台湾船の完成図がかかげられてあり、それを参考にして現代の技術で設計し造船していると書いてあった。


先日私が平戸の松浦資料博物館を訪ねたとき、係員の方が「貸したのは設計図ではなく、完成図です」と言われたのは本当であったが、実際には南京船や寧波船のものではなくまさに台湾船そのものであった。


船の骨組みはすでにできあがり、全長30mに及ぶ雄姿をドックの中に横たえていた。船大工さんたちが電動カンナなどの工具を持って、骨組みの外側を削っていた。本年12月末には完成する予定だそうである。



   鄭成功船 復元現場 


残念ながら見学者は日本からも大陸中国からもほとんどないということであった。同行した地元の観光ガイドでさえ始めて来たということで、さっそく上司に報告して、今後は観光コースに組み込むと話していた。台南市観光局でも資料を作成中だということであった。


鄭成功は1661年、25000人の兵士を擁し600艘の船で台湾に攻め込んだ。満潮を利用して湾内深くに入り込み、オランダ軍の意表をついて勝利した。


その後、オランダ軍を台湾から駆逐し、中継貿易で財を成しながら、台南地方の開発に力を注いだ。オランダ軍の圧政に苦しんでいた原住民も、鄭成功を歓迎したという。


鄭成功軍が上陸したという地点には記念碑が建っていたが、当時の地形はまったく変わっており、鄭成功の上陸戦術を確認することはできなかった。


周辺には 工業団地が広がっており、その他はうなぎの養殖池になっていた。そこにはかつての日本の浜名湖周辺の景色が一面に広がっていた。


上陸地点付近には海の安全を願う立派な神社(鹿耳門天后宮)があった。

その後、私はオランダ軍が守っていたというゼーランジャ城やプロビンジャ城を見て回りながら、参考書物や資料を探したがなにもなかった。ただし日本人観光客が結構たくさんいたのには驚いた。


鄭成功は延平郡王祠に祀られていた。鄭成功死後、台湾を手に入れた清王朝が台湾人民の間に、鄭成功への思慕の念が浸透していることを理解し、彼を祀って神社を建てたという。

その後、日本軍もその神社を拡充し現在に至っている。そこに鄭成功文物館があり、中には鄭成功時代の武器が多数展示してあった。


詳しく見ていくと、展示室の中ほどに、日本刀を20cぐらい長くした御林軍長刀というものが展示してあり、明末に日本刀を模して作ったと書いてあった。また日本武士の頬当つきの甲冑が展示してあった。残念ながら説明書きはなにもなく、それは場違いな感じがする展示であった。私はこれが日本の傭兵武士の使ったものであろうと思いじっくり見た。


文物館の2階には、当時の船のミニチュアがたくさん展示してあった。それぞれ外洋船や沿岸船、長江などの河を航行する船など、帆や喫水線などの違う船がたくさん並べてあった。もちろん大砲を備えた軍船もあったが、そこには当時のオランダ軍船も展示してあり、その威容と比べると鄭成功の軍船は貧弱なものであった。


私は台南市の鄭成功にまつわる旧跡をすべて回り、鄭成功の母親が日本人であるということが、すべての場所で明示してあることを確認した。しかしながら鄭成功軍の前陣で日本武士が戦っていたことや、鄭成功が日本に何回も援軍要請をしていたことなどはどこにも書いてなかった。また参考書物や資料をくまなく調べてみたが、なにもなかった。

鄭成功は39歳の若さで亡くなった。ガイドは笑って過労死だったのではないかという。

死ぬ直前には、精神に若干異常をきたしていたのではないかという説もある。

私は鄭成功は日本人の血を受け継いでいるので、きっと繊細な神経の持ち主であり、それが影響したのではないだろうかと思った。


4.鄭成功の戦術の特徴


鄭成功軍の軍紀条令には、「進軍中、公的に食糧を徴収する以外、私的に物を奪ったり、婦女を犯したりしてはならぬ。男子を徴発して使役すること、家畜を取り上げて殺すことも禁止する。これに違反するものは斬刑に処して衆に示す。その場合、指揮官も同罪とする」と明記されており、それが厳格に実行された。


たとえば、一兵士が途中で水を得るために上陸した際、民家でニワトリ1羽を失敬してきた。それと知った諸将は協議の結果、本人は斬首、指揮官は監督不行き届きで罰棒十の刑を決め実行した。


鄭成功軍は行く先々の土地で、その地の住民たちから大きな支持を得たという。


鄭成功軍は兵糧を船で大量輸送することによって、現地調達つまり略奪を避けることができ、その結果、現地住民を味方につけ、破竹の進軍が可能であったのである。

しかし当然、船舶での輸送では沿岸か大河の周辺にその範囲が限定されるし、船舶が不足してくれば進軍は止まり、糧秣は枯渇し部隊は困窮する。結果的にこれが南京攻略失敗の一因となったのである。


鄭成功は台湾進駐後も、この規律を厳格に実行し、住民の銀を奪った武将を死刑、窃盗を働いただけで即座に斬首、姦通の罪を犯した男は棒で殺し、女は海に沈めた。


その一方、鄭成功は台湾の原住民と新来の漢族との融和や農地の開拓や生産の拡大に心を砕いたので、住民からは恐れられながらも慕われた。


孫子の兵法では、作戦編で「智将は敵に食む」と説き、「戦上手は、壮丁の徴用や糧秣の輸送を二度三度と追加するようなことはない。また国内からは軍需品だけを運んで、糧秣は敵から奪い取る。こうすれば不足するはずがない」と論じ、「糧秣を敵地で調達する」ことを奨励している。


この孫子の思考には、できうるかぎり戦争を短期で終わらせたいという不戦思想が色濃くあらわれているといわれている。

孫子の時代同様、現代でもやむを得ず長期戦となった場合は、現地調達つまり略奪が有効な手段であるが、そうした場合は現地住民の反発を受けることは必定である。現地住民を味方に引き付けたければ補給や兵站線の確保を真剣に考えなければならない。


ナポレオンは現地調達(略奪)を行うことによって、迅速な進軍を可能にし、瞬く間に欧州を席巻した。

彼は兵士に敵地で金銀財宝や糧秣を奪うことを奨励し、兵の能動性を刺激した。

以下はナポレオンの名演説の一端、「兵士諸君、私は諸君を世界一の沃野に誘導しようと思う。豊かな諸州、広大な諸都市が諸君の権力下に入るであろう。諸君はそこで名誉と、栄光と、富を見出すであろう」。


しかしながらナポレオンのその戦術は、モスクワではそれが裏目に出た。ロシア人自身の手によって市内を焼き尽くされ、奪う食糧もなく、惨めな敗戦を喫することになったのである。


勝海舟はこのナポレオンのモスクワ敗戦をよく知っており、江戸城無血開城談判の裏づけとして、もし決裂の際には江戸市中を焼き尽くし、官軍の兵糧を断つ作戦を考えていたという。


古来、兵糧の問題は戦いの最重要課題であった。兵糧を現地調達(略奪)すれば、現地住民の反発を買い、彼らを味方に引きつけることはできない。兵糧を後方から運んでいれば、迅速かつ遠方への進軍はできないし、兵站線の確保が大きな問題となる。


要するに現地調達(略奪)しながら、敵地で住民を敵に回し、勝つことはきわめて困難なことであったのである。


鄭成功は船舶で兵糧を大量輸送することができたから、現地調達(略奪)を戒め、現地住民を味方に引き込み、清軍に頑強に抵抗することが可能だったのである。


なお、鄭成功は台湾進駐当初、そこを貿易中継地点として巨額の利益を上げ続けたが、その後清軍に泉州や厦門を抑えられ大陸貿易を封じ込められてしまったので、日本やルソン、ジャワなどだけの片肺貿易となり、儲けが極端に薄くなってしまった。そしてとうとう3代目で清に降伏した。


5.毛沢東は鄭成功の戦術に学んだ


毛沢東は井岡山で「三大規律八項注意」をつくり、それを労農紅軍に徹底した。

それは以下のようなものであった。


三大規律は、

@いっさいの行動は指揮に従う。

A大衆のものは針1本、糸1すじもとらない。

Bいっさいの戦利品は公のものにする。

八項注意は、

@ことば使いはおだやかに。

A買いものは公平に。

B借りたものは返す。

C壊したものは弁償する。

D人を殴ったり、ののしったりしない。

E田畑を荒らさない。

F婦人をからかわない。

G捕虜をいじめない。

※なお資料により若干の違いがある。


私は学生時代、あさはかにもこれが毛沢東のオリジナル作品であると思い込んでいたので、前述の「鄭成功」の文章を読んだとき、それらが似通っていることを発見し驚いた。そしてそのとき毛沢東が鄭成功の軍紀条令を真似て、「三大規律八項注意」を作ったに違いないと思った。


毛沢東は中国の古典や太平天国の乱の戦術になどについても精通していたし、彼はまた明を好み、清を嫌っていたから、明の功臣鄭成功についてはよく研究していたと思われる。

したがって毛沢東の脳裡には必ず鄭成功の軍紀条令が焼きついていたはずである。

しかも毛沢東は鄭成功同様にこの規律を厳格に実行した。


この実態を岡本隆三氏は「長征」の中で、エピソードとしてたくさん書いているが、そのうちの2例を以下に紹介する。

「(ロロ族の新参兵士が落ちていた盃を拾ってきたとき)、班長は『われわれ紅軍は全身全意人民に仕える軍隊だ。たとえ針1本、糸1すじでも大衆のものをとってはならない。きみは、きょう、その規律を犯した。たとえごみくずの中にあったとしても、これはやはり大衆のものだ。それを黙って自分のものにするのはまちがっている。これからはけっしてそんなことはしてはいけない。わかったら、盃をかえしてきたまえ』と、おだやかにいった」


「井岡山でつくられた紅軍の規律は厳しく守られた。住民に借りたものは、返したかどうか、寝台に借りた戸板は、元通りはめたかどうか、寝具に使ったわらはよくたばねたかどうか、家の中はきれいに掃除したかどうか、規律検査係の兵士を各民家へやって、よくたしかめてから出発した。ナーシー族は、紅軍をおそれて、みんな山の中へ逃げのぼっていたが、紅軍は住民の馬を保護し、傷病兵が食べた卵の代金と書きつけをのこして、ナーシー族をびっくりさせた」


紅軍と行動を共にした多くの日本人も、労農紅軍の中で規律が厳格に守られていたことを語っている。その中の1人、古山秀男氏は、「一日本人の八路軍従軍物語」の中で以下のように書いている。


「部隊は部落へ駐屯することになると、まずみんなで手分けをして物を借りることから始めた。鍋、水桶、盆、敷藁など食事や寝るのに必要なものを、相手が納得するまでおだやかに話をし、了解をえて借り受ける。借りるときは、中隊ごとで統一された借用証を渡した。…… 朝の出発がどんなに早くても、借りたものはきちんともと家へ返し、まれに誤って割ったり、こわしたりしたときは、中隊の給食費から費用を出し、そのときの時価で弁償した。もちろん、敷いて寝た藁はもとのところへきちんとおさめ、あとはきれいに掃除をする。時間があれば前庭まで掃除するから、農民たちはすっかり恐縮してしまい、『アイヤー!同志たちよ、もうたのむから止めてくれ!』と手をつかんではなさないこともあった。……たまに婦人をからかうとか、上級にたてつくといった規律を犯したものが出ると、当人を物置小屋などへ2日間くらい閉じ込め、中隊の兵士が交代で監視した。その後、当人が素直にあやまちを認め、『今後二度と繰り返しません』と約束すれば釈放となり、またもとの班にかえって前と同じ任務につくことができた」


このように毛沢東は規律を徹底し、行く先々で現地住民を味方に引き付けた。


しかも有名な長征では兵糧の後方からの補給なしで、しかも現地調達をしないで、江西省の井岡山から陝西省の延安まで、2年間に渡って1万2千kmを進軍した。


これを額面通り受け取ると、労農紅軍は兵糧の補給ゼロ、現地調達ゼロという状況で、霞を食って進軍したことになる。しかしこれには巧妙な戦術が隠されていた。


毛沢東は補給なし現地調達なしで進軍する見事な戦術を編み出したのである。


岡本隆三氏は「長征」の中で、以下のように書き、その種明かしをしている。(※以下は要約)


「労農紅軍の部隊が、貴州省に着いたころには兵糧がまったくなくなり、兵士たちは激しい飢えにおそわれた。飢えに耐えて彼らが行軍していると、一面のみかん山に出くわした。それでも兵士たちはそのみかんを横目で見ながら、だれも手を出そうとしなかった。このみかん山の持ち主が誰かわからず、地元住民の持ち物である可能性もあったからである。そのうち1人の兵士が落ちているみかんを拾って食べようとしたが、他の多くの兵士は彼の行為を規律違反として咎めた。仕方がないので、その兵士はそっとそのみかんを地面に置いて、隊列に戻った。その後、部落に入った先遣隊の兵士が、そのみかん山の持ち主がその地方の大土豪の張旦那のものであることを突き止め、指導部に報告した。指導部はそのみかん山を没収して部隊の飢えを満たすことに決定すると同時に、そのうちの1区画を地元住民用に開放した。そこで兵士たちはみかん山まで戻り地元住民といっしょになってみかんをたらふく食べた」


つまり労農紅軍は現地住民のものは略奪しなかったが、地主などのものはどんどん取り上げ、逆に現地住民に分け与えたのである。


現地において糧秣を蓄えているのは主に地主階級であり、農民をはじめとする現地の一般住民ではなかったので、略奪しても現地住民から恨まれることはなく、逆に彼らを味方に引き入れることが可能であったのである。


このようにして毛沢東は食料を現地調達しながら、現地住民を味方に引き込んだのである。


毛沢東は現地における社会矛盾を利用して、兵糧は現地調達でしかも現地住民を味方に引き入れるという見事な戦術を編み出し、一挙に兵糧問題の矛盾を解決したのである。

しかもこれを厳格に実行した。私は毛沢東がこの戦術を活用したことが、彼をして天下を取らしめるに至った大きな要因であると考える。


参考資料


「明末の風雲児 鄭成功」      寺尾善雄著 東方書店刊
「新国姓爺合戦物語り」       福住信邦著 講談社出版刊
「長征」                 岡本隆三著 潮文庫刊
「一日本人の八路軍従軍物語」  古山秀男著 日中出版刊
「平戸・松浦家名宝展」       松浦資料博物館刊