小島正憲の凝視中国

ダラムサラ近況と私見


ダラムサラ近況と私見
11.JAN.10
《目次》
1.ダラムサラにチベット人難民はいなかった。
2.中国・米国・インドなどに振り回された亡命チベット人たち。
3.亡命チベット人の本心。
4.チベット暴動の真因とチベット族の未来。
5.ダラムサラ近辺は歴史の宝庫。

   

1.ダラムサラにチベット人難民はいなかった。

 私は、つい最近まで、亡命チベット人たちはダラムサラというインドの僻地で、難民同様の苦しい生活を強いられていると思っていた。しかし今回、実際にダラムサラを訪れてみて、そこで私が目にしたものは、亡命チベット人たちが優雅に暮らしている様子と、それとは対称的に、スラム街で惨めなテント生活をしている現地のインド人の姿であった。

           
           山腹に建ち並ぶチベット人の邸宅           山裾のインド人スラム街テント

 ダラムサラはインド北部のヒマ-チャルプラデシュ州カングラにある。もともとダラムサラは、インド人ヒンズー教徒の巡礼地であり観光地であった。山腹に小さなきれいな滝があり、その脇にヒンズー教の寺院も建っている。ここに現在でも多くのインド人が参拝に集まってくる。そこではヒマラヤ山脈の絶景を望むことができ、小さな湖でボートを浮かべて遊ぶこともできる。1849年、英国軍人マックロードが閑静なその地に目をつけ、山腹に別荘やこじんまりとしたキリスト教会を建て、避暑地として整備した。それ以降、この山腹の地はマックロード・ガンズーと呼ばれるようになった。山の麓にはインド人が多く 住み着いた。ダラムサラという地名はその両方を指す。1947年、インドが英国から独立し、英国軍人たちはこの地から姿を消した。

 そこに1959年ダライ・ラマと共に、チベット人が突如としてやってきたのである。その当時のインドの宰相ネールはダラムサラの英国人別荘地跡が閑静であり、チベット人が住むのに最適であるという理由で、チベット難民にこの地に居住する許可を与えた。このときのことを土地のインド人古老は、私に、「ネールがチベット人に金銀でこの地を売ったのだ」と、いまいましそうに語った。現在、ダラムサラには、約25000人が住んでおり、そのうち8000人(僧は1500人)がチベット人で山腹のマックロード・ガンズーを中心に住んでおり、17000人のインド人が山裾を中心に住み着いている。

 マックロード・ガンズーにはレンガ造りの2〜3階建ての亡命チベット人が住む瀟洒な家が建ち並んでいる。私が訪れたときは、ちょうど前日から雪が降っており、それらの家の屋上やベランダで、チベット人の子供が楽しそうに雪で遊ぶ姿を見ることができた。山裾の谷間では、インド人たちの一部がテント生活をしている。私はまさにそこに難民生活を見る思いであった。他のインド人たちも、おおむねトタン屋根の平屋に住んでいる。これらの住環境を見るだけで、亡命チベット人と現地インド人の間に大きな格差があることがわかる。

 ダラムサラにあるラマ教の寺院を数か所訪ねてみたが、どこも新築で明るくきわめて清潔であった。そのほとんどが床は板張りであり、靴を脱いで拝観するようになっていたが、ぴかぴかに磨かれていたので、靴下で歩いてもまったく抵抗はなかった。中国国内のラマ教寺院のほとんどが土足で、しかも薄暗く不潔感がすることを思うと、そこに大きな差を感じた。ある寺院内できれいな宿舎をみつけたので、その玄関口に回ってみると、そこには「2010年に寄付で建築」と書かれた銘板が埋め込まれていた。

  

 あるラマ教寺院の庭では、インド人が箒で丁寧に掃除をしている姿を目にした。また別の寺院では、インド人女性たちが頭の上にたくさん荷物を載せて運んでいるのを見た。ダラムサラで3Kの仕事に従事しているのはインド人である。

 マックロード・ガンズーには、チベット人経営の土産物やインターネットカフェ、レストランなどが多く立ち並んでいる。ホテルも100軒ほどあり、チベット資本のものも多いという。マッサージ店も10店ほどあった。外貨交換所も多く、ラマ僧たちがドルをルピーに交換している姿をよく見かけた。インターネットカフェでは若いラマ僧がチャットを楽しんでいたし、街頭ではよく太ったチベット人やラマ僧がここかしこで談笑していた。狭い道にチベット人が運転する車が溢れていた。

 亡命チベット人たちのこのような生活は、ダラムサラに世界中から寄付金がたくさん集まってきており、それが亡命チベット人たちの懐をうるおしているから可能なのである。そうでなければ亡命チベット人たちが、このような優雅な暮らしを満喫できるはずがない。

 地元インド人の亡命チベット人に対する感情は、「好悪」が半々である。土産物屋や観光運転手などをしているインド人は、亡命チベット人の存在を歓迎しているが、それでもこれ以上増えるのは困るという。亡命チベット人の犯罪なども多くなっているためであるという。また反対派は、ダラムサラはダライ・ラマの住む地として有名となり観光地化しているが、実際の外国人観光客は25%ほどであり、インド人観光客が75%である。したがってチベット人がいなくなっても、インド人用観光地として十分やっていける。やがてインド経済が発展すれば、もっとインド人観光客が増える。だからチベット人に早くこの地から去って欲しいという。いずれにせよダラムサラで、チベット人の難民生活をみることはできない。

          
      チベット人宅のベランダから見た雪山の絶景             ダライ・ラマ邸の前で

 少し大げさではあるが、「ダラムサラは亡命チベット人難民貴族の桃源郷と化している」と、表現することもできる。
この1面を報じないマスコミやジャーナリストの罪は大きい。

2.中国・米国・インドなどに振り回された亡命チベット人たち。

 1949年、中国共産党は労働者や農民が主人公である中華人民共和国を建国した。そしてその理念を掲げて、共産主義国家の建設に邁進した。当時、チベット社会は農奴制を遺した制度を固持していたため、中国共産党はチベットに農奴の解放と社会改革を強く迫った。ダライ・ラマ14世を中心とする高僧や貴族、農奴主などの旧チベット支配勢力は、中国共産党の武力を伴う社会改革に武装反抗を試みたが、1959年、劣勢を悟り、再帰を誓ってインドに亡命した。

 このとき米国はCIAなどを使って、亡命の手助けをした。その後、亡命チベット人たちはインド政府の支援を受け、ダラムサラに定着した。もちろん米国もインドも、亡命チベット人を人道的に支援する反面、ともに彼らを対中国戦略のカードに使う算段であった。その後、米国は「中国封じ込め政策」の一環として、インドは国境紛争などの際に、適宜彼らを、人権問題などを口実にして中国を攻撃する道具に使ってきた。

それらの狭間に落ち込んだダライ・ラマ14世を中心とする亡命チベット人たちは、世界各国からの善意の寄付金を受けながら、結局、チベットへの反攻もできずじまいで、50年間の歳月をダラムサラで無為に過ごしてしまったのである。 

 半世紀にわたるこの歳月は、チベットに大勢の漢族企業家などの進出を許し、そこに新たな経済的・政治的・宗教的支配体制を完成させ、50年前の社会矛盾とは違う形の、漢族経営者とチベット族労働者という新たな構図の矛盾を生起させてしまった。したがって亡命チベット人が回帰しても、すでにチベットには過去の姿はなく、彼らには入り込む隙間がなくなってしまっているのが現状である。ダラムサラでも亡命チベット人1世の時代は過ぎ去って、彼らの子や孫の世代となり、彼らはその地に安住し、必ずしも当初の目論見のチベット反攻を目的とは掲げなくなってしまっている。

3.亡命チベット人の本心。

 現在、ダラムサラに居住している亡命チベット人たちは、すでに本心からチベット反攻を企図している者は少ないと、私は見る。また彼らにチベットへ帰って、現在以上の生活ができるという保証はどこにもない。どっぷり寄付金生活に浸かった亡命チベット人難民貴族に、チベットへ帰り、漢族との間で激しいビジネスや出世競争をする気はないだろう。

 亡命チベット人たちは、ダラムサラから全インドや、世界へ拡散していっている。その数はすでに10万人以上であるという。今でも中国本土から難民としてダラムサラへ流れ込み、そして全世界に散らばっていくチベット人がいる。その方がチベット族若者たちにとっては得策なのかもしれない。

 私は、ダラムサラのノルブリンカで英語を流暢に話すチベット人の若者たちに出会った。彼らはすでに米国のグリーンカードを取得し、米国に居住しており、故郷のダラムサラへ里帰りしているところであるといい、まさに彼らは青春を謳歌している風情であった。またダラムサラからの帰路、チベットから来たというラマ僧のグループに会った。彼らは北京でインドの入国ビザを取得し、北京から飛行機でデリーへ来て、車でダラムサラへ行ったという。そしてまたチベットへ帰るのだという。今や、ラマ僧でさえ、ダラムサラへの出入りが自由なのである。つまり亡命さえも自由であることになる。

 ダライ・ラマ14世は、高度な自治がかなえられるのならば、チベットに帰還してもよいと公言しているが、亡命チベット人の多くは本心では帰りたくないのではないかと思う。彼らにとってダライ・ラマ14世は広告塔であり、彼がいなくなれば寄付金は激減し、難民基地は消滅する。したがってダライ・ラマ14世の帰国については、そのアドバルーンは上げるが、実際には駆け引きだけに終わるだろう。またダライ・ラマ14世の生存中に、次期ダライ・ラマを選出しようという動きやダライ・ラマ14世に集中している権限を分散させようとする意図もあるようだが、大きな変更はされないに違いない。

4.チベット暴動の真因とチベット族の未来。

 ダライ・ラマ14世がインドに亡命してから、すでに半世紀が過ぎ去った。その間に、チベット側でもダラムサラ側でも過去の歴史的経緯からは、隔絶された新たな社会と矛盾が生起している。したがって今やチベット問題の解決は、その過去とは一定の距離をおいて、現実を直視し解決の糸口を探すべきである。

 2008年のチベット暴動も、それはダラムサラからの反攻の烽火ではなく、チベット自体の新たな矛盾がその真因であり、チベット族の過去とは切り離して考えるべきである。暴動の真因は、漢族の企業家の進出によるチベット族労働者の不平不満の累積である。それは民族矛盾に、新たにより大きな階級矛盾が加わった結果、生起してきたものである。彼らの過去の物語は、そのきっかけを作ったにすぎない。あの暴動は、まずチベット族の漢族企業や商店などへの破壊・略奪・暴行があり、それに対して政府が武装警察や軍を投入して大弾圧をしたのである。この経過は、大木崇氏が「実録 チベット暴動」(かもがわ出版)で、その実体験を詳しく書いているし、私もそれを2度にわたり現地で確認してきた。それは日本のマスコミなどが声高に叫んでいる「中国政府の一方的なチベット族の弾圧」ではなかったのである。

 もちろん私は、中国政府の血の大弾圧を肯定するものではない。しかしながらチベット族が暴力手段に訴えなければ、血の大弾圧はなかったことも事実である。いかなる場合でも絶対に暴力を振るってはならない。それは悲惨な結果に終わるだけである。チベット族は自重して、自助努力をするべきである。不平不満をならしていても、なにも解決はしない。漢族をしのぐ努力をすべきである。これはウイグル族にも共通する課題である。

 この点で、チベット族やウイグル族などに、絶好の手本となる少数民族がある。それは朝鮮族である。中国東北部の北朝鮮との国境沿い多く住む朝鮮族は、ビジネスも同地周辺の漢族より上手であり、同時に知的水準も漢族より高い。吉林省延辺朝鮮族自治州琿春市にある私の独資企業も、総経理以下の主要幹部は朝鮮族である。なぜなら彼らの商売の才覚は高く、同時に漢語・日本語・英語・朝鮮語の4か国語を上手に話す人が多く、きわめて有能だからである。一般に延辺州に住む朝鮮族は漢族より裕福でもある。韓国や日本に出稼ぎに行き、帰って来た人も多く、国際感覚も豊かである。もちろん朝鮮族も幾多の逆境を乗り越え、歯を食いしばって努力をしてきたからこそ、今日の地位を築くことができたのである。これらの朝鮮族にも漢族に対する不満がないわけではないが、暴動を起こし漢族の支配をひっくり返そうなどという気はない。これらの朝鮮族の生き方を、チベット族やウイグル族は多いに学ぶべきである。「驕れる人も久しからず」の言葉のように、漢族の天下も長くは続かない。やがて漢族の勢力が後退するときが必ず来る。そのときチベット族の上に晴天が訪れる。そのときまで、チベット族は臥薪嘗胆し、自らを磨くべきである。

 日本人としての私たちの課題は、いたずらに中国政府の少数民族政策を責め立てるのではなくて、現状を正しく認識して、チベット人企業家の育成のために助力し、深遠なチベット哲学や文化の普及を支援することであると考える。

5.ダラムサラ近辺は歴史の宝庫。

 今回私は京都大学経済学部大西広教授といっしょに、イスラマバード → ラホール → ワガ国境 → アリムトサル→ ダラムサラ → チャンディガール → デリー という行程で、ダラムサラに行ってきた。通過したそれらの諸都市はすべてが歴史の宝庫であった。つまり亡命チベット人たちが追いやられたダラムサラの地は、前人未踏の僻地ではなく、その近辺は古くから歴史に登場していた場所であったのである。

 まず私たちはパキスタンのイスラマバードへ着き、そこから陸路を取りラホールに向かった。その途中で、アレキサンダー大王の東征中の最後の戦いの地を見ることができる。紀元前326年の「ヒュダスペス河畔の戦い」である。アレキサンダー大王がパンジャブ州の王の象の部隊と始めて戦ったときの話を、パキスタン人のガイドから聞きながら、私たちはその河を渡った。そこにはその当時から伝わるという世界最大の岩塩鉱山もある。

 次いでムガール帝国の中心都市のラホールに入る。ここにはムガール帝国の遺跡が数多く遺されている。アクバル大帝を始めとするムガールの皇帝たちは、領地であるアフガニスタンのカブールとインドのデリーを往復するときに、必ずこの地を通り、しばし逗留したという。外敵からこの地を守るラホール・フォートという城塞がしっかり遺されており、城中にはタージマハールを造ったシャー・ジャハンの宮殿も保存されている。

  

 そこは自然の風と噴水を上手に組み合わせ、涼風が部屋に吹き込むように工夫されている部屋や、天井や壁に鏡が埋め込まれ、月明かりが幻想的な雰囲気を醸し出すように仕組まれた部屋などがある。また皇帝たちがこの地域の住民から直接、その意見を聞いたという広場もある。

 市の中心部にあるラホール博物館はガンダーラ美術の宝庫である。それを見て回るにはたっぷり半日はかかる。圧巻は断食修行中の仏陀の像である。そのあばら骨が浮き上がった像には鬼気迫るものがある。私は以前から、この仏像?が大好きであり、インド旅行中に小さな木像を買い求め、自室に飾り、今でも毎日それをながめている。今回、その仏像のオリジナルを見ることができ、大感激した。

       

 パキスタンとインドの国境であるワガ国境はおもしろかった。ワガはパキスタンとインドの最大の道路国境で、ここでは毎夕、同時にそれぞれの国旗の後納の儀式があり、そのときワガ国境の両側に、両国の人民がたくさん集まり、両国の応援合戦を行う。両国には、そのための応援席が設けられている。そのときそこは30分間ほど、数千人の応援団のものすごい熱狂に包まれる。当日、私はパキスタン側の席に座って応援した。イスラム教の国であるため男女の応援席が別になっていたので、当然のことながら私は男性席に座り、道路を挟んで反対側の女性席をみつめながら応援することになった。そこで私が見たものは、日頃、敬虔でベールで身を隠し、人前で大声を出すことなどないと思われていたイスラム女性たちが、熱狂的に諸手を突き上げ、雄叫びをあげ続ける姿だった。

 パンジャブ州は1947年に、ワガ国境で2分された。したがってパキスタン側にもインド側にも同名の州がある。インド側に入ってすぐに、アリムトサルという街がある。ここはシーク教徒の聖地であり、黄金寺院がある。残念ながら今回は、時間の関係でここには行けなかったが、ぜひ訪ね勉強してみたい場所である。このアリムトサルから車で東北へ6時間ほど走ったところに、ダラムサラがある。

 ダラムサラから車で8時間ほど南下したところに、チャンディガールがある。途中に英国統治時代の巨大な城塞がある。チャンディガールは、パンジャブ、ハリヤーナーという二つの州の州都を兼ねるという奇妙な因縁を持つ街である。この街は、インドにとってパキスタンとの戦略上の重要な拠点であり、その意味で、独立後早期に都市計画が実施され、街が整備された。インド人はチャンディガールをインドでもっとも美しい都市と讃えているという。確かに道路は広く、建物も近代的なものが多かった。

 チャンディガールから列車に乗って、6時間でデリーへ着いた。