小島正憲の凝視中国

読後雑感 : 2012年 第10回&第11回


読後雑感 : 2012年 第10回 
28.MAR.12
1.「中国経済 危うい本質」
2.「不愉快な現実 ― 中国の大国化、米国の戦略転換」 
3.「中国人がわかれば中国はこわくない」
4.「やっかいな中国人のホンネがわかる本」
5.「いまこそ中国でモノを売る」

1.「中国経済 危うい本質」  浜矩子著  集英社新書  3月21日
  帯の言葉 : 「グローバリズムのあだ花、中国バブルのゆくえ」

 この本は、目下、売り出し中の国際金融学者:浜矩子氏の中国経済論である。私は、浜氏がどのような新説を繰り出しているかと思い、胸をときめかせてこの本を読み始めた。さすがに浜氏の主張は核心部分を突いており、今まで私が声を大にして叫んできた説を、まさに学者の立場から補完してくれている。ただし浜氏本人も、「筆者は中国経済の専門家ではない。中国事情に造詣が深いわけでもない」と書いているように、細部には事実誤認もある。

 浜氏は、「メディアは“中国は世界の工場になった”という言い方をする。だが、よく実態を考えればそうではないという点である。中国が世界の工場になったのではない。世界が中国を工場にしているのである」と書いているが、この指摘は鋭い。そして次のように続けて書いている。「かつてイギリスやアメリカや日本が世界の工場だと言われた時、それらの国々で工場生産の主軸となっていたのは、いずれも、それらの国々の企業群だった。だが、今の中国の場合は、そうではない。中国における生産の主要な担い手たちは、その多くが外資系企業だ。まさしく、世界が中国を工場にしているのである。となれば、中国が世界に向かって輸出する工業製品も、その多くは外資系企業が製造主体だということになる。この種の製品を中国の輸出品目としてカウントすることは、どこまで実態を正確に反映した描写だといえるか」。

 浜氏のこの主張をもう一歩進めると、私の「外資が中国で生産し、それを輸出する結果、中国に流入する外貨は外資のものであって、中国のものではない」という主張につながる。浜氏は、「国別に整理された貿易統計だけをみていたのでは、もはや優勝劣敗の構図を必ずしも正確には見極められない」と書いている。私もまったく同意見である。

 浜氏は、「地球全体を覆うもう一つの症候群として、“財政破綻シンドローム”というのがあちこちで発生しているわけだ。地球は一つ。されど国々は多数。ヒト・モノ・カネは国境を越える。されど国家は国境を越えられない。国境を越えられない国家が、国境を越えた経済活動の結果として発生する諸問題への対応を迫られる。あまりにも荷が重い。財政に負担がかかり過ぎる。だから、どこも大赤字だ。むろん、それぞれの国に固有の財政体質の問題はある」と書き、「国民国家は生き延びられるのか」と問いを発している。

 残念ながらこの本で、浜氏は、明確な解答を出してはいないが、結論として、「この試みの結果、解ったことは何か。それは中国経済がいかに特殊な経済ではなく、いかに不可解な経済でもないかということである。本書のタイトルは“中国経済 危うい本質”だ。確かに、中国経済は今、なかなか危ういところにさしかかっている。よほど上手に切り盛りしないと、混迷の渦の中に吸い込まれて行ってしまうかもしれない。だが、この危うさは、中国経済の特殊性からくるものではない。その普遍性から来るものだ。グローバル・ジャングルの経済力学は、国々の個別事情や特異性を踏み越えて、世界に及ぶ。その中で、中国経済もまたバブル化を警戒し、デフレの影に怯え、金融調節に四苦八苦し、財政状況の制御に苦慮している。こうした普遍的な悩みが、中国の場合にはあまりにも一気に押し寄せている。それが特殊性といえば特殊性だろう。20世紀的な国民国家の確立を進める一方で、21世紀的なグローバル・ジャングルのルールにも適応していかなければならない。ここに、まさしく、中国の危うさの本質があるのだと思う」と書いている。

 余談だが、この本でも、浜氏の機知に富むたとえ話を堪能することができる。その一例:「中国とかけて白鳥経済と解く」、その心は、「水面上に出た姿は実に美しくて迫力満点だが、水面下に目を転じれば、水かきが必死でフル稼働」。

2.「不愉快な現実 ― 中国の大国化、米国の戦略転換」  孫崎亨著  講談社現代新書  3月20日
  副題 : 「問題を直視できないこの国の瀬戸際」
  帯の言葉 : 「東アジアのパワーバランスの激変で、孤立化が進行している」

 旧満州鞍山に生まれ、外交官となり、防衛大学教授などを務めた孫崎亨氏は、本著で日本の進路を憂い、次のように語っている。「筆者が“中国が大国になる”、“米国に依存するだけでは日本の安定と繁栄があるわけではない”、“日本は過去150年と異なった戦略を出す必要がある”と力説しても、多分、多くの国民の耳には届かない。しかし、何人もの論者が繰り返す。排除される。その積み重ねの上に、新たな認識が出る」。そして「自分たちのような国家機関で働く者の多くの“犬死に”の上に、勝利がある」と記している。

 孫崎氏は日本を取り巻く現況を、「第1に、日本の隣国中国は、経済・軍事両面で米国と肩を並べる大国になる。第2に、この中、米国は中国を東アジアでもっとも重要な国と位置づける。第3に、日本の防衛費支出と中国の国防費支出との差は1対10以上に拡大する。この状況下、日本が軍事的に中国に対抗することはあり得ない。第4に、軍事力が米中接近した中で、米国が日本を守るために中国と軍事的に対決することはない」と分析している。そして、「政治家が、そして国民が新しいパラダイムの中で、いま何をなすべきかを真剣に模索すれば、答えはある。それは日本が、東アジア諸国が自国の繁栄の核心であることを認識し、複合的相互依存関係を強化することである。できれば東アジア共同体のような枠組みを作ることである。では、日本はその道を歩むだろうか。筆者は悲観的である。少なくとも5年ぐらいは難しい。つまり、現政権では確実に無理だろう。そして、おそらく、次の次も」と結んでいる。

 この孫崎氏の中国認識は大きく誤っている。なぜなら上掲の書で浜氏も言っているように、もはや中国は全土を外資に蹂躙されており、従来の国家概念では捉えきれない国に成り果てているからである。単純に考えて、もし中国が全土から外資を追放したとしたら、間違いなく中国は崩壊する。さらに現在、中国政府は産業構造の転換・高度化を至上命題としているが、それの特効薬として新たに先端科学技術を持つ外資を誘致し、それに全面的に依存しようとしている。したがって中国はいかに強面を装ったとしても、外資を含む諸外国と協調関係を結ばざるを得ない。その範囲内での軍備拡張であるということを認識すべきである。

 それでも孫崎氏の「日本が東アジアで複合的相互依存関係を作るべきである」という結論には、私は大賛成である。そのための近道は、民間の東アジア横断組織を作ることであると考えている。私はそのために昨年、「アジア・アパレルものづくりネットワーク」を結成したのである。他産業の民間企業経営者も、ぜひこのような組織を結成してもらいたい。そしてその連合体のようなものができれば、かなりの力になると思うのだが、いかがなものだろうか。民間組織ならば、日本政府としてそれぞれの国に遠慮することもなく、かつまた予算の無駄使いだと追及されることもない。残念ながら、長らく政府関係者として禄を食んできた孫崎氏には、このような戦略的発想はなく、ただただ悲観的とならざるを得ないのだろう。現実は着々と進んでいるのである。

 孫崎氏は第6章で、「現在ロシアで、プーチンが政党“統一ロシア”を基盤に置きつつ、実質的には独裁体制を維持している。それを想起すれば、中国共産党が選挙制度を導入した後も、独裁支配体制を続けるのはさして難しくない」と書いている。おそらく中国共産党首脳も、このプーチン体制について、しっかり研究しているに違いない。その意味では、明日の中国を占う意味で、プーチン体制の今後に注目しておかなければならない。また孫崎氏は第8章で、戦略的思考方法について詳述している。これは参考になる。

3.「中国人がわかれば中国はこわくない」  成田勝著  波乗社  3月15日
  帯の言葉 : 「GDP世界第2位に躍り出たこのエネルギーとパワー これだけは知っておきたい中国と中国人の真の姿」

 著者の成田勝氏は、大企業の富士通の北京事務所の駐在員を5年間務めた。その経験をまとめたのがこの本である。成田氏は、長年、富士通という看板を背負って勝負してきているので、中国の暗部について描きだせば、当然のことながら、富士通に迷惑がかかる。この本が、比較的、サラリと書かれているのは、その配慮があるのではないかと思う。

 残念ながら、この本には、従来の中国紹介本とまったく違うような新鮮な指摘は皆無であった。この種の中国紹介本は、日本ですでに50冊以上は発行されている。したがって日本人は、この種の本に食傷気味であると言っても過言ではないだろう。成田氏にはこの本で、そのような耳年増の日本人が、あっと驚くような新説を展開して欲しかった。

 たとえば「“80后”がわかれば明日の中国の姿が見える」という項目をかかげて文章を書いているが、結論を「“80后”は明日の中国をどう生きて行くのでしょうか。世界が注目するところです」と書いているだけである。ここで成田氏が、「“80后”は、明日の中国をこのように変える」と明言すれば、この本の価値はかなり高まったと思う。また広東省の増城市や烏坎村の暴動についても書いているが、とても現場に行って取材しているようには思えない。このような案件こそが、中国の未来を占うのには絶好の材料なのであるが、メディアからの情報だけでは真相をつかむことはできない。

 ただしこの本で私が驚いたことが二つある。一つは「日本の浅間山荘を香港の中国系企業が買収した」という記述である。私が数年前に、浅間山荘を現地視察したときには、現地の不動産屋さんから、「日本の滋賀県の会社が買った」と聞いていたからである。さっそく再度、現地不動産屋に問い合わせ、この話が本当ならば、「中国系企業に交渉して、買い戻したい」と思っている。中国系企業が持っていても、何の意味もない壊れかけた別荘だが、日本人にとっては「反面教師」として保存すべき価値があると、私は思っているからである。もう一つは、「尖閣諸島沖で日本の海上保安庁巡視船に衝突した、あの中国漁船を競売にかけ、レストランにしようという構想が持ち上がっているらしい」という記述である。これも真偽のほどを確かめてみたい。ただし私は、これに手を出す気はまったくない。

4.「やっかいな中国人のホンネがわかる本」  呉c著  ぱる出版  3月22日
  帯の言葉 : 「“80後世代”の中国人女性が明かす 新世代中国人論」

 著者の呉c氏は、今、話題の“80后世代”の中国人女性で、北京の大学で日本語を習得し、その後日系企業に勤め、日本へ留学、慶応大学で学び、現在は日本企業の最前線で活躍中である。私は、この本から、きっと“80后世代”の考え方や行動パターンを読み取ることができると思い、急いでページを繰っていった。しかしながら、若い中国人女性が書いたわりには、すでに言い尽くされている中国人の行動パターンの羅列であり、ことさらに“80后世代”を特徴付けるものはほとんどなかった。

 呉氏は、中国での酒の飲み方や宴会についての作法を紹介し、それを守ることがビジネス成功への近道であると書いている。しかしながら最近の調査結果では、今や、中国の7割の人が宴会嫌いであり、その理由は酒を飲みたくないからだという。ことにこの傾向は、“80后”以降の世代に多いという。たしかに数年前から、私の周辺の政府関係者やビジネスマンとの宴会も、開始時間とお開き時間が早くなり、参加者たちが早く家に帰って休むようになった。また信じられないと思うが、ワインの水割りが流行するようになっている。多くの人が、酒の飲み過ぎで、身体をこわすことを警戒するあまり、こんなことになったのである。中国人とのコミュニケーションを密にするには、宴会が大事であるという常識に、いつまでもとらわれていると、時流に乗り遅れることになると思うが、いかがなものか。

 呉氏は、「1980年1月1日から1989年12月31日までに生まれた“80后世代”、年齢で言えば23歳から32歳は、“最も利己的な世代”、“最も反逆的な世代”、“世間知らずでまったく期待できない世代”とボロカスに言われている」と書いている。さらにその後の“90后世代”については、次のようなネット上の文章を紹介している。「われわれは、世界にわすれられてしまった世代である。毎日、豊かな生活を送りながら、内心たまらないほどの退屈を感じている。周囲の愛を一身に集めながら、言葉にはできない孤独に悩んでいる。情熱的に青春を謳歌しながら、誰にも理解できない悲しみを強く感じている」。そして「このように“90后”は過剰なまでに傷つきやすく、非社交的でヘタレ。そして多くが“インターネット症候群”です。日本でいうところの“草食系”をもっと弱々しくしたようなイメージでしょうか」と続けて記している。“80后”の“90后”バッシングというところだろうか。

 呉氏は、「中国人は“80后世代”であっても、家族にはやさしい」と書いているが、中国には「老人権益保障法」というものがあって、子供が親の面倒をみない場合、親が子供を訴えることができるという法律がある。このような法律は日本にはない。このような法律が存在しているということは、「中国では家族の道徳的絆が決して強いわけではない」ということを証明しているのではないだろうか。“80后”の呉氏は、おそらくこの法律の存在を知らないだろうが。

 なお呉氏は、中国では「ハゲは“頭の使い過ぎ”と逆にモテる」と書いている。私はハゲだが、ついぞそのような場面には出くわしたことがない。これは明らかな間違いか、ブラックジョークの類と考えるべきで、この文言は信用しない方が身のためである。

5.「中国ビジネス2012 いまこそ中国でモノを売る」  月刊BOSS4月臨時増刊号  4月1日
  副題 : 「中国崩壊論にダマされるな」

 これは雑誌であり、単行本ではないが、書店の店頭にうずたかく積まれており、そこそこ売れているようなので、敢えて俎上に載せてみた。粗雑な中国分析と適当な文章で埋められている雑誌だが、おそらく「いまこそ中国でモノを売る」といういかにも大儲けできそうなキャッチフレーズに釣られてこの本を読み、中国市場へ出かける人たちもあるのだろう。私も、中国市場に挑戦することに反対ではないが、中国市場に行けば、「猫も杓子も」大儲けができるというような幻想を与えることには賛成ではない。中国市場はそんなに甘いものではない。

 この種の本や雑誌について、いつも論じることだが、本当に「中国がバラ色の市場で、誰が進出しても大儲けできる」と喧伝するのならば、まずその誌上でそれを実証しておくべきである。つまり、実際に中国市場にモノを売って大儲けしているという進出企業の、日中両国での売り上げ・利益・納税金額などを明記し、それを100社並べて紹介すべきである。さらにそれらの企業が、日本では名もない中小零細企業であり、中国に渡って「一旗揚げ、故郷に錦を飾った」という企業であることが望ましい。なぜなら日本で上場しているような大企業ならば、資金・人材などが豊富で、中国市場で成功しても、それは当たり前のことであって、あえて喧伝するほどのことではないからである。同時に、そんな企業の真似をしても、中小零細企業には毒にこそなれ、益はないからである。御多分に漏れず、この雑誌にも、大儲け企業の紹介例はきわめて少ない。

 この雑誌の大儲け企業の紹介例は、イトーヨーカドー・ファミリーマート・ジャパンライフ・たい夢・ミスターミニットの5社のみである。イトーヨーカドーやファミリーマートについては、大儲けして当たり前企業であるから、これを成功例として取り上げても、中小零細企業の参考にはならない。ジャパンライフの紹介記事については、その取り扱い製品が明確にされておらず、今一つ正体がわからない。ミスターミニットはこれから北京と上海に集中出店するという企業で、まだ成功例とは言うには、早過ぎる。たしかに「たい夢」は、私も過去に何度か取り上げたように、中国展開は快調にすべり出している。しかしこの雑誌の記事では、執行役員の「できれば3年後くらいに利益が出るところまで持っていきたい」という言葉を紹介している。つまりまだ大儲けはしていないということである。この程度の取材で、「いまこそ中国でモノを売る」と、喧伝することは控えるべきなのではないか。

 その他、この雑誌には粗雑な中国分析小論が載せてある。その中で、私が特に気になった部分について、下記に論及しておく。

 「中国マーケットが拡大する10の理由」と題して、謝智慧氏は中国の政治制度を、「効率と公平性を兼有する中国共産党内民主制度」と持ち上げ、「中国の国情にあった一定的な民主制と効率兼有する制度である。意外と国家権力の分散と集中のバランスがよく取れている」と書いている。これは大きな間違いである。たしかに共産党政治局常務委員会内は、個人独裁ではなく多数決主義を取っている。しかしその共産党自体は民主主義の根幹である選挙の洗礼を経ておらず、国民の信認と負託を受けていない。つまり共産党という独裁政権の中での多数決なのである。ましてや今回の重慶事件のように、なんら民主的な手続きを踏まないで、突如として次期政治局常務委員入り予定されている人士が抹殺される事態は、異常としか言いようがない。また民主主義の肝心なところは、少数意見をいかに包含していくかというところであるが、それも具現化されていない。謝氏には、共産党一般の組織原則である民主集中性の理念と現実について、もっと深く勉強してもらいたいものだと思う。

 「中国零細工場の倒産・閉鎖は日本の三井三池炭鉱だ」と題して、田代秀敏氏は中国が当面している産業構造の転換・高度化を、日本の昭和30年代のエネルギー政策の転換と比較して論じている。従来私は、現在の中国の産業構造の転換・高度化と、日本のオイルショック時の産業構造の転換を比較して論じてきた。産業構造の転換・高度化を俎上に載せ論じる場合、資本主義の成熟度合いや産業構造全般が変革されたという面から、明らかにオイルショック時の日本こそが、現在の中国の比較対象にふさわしいと、私は考える。この田代氏の小論を読んでも、三井三池炭鉱の時の方が、比較対象としてふさわしいという根拠を見つけ出すのは難しい。しかも「公害対策の名の下、産業構造の大転換が始まる」と題した無署名小論では、この田代氏の小論を、「28頁からの記事に、中小企業の倒産は三井三池炭鉱と同じとある。中国経済が次のステップに踏み出すために、金融引き締めを理由として、低付加価値工場を意図的につぶしたという内容だ」と引用している。これはこの小論の著者の、経済一般の知識についての浅薄さを物語るものと言っても過言ではないだろう。


読後雑感 : 2012年 第11回 ダライ・ラマ14世特集 
30.MAR.12
1.「チベット学問僧として生きた日本人」
2.「ダライ・ラマ 希望のことば」
3.「夜明けの言葉」
4.「ダライ・ラマ珠玉のことば108」
5.「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」
6.「ダライ・ラマの“般若心経”」
7.「ダライ・ラマ法話」

1.「チベット学問僧として生きた日本人」  高本康子編著  芙蓉書房出版  2012年2月12日
  副題 : 「多田等観の生涯」   帯の言葉 : 「日本人はチベットと、どのようにかかわってきたのか?」

 この本は、秋田市生まれで、戦前に、まだ鎖国状態であったチベットに入り、僧院で10年の修行を体験した多田等観(1890〜1967)の生涯を描いたものである。著者の高本康子氏は、「本書では、…(略)。日本人にとって、多田等観と彼のチベット体験はどのような意味を持っていたのか。そして現在、どのような意味を持っているのか。そしてこれから、どのような意味を持ち得るのかを考えていきたい」と書いている。しかし私には、読み終わっても、なぜ今、この本が刊行されねばならなかったのかが、あまりよくわからなかった。いずれにしても、ダライ・ラマ14世ブームの中で生まれてきた本であることだけは確かである。

 高本氏は日本におけるチベットブームについて、第1回の入藏熱を、「明治維新直後の廃仏毀釈やキリスト教の流入など、日本仏教にとってその存続の根本が脅かされる危機的状況が続いていた。チベット仏教は当時の中国において、有力な仏教宗派の一つであり、東本願寺では、現況打開の一つとして、チベット仏教との連帯が考えられていたのである」と、その原因を解析している。また「日本の依拠してきた仏典は、言うまでもなく漢訳の経典である。長い歴史を持つ漢訳経典には同一の原典に複数の訳本、同一の表現に複数の解釈があることも珍しくなかった。しかし、釈迦が実際に説いた教えは、はたしてどれなのか。どのようなものであったのか。欧米で研究が始まったパーリ語やサンスクリット語原典は、釈迦の肉声への近さという点で、漢訳仏典とは比べものにならない。これらの経典の中に、漢訳仏典にのみ依拠する日本仏教の根底を揺るがしかねない何かが見出される可能性があった。日本仏教には強い危機感があったのである」と書き、その危機感がインドから直接仏教が伝来しているチベット仏教への接近を急がせたとしている。

 2回目は、河口慧海に代表される調査・探検ブームである。それを高本氏は、「当時は日露戦争前夜にあたる。この、ヨーロッパの高名な探検家が軒並み失敗しているラサ潜行に、日本人が成功した。これが当時の日本人、三国干渉前後から、欧米列強に苦杯を突きつけられ続けてきた日本人に、どのような印象を与えるものであったか、現代の我々の想像を越えるものがあると思われる」と書いている。また当時の西本願寺の法主の大谷光瑞は、大谷調査隊を組織し、中国の西域調査を3回にわたって行っている。その一環として多田は大谷光瑞から入藏を強く勧められたのだという。大谷光瑞は多田に、「社会と宗教がどのような関係をもつべきか」についての研究を課したという。

 多田は後に、「ラマ教の教理の概略は会得するのには10年や20年でできるものではない。それはただ学ぶというだけでなく、学んだことを一々体験するのです。すなわち修業をして、本人の血とし肉として実際を味得するのですから、なかなか短日月にはできるわけがありません。まあ終生の仕事でしょうか」と語っている。さらに「ラマ教は一般に仏教以外のよこしまな教えのように思われ、いわゆる淫祠であると考えている人が多い。それはチベット仏教の密教的な色彩が特に濃厚におりこまれ、それが高揚されているための誤解であろう」とも話している。多田は当時のこのようなラマ教イメージについて、これ以上のことを語ってはいない。

 なお第3回は、日中戦争勃発後、日本軍の影響下において、モンゴル地域がソビエトの影響下の外モンゴルと対峙する最前線となったため、この地域のモンゴル人たちにチベット仏教が絶大な影響力を持っていたことを利用しようとしたことから生まれたという。

 戦後、多田氏はスタンフォード大学アジア研究所の招聘で渡米し、2年間を米国で過ごす。帰国後はマナスル登山隊に現地の風俗や習慣を教えしたりしていたが、1967年に没した。戦後日本のチベットブームは、もっぱらラサなどの観光としてのものであり、チベット学問僧としての多田氏も活躍の場もあまりなかった。しかしながら、多田氏の死から40年後の、2008年にはラサ暴動が起き、にわかにチベットへの世間の関心が高まった。残念ながら、それは反中・嫌中の流れの中で、生まれてきたものであった。さらに2011年の東北大震災の復興を願って、ダライ・ラマ14世が来日したこともあって、昨今、ダライ・ラマ14世を通じてチベット仏教を紹介する書の刊行が急増する次第となったのである。

2.「ダライ・ラマ 希望のことば」  ダライ・ラマ14世  薄井大還撮影  春秋社  2011年3月30日
  帯の言葉 : 「万人を愛し、世界平和の実現に尽力するダライ・ラマ法王。その真摯な生き方を珠玉の言葉と感動的な写真で伝える」

 本書は、2007年から10年までの4年間における日本でのダライ・ラマ法王の教えのエッセンスと、ダライ・ラマ法王の影像を伝えたものである。撮影者の薄井大還氏は、「(ダライ・ラマ法王に)私が初めてした質問は、中国に対する法王のお気持ちでした。“中国を憎むのではない。中国を憎む心を憎む。敵は最大の師である”。この言葉に大変感激した私は、それ以来、すっかり猊下のファンになってしまったのです」と言い、本書中にダライ・ラマ法王の影像を数多く掲載している。なお教えのエッセンスについては、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のラクバ・ツォコ氏の責任のもとで翻訳され、本書に掲載されている。下記にその一部を私の独断で抜粋し、紹介しておく(※3.〜7.の著書も同様)。

・仏教の目的は、その教えを実践し、修行することです。仏教の修行においていちばん大切なことは、自分自身の心を鎮め、間違った心の流れを正してやることなのです。

・忍耐という言葉の意味を、人にどんなひどいことをされようとも、ただ黙って我慢することだと思っている人がいます。でも、それは間違いです。誰かが何かひどいことをしてきたときには、相手に仕返しをしてやろうという気持ちや怒りを持たずに、それを阻止することができるなら、断じてそうするべきなのです。相手がむちゃくちゃなことをするのを放っておけば、その人は甘やかされてしまい、結局、その人のためにならないので、というような正しい動機で、相手のひどい仕打ちを阻止することは正しいことですし、必要なことでもあります。「怒りの心をもたずに対応する」という実践は、いつでも、どんなときでも実行するように努力しなければなりません。しかし、脅かされたりして、生命に危険があるような場合は、まず生命を守ることを考えるべきです。自分は忍耐の修行をしているのだといって、何の抵抗もせずに殺されてしまっては、元も子もありませんので。しかし「心の中に怒りをもつことなく対応する」という本当の意味での「忍耐」を修行することができたなら、どんなことでも赦すことができるようになれるでしょう。

・日本では自殺する人が多いと聞いていますが、そうした悩みを抱えている人は、まず私たちにはこの人生だけではなく、前世や来世もあるのだ、ということを考えることです。そして私たちを苦しめている煩悩を滅するためには、その対策を講じて滅することが必要であり、ただこの人生に終止符をうって、新しい人生に切り替えたところで、煩悩がなくなるわけではない、ということをまわりの人が彼らに説明してあげるとよいでしょう。人が自殺するのは、自分が大切なあまり、かわいい自分を打ちのめしている苦しみに我慢できず、死んでしまえばその苦しみをなくすことができる、という考えから自殺をするのではないかと思います。そしてもっと深く考えるならば、人は誰でも自分に対する執着と期待があり、物事がその期待通りにならなかったとき、執着が自己嫌悪に変わってしまうのではないかと思います。ですから、次の生のことを考えずに、「死ねば苦しみは終わる」と思っているのでしょうが、実際には、死ねばこの人生が終わるだけです。でも死なずにいれば、いずれは今よりも幸せなときがやってくる可能性も残されているのです。

・ひとりの仏教僧として、私が常日頃より残念に思っていることがあります。宗教や宗教に対する信心は、愛や慈悲の心をはぐくむためのものだと思いますし、憎悪や敵意などのネガティブな感情を抑える働きをするものです。それなのに、愛や慈悲、人を赦すことなどが、どの宗教でも基本的な教えとされているにもかかわらず、過去においても、現在においても、信仰の違いがもととなって対立や争いが起きているのです。最悪の場合には、宗教の名のもとに、暴力や流血の事態さえ起きており、私はこれらのことをたいへん悲しいことだと思っております。世界の大半の人たちは、宗教にそれほど関心をもっていないかもしれません。大多数の人たちにとっては、お金、お金、とただお金のことばかりが最大の関心事になっているように思われます。それはそれでかまわないのですが、たとえそういった状況であっても、やはり宗教や信仰心の果たす役割は確かに存在している、と私は思っています。

3.「夜明けの言葉」  ダライ・ラマ14世  三浦順子訳  松尾純撮影  大和書房  2011年9月1日
  帯の言葉 : 「明日を“よりよい一日”にするために―。すべての生き物は幸福を望んでおり、誰もが等しく幸福になれる権利を生まれつきもっています。にもかかわらず不幸ばかり味わっているのは、自分の心がコントロールできず、惑ってしまっているからです 」

 訳者は、「本書は、今年76歳となるダライ・ラマ法王が、世界中を旅して講演されてきた言葉をまとめたものです。本書を通じて、あなたの気づきと理解の助けになる言葉が見つかり、一人でも多くの方の幸せにつながれば、これほど嬉しいことはありません」と書いている。この本にはチベットの風景や信仰者の写真が数多く挿入されているが、上掲書と異なり、本文中にはダライ・ラマの写真は1枚もなく、表紙の帯の片隅に、掲載されているだけである。

・人は時に、大きな危険やひどい結果から逃れるため、嘘をつくこともあれば、はかりごとを企てたりもします。これは悪い行為とみなすべきでしょうか。いや、必ずしもそうとは限りません。仏教の観点からすると、なによりも大切なのは動機であり、行動にうつす前の心構えです。社会的に有意義な企てをなそうとする時、大きな意味のある行為をなそうとする時、必要ならば嘘をついてもよい場合があるのです。ただし、その場合でも、利他の心があるかどうかが厳しく問われます。

・人が自分と異なるイデオロギーや宗教観を抱いていても、その人がそこから恩恵を受けているなら、他人がとやかく言う必要はありませんし、何を信じようとその人の当然の権利です。私たちは自分とは異なる見解があるという事実を重んじ、受け入れなければなりません。他人の権利を尊重し、思いやりのある態度を示せば、その人のもつイデオロギーや宗教観が自分になじむ、なじまないは問題でなくなり、意見の相違は二次的なものになります。経済の分野でいえば、たとえ競争相手であっても、なんらかの利益を残してあげれば互いに生き延びることができます。思いやりの心を基にして広い視野を持てば、物事はずっと楽になるのです。

・仏教においては忍耐の行は大切なものです。しかし忍耐することと、自分に不当に押しつけられた不正や危害にただ屈伏することは違います。菩薩の教えでは、悪人が、将来、他の生き物に大きな被害をもたらす悪事を企てている場合には、強硬な対抗手段をとってそれを妨げるべきであると説かれています。求められるのは、状況に対する感性です。不正行為をしても、罪を犯す当人にもその他の生き物にも重大な結果をもたらさないのであれば、不問にしてもかまわないわけです。

・他者のために善きことをなそうとする意図は、周囲の人々に自ずと幸福をもたらします。悪意には善意で、憎悪には愛で、侮辱には慈愛で、害悪にはあわれみの心で応じるのが、菩提心の行なのです。他者の悪意に動じず、悪意に対して悪意で応えることなく、相手に対して慈愛の心をそそぎつづけることができるなら、周囲の人すべてに喜びをもたらすことができるでしょう。他人から悪意をこうむったからといって、あとさきを顧みずに復讐に走れば、一時は満足感を得られたとしても、最終的には他人のみならず自分も惨めな思いをするはめになるはずです。

・忍耐というポジティブな対応をとらず、復讐をもって応じれば、復讐がまた復讐を呼ぶという悪循環に陥ってしまうでしょう。これが社会レベルで起きれば、世代から次の世代へと復讐の連鎖が続いていきます。その結果、どちらも苦しむのです。そして生きることの意味が台無しになってしまうのです。たとえば難民キャンプでは、子ども達は幼い時から憎悪することを覚えます。また、他の民族を差別、憎悪することが、民族主義であると思い込んでいる人もいるのです。これは実に近視眼的な悪しき考え方です。

・人は目的のためには―それが至高の目的でなくても―艱難辛苦に、苦痛に耐え忍ぶことができるものです。ならば苦から完全に解き放たれたいという至高の目的を抱いた私が、苦しみを忍べないなどということがどうしてありましょうか。このことは数多くの仏教テキストに記されています。ごく些細な目的のために、大きなことを諦めるのは愚かな行為です。より高い目的のために些細なことを諦める―これが賢いやり方というものです。チベット語には「百を捨てて、千をとる」という表現があります。

・生きていると、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたり、理不尽きわまる扱いをうけることもあるでしょう。そしてあなたを醜い目にあわせた相手はとてつもなく悪い業をつむことになるのです。このような場合、こうした状況を正すべく反撃に出てもかまいません。ただしその場合、罪を犯した者へ、怒りや憎しみをおこしてはなりません。慈悲の心をもって、相手に確固たる対応をするのです。実際、菩薩戒のひとつに、必要とあれば確固たる対応を行うべきだと記されています。状況が求めているのに、なんら対策をとろうとしないのは、菩薩の戒の一つを破ることになってしまいます。

・厳密に現実的観点から考えれば、ある場合には暴力もなかなか効果的であるといえます。力で問題を一挙に片付けてしまえるからです。しかし、その成功は往々にして他者の権利や幸せを犠牲にしがちです。結果として、ひとつの問題を解決しても後に別の問題の種を残すことになります。そもそも、もしその要求が正しい道理に支えられているならば、暴力を用いる必要はないはずです。暴力に訴えるのは、利己的な欲望以外なんの理由もなく、正しい論拠によって、目的を達成できない人たちなのです。家族や友人が賛成しない場合でも、正しい道理に支えられている人は、ひとつひとつ論拠を挙げて話し合えますが、それができない人は直ぐに怒りを爆発させてしまいます。つまり怒りは力ではなく、弱さの徴なのです。

4.「ダライ・ラマ珠玉のことば108」 カトリーヌ・パリ編 福田洋一監修 前沢敬訳  武田ランダムハウスジャパン 2012年1月24日
  副題 : 「心の平安を得るための仏教の知恵」「人の苦しみを和らげるために、思いやりをもって行動することが、無限の喜びを生み出すのです……」

 本書は、フランスの女性ジャーナリスト:カトリーヌ・パリ氏が、ダライ・ラマ14世の教えを「108の瞑想」として紹介したものである。カトリーヌ・パリ氏は、1997〜2007年の間、フランスのテレビ番組で「仏教徒の声」を担当し、そこでダライ・ラマ14世との人柄に触れ、爾来、ダライ・ラマ14世とチベット仏教に心酔、帰依するようになったという。

・だれかがあなたを傷つけても、ためらわず許しましょう。相手の行為の理由を考えてごらんなさい。あなたを苦しめようとか傷つけようとする意志からではなく、その人が抱えている苦しみのせいだということがわかるでしょう。許すというのは忘れることではなく、深い考えにもとづく心の積極的な働きであり、まわりの現実に対する認識と受容にもとづく責任ある行為です。

・あなたの敵に感謝しましょう。敵はあなたの最大の教師です。苦しみには正面から立ち向かわなくてはいけないこと、忍耐力や寛大さと思いやりの心を育まなくてはならないことを、なんの見返りも期待せずに、あなたに教えてくれるのですから。

・心の中の武装を解除しなければ、外側の武装を解除することはできません。暴力は暴力を生みだします。争いのない穏やかな生活は、平和な心からしか生まれません。世界を非武装化することは、わたしにとってもっとも大切な夢の一つです。というより、ただひとつの夢…。

・火が燃えるために木を必要とするのと同様に、怒り、憎しみ、反感が心に生じてくるためには、その対象が必要です。あなたが逆境におちいったり、あなたを挑発したり傷つけようとするものに出会ったときには、「ネガティヴ」な感情に引きずられないように、忍耐力を発揮してください。忍耐力とは、どのような状況になろうと、確固として揺るがないものでいつづける能力のことです。忍耐力をもっていれば、だれもあなたの心の平和を乱すことはできません。

・あたえることを学ぶには、まず他人を傷つけることをやめることです。そうすれば、自分が傷つくことがなくなります。なぜなら、他人に悪いことをすれば、なにより自分自身が傷つくからです。

・忍耐力を育めば、わたしたちを拒み傷つけようとする人たちに対してさえ、思いやりをもてるようになります。思いやりは心の最上のセラピストです。思いやりは人の心をあらゆる執着から解放するとともに、もつれた感情のわだかまりから解放してくれます。

・この世界に変わらないものはなに一つありません。だからこそ、わたしたちは心と、心を悩ますもつれた感情とを変えることができるのです。たとえば憎しみや怒りは、まわりの状況に応じて生まれます。それゆえ、それらは実体をもたないし、心のなかに永続的に存在することもありません。だからこそ、わたしたちはこうした感情を抑え込み、変化させ、追い出すことができるのです。憎しみや怒りを変えようとすれば、腹を立てたり、おこったりした状況を整理し、原因となった事情を分析して、その意味を理解することが大切です。幸福な状態がつづくようにするためには、すべてのネガティヴな感情を心のなかから追いはらわなければなりません。

・生きものとさまざまな存在とがたがいに依存しあっているという原理を知れば、わたしたちがつねに他人、自然、さらには宇宙と結びついていることがわかります。相互に依存しあっているということは、わたしたちが考えたり体験したりすることをはじめとして、わたしたちが行うどんなささいな行為にも責任があるということです。なぜならそれらは、わたしたち以外のすべてに影響をあたえるのですから。さらにいえば、依存しているもの同士がつねに相互依存しているというこの事実を踏まえれば、わたしたちには、生きとし生けるものが苦しみから解放され、幸福になる原因を見つけ出せるように手助けをする義務があるのです。すべての命あるものを助けるということは、わたしたち自身の苦しみの原因も取りのぞいていかなければならないことを意味します。これこそが相互依存の正しい理解です。

・生きとし生けるものとあらゆる存在とは、たがいに依存しあっています。このような関係を理解すれば、世界や人間関係において、非暴力と平和を促進する力になります。この相互依存の関係は、仏教の教えの基本原理のひとつです。すべての存在、すべての生きものは、ほかのものやほかのすべての世界と、相互に依存することなしには存在できません。それ自体で存在するものではなく、すべては一連の原因と条件に依存しています。その原因と条件そのものもまた、互いに依存しあっているのです。

・生きとし生けるものとあらゆる存在とはたがいに依存しあっており、さらに原因や条件もたがいに依存しあっているので、わたしたちもあらゆる存在も複雑に依存しあいながらたえず変化しつづけていることになります。いいにつけ悪いにつけ、私たちもある出来事の責任を、中心的な原因ひとつのせいにします。このとき、わたしたちは有益か有害がという判断にしたがい、全力をあげて、このたった一つの原因を手に入れようとしたり破壊しようとしたりします。しかし、こうした姿勢は命あるものと存在とが相互依存の関係にあることを自覚していない証拠です。

・幸不幸の原因が特定の人、あるいは特定のものだと考えるような現実の理解の仕方は間違っています。わたしたちの人生のなかでおこることは、よいことも悪いことも、わたしたち自身に責任があるのです。これがカルマの法則、つまり原因と結果の法則であり、この法則はすべてのことに適用されます。この法則を理解し受け入れることによって、心の平和を育んでいくことができるようになるのです。

・あらゆるものが相互依存の関係にあることを理解するのは、テロ行為や狂信的行為を理解する上でとても役にたちます。一般に、それらの行為を排斥すれば問題は解決すると考えられています。たしかに過激派の行為を無視することは不可能ですし、そんなことをすれば過ちを犯すことになるでしょう。しかし過激派の行動にも、数多くの原因や条件があることを理解しなければなりません。かれらの姿勢の形成には、途方もない数の理由がかかわっているので。宗教的伝統に強く執着する人のなかには、閉鎖的な見方をする人たちがいます。この閉鎖的な見方がものごとの真の姿を覆い隠し、かれらの姿勢を決定してしまいます。ものごとについて、短期的、長期的にもっと広い明晰な見方をすれば、心がやすまり力づけられるでしょう。そうすれば、別の行動をとれるようになるのです。

・人にいいことをし、人に悪いことをせず、人を傷つけないこと。仏教による倫理は、この考えを基本としています。それは非暴力的な行動の基礎であり、また利他的な愛と思いやりの基礎です。わたしたちの最終目的が、他人のためにできるかぎりいちばんいいことをし、他人をできる限り幸せにすることにあるとするならば、その能力を育てていくためにあらゆる瞬間にできるだけのことをすることが大切です。

・一般的には、どんなかたちであれ暴力でほかのものを傷つけるべきでないと理解するのは重要なことです。そうはいっても特定のケースでは、より小さな悪によってより大きな悪を防げることがあるかもしれません。だから、一般的なルールをつくって、それをあらゆるケースに適用するのは適切ではありせん。そうではなく、つねに具体的な状況に応じて一般的なルールを評価する必要があるのです。要するに、個々の場合について苦楽の観点から総合的に判断し、できるだけ苦しみがおこらないようにすることが大事です。

・さきに自分自身を変えずに他人を変えようとするのは空しいことです。世界平和を目指す変革は、いくつかの国を混乱させている紛争を減らしてゆき、その結果、もはや世界中に戦乱がなくなることによって実現されます。それとおなじく、よりよい世界をつくるために社会格差を小さくしようとすれば、まず自分自身を変え、それから家族や身近な人たちに影響をあたえるしかありません。自分の内部に働きかける最初の段階で、思いやり、優しさ、善意、喜びを確立できれば、そこで得たものを友人や隣人、さらにその先にまで、広げることができるでしょう。人はまず自分の心を変えることによって育まれた利他的な愛の力で、ほかのものに対してもっと熱心な注意をはらうようになります。この愛の力で私たちは世界の人たちに影響をあたえることができ、人々や国々のあいだの平和の建設に参加することができるのです。これはとても大事なことです。

5.「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」  企画・監修:下村満子  大和出版  2012年2月8日

  副題 : 「苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力  愛と叡智に満ちたこのメッセージをあなたへ」
  帯の言葉 : 「“地震、津波、原発事故の三重苦にある福島の人に力を!”という熱い思いが、2011/11/6“下村満子の生き方塾”に結集!!」

こ の本は、下村満子氏が福島の地で行っている「下村満子の生き方塾」での、「ダライ・ラマ法王14世特別公開講座」(2011年11月6日開催)での法王の説法の記録である。なおこの本はCD付きであり、チベット語の「般若心経」などを聞くことができる。

・私たちがかかえている、人間が作り出した多くの問題は、私たちの心のなかに倫理観が足りていないところから起こってきています。ですから、私たちが倫理観をもって正しい行いをし、ひとりの人間として、もっている良き資質を高めていくということこそ、今、必要とされていることだと、私は考えています。そこで、私たちが高めていくべき精神的なレベルにおける価値、すなわち人のもっている良き資質というものは、主に人に対する、あるいはすべての命のあるものに対する、優しさと思いやりを高めるというところにあります。

・私たちはその行為をなす人と、その人の行為をはっきりと分類しなければなりません。すなわち自分に対して何らかの害をもたらす敵のような存在にも、その敵に対する慈悲の心を失ってはなりません。しかし、その敵が害をなす何らかの行いに対しては、何らかの対策法があるのであれば、できるだけ防がなければならないのです。敵のしてくる悪い行いは許さない。けれどその間違った行為をしている人に対しての慈悲の心を失ってはならないということです。

・宗教者としての観点、特に仏教徒としての観点から申し上げますと、「逆境をチャンスへと変える」「逆境を菩提道へと変える」という実践法があります。逆境はすでに起こってしまったことですから、それを過剰に心配しても無益です。これは「入菩薩行論」で説かれているとおりです。「もしも改めることができるなら、憂うべきことなどいったい何があるのだろうか。もしも改めることができないのならば、憂うことでいったい何の役に立つというのだろうか」。これは科学的、現実的な視点なのです。ですからみなさまにこのようにお考えいただきたいと申し上げるのです。絶望するのではなく、継続的な発展、次へとつなげていくこと、そのように考えていただきたく存じます。

・「般若心経」は、法要で読まれる経典という印象ばかりが先立ちますが、どうすれば日々の生活の質を改善し、よりよく生きていくことができるかを説いた“智慧”です。

6.「ダライ・ラマの“般若心経”」  ダライ・ラマ14世  三和書籍  2011年11月10日
  副題 : 「日々の実践」
  帯の言葉 : 「祈りを現実のものとする!!般若心経とは、私たちの毎日を、より幸せにするための“智慧”の教えなのです。− ダライ・ラマ14世 」

 この本は、ダライ・ラマ法王の来日講演・法話(2010年6月20日長野善光寺、同年6月22日金沢市、1995年金沢市)をまとめたものである。なおダライ・ラマ法王は昨年3月11日に発生した東日本大震災にて犠牲になられた方々のため、10万回の「般若心経」の読経を行うようにチベットの僧侶たちに指示を出されたという。また犠牲者の49日には来日し、同じ仏教徒である日本の人々がこの苦難に際し、「般若心経」を唱えることはとてもよいことであり、それは被災して犠牲となった尊い方々の供養となるのみならず、さらなる災害を防ぐ助けにもなるとも述べていらっしゃるそうである。

 この本の最初には、チベット語版の「般若心経」の邦訳が掲げてあり、「般若心経」はサンスクリット語で、「バガヴァディー・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ」、チベット語で、「チョムデン・デーマ・シェラープキ・パロルトゥ・チンぺー・ニンポ」と解説してある。またサンスクリット語とチベット語版には、「照見五蘊皆空」のあとに「〜もまた」という言葉あるが、漢訳にはない。逆にチベット語版には漢訳の「度一切苦厄」にあたる部分がない。また漢訳の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」という部分が、チベット語版では「色即是空 空即是色 色不異空 空不異色」の語順となっていると記している。

・ときどき私は、皆さんが「般若心経」を唱えているとき、その意味を理解して唱えているのだろうか、という疑いを持ってしまいます。もちろんチベット人の中にも、重要なテキストをその意味も知らずに唱えている人たちがいるのは同じですが、読経をするときは、その意味を知っていて、それを思い浮かべながら読むことが大切です。

・釈尊が説かれた仏教の教えは、どのようにすればごく普通の人間が徐々に煩悩を滅して、ついには仏陀になることができるのかを示しているのです。ですから仏教の修行の道は、ごく普通の人間のレベルから始まっています。しかし、神を信じる宗教はそうではなく、神がすべてを創造され、与えてくださると信じているのであり、これが最も大きな違いになっています。

・このようにすべての現象は他のものに依存して生じる、という縁起を理由に「空」を説かれているので、「現れ」と「空」は互いに互いを支え合っているのです。そこで世俗のレベルにおけるすべての現象の「現れ」が、他のものに依存して生じているという縁起を確信すればするほど、すべての現象の本質が「空」であることに対する確信を強めることができます。

・五蘊とは、先ほど説明した「自我」「私」「人」などの名前が与えられている土台となるものであり、私たちの心とからだの構成要素の集まりのことです。

・「五蘊もまた、ない」といわれているのではなく、「五蘊もまた、その自性による成立がない」といわれているのであり、何がないのかというと、「自性による成立」がないということが明らかにされているのです。

・チベットの偉大な学者であり、修行者であったラマ・ツォンカパは、非常にすぐれた賢者であり、中観派の見解を大変詳しく分類されています。「ある」ということと、「ない」ということには、それぞれ2種類あることを知って、それをはっきり区別するべきである、と述べられているのです。これは大変重要な点です。世俗のレベルにおいて「ある」ということと、「自性によって成立がある」ということ、そして、「自性による成立がない」ということと、「まったく存在しない」ということ、この四つの事象をきちんと区別するべきである、といわれているのです。

・「色即是空」の「色」(物質的な存在)は、他のものに依存して名前を与えられたものなので、それ自体の側からの成立がない「空」の本質を持っています。つまり「色」の究極のありようが、それ自体の側からの成立がない「空」の本質であるため、「色は空である」(色即是空)といわれているのです。そして、「空即是色」の「空」は、一般的な「空」のことを指しているのではなく、「色」の「空」、つまり、物質的な存在の本質としての「空」のことを意味しています。「空」の意味は、他に依存して名前を与えられたものとして存在している、ということであり、「色」(物質的な存在)は、他に依存して名前を与えられただけのものなので、その自性による成立がない「空」の本質を持つものであるため、「色」として成立することができるのです。

・さまざまな条件が集まることによって、物質的な存在が成立します。条件の集まりに依存しなければ、物質的な存在は成立できません。条件の集まりに依存しているが故に、物質的な存在でありえるのです。このように、「条件の集まりに依存している」ということが、「空」の意味なのであり、「空」であるが故に、物質的な存在が成立します。それを「空は色である」(空即是色)といわれているのです。

・そこで「空」を私たち自身に関連させて、「私は空である、空は私である」と考えると、大変役に立ちます。「色即是空 空即是色」といえば、法無我(人以外の現象の無我)となり、「私」に関連させて、「私は空である 空は私である」というと、人無我(人に関する無我)になりますね。二つの無我について考えることは、大変重要なことです。なぜならば、私たちを苦しめているのは、「人以外の現象」と「人」に関する2種類の自我へのとらわれ、すなわち「法無我」と「人無我」であり、この二つの我執を滅する対策となるのが、「法無我」と「人無我」を理解する智慧だからです。

・命とはなにか。その意味については、仏教のアビダルマのテキストに命の意味が説明されていますが、私はいまだにそれを理解できていないので、正確な命の意味を私は知りません。

7.「ダライ・ラマ法話」ダライ・ラマ14世  クンチョック・シタル、阿門朋子訳 春秋社 2012年1月30日
  副題 : 「文殊の智慧による救い」
  帯の言葉 : 「北インドのラダックで催された法話会。その模様を現地の美しい映像とともに伝える!実に楽しそうに説法するダライ・ラマ法王。話の内容は空性の智慧をテーマにした、日本では聴けない本格的な教えです 」

 この本は、2010年7月、北インドのラダック地方のヌプラで、ダライ・ラマ法王14世の法話会が開催されたときのダライ・ラマ14世の法話の内容を、クンチョック・シタル、阿門朋子両氏が邦訳したものである。なお、このときの法話のテキストにはダライ・ラマ7世の詩文「中観の四念住」が使用された。なお、この本には薄井大還氏が撮影したDVDが付いており、ダライ・ラマ14世の穏やかで豊かな表情を見ながら、その肉声を聞き、同時に日本語の字幕で法話の内容が理解できるようになっている。私このDVDを見て感心したのは、ダライ・ラマ14世がしっかりメモを作っておられ、それにたびたび目をやりながら法話をされていたことである。そのような真面目さが、多くの人の心を惹き付けてしまうのだろう。

・仏教では、単独で自存する「我」というものを否定しています。また仏教徒たちは世界の創造者も認めていません。哲学的な立場からは、仏教やヒンドゥー教などにもさまざまな見解がありますが、仏教では私たち人間は五蘊によって仮に作られただけの存在にすぎないと見るため、そこには恒常的で単独・自存の「我」というようなものを認めておりません。

・仏教の修行を始めた頃には、とうてい自分にはできないと思っていたことや、遙か遠くにあると感じていたことも、修習を重ねて繰り返し心を慣らしていき、訓練を積んでいくうちに、まるで自分の隣にでもいるかのように身近に感じられるようになり、自分のものなっていきます。なかでも悟り(解脱)のための実践方法の全容を理解できるように、自分の認識を育てていくことは大切です。瞑想や修習を続けていくと、あるとき自分の瞑想中の体験が現実の体験のように見えてきます。さらに時間を重ねて続けていくと、自分と実践が一つになるときがきます。なおも続けていくと、自分の努力したとおりの体験が得られるようになります。そのようにして実践を続けているうちに、努力しなくても自然に体験があらわれてくる、無努力のときが訪れます。「般若心経」の「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー(羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦)という句は、心の修行の進み行く段階を述べています。心が次々と段階を踏んで上がっていくということができるという意味なのです。素晴らしいでしょう。

・科学者たちの研究から導き出された外的宇宙に関する近年の理論は、おそらく正しいものと思われます。ですから、私たちもその知識を学ぶべきです。私はいつもいっていることですが、仏教徒は「知る」ことが重要です。知識を得ることが大事なのです。真実を知る必要があるし、知っていこうとする姿勢も大事です。内的宇宙についてはどうでしょうか。それは主に心の在り方や心のはたらきであり、仏教ではこの内的宇宙について詳しく説いています。意識があるものは内的宇宙であり、意識があるものには知性もあるし感覚もある、いわゆる有情世間です。私たちの苦楽そのものも感覚、感受作用です。その感覚も意識の一部であり、知性も意識である。要するに、内的宇宙に関しては、主に意識について知る必要があるのです。しかし、このような心に関係した内的宇宙の研究については、今の西洋の科学者たちはまだ十分とはいえないようです。

・すべては空の性質[をもつもの]であり、あらわれていても幻のごとく実在も実体もありません。すべては空であると見ましょう。