小島正憲の凝視中国

長征前夜の死(私)闘


長征前夜の死(私)闘  
29.JUL.09
長征前夜、中国共産党(労農紅軍)は死(私)闘を繰り返した。その真相は。


1.1927年9月9日、毛沢東は江西省銅鼓県排埠鎮で国民党兵士に捕縛された。

 1927年9月9日、毛沢東は安源から銅鼓県の秋収蜂起を指揮するために走った。
 ところが銅鼓県排埠鎮張家坊で国民党兵士に捕まり、近くの国民党総部に移送されることになってしまった。
 毛沢東はとっさに持ち金を全部、国民党兵士に渡し、縄を外させ必死に逃げた。
 その後、地元の銅鼓県紙工会会員の陳九興に助けられ、呉家祠で夜を明かし、翌10日には無事、銅鼓県の秋収蜂起現場に着き、窮地を脱した。

                              

          毛沢東化険福地」の毛沢東像                      毛沢東が隠れた呉家祠

 この地には、毛沢東が夜を明かした農家が、「毛沢東化険福地」として遺されており、そこに当時の状況がわかる文物が陳列してある。それらによれば、このとき毛沢東は単身で行動しており、このことはまだ毛沢東が労農紅軍などの部隊を率いる地位ではなかったことを証明している。

 しからば毛沢東はいつから直属の部隊を持つようになったのだろうか。


2.安源炭鉱と毛沢東。

 安源炭鉱は江西省萍郷市にあり、1920年代、中国では最大の鉱業企業であったといわれ、一時は1万2千人余の労働者を抱えていた。

 毛沢東は1921年、上海での共産党創立大会参加後、故郷の湖南省長沙に帰り、労働運動の指導に専念していた。
 その後、安源炭鉱(現在では長沙からバスで2時間ほど)の労働者からの要請で指導に向かった。
 毛沢東は李立三を派遣し夜間学校を開設させ、労働者に階級闘争の宣伝教育を行う中で、慎重に共産党の組織を拡大し、労働者クラブの合法設立に成功した。
 しかも1か月後にはクラブ会員数は7千人に達した。その結果に驚いた資本家側は労働者クラブの閉鎖をたくらみはじめ、労働者側との関係が次第に緊迫したものとなっていった。
 毛沢東はその解決のために、あらたに劉少奇を安源炭鉱に派遣した。

                                   

              現在の安源炭鉱                          夜間学校址

 1922年9月13日、労働者クラブはクラブ保護や未払い賃金の即時支払いなどを要求して大ストライキに突入した。
 ただし炭鉱内には、洪幇とよばれる伝統的暴力組織がまだ隠然とした力を持っていたので、彼らにこのストライキを妨害させないために、李立三は頭目を訪ね、持参のにわとりの血をすすりあって彼らの了解をとりつけたという。
 5日間のストライキ続行後、劉少奇は公司事務所に身の危険をおかして単身で乗り込み、資本家や警察、軍人と渡り合って、労働者側の諸要求を完全に勝ち取った。

 しかしながらその後、全国的な反動の嵐の中、労働運動も弾圧され、軍閥の介入もあって、労働者クラブは閉鎖させられた。
 炭鉱経営も不調で労働者も大量に解雇され、4千人ほどに減った。共産党組織は地下活動に入り、「力を蓄えて、武器を奪取し、新しい革命の高潮を迎える準備をすること」を主要任務とした。

 この間で、安源の1千人を越す組織労働者が広州に赴き、毛沢東の主宰する農民運動講習所や黄埔軍官学校に学んだ。
 また解雇された労働者の多くは農村に戻り、農民運動の中核となっていった。
 これらの労働者が1927年、共産党の秋収蜂起の呼びかけに応じて、湖南・江西などの各地で立ち上がった。

 1927年8月、共産党は南昌で武装蜂起したが失敗に終わった。
 それでも引き続き各地で秋収蜂起が行われた。
 この過程で、前述1.の事態が生起したのである。この時点では、毛沢東がまだ安源炭鉱労働者の武装勢力を完全に配下に組み込んでいたとは考えられない。

 下記3.の状況下で始めて毛沢東が直卒部隊を掌握したと考えられる。


3.三湾改編。


  1927年9月29日、秋収蜂起の敗北後、部隊はなんとか井岡山の麓の永新県三湾村まで逃げ延びた。
 5000人ほどの部隊が600人ほどに減り、意気消沈していた部隊の前で、毛沢東がすっくと立ち、「部隊を改編して井岡山に立てこもり、捲土重来を期そうではないか」と、笑いながら大声で名演説を行ったという。

 毛沢東はこの演説で、兵士たちを鼓舞し、彼らの人心を掌握し、自分の配下として再び戦列に立たせ、井岡山に登ることに成功した。

 毛沢東はこのとき中国共産党前敵委員会の書記となり、戦いの最前線での指揮権を確立した。それに加えて安源労働者300人余も400余挺の銃を持って、大安里から井岡山に向かい、毛沢東の傘下に入った。

 今回、私は井岡山から三湾村へ行き、毛沢東が名演説を行い、人心を掌握し、部隊の指揮権を握ったという場所に立ってみたかった。ここが毛沢東の権力獲得への第一歩だと考えているからである。しかし残念ながら道路工事中のため行けなかった。

 なお安源炭鉱労働者と毛沢東は、その後も密接な関係を持ち続けた。
 1928年、数百人の安源労働者と長沙の学生が井岡山に登った。また別の安源労働者も、国民党軍と戦い武器を奪い井岡山に身を投じた。
 1931年、安源炭鉱警備隊長の姚啓発は隊員100余人を引き連れ小銃108挺を持って、井岡山に馳せ参じた。さらに井岡山が経済封鎖され、労農紅軍が物資に困窮すると、安源の労働者は命をかけて封鎖線を突破し、医薬品、食糧、武器などに必需品を送り届けた。


4.袁文才と王佐の錯殺。

 毛沢東は部隊を率いて井岡山を目指したが、すでにそこには土匪の袁文才と王佐が陣取っていた。

 毛沢東は龍超清(後述)の紹介でまず袁文才に会い、100挺ほどの銃を贈って取り入り、井岡山への入山を認めさせた。このとき袁文才と王佐が、毛沢東の入山を拒否し、双方の間で戦いになっていたら、毛沢東に勝ち目はなく、井岡山は革命の聖地とはなっていなかったであろう。


  井岡山茨萍の風景

※土匪とは、その土地の盗賊のことである。

 袁文才は1898年、井岡山茅萍馬源村で移住民(客籍)の子として生まれた。成長するにつれ、土着民(土籍)と対立し、土匪胡亜春の率いる馬刀会に入った。袁文才は読み書きができ、謀略に長けていたことから、すぐに馬刀会の首領になった。

 1926年7月、井岡山地方の共産党組織幹部の龍超清は、袁文才を抱き込み、ともに地主勢力と戦った。
 袁文才はそのとき共産党に入党したが、すぐに離党した(後に再入党)。

 王佐は1898年、井岡山の東麓の遂川県下荘村で、土着民の父と移住民の母の間に、貧農の子として生まれた。王佐は25歳のとき、井岡山の土匪の首領朱孔陽と知り合い、その探偵となっていたが、ほどなく朱と別れ、自らが武装し土匪となった。その後、袁文才と出会い、義兄弟の契りを結んだ。

 1927年秋以降、共産党は都市部における労働運動から、農村への武装闘争へと革命の方針を転換した。
 その結果、共産党は土匪や地域に根付いている会党の存在を重視し、革命のためにこれらの勢力を改編し、労農紅軍に吸収したり、共産党員を土匪・会党に加入させたり、会党を中心とした農民協会を組織したりするなど、さまざまな方針を定めた。

 つまり共産党は土匪や会党を利用して革命を成功させようとしたのである。しかし実際に土匪が労農紅軍へ編入されてみると、その散漫な習性がたちまち労農紅軍そのものの戦闘性を堕落させることにもなった。
 いずれにせよこのような共産党の方針のもと、袁文才と王佐は共産党に入党し、部隊は労農紅軍に改編された。

 1928年4月、朱徳と陳毅の率いる南昌蜂起の残存部隊数百名が、井岡山に入ってきた。
 ここに後世に名を残す「朱毛軍」が誕生したのである。
 私は昔から「なぜ毛朱軍ではなくて、朱毛軍なのだろうか」という疑問を抱いていたが、今回やっとその疑問が解けた。

 朱徳が率いる部隊には歴戦の兵士が多く、農民や炭鉱労働者中心の毛沢東の部隊とは、その戦闘力が違い、両部隊の統一後の上下関係が朱徳の方が上だったからである。

 それはともかくとして、これで井岡山の勢力図が変わり、実質的に労農紅軍が井岡山の権力を握ることになった。
 さらに12月、彭徳懐が部隊を率いて井岡山に合流した。

 ここに至って、井岡山には、
 @袁文才・王佐土匪部隊
 A毛沢東の秋収蜂起と安源部隊
 B朱徳の部隊
 C彭徳懐の部隊
 の4部隊がひしめき合い、食糧が枯渇し、部隊間の摩擦も生じるようになった。

 その上、1928年6月、モスクワで中国共産党第6回大会が開かれ、そこで「土匪問題に関する決議」が行われ、大きな方針転換が行われた。
 そこでは、「土匪と手を結ぶのは武装蜂起以前に限る。武装蜂起後には彼らの武装を解除し、彼らを厳しく鎮圧すべきである。土匪の首領は反革命の首領とみなし、たとえ彼らが武装蜂起に役立ったとしてもすべて殲滅すべきである」と決定された。

 この決定の結果、井岡山の袁文才と王佐の立場は、きわめて苦しいものとなった。

 さらに井岡山では、従来からある別の深刻な対立が再燃していた。土籍と客籍の対立である。

 袁文才と王佐は客籍(移住民)であり、土籍(地元)の共産党員が彼らを排斥しようとしたのである。

 毛沢東は袁文才や王佐を守っていたが、彼が朱毛軍を率いて地方に転戦し、井岡山を留守にしていた1930年2月24日、彭徳懐の監督下で二人は処刑された。

 毛沢東はこれに激怒したといわれているが、結果としてこれで井岡山を完全に手中に収め、「庇を借りて、母屋を乗っ取る」ことになったのであり、内心は別であったと思われる。

 袁文才と王佐の残存部隊は労農紅軍を離脱、国民党に投降し井岡山に籠もり、後々までゲリラ活動を展開し、労農紅軍を悩ませることになった。


井岡山革命烈士記念館の袁文才と王佐の胸像

 井岡山革命烈士記念館には、袁文才と王佐が名誉回復され、革命烈士としてその胸像が展示されている。
 しかしそこには、「錯殺」と表示してあるだけで詳しい説明はない。
 彼らは明らかに、共産党の方針変更と労農紅軍内の権力闘争の結果、惨殺されたのであり、誤って殺されたわけではない。


5.AB団事件・富田事件の真相は不明。

 AB団とは、国共合作時代に、国民党が国民党内部から共産党を摘発する組織であった。

 AB団は共産党を国民党内から追い出すとその役目は終わり解散した。ところが不思議なことにその後、ABというのがアンチボリシェビキの略とされて、共産党内の反革命分子の摘発粛清の理由となった。

 1929年夏、毛沢東は前敵委員会書記を解任されており、病気と称して地方工作に転じている。

 井岡山の上でも朱徳と毛沢東や他の幹部たちの間に主導権争いや反目があったと思われる。

 また当時、江西省富田に中国共産党江西省委員会および省ソヴィエト政府の所在地があり、そのすぐ南の東固村に李文林率いる労農紅軍第20軍部隊が一大根拠地を築いていた。それは「上に井岡山あり、下に東固山あり」と呼ばれており、江西地区の2台勢力となっており、毛沢東と対立していた。このとき江西地区の共産党および労農紅軍の勢力関係はかなり複雑な様相を呈していたのである。

 このような複雑な勢力関係の中で、袁文才と王佐が処刑されたのである。

 再び井岡山の権力の座に復帰した毛沢東は1930年12月、圧倒的な武力を背景にして、富田に本拠を置く労農紅軍第20軍内のAB団の粛清に乗り出した。
 ただちに120名余の幹部を逮捕し、24名を処刑した。もちろん李文林派もだまってはいなかった。第20軍政治委員の劉敵は反乱を起こし、AB団分子として疑われて囚われていた幹部を釈放した。このとき殺人はなかったといわれている。そして12月13日、第20軍は兵士大会を行い、「打倒、毛沢東」の声を上げた。まさに労農紅軍同士の戦闘が行われようとしていたのである。翌14日に、劉敵らは上海の党中央に経過を報告し、処理を求めた。

 あわてた中国共産党中央は、中央革命委員会主席の項英を派遣し、事態の処理に当たらせた。
 項英は冷静かつ客観的にに判断し、「喧嘩両成敗」のような裁決をして、双方に和解を勧めた。
 毛沢東はこの裁決を頑として受け付けず、上海の共産党中央に上訴した。

 1931年2月、上海の共産党政治局は会議で中央代表団を現地に派遣することを決定した。
 4月、現地に入った中央代表団は毛沢東を支持し、労農紅軍第20軍の幹部をすべてAB団分子と決めつけ、そのほぼすべてを逮捕し処刑した。一説にはこのとき4千人余が殺されたという。またその後、このAB団狩りが他の労農紅軍の革命根拠地にも波及し、AB団関係7万余人、社会民主党関係6200人、改組派2万人余が殺されたという事実が判明している。

 AB団事件・富田事件については、中国共産党内でいまだに正式な総括は行われていない。したがって事件の真相はわからない。しかしこれが労農紅軍内の死闘・私闘であったことは歴史的事実である。


6.しからば死(私)闘の真相はなにだったのか。

 現在、この事件に関しては多くの著作があるが、そのほとんどが限られた資料や断片的な事実から、最大限に推測を膨らませたものである。

 ユン・チアン氏の「マオ」(講談社)、石平氏の「中国大虐殺史」(ビジネス社)、北海閑人氏の「中国がひた隠す毛沢東の真実」(草思社)などは、その好例である。
 彼らは著作の中で、この事件を中国共産党や毛沢東の残虐さを証明するために利用しているが、私はこれらが虚構の書であると否定する根拠を持ち合わせてはいない。
 しかしながらこれらの書が浅薄であり、もっと深く人間の心理の奥底まで迫って事件を見つめなおすべきではないかと指弾することはできる。

 私はこの事件を、
 @中国共産党自体も大きな被害者であったと考えるべきではないのか
 Aその背景には、革命という事態が進行していく中で、悪しき人間の業(ごう)のようなものが噴出したと捉えなおすべきではないのか
 Bそれは共産党だけでなく人間そのものに由来する普遍的なものではないのか
 などの面から考え直すべきではないかと思っている。
このことについては次回の小論で言及してみたいと思うので、ここではひとまず筆を置く。


 AB団事件・富田事件は、中国共産党の大きな方針転換の結果起きてきた問題であるが、これにはコミンテルンの意思が決定的な影響を及ぼしている。

 この当時の世界の共産党はコミンテルンの一支部に過ぎず、中国共産党も例外ではなかった。
 1928年、コミンテルン第6回大会では極左路線が採用され、革命と反革命の間で動揺している中間勢力や革命のふりをしている者はもっとも危険な敵であり、情け容赦なく打倒しなければならないとの方針が示された。
 この方針のもとソ連共産党内でもスターリンの激烈な粛清が始まっていた。

 それまで中国共産党は中国革命を成功させるために、土匪・会党の力を積極的に利用してきた。彼らを共産党や労農紅軍内に受け入れることによって、急速に勢力を拡大してきた。しかしそのことは革命の隊列の質的低下をもたらし、共産党や労農紅軍内で匪賊レベルの権力闘争やその結果の集団脱走、規則破りなどが続出した。

 その結果、毛沢東は根拠地において、知識の少ない者にもわかる「三大規律、六項注意(後に八項)注意」を作り、徹底せざるを得なかった。

 つまり労農紅軍内部でも有象無象の輩の流入が問題となり、整頓せざるを得ない雰囲気があったのである。

 また1927年の国共分裂後、蒋介石による共産党弾圧は苛烈を極め、上海でも地方でも大量の共産党員が虐殺され、仲間の中から裏切り者や脱落者が無数に出た。

 それはそれまで土匪や会党の類まで吸収し水ぶくれしてきた共産党や労農紅軍の当然の帰結でもあった。組織内部では、自分の隣に裏切り者やスパイがいるのではないかといった疑心暗鬼が強まっていた。中国共産党員と労農紅軍の幹部たちが、いわば異常心理の状態に追い込まれていたのである。ちょうどそのような時期に、コミンテルンの方針変更があり、それに追随する形で中国共産党の方針が転換されたのである。

 このような背景のもと、共産党と労農紅軍の内部で激烈な粛清、AB団狩りが始まったのである。
 しかもこれに、共産党と労農紅軍内の権力闘争がからんだため、様相はさらに複雑怪奇になっていった。
 内部の敵を抹殺すべし、革命の隊列を浄化しなければならないという考えのもと、ほとんどの革命根拠地で血の粛清が執拗に行われた。その数は小さな根拠地でも数百人から千人、大きな根拠地では1万人をはるかに超す規模で行われた。

 この粛清の結果、中国共産党と労農紅軍は内部から精神的に崩壊し、1934年秋、国民党軍の圧倒的な軍事攻勢・包囲討伐戦の前に、各根拠地は実質的に崩壊した。
 一般に中国共産党と労農紅軍が井岡山の根拠地を捨て、長征という名の逃亡に追い込まれたのは、コミンテルンから派遣されたドイツ人軍事指導者オットー・ブラウンの戦略の失敗だといわれてきた。しかしそれだけではなく内部粛清の結果の労農紅軍の勢力激減にも、その大きな原因があったのである。

 その後、労農紅軍は必死で国民党軍の追捕から逃げた。逃亡中、労農紅軍は再度、土匪、会党、少数民族などを利用しなければ生き延びることは不可能だった。したがって中国共産党は再び方針転換をした。

 その結果、遊撃戦が可能となり、再び毛沢東の出番が回ってきたのである。
 毛沢東は労農紅軍が井岡山を離れ長征の途についたとき、労農紅軍内の指揮権はなく、なおかつ病気であった。
 毛沢東の存在価値がなんとか出てきたのは遵義会議以降であった。

 だからユン・チアン氏などのように、長征前夜の死闘・私闘のすべてを毛沢東の責任に帰するのは誤りである。

 それでも毛沢東も粛清に加担したことは事実であり、粛清された多くの共産党員や労農紅軍兵士から恨みを買っていたのも事実である。だから長征中、いつ命を狙われてもおかしくない状況であったと考えられる。事実、大湿原踏破後、張国Zから命を狙われ必死で逃げたのである。このような状況では、毛沢東といえども異常心理にならざるを得なかったと思われる。

 天下を取ったからといって、毛沢東がこの異常心理状況から抜け出ることは不可能であったのではないか。

 長征に参加した共産党幹部は不眠症に悩まされ、睡眠薬が欠かせなかったといわれていることからも、このことが推測できる。この異常心理状態が、延安における整風運動、文化大革命、天安門事件などに大きく影響しているのではないだろうか。

 逆に異常心理状態の人間でなければ革命は不可能であったともいえるのではないか。
 しかし疑心暗鬼で血の粛清を繰り返した異常心理状態の革命世代は、すでに世を去った。
 現在の中国は正常な心理状態の指導者の、平和な経済建設の時代に入っている。

 私がこのようにいうと、チベット・ウィグル・その他の暴動を指して、中国にはまだその野蛮さが残っていると批判する人もいる。それでも私はやがて中国も民主主義社会に進むと考えている。

 今、民主主義の国として通用している韓国で、大虐殺のあった光州事件はわずか30年ほど前のことである。
 同列には論じられないと思うが、民主主義の本家である米国のロス暴動は20年前のことである。


※引用文献 今回の小論では、下記の文献から多くの引用をさせていただいた。

・「中国共産党史の論争点」 韓鋼著 辻康吾訳  岩波書店
・「安源炭鉱物語」  新日本出版社
・「近代中国の革命と秘密結社」 孫江著  汲古書院
・「中国を駆け抜けたアウトローたち」 福本勝清著  中公新書