小島正憲の凝視中国

読後雑感:09年8〜10月発行本−その2

読後雑感:09年8〜10月発行本−その2
*ページ下段に ウイグル族版「女工哀史」は誤報 を掲載
19.NOV.09
「その2」で取り上げるのは以下の通り

 1.「私はなぜ『中国』をすてたのか」  石平著  WAC刊  2009年8月14日発行

 2.「日中対決がなぜ必要か」  中嶋嶺雄・石平共著  PHP刊  2009年10月2日発行

 3.「株式会社中華人民共和国」  徐静波著 PHP刊  2009年8月6日発行


1.「私はなぜ『中国』をすてたのか」  石平著  WAC刊  2009年8月14日発行

 本著の最後のページには、「本書は2006年10月に飛鳥新書より出版された『私は“毛主席の小戦士”だった』を
改題・改訂した新版です」と書かれている。

 今回それがワック株式会社から、なぜわざわざ再出版されたのであろうか。私にはその理由がよくわからない
が、うがった見方をすれば、最近、石平氏のマスコミへの登場が多くなったので、過去の本を引っ張り出し一儲けし
ようと企んだとも考えられる。なぜならこの本の中身からは、どうしても今のこの時期に再出版されなければならな
い必要性が読み取れないからである。

 さらに石平氏は新版まえがきで、「日本に帰化し、めでたく晴れて日本国民の一員となった」と書き、続いて「毛沢
東を崇拝して“革命の小戦士”になろうと決心していたかつての中国人少年が、今や日本国民の一人として、日本
の保守論壇で独自の論陣を張るようになっているのである」と述べている。

 この石平氏の述懐に対抗するつもりはないが、石平氏がこのような売り出し方をするのならば、あえて小島正憲も
ここに、「私も数年前に中国の永住権を取得した」、さらに「私も“毛主席の小戦士”だった」と明言し、以下に本文中
の石平氏の述懐を検討しながら、私の生き様と対比してみたい。

@石平氏の生き様は、一貫して「体制派」である。

 文中から石平氏の半生を読み解くと、彼が常に「体制派」として生き続けてきたことが浮き彫りになってくる。おそ
らく石平氏には自らが「体制派知識人」であるとの自覚はないだろうが。

 彼は1962年に生まれ、少年時代を、「毛主席の小戦士」として過ごした。つまり一般の少年と同じく、体制に迎合
していたわけである。

 そしてケ小平の改革・開放時代に入った時点から、「この国のために人生を捧げよう」と決意し、民主化運動へ邁
進した。ここでも同時代の青年と同じく、時代の流れに身を任せていただけで、大学の先生からの忠告や共産党組
織からの「厳重注意」を受けたようだが、特段に命を賭けて反体制を貫いたわけではない。

 そして1988年に日本へ留学し、彼は日本であの天安門事件を迎えたのである。彼の仲間の数名が反体制を貫
いて、天安門前で死んだというが、石平氏はその仲間の死を横目で見ながら、日本に居続ける道を選んだ。

 そして彼は、日本でも保守論壇という「体制派」に身を置き、時の権力の鼻息をうかがいながら、「反中」の急先鋒
として活躍することになった。

 このように見てくると、石平氏が常に「体制派」に身を委ねてきたかがよくわかるであろう。

 石平氏は中国共産党に2度騙されたと言いながら、なぜ騙されたのかを真剣に考え抜いてはいない。
 2度も騙されたのは、石平氏が「反体制派」として生き抜いて来なかったからである。

 彼は文中で、「私たちは今までの苦しい体験をバネにして“懐疑の精神”というものを身につけていた。教科書に
対しても、人民日報に対しても、党と政府の公式発表や指導者たちの談話に対しても、この中国で流布されている
すべての言説に対して、まず一度懐疑の目で見て、自分たちの理性に基づき、それを徹底的に検証していくという
精神である。懐疑と理性による検証を経ていないものは決して信用しない、という断固たる決意である」と、自らの
哲学を長々と披露しているが、体制内に身を置いていたのでは、その体制を懐疑的に見ることは不可能である。

 反体制派つまり少数派に属し、その身を危険に曝すような逆境に立ってこそ、はじめてそこで懐疑と批判精神が
身に付くのである。

 石平氏は、せめて日本では反体制の革新論壇に身を置くべきだったのではないか。

 日本では、金銭のことを考えると、「反中」を売り物にし、為政者=時の権力に迎合して、保守論壇で論陣を張っ
た方が有利であろう。革新論壇に立ってみたところで、本もたいして売れないし、講演の依頼もあまりないだろう。最
近、石平氏の顔をテレビなどで見かけることが多くなったが、「体制派知識人」として「反中」で売り出したという点で
は彼の身の処し方は正解だったと思う。ただし今秋から民主党政権に変わったので、「体制派」の石平氏も、いや
おうなしに「反体制派」に変わらざるをえなくなった。

 したがってこれからの石平氏は、中国と戦略的互恵関係を結ぶようになった民主党政権の中国政策を批判し、民
主党を支持する多数派の日本人を敵に回して論陣を張らなければならないことになった。

 これからは彼の厳しい日本の為政者批判の声が、各所で聞けるにちがいない。それでも言論の自由が横溢して
いる日本社会では、時の権力批判を展開しても生命の危険はないから、石平氏は安心して論陣を張ればよい。た
だしそれで十分食っていけるかどうかはわからないが。

A私は一貫して「反体制派」として生きてきた。

 私も「毛主席の小戦士」だった。しかしながら日本では、一貫して共産主義思想は反体制思想であり、世間から白
眼視される立場にあった。したがって私は当然のことながら、日陰者であり、反体制派であった。また常に少数派で
あり、多数派である体制側から異端視され続けたので、私には資本主義という体制に対する懐疑や批判の精神が
自然に身についた。

 その上、文革開始とともに、その少数派内部でも毛沢東に関する論争が巻き起こり、やがて組織の分裂・抗争に
まで発展した。

 私の信頼していた同士や先輩たちが、現場に足を運ばず理論のみに拘泥し、敵味方に分かれて罵倒し合う場面
に出くわし、私はたいへん困惑した。

 そのとき多くの人たちの意見を聞いてみたが、結局、それだけでは真相はまったくわからなかった。
 その中で、毛沢東思想をはじめとして、すべての思想を鵜呑みにすることなく批判的に吸収しなければならないこ
とを悟った。さらにその混乱の中から、真相究明の手がかりは机上の空論の中ではなく、「実事求是」の精神にある
と体得した。これが私を現在に至るまで、徹底した現場主義に立たせている背景である。

 私は学生運動をやっていたときも、学内では主流派ではなく反主流少数派に属していた。そのため、いつも主流
の多数派の連中から殴られた。

 企業家になってからも、あえて体制側の官製団体には属さず、中小零細企業の立場に立つ非主流少数派組織に
身を置いてきた。したがってビジネスにおいて政治の恩恵を直接受けたということはほとんどなかった。それどころ
か一時期、日本の公安組織からマークされていたこともあった。

 私はこの20年間、中国の大地の上でたくさん金儲けをさせていただいた。しかも数年前に、中国の永住権を取得
した。だから中国に感謝しているし、悪口を言うつもりはない。さらに私は過去において、私たちの先輩日本人が中
国で犯してきた悪しき行為についても、深い贖罪意識を抱いている。

 その上で、中国が素晴らしい国に軟着陸することを願って、私はあえて中国の体制に迎合しないで、中国の暗部
や恥部にも光を当てるような「実事求是」を行っているのである。

 寛大な中国政府が私如きの愚挙に、目くじらを立てるとは思わないが、今後も身を危険に曝し、老躯に鞭打って
「反体制派」としての初志を貫いて走り続けたいと思っている。

B「論語」などを懐疑の目で見ることが必要である。

 石平氏は、日本の花鳥風月や日本人の礼儀正しさに感銘したと書き、さらに彼は日本に来てはじめて「論語」の
素晴らしさを知り、北条時宗や西郷隆盛や楠木正成の生き様に感嘆し、よりいっそうの愛日主義者になったと書い
ている。

 しかし「論語」で教育され、西郷隆盛や楠木正成で愛国主義を鼓舞された若者たちが、中国侵略へと駆り立てら
れ、あの残忍な行為を行ったのである。だからこの点にこそ、懐疑と批判の目が向けられなければならないのであ
る。

 ここでも常に「体制派」として生きてきた石平氏には、その視点が決定的に欠落している。

 私は浅学なので、ここで「論語」論争をするつもりはない。しかし石平氏が文中で例としてあげている「修身斉家治
国平天下」の解釈(自分の身を修め、家庭をととのえ、国を治めて天下を平和に導く)にも、多くの異論があることを
指摘しておきたい。

 私はある華僑から「修身…」の意味を、「家庭の中に複数の夫人が同居していて、それをうまく取りさばける実力
を備えた男のみが、天下を丸く治めることができる」と教えてもらった。

 儒教が中国の春秋戦国時代の激動の歴史の中から生まれたものであることを考えた場合、私は華僑の言葉を
信じる。

 石平氏は日本の戦前の論語解釈だけでなく、もっと深く広く儒教を学ぶべきである。

 なお昨今、中国政府は世界各地に「孔子学院」を数多く開設し、儒教を通じて中国の影響力を世界に波及させよ
うとしている。このように儒教は常に為政者の側に立つ思想であり、体制擁護に役立ってきたのである。

 「体制派知識人」の石平氏がそんなに「論語」にご執心であるのならば、この「孔子学院」の講師を買って出ればよ
い。すでに日本には5校以上が開設されているから、それで十分飯が食えるだろう。

 逆に石平氏がこの「孔子学院」の向こうを張って、「真正孔子学院」を作れば、賛同者も多く集まり、結構儲かるか
もしれないとも思うが。

 西郷隆盛についても、私はこの1年間その足跡を辿ることによって、西郷が一般に膾炙されているほど立派な人
物ではないことを立証してきた。

 また楠木正成についても、正成・正行父子の忠臣ぶりよりも、彼らが格好良く死んでいったあと、残った一族郎党
を一身に背負って苦労した楠木正儀の生き様こそが、高く評価されるべきであると考えている。

 石平氏は、せっかくその立場が「反体制知識人」になったのだから、ここでしっかり懐疑と批判の目を養い、新た
な中国観を打ち立てるべきである。

 さもないと猛スピードで変化している中国の方が、新体制に早く軟着陸してしまい、「反中」を1枚看板にしていては
食い扶持がなくなる可能性が大きいからである。


2.「日中対決がなぜ必要か」  中嶋嶺雄・石平共著 PHP刊  2009年10月2日発行

 この本は今、店頭にうず高く積まれており結構売れているようだが、あえて買ってまで読むだけの価値はないと思
う。

 なぜならこの本は、革命後の中国の歴史についての概説書のようであり、現在の中国情勢に鋭く迫ったものでは
ないからである。また若い石平氏が年配の中嶋氏に教えを乞うという叙述スタイルがとられ、中嶋氏と石平氏の、
内容にまったく深みのない雑談を読むのは時間の無駄だと思うからである。

 しかしながら中嶋氏の過去の著作と私は、少なからぬ因縁がある。まずそれを述べ、次に簡単にこの本について
論じる。

@私は中嶋氏の思想遍歴に40年以上付き合ってきた。

 現在、私の書庫には中嶋嶺雄コーナーがあり、氏の著書が20冊以上並んでいる。一番古いものは、1966年、
中嶋氏が30歳のときに書いた「中国文化大革命」である。

 当時、私はこの本に大きな刺激を受けた。他の多くの学者やエコノミストたちが文化大革命の真相がわからず右
往左往していたときに、若き中嶋氏は丹念に文献を集め精査し、その上で文化大革命が権力闘争であると結論付
けていた。その論考はずば抜けたものだった。

 次に書棚に鎮座しているのは、1980年11月に発行された「失われた中国革命」(彭述之著・中嶋嶺雄編訳)で
ある。

 私はこの本から、それまで持っていた中国革命への疑問を解くカギを与えられた。まさに目からうろこが落ちた思
いであった。私はすっかり中嶋氏のファンになっていた。

 しかし1993年3月、中嶋氏は長谷川慶太郎氏と共著で「解体する中国」という本を出し、その中で中国経済が破
綻へ向かっていると分析し、「革命50周年、つまり建国後半世紀は今世紀末の1999年であるが、中華人民共和
国の命脈は、ひょっとするとそれまでに尽きてしまうかもしれない」と、中国の未来を予測した。

 私は1990年の8月に中国へ企業進出し、93年ごろは絶好調で、すでに4工場で合計3000人ぐらいの従業員
を擁するようになっていたので、この中嶋氏の主張には違和感を覚えた。

 1995年3月、中嶋氏は「中国経済が危ない」という本を出し、「本書が中国市場に大きな夢を抱く日本企業の対
中国進出への警告になっている」と書き、日本の企業の対中国進出へ強いブレーキをかけた。

 私の企業はこのときすでにグループ全体で5工場、1万人規模になっており、日本の同業他社が中嶋氏らの中国
崩壊論を信じて中国へ進出してこなかったので、ライバルなしの中国の地で、わが世の春を謳歌していたのであ
る。

 1995年11月、中嶋氏は「アジアの世紀は本当か」を深田祐介氏と共著で出し、来るべき香港返還に際し、「香
港ドルは紙くずになる可能性がある」と予言し、1997年4月、「沈みゆく香港」で「結局、香港は次第に沈んでゆくこ
とになるのではないか」と述べ、当時の多くのエコノミストの中国経済悲観論や中国内乱説に加担している。

 私の中国工場グループは引き続き好調ではあったが、そのころのマスコミの論調には、香港返還と同時に中国
が内戦状態になるというものが多かった。私の頭の中にはまだ中嶋氏や長谷川慶太郎氏への幻想が残っており、
中国内乱説を笑い飛ばすような心情にはなれなかった。

 私はリスク分散のため、真剣にチャイナプラスワンを考え、1997年にミャンマーで工場を稼動させた。

 その後、ミャンマー工場は600名規模になったが、1998年の東南アジア通貨危機に遭遇して、3年後にあえなく
閉鎖に追い込まれた。中嶋氏などの論調に惑わされミャンマーに進出して、結局大損をすることになったのである。

 あのとき彼らの主張に同調せず中国で逆張り経営をやっていたら、さらに大儲けできたはずである。私はこの時
点で、中嶋氏への幻想をすっかり捨て、逆に深い恨みを抱くようになった。

 1998年6月、中嶋氏は再び深田祐介氏と共著で「アジアは復活するのか」を出した。

 今回私は、この本を読み直し、この中で「中国は過去10年間以上、平均9%の成長を遂げてきましたが、98年3
月の全人代で予測されたような8%成長が今後も続くかどうかは疑問です。アジアの通貨の切り下げで人民元がた
いへん割高になっていて、今後10%の輸出増も期待できないとなると、人口増もあり、新たな雇用創出の必要もあ
るので、8%成長が無理となると、中国経済は一転して大混乱になる可能性さえあるのです」というくだりを読んで、
驚いた。

 この文言は、2009年現在の中嶋氏の主張とぴったり同じであったからである。

 中嶋氏がこの文章を書いてから、その後の10年間で彼の予言に反して中国は大混乱にはならず、むしろ世界経
済を牽引するまでになった。

 彼は今でも相変わらず中国経済大混乱説を唱えており、10年間も同じような予言を繰り返して、それがことごとく
当たらなかったのである。

 このような厚顔無恥な行為は健忘症でもなければできないのではないかと思うほどである。

 なおこの本の結論はこれまた「まず日米同盟を固めよ」である。

 2002年4月、中嶋氏は「覇権か崩壊か 2008年中国の真実」を古森義久氏と共著で出し、「私はちょうど北京
オリンピックが開催される2008年ぐらいまでのあいだに、中国共産党の存亡も含めて、中国の政治システムがど
う変わるかが判明すると思っています。ですから、WTOに中国が加盟したからといって、日本企業が期待するよう
に、中国が生産拠点としても市場としても非常に安定的な役割を果たせるわけではなく、国際社会の期待や要望を
受け入れる中国社会そのものが抱えている問題の方が圧倒的に大きいという現実を冷静に見る必要があります」
と書き、この期に及んでも、中国への企業進出にブレーキをかけている。

 企業の中国への進出の決断は自己責任であるとは言うものの、これらの中嶋氏の言動が、多くの企業家を日本
に足止めし、「座して死を待つ」という結果に至らせたわけであり、そのことを中嶋氏は猛省すべきではないのか。

 2007年9月、NHKから私に、新BSディベート「日中国交正常化35年 新たな関係をどう築くか」という番組への
出演?依頼が来た。

 詳しく聞くと4人の主要ゲストが討論をするので、その後ろの壇上に10人前後が並び、その中の1人として2分か
ら3分で簡単な意見を述べてもらうという企画だという。

 私はどうせ「刺身のつま」になるだけだと思って断ろうとしたが、ゲストの一人が中嶋嶺雄氏だと聞いて出ることに
した。中嶋氏に会って直接文句が言いたかったからである。

 当日、私は勢い込んで臨んだが、紙上では鋭い主張を繰り出す中嶋氏があまりにも好々爺だった(私も同様だ
が)ので、拍子抜けして文句を言う気も失せてしまった。

A日中国交回復への新たな視点。

 1972年9月、田中角栄首相の手によって日中国交回復がなされた。
 このことに対する評価は多様であるが、私の企業にとっては、きわめて大きな意味を持っている。なぜならこの国
交回復によって、中国へ企業進出ができるようになったわけであり、日本企業一般もかろうじて中国だけは韓国企
業の機先を制することができたからである。

 私が中国へ企業進出したのは1990年であるが、このとき韓国はまだ中国を敵国視していた。したがって韓国の
同業他社は中国へ企業進出することができなかった。

 一般に韓国企業は日本企業よりも海外進出に積極的であり、当時でも中国以外の国では日本企業は韓国企業
の後塵を拝し苦労することが多かった。

 しかし中国だけは韓国企業との競争にならず、無人の荒野を切り開いて行くことができたからである。このことは
日本の大企業にも言えることであり、日中国交回復の成果面として見直されるべきではないだろうか。

B「中国政府の民族浄化」などあり得ない。

 中嶋氏は文中で「新疆ウィグルでは、『民族浄化』とも思われるような抑圧をやっているわけです」と書き、これに
石平氏が「漢民族と結婚させて子どもを生ませる。それはまた漢民族の嫁不足を解決させる」と続けている。

 これは私が前回のレポートでも明らかにしておいたように、過去はともかく現状ではあり得ないことである。ただし
将来、ウィグル族の歴史について新資料が出てきて、「民族浄化」という事実が再提起されるかもしれない。

C「日中対決がなぜ必要か」がよくわからない。

 この本のタイトルは「日中対決がなぜ必要か」であるが、本文をよく読んでもそれはよくわからない。

 石平氏は文中で「結局、日本人は『対決』というと、争いごとであり悪いことであると誤解しているのですね。しか
し、国家と国家は、もともと『対決』すべきものでしょう。それぞれに国益があって、国益がぶつかってその中で妥協
するところは妥協する。…(略) 中国はこの20年間、毎年二桁の軍事拡大を続けてきたわけで、(台湾に対する)
武力行使の可能性はきわめて高いと思います。そうなれば、日本にとっても大きな脅威になる」と述べ、中嶋氏はそ
れに同意している。

 両氏は「日本は道義を主張せよ」と叫び、日本外交を「品位がない」とけなしている。

 その反面、中嶋氏は「日本はこの60年間、一度も戦争をしていないのです」と胸を張っている。

 この両氏の主張にはうなずけない。なぜなら日本がこの60年間一度も戦争してこなかったのは、戦争放棄を規
定した憲法のおかげであり、国民の総意に基づく日本外交の成果であるからである。

 日中関係にいたずらに対決姿勢を持ち込むべきではない。


3.「株式会社中華人民共和国」  徐静波著  PHP刊  2009年8月6日発行

 この本の題名は面白いが、中身は意外に単純である。それでも中国を株式会社と見立てて、会長が胡錦濤国家
主席、社長が温家宝首相などとして展開するストーリーは、今までにまったく中国情報に触れたことのない読者には
楽しく読める本である。

 しかし多少たりとも中国の知識がある読者にとっては、内容に深みがないので物足りないだろう。またこの本は全
面的に中国政府の側に立って書かれており、表紙に中国政府公認と大きな赤いハンコを押したいような本であり、
ほとんどが周知の事実の羅列である。

 その意味で、この本もあえて買ってまで読む必要はないと思う。以下、簡単に論じておく。

@模範解答。

 徐氏は「はじめに」で、「中国共産党の革命の目的は、金持ちを打倒することでもなく財産を貧乏人に分け与える
ことでもない。全国民を動員して国家を建設し、共に富裕の道を歩むことだ」と明記している。

 現在の中国では、一般大衆の間で革命がこのように理解され、これが模範解答かと思うと、ついあの世で毛沢東
が歯軋りをしている姿を想像してしまう。

 さらに徐氏は「中国は『株式会社』で、胡錦濤は会長、温家宝は社長であるが、彼らは決して創業者一族ではな
く、サラリーマンであり、国民全体が株主だ」と続け、「中国共産党が経営している国がすでに『株式会社』として
日々大きな利益を上げ、さらに株主に利益を還元していることを30年来の実績が証明している」と結んでいる。

A青年に門戸開放。

 徐氏は、最近、若手の市長が登用され始めたことを例に上げ、「なんら政治的バックを持たない普通の『サラリー
マン』が、こつこつと努力し一歩一歩株式会社のエリート社員に成長した。中華人民共和国は勤勉な社員に門戸を
開いている。それがこの会社の持続的発展の根本といえよう」と述べ、「中国で最も優秀な人材のほとんどが共産
党に吸収されている」と、あたかも共産党が絶好の就職口であるかのように書いている。

 しかしながら共産党の幹部に出世するためにはそれなりの功績と手段が必要であるし、中国知識青年の共産党
離れも同時に進行しているというのが現実である。

B取締役の経歴披露。

 文中では株式会社中華人民共和国の取締役メンバーの経歴が披露されている。しかしながら現在の取締役メン
バーは共に文化大革命の嵐の中を生き抜いてきた経歴を持っており、その点についての記述が少ないのは残念で
ある。

 なお胡錦濤主席は宋平氏(元中国共産党政治局常務委員、周恩来首相の政治秘書)に見出されたという。
 余計なことだが、私も宋平氏から、1997年に北京の迎賓館で外国人専門家友誼賞を直接手渡されている。その
ときの温和な顔とやわらかい手の感触は、今でもよく覚えている。

Cドルで世界に対抗する金余り会社。

 徐氏は、「ブッシュは胡錦濤に対し、アメリカが金融危機を乗り切るために中国政府に可能な協力を希望し、さら
に必要なときには外貨の援助も依頼した」と書き、「アメリカの命運の半分は中国に握られていた」と豪語している。

 その背景は「中国は世界最大の外貨保有国となり、中国政府は世界でもっとも金持ちの政府となった」ことである
が、同時に「その外貨準備高は分析してみれば使える額はそう多くはなく」、もっと稼がなければならないと言ってい
る。そして「中国人はすでに核兵器を使わずドルを使って世界の経済大国に対抗する方法を知りはじめたようだ」と
述べ、「アメリカに巨額の資金で攻撃をしかけたなら、アメリカは中国に話し合いを懇願するしか他に方法はない」と
言い切っている。

 徐氏のこの見解はあまりにも楽観的であり、現実的ではないと思う。おそらく中国資本は米国の金融資本に手玉
に取られ、大損をするのではないだろうか。

 それでも徐氏の主張のように、中国が軍事大国とならずに金融大国となり、その力で世界に乗り出してくれるのな
らば、私は大歓迎である。

 しかしながら徐氏は周到に「中国軍事筋によると、空母を保有すれば中国脅威論が高まるのは必至だが、中国
は米国を牽制できる海軍力の確保を目指している」とも付け加えている。

Dインターネットは民主化を進行。

 徐氏は、1989年の天安門事件を「中国の指導者が、民主選挙を早く実行しすぎれば、中国の政治、社会に大き
な混乱をもたらすと考えたからである」と正当化し、「近年、インターネットによって、中国人民はさらに多くのそして
幅広い言論の権利と場所を得た」ので、「こういった進歩は疑いもなく、中国の政治体制改革と民主制度構築を推し
進めていくだろう」と予言している。

 たしかにインターネットや携帯電話の普及は、中国社会を大きく変貌させてきている。しかし先進各国と比べると、
まだ多くの規制が残っていることも事実であり、徐氏のように手放しで喜べるような状況ではない。

E暴動鎮圧。

 最後に徐氏は、あたかも中国政府の代弁者であるかのように、「明らかに、中国政府はラサ暴動問題の処置では
多くの痛みを抱え、これ以上過激化へ向かうことを避けていた。しかし、中国政府の方針は、どんなにチベットで大
規模な暴動が起ころうと鎮圧することは明らかだ。大多数の中国人にとって国家の統一は何よりも重要だからだ」と
結んでいる。






ウイグル族版「女工哀史」は誤報
16.NOV.09
 「WILL」9月号に、ボグダ・トーソンなる在日ウィグル人による「中国はウィグル人女性に何をしたか」と題した文章が掲載された。
 そこには、「政府側の意図的な高圧の下で、新疆南部の各村から強制的に16歳から25歳までのウィグル人女性が徴集され、山東省、浙江省、江蘇省、天津市などの国営、民営の工場に研修労働者として毎年数万人が派遣されるようになりました」(P.214)と書かれており、具体例として戦前の日本の「女工哀史」を思い出させるような、ウィグル人女性たちの身の上話が続けてあった。

 私はその文章を読んで、その話があまりにも現実離れしていたので、今どきの中国では、絶対にこのようなことはないと思った。しかし万が一ということもあると思い、天津市へ飛びこの情報の検証を行ってみた。

 その結果、やはりこの文章は真っ赤なウソだった。なおこの文章の中で、ボグダ氏は天津市の事例のほかに2例を上げて、ウィグル人女性の「窮状」を叫んでいるので、以下、それも含めて検討してみる。


1.天津市武清経済開発区の華天製衣有限公司のウィグル人女性の惨状。


 私が最初にボグダ氏のこの文章を読んだときには、なぜ天津市にウィグル人が出稼ぎに来ているかがわからなかった。しかし先日、南疆の客什市(カシュガル)に調査に行ったときに、その理由が判明した。カシュガル市と天津市が提携(姉妹都市のような関係)していたのである。その関係でカシュガル市から疏附県に行く途中には天津大道があり、そこの開発区に天津からの企業が進出していた。カシュガル市の他の県でも、県長から「天津の企業からの求人協力依頼があったので、斡旋の労を取った」という話も聞いた。それらに接してウィグル人と天津市のつながりは理解できた。

ボグダ氏は文章の中で、新疆から天津市に強制的に連れてこられたアティケムという19歳のウィグル人女性の話を、米国人記者の電話取材(2007年9月17日)として、具体的に書いている。この話はボグダ氏本人の直接取材ではなく、又聞きである。そのことがすでにかなり怪しいが、まずその話の中身を要約して下記に紹介しておく。 


 アティケムさんたちウィグル人少女たち157人は、天津市武清経済開発区の華天製衣有限公司に、ほとんど強制か半強制の形で工場に連れてこられました。ウィグル人女性労働者たちの勤務時間は朝から夜10時まで、彼女たちの契約期間は1年半で、給与はそれぞれの生産能力や経験などにより、350元から1000元だそうです。全員工場の寮に寝泊りし、食事は工場の食堂で食べることになっています。寮は工場の中にあるために、彼女たちは、平日はもとより、土曜や日曜も自由に外出できません。                                   


 私はまずネットで天津市の武清経済開発区に、華天製衣有限公司という会社があるかどうかを調べてみた。すると天津市の武清開発区源泉路28号という場所に、華天服装(天津)有限公司という婦人下着の製造工場があることがわかった。

 中国では通常、同一地域内にまぎらわしい名前の会社登録は許可されないので、おそらくこれがボグダ氏のいう会社に間違いないと思った。ただしボグダ氏が書いた文章中の情報と、ずばりの会社名は武清開発区には存在していなかった。 

 私は天津空港からタクシーで1時間ほどの武清開発区に行き、公安派出所で華天公司の場所を聞いた。源泉路はすぐにわかったが、公司の場所まではわからなかった。

 そこで私は通りがかった3輪車に乗り換え、現場に向かった。余計なことだが、その3輪車は電動で、この開発区内に7000台ほど走っていると聞いてびっくりした。最高時速が30kmぐらいしか出ないので、じっくり華天公司の場所を探すのには最適だった。30分ほど探し回ったあげく、ようやくその工場をみつけた。

   

         電動3輪車                   華天服装(天津)有限公司

 ネット上の華天公司の案内には、従業員を募集していると書いてあったので、私が門衛さんに「自分は労働者の斡旋仲介人だ」と言うと、簡単に工場内に入れてくれわざわざ女性の総経理が出てきて工場内を案内しながら、「工場は1995年創業の民営会社で、婦人下着を製造しており、日米欧に輸出している。従業員総数は現在160名で、普通の作業員の給与は1500元である」と、パンフレットを指し示しながら話してくれた。

   

        工場内の様子                      女子寮

 私が「従業員の中に少数民族はいませんか」と聞くと、彼女は「従業員は漢族中心で、回族と朝鮮族が1名ずついる。たしかに10年ほど前にはウィグル人女性が数名いたが、現在は一人もいない」と話してくれた。

 私はその話を聞きながら、工場の隅々まで目を光らせてウィグル人女性を探してみたが、どこにも見当たらなかった。ちょうど朝の出勤時間で門のところに通勤専用バスが着き、従業員がぞろぞろと降りてきたが、そこにもウィグル人女性の姿はなかった。

 ウィグル人女性は容貌が漢族女性とはまったく違うし、頭にスカーフを巻いているので、判別するのは簡単である。

 門衛さんに「女子寮はどこですか」と聞くと、すぐ前の建物を指差し「今は、だれも住んでないよ」と答えてくれた。たしかにその建物の周辺には、梱包資材や建築廃材のようなものがたくさん置いてあり、使用されているような雰囲気はなかった。

 門を出て工場周辺を入念に一回りしてみたが、どこからもウィグル人女性の痕跡を見つけることはできなかった。

 念のために、武清開発区の区政府に立ち寄り、招商局の副局長にパソコンで「華天製衣有限公司」の有無を検索してもらったが、武清開発区内にそのような名前の会社はなかった。さらに彼にこの開発区でのウィグル人女性の就労の有無も聞いてみたが、ほとんどいないということであった。

 次に「虐げられたウィグル人女性」が駆け込んでくるかもしれないと思い、武清区労働・社会保障局の建物の前に行ってみたが、残念ながらそこにもまったくウィグル人女性の姿は見当たらなかった。

 時間の許す限り、飲食店やバスターミナルなど人の多く集まっている場所をウォッチしてみたが、結局、みつけることはできなかった。

 また多くの人にウィグル人について聞いてみたが、飲食店で働く回族についての答えしか返ってこなかった。

 調査の結果、現在、天津市の武清開発区の華天服装(天津)有限公司には、ウィグル人女性はまったく就労しておらず、武清開発区全体にもほとんどいないことが判明した。ボグダ氏の文章は誤報であることがわかった。


2.性的奴隷にされたウィグル人女性。

 ボグダ氏は文章中に、カシュガル市べシュギレム県ボイラ郷から、山東省のある衣類製造工場に就労させられたウィグル人少女ルシェン(仮名:19歳)さんの事例を、長々と書いている。要約して下記に紹介する。


  ルシェンさんは2007年10月にこの工場に着き、働きはじめました。工場長はルシェンさんたちウィグル人少女を昼間は工場で働かせ、夜は酒席にはべらせました。彼女たちがそれを拒否すると、平手打ちをくらわせ暴力を振るうので、彼女たちは拒否できませんでした。そのうちに接待に同行することを求められ、性的サービスまで強要されるようになり、彼女は多い場合は一晩で三人を相手にすることもありました。彼女の告発によれば、この工場ではほとんどのウィグル人女性がさまざまな形で性的な被害を受けているようです。


 ボグダ氏がこの文章に書いているような事実は、絶対にありえないと断言できる。私の前回のカシュガル市の調査で、はっきりと書いておいたように、ウィグル族が居住地を出て行くのは、すべて自主的(自願)であって、強制ではない。

 したがってまず彼女たちが強制的に故郷から送り出されているという主張は誤報である。

  さらに2007年末には中国全土に労働契約法が施行されており、労働者の権利意識は非常に強くなっているので、工場内でこのようなことが起きているとは常識的に考えてありえない。

 30年ほど前ならいざ知らず、あるいは黒社会にどっぷり浸かった会社なら別だが、どんなに想像をたくましくしても、こんな状況はありえない。

 残念ながらボグダ氏は、ルシェンさんに配慮してか、山東省の衣類製造工場については実名を公表していない。

 このような工場こそ実名を公表し、糾弾しなければならないはずである。

 もしボグダ氏が私のこの文章を目にしたら、ぜひ工場名を私にこっそり知らせて欲しい。

 

3.08年3月23日、ウィグル人女性1000人がホータンでデモ行進。

 ボグダ氏は、08年3月23日に起きた新疆ウィグル族自治区ホータン市での事件について、下記のように書き続け、この文章の結論としている。これもボグダ氏の事実誤認である。


 ルシェンさんの告白が東トルキスタンで大きな議論を巻き起こし、ウィグル人は東トルキスタンの各地でさまざまな形で抵抗しています。08年3月23日、厳しい統制にもかかわらず、1000人のウィグル人女性たちがホータン市で行ったデモ行進は、このような抵抗のよい事例です。


 この事件については、すでに京都大学経済学部の大西広教授が、現地調査を踏まえた上で、08年10月に真相を解明されているので、それを転載させていただく。



 3月23日発生のホータンの「デモ」について》

京大上海センターニュースレター 第236号所収
                                          京都大学経済学部 教授:大西広

 調査対象の一つは3月23日に南部のホータンであったウィグルの女性たちの「デモ」についてである。私は少数者による爆弾テロより、多数者が参加するデモや暴動の方が事件としてより大きいと考えているので、特にこの動きには注目しており、他方、一般マスコミも、これがラサ暴動の直後にあったこと、独立派プラカードが明確に掲げられていたことから注目していたが、現実の「デモ」は「デモ」と言えるほどのものではなかった。

 例えば、この「デモ」で逮捕されたものが500名に上るとの報道もあったが、現場の絨毯取引所はそれほどの人数が入るところではなく、多目に見て200名が限界と見えた。また聞くところでは現場でプラカードを掲げたものも場合によれば、数名、多目に見ても十数名ということであった。

 ただそれでもそうした少数者の行動がなぜ多数者のものと見えたかというと、日曜日ということで農村家庭で絨毯を作った主婦たちが販売目的でここに集まってきていたからである。

 普段は男性取引業者のみが集まるこの場所に、日曜日だけは農村家庭の女性たちが直接販売を目的に来るということとなっており、独立派がその群集に紛れて一斉にプラカードを掲げたということである。

 これが真相であった。

 但し、この行動は開始後5分ですべて鎮圧されたという。そしてその理由は、この隣にちょうど警察の派出所があったためである。

 逆に言うと、多くの女性たちはそれほど強力に警察に抵抗しなかったものと思われる。

 この地ホータンでは、4年前にモスクに集まった群衆が人民政府までデモ行進をし、人民政府ビルに投石したということがあった。現地のウィグル族はこの4年前の行動をしっかり記憶しているが、それに比べると今回の行動は「大したことではない」との理解であった。