小島正憲の凝視中国

読後雑感:09年8月〜10月発行本−その1


読後雑感:09年8〜10月発行本−その1 
12.NOV.09
 9月に入って、中国が世界経済を牽引するのが明確になってきており、それに伴い、中国に関連した書籍が巷にあふれかえるようになってきた。

 まさに百家争鳴・百花斉放という感じとなっている。

 傾聴に値する意見が多いが、中には「講釈師見てきたような嘘をつき」を地で行くようなものもある。

 今回から、数回に分けてこれらの本の読後雑感を記す。

 なお9月18日の日本経済新聞の朝刊に、「反日、暴動、バブル」と「中国が日本を救う」という題名の2冊の本の広告が同時に載った。おそらく偶然であろうが、同じく中国経済を論じながら結論は正反対である。それにしても中国経済論はなぜ両極に偏ってしまうのであろうか。

 「その1」で取り上げるのは以下の通り。

 1.「反日、暴動、バブル 新聞・テレビが報道じない中国」
   麻生晴一郎著 光文社新書 2009年9月20日発行

 2.「中国が日本を救う」
   和中清著 アスカビジネスカレッジ刊 2009年8月30日発行

 3.「米中、二極大国時代の日本の生き筋」
   田久保忠衛著 海竜社刊 2009年9月17日発行


1.「反日、暴動、バブル  新聞・テレビが報道じない中国」
   麻生晴一郎著 光文社新書 2009年9月20日発行

 本著では反米デモと反日デモの対比がきわめてリアルに描かれている。両方とも著者が直接体験したものだけに説得力がある。反日デモの直後に、この文章が出されていたのならば、かなりのインパクトがあったにちがいない。惜しまれる。反日デモについては、私もそんなに激しい抗議デモだとは思わなかったが、このように比較されてみると、本当によく理解できる。

 長くなるが、下記にこの部分(P.74〜76)を全文紹介しておく。

 「その時、北京にいたぼくも容易に情報をキャッチすることができ、デモが行われた4月9日、IT企業が集中する中関村を出発し、建国門の使館街を経て日本大使公邸に向かったデモ隊の先頭付近に張り付き、デモの光景を写真に収め続けた。北京の反日デモはいくつかのデモ隊に分かれ、そのすべてを見たわけではないが、ぼくが追ったのは最も大きくて激しいといわれたデモ隊である。

 このデモがすごかったかと言えば、そうでもない、というのがぼくの実感だ。

 99年5月、国連軍による在ユーゴスラヴィア中国大使館爆撃事件を受けて、北京など大都市で繰り広げられた反米デモにもぼくは遭遇したが、その時は老若男女が大きな輪を作って泣きながら国家をうたったり、度の強い白酒で火をつけた雑巾を立て続けに投げて周囲から喝采が上がったりと、はるかに激しく、おそろしいものだった。

 反米デモは各大学の学生が専用バスで交代交代に隊列に加わるなど、明らかに党の意向が働いたものだから、統制が取れ、怒りのパワーも凄まじかった。

 反日デモが民間主導か、それとも党が裏で糸を引いていたかは意見が分かれるところで、一般に前者はそこに民意を読んで戦争責任を問い、後者は90年代以来、若い世代に反日教育を押し付けた中国政府を非難する傾向がある。しかしぼくは、『反日』の主張ではなく、行為にのみ着目したように、戦争責任を主とした彼らの主張内容から、民意を読むよりも、『反日』と歴史問題を別々に考えるべきだと思っている。他方で99年の反米デモの記憶をたどる限り、「反日」が党の主導だとはとても思えなかった。あまりにもっ雰囲気が違っていた。

 党主導のデモとなると、反米デモがそうであったように、日ごろ政府と対立したがらない高齢者層が堂々と加わってくる。党のお墨付きがある分、行動もより過激になりやすい。

 北京で4月9日に起きた反米デモの時は、日本がどうこうというよりも、デモをすることが楽しい、といった雰囲気があちこちから出ていた。笑いながら記念撮影する人を何人も見かけたが、あの笑いは底意地の悪さや日本への侮蔑などではなく、参加したことへの誇りに違いない。」

 著者の「反日デモは反日教育のせいではない」という意見は、日本の一般の常識を覆すものであり、傾聴に値すると思う。そして愛国教育が「反日デモ」に免罪符を与えたという著者の主張には同感である。

 下記はP.94〜97。

 「アジア杯サッカーの後、日本の新聞や雑誌は江沢民政権時代の90年代前半から始まった愛国教育を一斉に批判し、『反日』の原因として、日本の軍事侵略に多数の紙面を割いた歴史教科書や北京の抗日戦争博物館をはじめとした「反日スポット」を紹介した。

 確かに中国での日本紹介のされ方は問題が多く、批判するのはマスメディアとしての当然のことだ。だが、はたして愛国教育が『反日』を生み出しかというと、まったく影響がないわけではないにせよ、ストレートには結びつけにくいというのがぼくの感想である。

 ぼくが北京であった若い男女の多くは、『愛国教育?そんなこと関係あるものか。ぼくは学校を出てからネットで日本のことを知ったのだ』といった。

 とはいえ、愛国教育が『反日』の発生と無関係かといえば、そうではない。愛国教育の内容が若者たちを洗脳したとはいえないにせよ、まったく別の次元で彼らに影響を与えている。『反日』であれば少々オーバーヒートしても構わないと免罪符を与えた点だ。」

 それでもこの著書ほど、題名と内容にずれがある本も珍しいと思う。「反日、暴動、バブル」という題名にもかかわらず、内容は反日デモと民主化運動に関する中国の知識人、作家、画家、弁護士たちの動向や見解についての記述が、ほとんどを占めている。

 「暴動」については、09年5月に起きた湖北省石首市の事件が詳しく書かれているだけである。

 その石首市の事件についても、私は現地調査をしているので細部に渡って把握しているが、著者は現地には行っておらず又聞き取材であるため、事実誤認の部分が多い。

 さらに「バブル」にいたっては、その具体的記述はまったくなく、「バブル」という字句も本文中に1か所出てくるのみである。

 編集者は本をたくさん売りたいので、どうしても刺激的なタイトルを付けたいのであろうが、「羊頭狗肉」になってはならないと思う。

 この本には中国の知識人、作家、画家、弁護士などが多数登場してくる。このことから、著者の中国における交友関係の幅広さをうかがい知ることができる。

 しかし中国の現実をつかもうとした場合、一般労働者や農民、中小企業家、下級政府組織の党員などとの交わりが不可欠であると思う。

 今後、著者がこのような層の中国人の中に深く入り込み、取材をされることを期待する。


2.「中国が日本を救う」
  和中清著  アスカビジネスカレッジ刊  2009年8月30日発行

 この本は中国の実相をしっかり捉えており、ぜひ各位に読んでもらいたい1冊である。

 和中氏は冒頭で、「私は1991年上海に行き、中国の成長の限りない可能性を感じ、爾来、これまでかれこれ300回になろうか、毎月日本と中国を往復し、また中国で生活して、日本企業の中国進出のコンサルティングを続けてきた」と自己紹介をしている。

 本文中には、このように中国を現地で観察し続けてきた和中氏にしか書けない事象が、多く綴られている。

 また統計数字も出所の明確なものが使われており信頼できる。細部においては異論があるが、私は基本的に和中氏の見解を支持する。

 ただし私は、和中氏のように諸手をあげて中国に賛意を示すことには躊躇する。この点については本稿末で言及する。
 また題名についても「中国市場が日本を救う」とした方が、より内容に忠実であったのではないかと思う。

@知識人はどう“オトシマエ”をつけるのか。

 まず和中氏は、「はじめに」で次のように書いている。私も同感である。

 「私は中国の持続する成長が世界金融不況から多くの国が抜け出すきっかけにすらなるのではとも思っている。だから、中国への対応が一部の知識人の誤った情報に左右され、成長マーケットへの参入を逃してしまうなら大きな国家的損失でもあろう。そして、やがて中国は崩壊するとかマーケットは幻想だと、事あるごとに述べてきた知識人に言論人としての責任はないのかとも思う。過激な言葉だが、その“オトシマエ”を知識人がどうつけるのか、冗談ではあるが、少し脅迫してみたい思いにもかられている。」

A失業農民工はいない。

 次に和中氏は農民工の失業問題を取り上げ、日本のマスコミなどではしばしば、「中国では失業農民工があふれかえっている」と騒いでいるが、「実態は日本の雇用問題よりも深刻さは低い」と書いている。この点も同感である。

 「中国の農民工はたとえ失業しても農村に帰ることもできるし、貧しさにも耐えられる。貯金もそこそこあり、彼らがこの不況で職を失ったとしても、生活を切り詰め、友達どうし助け合えば、1年以上は都会にとどまり新たな職を探し、暮らすこともできる。」

 このような視点は、従来の「農民工は社会の最底辺に追い込まれた弱者」との常識的な見方を覆すものであり、一考に値する。

 京都大学経済学部の大西広教授も、「農民が土地を持っていることは、なにも持っていない都会の労働者よりも有利な条件である」と話されている。

 中国の農民工問題については、従来の常識的な捉え方を払拭して、さらに深く掘り下げる必要がある。

 和中氏は、労働者募集の現場からその実態を次のように報告し、人手不足現象から「雇用環境は好転する」と結論づけ、「中国社会に雇用不安は起きにくく、意外に安定している」と主張している。

 「私は人材募集のため、深セン郊外の人材市場もたびたび訪問しているが、不思議に思うことは、工員募集をする会社は相当数あり、壁一面、また電光掲示板でかなりの会社の募集内容が紹介されている割には、そこを訪れ、職を探す人たちの少なさである。

 多くの日本人が、日本で流れるニュースを聞いて想像するように、1億3千万人もの農民工が右往左往している状況なら、募集会社の案内板の前は、おそらく押すな押すなの状況で黒山の人だかりであるだろう。しかしいつもそこに職を探しに来る人はまばらである。」

B「中国市場が日本を救う」

 和中氏は、2008年末からの中国の内需振興政策が日本を救うと主張し、中国の真のGDPは公表よりも高いと力説している。彼のこの主張について、私も実感としてそれが正しいと思う。

 中国の私の周囲の企業にも、モグリ営業が多く、これらはどの統計数値にも表れてこない。

 失業農民工もこれらの企業に吸収しつくされており、同時に彼らの稼ぎはどこにもカウントされていない。これらが政府の内需振興政策などに後押しされ、圧倒的な購買力として表面化してきているのである。

 「後10年以内に5億人もの驚異的な人口が、日本企業がめざすマーケット人口に組み込まれる。この市場こそが、今世界が注目する中国市場である。…(略) 実態が把握できない経済活動は今も多い。私営企業の所得や裏経済の大きさ、都市経済の規模を考慮すれば、中国の真のGDPは公表より高くなる。」

C「中国バブルは崩壊しない」か?

 和中氏は「中国バブルは崩壊しない」と言っているが、この点については賛同しかねる。私はやはり中国経済はバブル経済に突入し、崩壊に直面すると考えている。

 「私たちが中国バブルを考えるとき、忘れてならないことは、土地が国有土地だということである。「地上げ」が横行した日本のバブルとはこの点も異なる。…(略) 中国経済がバブルであるとしても、日本のような土地バブルではなく、建物、特に住宅バブルということでもある。」

 和中氏もこのように、中国の土地の特殊条件をしっかり捉え、日本のバブルと同列視しているわけではない。しかしながら、マンションや株などが暴騰する気配を見せており、私はそれらが沸点まで到達し、その後急落すると予測している。このような現象が生起した場合、これをバブルと呼ばずしてなんと呼ぶのか。それでも中国政府は、そのバブル経済の崩壊を読み込み済みで、次の奥の手を出してくると考えている。

 中国経済が日本の「失われた10年」というようなバカな時期を過ごすとは考えられない。

 つまり、中国政府はバブル経済を演出し、中国人民を踊らせることによって、金融危機に端を発した不況をいったん乗り越え、バブル崩壊後、さらに新たなる政策を打ち出し、それから脱出すると同時に更なる高地に軟着陸を目指していると考える。

 中国政府は日本や米国のバブル経済崩壊やその修復の過程を、しっかり学習している。同じ轍を踏むことはないだろう。

 日本企業もそのような中国政府の政策を見越して、バブル経済の崩壊に巻き込まれないように、そして崩壊後の中国市場で一儲けするように企むべきである。

D「中国のデモと暴動、その嘘と真実」

 和中氏のこの稿は、この本の他の部分と比べると、調査分析が甘いと感じる。

 暴動については、2008年6月28日の貴州省瓮安県で起きた事件について書いているが、自ら足を運んで調査したものではないため、迫力不足である。

 今後、和中氏がこのような文章を書く場合は、私の調査報告を引用してもらえば、より核心に迫るものになると思う。それでも彼の次なる主張は、私に暴動分析に関する新たな視点を提供してくれた。

 「社会の急激な都市化とともに、自分の権利、立場しか考えない人が増え、それが中国混乱の原因にもなるのではと危惧する。強烈な権利の主張と自己本位は、たとえ人々がそれを願っても、民主化のために国がまとまることを阻止しかねない。私は、富める人も貧しい人も、多くの人が持つ自己本位こそが、民主化への中国の壁だと思う。中国は貧しさで崩壊するのではなく、豊かになった中国にこそ危機が潜む。…(略)

これまで私は、中国の経済成長がこの国の分裂や崩壊の危機を救うと考えていた。しかし豊かになれば自己本位が増殖し、バラバラの国が、さらにバラバラになり混乱するリスクもあるのではとも考えるようになった。」

E「中国の民主化は進んでいる」

 たしかに数年前から労働契約法の改訂などを通じて、中国は民主化の方向へ進んでいる。しかし和中氏は中国人民にとって、民主化を急速に推し進めることが正解であろうかと疑問を呈している。

 「日本人や米国人には、民主化すれば中国が抱える問題が解決するように単純に考える人たちも多い。ことに右派知識人と見られる人たちはそうである。しかし中国は、自己本位という魔物が潜む国である。経済開発を進め、貧富の差を是正するためにも、環境やエネルギーに配慮していくためにも、毒性食品やコピー商品を取り締まるにも、何よりも、13億という人々をまとめていくにも、政府のコントロールを強めなければならない国でもある。…(略)

中国は一党支配だからこそ安定し、経済成長を達成できた。私は人間が幸せに暮らすには限定された民主化も大切ではとも思う。すべての権利や欲望を開放することが民主化ではあるまい。」

 私も先進資本主義国の民主主義が必ずしも万全のものであるとは思わない。したがって中国が暗中模索の後、独自の「民主主義」を創り上げることを望んでいる。

 和中氏は、2025年には中国が民主化すると予言している。

F「間もなく5千万人の海外旅行時代が来る」

 和中氏はこのように予測し、日本も門戸を開放し中国人を受け入れ安くすべきだと書いている。私も同感であるが、現状の無策のままでの受け入れは、やはり社会に混乱を生じさせると思う。知恵を絞れば、良い策が生まれるはずである。その上での施行を望むものである。

G「驚異の中国と共に歩もう」

 最後に、和中氏はこのような文章で本文を締めくくっている。

 私は本文を読み終わって、和中氏の無条件とも言える中国礼賛論には若干の違和感を覚える。もちろん私は反中知識人ではないが、中国政府が覇権主義国家となる可能性がゼロであるとは考えていないからである。

 さりとて「日本は再軍備して中国の侵略に備えよ」などという馬鹿げたことを言うつもりもない。

 日本政府も民間企業も、中国を覇権主義国家とさせないように、万全の策を講じなければならないのではないかと言いたいのである。その意味で最後の項は、「脅威の中国と共に歩もう」の方がよかったかもしれない。


3.「米中、二超大国時代の日本の生き筋」
  田久保忠衛著   海竜社刊  2009年9月17日発行

 田久保忠衛氏は、若き時代に時事通信のワシントン支局長を勤めており、現在では親米保守の論客と呼ばれている。

 その呼称にたがわず、文中では過去から現在に至るまでの米国の中国戦略を見事にかつ詳細に語っている。

 さらに戦前の日本が日英同盟を破棄したことを、欧米各国のわなにはまった結果だと書き、それとの比較で現在の民主党政権の日米同盟への対応姿勢の危うさを類推させようとしている。

 残念ながら私には現在、これらの論述の真偽について云々するだけの力量がないが、米国の高官や学者の発言などをしっかり引用したこの分析は、結論はともかくとして傾聴に値すると思う。

 ひとまず下記に田久保氏の主張を記す。

 「日清、日露の両戦争に勝って世界のプレーヤーに躍り出た日本は、日英同盟の意義が薄らいでいくと同時に当時の国際秩序の中で孤立していく。1921年から22年にかけてのワシントン軍縮条約で主力艦は米5、英5、日3の比率に決まったが、この比率にだけ注意力を傾け、日英同盟廃棄の重要性に気がつかなかった。日露戦争時の日英米対ロシアの対立の構図はワシントン会議後に日本対米英中の対立に変わる。これに相応するような、21世紀のアジアにおける国際秩序の変化が進行しつつあることに気付くどころか、非核三原則を守ろうと与野党ともに大声を上げ、国民もこれを歓迎している。そのくせ米国の核の抑止力は必要だと説く矛盾を指摘する言論は少数意見になったままだ。一番喜んでいるのは中国だろう。
 日米同盟を不変と信じ切って、同盟堅持の努力を怠り、中国の動向、とくに軍事面での動きを深刻に検討しようともせず、ひたすら中国の国内矛盾だけを暴いて自らの怠惰の口実にするなど亡国の兆しも現れている。」

 田久保氏は上記の分析を踏まえた上で、米国は中国戦略を、「中国封じ込め」作戦から「中国絡め取り」作戦に切り替えていると指摘している。

 「21世紀の国際秩序に急速な参入をしてきた中国はすでに重要なプレーヤーになってしまった。常に「現状維持」を望む米国にとって「中国の平和的台頭」には手も足も出ず、アジアの力の均衡がガラリと変化したことは既成事実として認めざるを得なくなった。これが現実の国際政治である。…(略) 

 中国を国際社会になじませ、責任を自ら果たす方面に誘導できれば、それを歓迎するとの広範なコンセンサスが米国内に形成されつつある。…(略)

 前ブッシュ政権の対中強硬姿勢変更の直接的動機は、2001年に発生した9・11同時多発テロである。米国の歴史の中でもいきなり自国が国際テロリストの攻撃に遭遇し、民間人3千人がいっきょに生命を奪われた例はない。ブッシュ政権が対テロ対策にはいかなる国の助力も欲しいと思っていたときに、中国側は(略)ブッシュ大統領に、「テロとの共闘」を持ち掛け、ブッシュ大統領から高く評価されている。」

 さらに田久保氏は、2005年9月、当時のロバート・ゼーリック国務副長官の演説を引用して、米国は現在の中国を、下記の4点において、1940年代のソ連とは異なった国として認識していると述べている。

 「@中国は急進的な反米のイデオロギーを世界に広めようとは考えていない。
  A中国は米国と異なる民主主義をめざしているようだが、民主主義そのものは肯定している。
  B中国はときには重商主義になることはあるが、資本主義と死闘を演じようという気はない。
  C最後に一番重要なのは、中国が基本的な国際秩序を崩して自国の将来はないと信じていることである。
  中国の指導者たちは、現代世界との協調以外に国の将来はないと決めている。」

 その上で田久保氏は、21世紀の国際秩序を左右する存在に中国がすでになってしまった「事実」の背景には軍事力の著しい増大があると述べ、あるとき中国軍幹部が米太平洋軍司令官に、「米国はハワイ以東を、わが国は以西を支配するようにすればよいのではないか」と話しかけてきたとの逸話を紹介しており、中国の軍事的台頭に警戒心を露にしている。最後に田久保氏は、日本の生き筋を次のように開陳している。

 「私は日本が国際国家としてふさわしい国軍を保有すべきだと長年にわたって主張してきた。自己完結的な軍隊を持ち、品格のある国家になるには日米同盟はもっとも賢明で、掛け替えのない手段だと信じてきた。しかし、同盟は相互にプラスがなければ成立しない。戦後46年間続いた冷戦下では日米同盟の共通の敵はソ連の軍事的脅威だった。ソ連崩壊後の日米関係を結びつける要因はなにか。朝鮮半島の不安定であり、中国の軍事的脅威である。米国との同盟関係を切って中国に接近するなどとの途方もない発想は日本の運命を狂わせる。…(略)

日本とは60年間続いた同盟関係、中国との間では「敵でも味方でもない」関係の二つを米国はどのように操っていくのかにわれわれは観察の目を向け続けなければならない。」

 田久保氏は、日本が軍事力を持ち、日米同盟を基軸として生き続けることがベストの選択だと説いている。

 文中で、外交には、リベラル派的思考とリアリスト派的思考があり、「私は、リベラル派かリアリスト派のどちらかと問われれば問題なくリアリスト派だと答える」と述べている。

 ちなみに田久保氏による両者の定義を次に記しておく。

 「リベラル派は、思想や理想の力が世界の運命をコントロールする上で重要であると見る。つまり「ペンは剣よりも強い」と信じている人々で、人間は性善なるものだとの性善説で一元的に割り切っており、個人間を律する基準がいつの間にやら国際間の基準に変化させてしまっている。
 リアリスト派は、人間の悪業の中で、権力に対する本能的な強い欲望や他人を統治しようとする願望は旺盛で、押さえ難く、危険なものはないと考えている。そして世界システムが無政府的正確であるところから、諸国は潜在敵国の攻撃を抑止するに十分な軍事力を保有し、他の諸国に対して影響力を行使するべきであり、国家は軍事力を持ち、『平和維持のため戦争に備え』、『力は正義である』から躊躇なく軍事力を行使すべきであると考えている。」

 さらに田久保氏は、「リベラル派的思考によって、不戦条約ができ、国連が創設され、今の国際社会で重要な役割を演じている事実を理解してはいるが、今日にいたるまで結果的にそれは成功しなかった」と述べており、「人類の発展や大きな流れを尊重するのはいいが、それに頼り切りになる日本の欠陥を補うにはリアリズムに立脚した外交と防衛政策が不可欠である」と主張している。そして彼は、「“大きな棍棒”を持って外交に臨むべきであり、軍事力を持った外交は強いのが現実であり、軍事力なしにうまい外交ができるといかにもわけ知り顔で説く向きもいるが、弱者の願望にすぎない」と断言している。

 しかしながら歴史は、その棍棒外交がかならずしも成功しておらず、結果としてなんども不幸な戦争に突入したことを証明している。また各国が棍棒の大小を競いあう軍拡競争に明け暮れ、結果的に国家を衰退させてきたことも歴史的事実である。

 かつてのソ連は、レーガン大統領の仕掛けた軍拡競争に巻き込まれ、軍事費の増大に耐え切れず崩壊してしまった。

 中国もその二の舞になる可能性は大きい。最近中国では、退役軍人の待遇改善の要求の抗議行動が目立つようになってきたが、この事象に現れてきているように、今後おそらく中国の軍部も自己肥大化していく可能性が大きいと思う。

 米国もその軍事力を行使し、アフガニスタン・イラクの両戦争にのぞんだが、結果は成功しているとは言い難く、米国の国力はその負担に耐え切れなくなってきている。

 だから大きな棍棒つまり軍事力を持った国が、外交に勝利しているとは言い切れない。やはり外交は軍事力を背景にした解決ではなく、他の解決方法を探すべきであると考える。

 たしかに軍事力を持たない国が、外交に勝利した例は歴史的に少ない。また非武装中立を貫き通した国も少ない。しかしながらそれでも、日本はその困難な課題に挑戦すべきであると考える。

 私は軍事力を持たない日本をバックに長らく海外でビジネスを展開してきた。そしてそのことで不都合を感じたことはない。

 その半面、ビジネスの中では性善説よりも性悪説に立つことが正解であるとの認識を持っている。

 だから私はリベラル派でもありリアリスト派でもある。

 私はリベラル派として行動しながら、相手がリアリスト派に転向したときは、自分もただちにそれに対抗できるような力量を持たなければならないと思っている。しかしそれは棍棒ではなく、他の解決手段でなければならないと考えている。

 最近私は、中国だけでなく各国の暴動の調査を行っている。その中でわかってきたことは、月並みではあるが、暴力の応酬の結果は悲劇しか生み出さないということである。

 これは国家間にも当てはまると考える。日本は戦争放棄ということを高らかにうたった憲法を持っている。また国民の中にもそれを維持しようとするコンセンサスがまだ残っている。このことは、日本が棍棒を持たない外交を展開し、それを成功させるためには、絶好の条件であると考える。

 リアリスト派からは弱腰として厳しく批判されるであろうが、日本人が世界に先駆けて丸腰外交を成功させるべきだと考えている。