小島正憲の凝視中国

長征:東路軍の悲劇


長征:東路軍の悲劇                                               
03.JUN.09
長征の最後に東路軍の悲劇があったことについては、なぜか中国の人も詳しく知ろうとしたがらない。



毛沢東が陝北革命根拠地へ着いてからすぐに、その根拠地の指導者であった劉志丹の率いる部隊が毛沢東の指示で東へ向かって軍を進め、そこで国民党の閻錫山軍に破れ、劉志丹は非業の死を遂げた。


毛沢東はこの戦いを東征と呼んでいる。しかし私はこの部隊が、西路軍と比べると規模はかなり小さいけれども、その目的が酷似していること、指導者が死亡し部隊も大きな損害を受けていること、またその過程がいまだに謎に包まれていることなどから考えて、あえて東路軍と名付ける。今回、私はこの東路軍の跡地を訪ねてみた。


革命の聖地、延安へは西安から高速道路を4時間ということだった。15年前に来たときは悪路を8時間走った記憶があったので、中国社会の進歩を感じ気楽に構えて車に乗った。ところが自慢の高速道路が原因不明の大渋滞で、11時間かかってホテルに着いたときには、深夜の2時過ぎとあいなった。逆に中国社会の矛盾を体験させられた始末。


                                            劉志丹率いる東路軍行軍図


1.劉志丹の死についての謎


岡本隆三氏は「長征」の中で、劉志丹について次のように語っている。「英雄劉志丹は中国のロビンフッドと呼ばれるような冒険をし、自らの血を流して陝北根拠地を確立した。この根拠地について国民党の閻錫山は“陝北紅軍は武力を用いないで区域を拡大しうる威力を持っている。まず周辺の3方面をひろげて3村、これを波状的にひろげて9村、ついで27村と、その拡大はきわめて早い。赤化した人民は70余万、ゲリラ20万、紅軍は2万をかぞえる”と蒋介石に報告している。


その劉志丹が中央紅軍の陝北根拠地到着までのわずかな期間だったが、牢獄につながれ、獄窓から西北の空の星をながめていた。それはまったく、彼の人生にとって、奇妙というよりほかはないほど、ばかげた結末だった。陝北根拠地は長征の灯台の役割を果たしたが、この灯台守であった西北の赤い星−劉志丹は、まるでその役目が終わるのを待ってでもいたかのように、毛沢東が到着して6か月目の1936年4月、陝北軍を率いて黄河を渡り、抗日戦線へ出撃しようとしたとき、これを阻む国民党軍と戦って死んだ」
※筆者が「長征」本文から字句を抜粋し編集。


この岡本氏の「長征」が発行されたのは40年ほど前であるが、その記述は基本的には正しい。しかし現在では劉志丹についての研究が進み、その死について下記のような疑問が出されている。
→印でその疑問を列挙。


@なぜ劉志丹は獄につながれたのか。

毛沢東が陝北根拠地の呉起鎮へ着く直前に、中共北方局の幹部が陝北根拠地に来て、劉志丹以下の幹部を右翼投降主義の誤りを犯しているという名目で捕縛し、投獄した。このとき投獄された幹部の中には現在の国家副主席である習近平の父親の習仲もいた。劉志丹は十分に戦力を保持していた(精兵5000を率いており、戦力はそのとき派遣された紅25軍の3400を上回っていた)にもかかわらず、反抗せずに獄につながれた。

この事件では陝北根拠地で200人以上の幹部が拷問のすえ殺害されたといわれている。その後、劉志丹は毛沢東の指示により釈放された。


最近の調査では、1935年5月時点での中共北方局の書記は高文華であり、36年4月から劉少奇に替わっており、この時期の北方局の上部責任者が毛沢東であったことが判明している。なお、毛沢東は呉起鎮に入った(1935年9月12日)とき、身近にいた幹部たちに、「指揮は正確ではない」と劉志丹を批判したとされている。


→この投獄および釈放はともに毛沢東の指示で行われたのではないか。つまり陝北根拠地を乗っ取るための自作自演ではなかったのか。


Aなぜ劉志丹は東へ向かって兵を進めたのか。

公式文献では劉志丹は毛沢東の「北上抗日」という指示で東へ向かったことになっている。そして黄河を渡り汾河まで進軍したところで、閻錫山軍に阻まれ、陝北根拠地に敗走する結果となった。しかし最近の調査では、このとき毛沢東が劉志丹軍に与えた使命は、モンゴル経由でロシアとの連絡通路を切り開くことであったということが言われている。


→これまで遊撃戦を主張してきた毛沢東がなぜこの時点で無謀にも正規戦に出たのか。劉志丹軍を陝北根拠地から追い出すための作戦ではなかったのか。


→瓦窰堡会議で「抗日民族統一戦線」の方針が決定されたのならば、閻錫山軍と統一戦線を結成し、閻錫山軍を抗日戦争に巻き込むことが基本戦略であり、交戦は避け、粘り強く対話と交渉を続けるべきではなかったのか。

→「北上抗日」という戦略ならば、賀竜や林彪などの中央紅軍を派遣するのが本筋ではないか。


→毛沢東の「モンゴルを通じてソ連とのルートを切り開け」という指示はまさに西路軍と同じで、実現不可能な戦略ではなかったのか。


B劉志丹は誰に撃たれたのか。

1936年4月14日、劉志丹は山西省柳林県三交の地で撃たれて死亡した。公式には、敵のマシンガンの1発が小高い山の上で敵情視察をしていた劉志丹の左胸を撃ち抜いたとされている。なお遺体については、すぐに瓦窰堡に運ばれたが、なぜか劉志丹夫人には見せなかったという。


→当時の状況から推察して、敵にマシンガンで左胸を撃ち抜かれたという説明は不自然である。警護の兵士に撃たれたのではないか。


C劉志丹とその関係者はなぜ文化大革命で批判されたのか。

劉志丹の弟の妻は夫の死から20年後に、大量の資料やまだ生存していた当時の関係者から事情を聴取して、「劉志丹」を書いた。それは1962年に「工人日報」などに掲載され、やがて単行本になる予定だった。ところが文化大革命の初期に康生は、この本が毛沢東思想の剽窃であり、習仲らの売名行為であると断定し批判した。毛沢東も康生を支持し、「小説を利用して反党行為を犯すとは一大発明である」と強く批判した。その結果、習仲や劉志丹の弟の劉景範をはじめとする陝北根拠地の勇士たちは迫害され、その多くが死亡した。


長編小説「劉志丹」は毛沢東を批判したものではなかったが、陝北根拠地を築いた劉志丹を輝かしく描いており、毛沢東がその成果をやすやすと享受したようにも読み取れたため、毛沢東が激怒したとされている。


志丹県にあった劉志丹の陵墓は紅衛兵によって徹底的に破壊された。現在、この長編小説「劉志丹」は書店にはなく、図書館などで探してしか読むことができない。1990年代になってやっと、白黎が「劉志丹伝」を書き、張俊彪が「劉志丹」を著し、軍事科学院が「劉志丹記念文集」を出版するなど、劉志丹の死の謎に迫る研究が行われはじめた。


→長編小説「劉志丹伝」が劉志丹の死の真相を描き出していたので、毛沢東がそれをもみ消すために文化大革命の批判の対象にしたのではないか。



          劉志丹像と共に


2.劉志丹烈士陵園


私は上記の疑問を解くために、まず劉志丹の墓がある志丹県に向かった。延安から車で西方へ2時間ほど走ったところに志丹県がある。周囲を小高い山に囲まれた小さな町で、中央に立派な劉志丹烈士陵園がある。祝日であったのに訪れる人はほとんどなかった。


陵園内には劉志丹に共産党幹部から寄せられた言葉が刻まれた新しい石碑が林立していた。毛沢東や朱徳、周恩来、劉少奇、彭徳懐はもとより林彪のものもあった。


中には日本工農学校と記されたものもあった。おそらくそれは延安時代の野坂参三の手によるものだろう。


一番奥の墓所の右側に陳列館があったので入ってみると、そこには石碑の現物が保存してあったが、林彪をはじめとして石碑の名前がほとんど削られてしまっており、解説版を読まなければだれの書いたものか判読不可能だった。文化大革命のときの紅衛兵の仕業だという。


陵園内の記念館に入り、中をくまなく探し回ったが劉志丹の東路軍についての展示や資料はほとんどなかった。志丹県発行資料にも肝心の捕囚時や死亡時の記述はなかった。やむなく私は劉志丹像と並んで記念撮影をしてこの陵園を後にした。


なお2003年発行の陵園パンフには次のような歴史が記されていた。


1936年4月14日、三交の地で左胸に被弾し死亡。同年4月24日、瓦窰堡において盛大な追悼大会後、瓦窰堡の山上に埋葬。同年6月、人民の要求により劉志丹誕生の地である保安県を志丹県に改名。

43年、志丹県に劉志丹陵園が建設され、墓はここに移築。

47年、陵園が国民党の胡宗南軍に壊されたが、52年に再建。

66年、文化大革命によって再び破壊。90年、改築終了。

まさに劉志丹は死後まで、時代に翻弄され続けたのである。


3.呉起鎮革命記念館


呉起鎮は史丹県から、さらに西方へ2時間ほど走ったところで、途中には窰洞(やおとん)が多く残されていた。しかし意外なことに、この付近には油田が開発されており、道路際にいっぱい油井があった。そのせいでこの地帯は結構豊かになっており、建築ラッシュであった。ここに他地域から農民工が集まって来ており、道路際にたむろしている農民工たちに呉起鎮革命記念館の場所を聞いてもわからない人が多かった。つまり田舎でも他地域からの農民工の雇用機会が増えているということだ。やっとのことで革命記念館を探し当てて行ってみると、周囲を建設中のビルや住宅に取り囲まれ、表通りからは入れない状態であった。



     油田開発 油 井


道案内の看板などはいっさいなかった。記念館の中に入ってみると、毛沢東など幹部の居住跡の上に、恐れ多くも一般民家が立ち並んでおり、まさに「革命は遠くなりにけり」という風情だった。


一人も観光客はおらず、子供たちが中庭でスケートボードをして遊んでいた。結局その記念館にもなにも資料らしきものはなかった。


1935年、毛沢東はこの呉起鎮に流れ着いた。そこは劉志丹が血を流して築いた革命根拠地であった。革命記念館前でのんびりと煙草を吸っていた地元の老人が、「毛沢東は劉志丹に、“革命成就の暁には、中国の半分はあなたに差し上げる”といって騙し、ここにずり込んだのだ」といって笑っていた。



  毛沢東らの居住跡 


4.謝子長烈士陵園


延安から北方へ車で2時間ほど走ったところに、子長県がある。この街に瓦窰堡があり、ここに劉志丹らが監禁投獄されていたという。


ここには劉志丹と共に戦った革命烈士謝子長の陵墓がある。謝子長はこの地で生まれ、1931年以降、陝北遊撃隊を指揮して陝北根拠地確立のために戦い、34年8月国民党との戦闘で負傷し、それがもとで35年2月に37歳の若さで死去した。


   謝子長烈士陵園 

毛沢東はその死を悼み、39年、安定県瓦窰堡に陵墓を築造し、42年、安定県を子長県に改名した。

46年1月、謝子長烈士陵園が竣工したが、47年、胡宗南軍に破壊されたので、53年、再建された。

幸か不幸か、謝子長は早く死んだので、劉志丹のように北方局から投獄されることもなかったし、この子長陵が文革で破壊されることもなかった。


ここで私は貴重な資料を手に入れることができた。


その資料には、1934年7月25日、謝子長は甘粛省華池県閻家ワ村において会議を行い、中共北方局の指示を伝え、戦略を検討したと書かれていた。そしてこの会議には劉志丹をはじめとして、習仲、高崗などが参加していた。(閻家ワ村の「ワ」はさんずいに圭)


つまりこの時点で、謝子長や劉志丹の行動は、北方局の指導のもとに展開されていたことになる。ところが謝子長の死亡後、35年9月、劉志丹や習仲は北方局から右翼投降主義と指弾され、投獄される羽目となった。北方局の指導の下に行動していた劉志丹たちが、突如その北方局の手で捕縛、投獄されたのである。変節したのは北方局であったことは明白である。もちろんこのときの北方局の上部責任者は毛沢東であった。


この瓦窰堡でも劉志丹関係の資料は皆無であった。せめて劉志丹が投獄されていた場所を特定したいと思って探したがわからなかった。偶然に街の中央に古臭い建物をみつけたので入ってみると、そこは毛沢東の居住跡であった。ここで瓦窰堡会議が行われ、「抗日民族統一戦線」の決定がなされたという。


5.劉志丹殉難碑


資料がまったく入手できなかったので、この上は現地で事実を究明するより仕方がないと思い、私は劉志丹が撃たれた三交の地を目指して、子長県から清潤県、石盤鎮と山道をひた走った。その途中には山にへばりつくように窰洞がたくさん見られた。まさに陝西省の貧しい田舎という風情だった。過疎化した村もあって、廃屋ならぬ廃洞も目立った。3時間ほど走ったところで、それまでの山の様子が一変し、ジグソーパズルのようになった珍しい光景が目の前に広がった。


さらに1時間ほど走ると黄河にぶつかった。黄河には浮き橋がかかっていた。その浮き橋を渡って三交の地を聞くとすぐにわかった。


      

      黄河の浮き橋                         陝北根拠地の山 


殉難の場所は山西省だった。15分ほど黄河に沿って南下すると古い街に入った。そこが柳林県三交鎮だった。


道路をそのまま直進していくと、車1台がやっととれるような路地に迷い込んだ。周囲の家は青レンガで築かれており、いかにも古そうだった。道も同じレンガで舗装してあった。その行き止まりのところに紅軍東征記念館があった。この記念館は個人経営だそうで、50歳代の人のよさそうな館長がいろいろと説明をしてくれた。ここには劉志丹の戦闘時の備品などが多く残されていたし、2階には文革時代の貴重な資料が数多く保存されていた。



    紅軍東征記念館 


私が館長に、劉志丹の死について質問をしたところ、「私にもすべてが謎です。先月も中央から調査団が訪ねて来て、同じ質問をされたのですが、同じように答えました」と、堅い口調で話してくれた。そして彼はポツリと「結局、毛沢東は劉志丹を上手に追い出したのです」とつぶやいた。


その後私は地元の老人の案内で、劉志丹が狙撃された場所に登った。そこは150mほどの禿げ山の頂であり、周囲は360度の展望が利く場所であった。



   山頂の劉志丹殉難碑 


老人が「あそこから閻錫山軍の兵士が撃ったといわれている」と三交鎮側の麓の廟を指差した。私は劉志丹が立ったといわれている場所に身をさらして、彼に成り代わってみた。そこは麓の廟からは目視で500mの距離があった。さらに私は四周を見回し、どの地点から劉志丹を狙うにしても、正確に狙撃するには遠くて無理との判断に達した。


老人は私の心中を見透かしたように、「そのとき頂上にいたのは劉志丹、直属の部下、そして警護員の3人だった。あらかじめ毛沢東から指示されていた警護員が撃ったという説もある。その警護員の兵士はまだ北京で生きている。死ぬ前に真実を話してくれれば、この謎は一挙に解決するのだが」と話してくれた。


私は再度四周を見回し、「劉志丹ほどの歴戦の勇士が、わざわざどこからでも狙えるすきだらけのこの場所に身をさらすはずがない。劉志丹はこの山頂が狙撃ができない場所だとわかっていたから、ここに立ったにちがいない。狙撃説にはやはり無理がある。警護員の兵士が撃ったという説が濃厚だ」と思った。


引き続いて老人が「敗走していた劉志丹は黄河を渡り、目と鼻の先の陝北根拠地に帰る退路を探していた」と教えてくれた。


劉志丹は自らの血で切り開いた陝北根拠地を目前にして、そのとき背後から銃で撃たれたのである。私の目に涙がとめどなくあふれだしてきた。私はその涙をぬぐって体を黄河に対面させ渡河地点を探しながら、殉難碑に手を合わせた。


        

山頂の劉志丹殉難碑の前で       山頂から黄河を望む。対岸が陝北根拠地


6.延安革命記念館


延安革命記念館は、現在、新規改築中で、2か月後にはオープンする予定だという。臨時の記念館には陳列物が少なく、中でも劉志丹に関連するものは2点ほどしかなかった。館に入ってすぐに大きな東征の戦跡地図があったが、そこには三交の場所が記されていなかった。私はこの陳列館に長居をせず、すぐに帰路に着いた。


西安までの車中で、毛沢東と劉志丹の関わりを時系列で整理してみた。


1935年09月 毛沢東、甘粛省哈達舗で陝北革命根拠地を偶然に知る。    

1935年09月 劉志丹、北方局により投獄される。

1935年10月 毛沢東、呉起鎮に着く。

1935年11月 劉志丹、毛沢東の指示で釈放される。

1935年12月 瓦窰堡で政治局会議。「抗日民族統一戦線」の方針決定。

1936年02月 劉志丹、東征開始。

1936年04月 劉志丹、三交で狙撃され死亡。

1936年04月 毛沢東、瓦窰堡で劉志丹の盛大な追悼大会を催す。

1936年12月 西安事変。

1937年01月 毛沢東、延安へ移動。陝北根拠地を占拠。


このように整理してみると、毛沢東がまことにうまく陝北根拠地を奪取したことがはっきりわかる。


陝北根拠地の人民大衆からロビンフッドと慕われていた英雄:劉志丹を、人民大衆の反感を買うことなく上手に排除し、しかも盛大な追悼大会を行うことによって、劉志丹への人民大衆の思慕を毛沢東自身への尊崇の念に変えてしまったのである。見事なまでの演出だと言ってよいであろう。もちろんこれらは憶測にしかすぎないので反論は可能である。


けれどもその憶測を否定する材料もない。


考えてみれば、長征前夜、井岡山で毛沢東は王佐や袁文才を追い出してそこを乗っ取った。
この両者は多くの書物では土匪と書かれているが、最近の調査ではともに共産党員だったといわれている。


長征とは、毛沢東の根拠地争奪戦であったとも言えるのではないだろうか。
劉志丹の死の真相については、習近平副主席が父親の習仲から必ず聞いているに違いない。
数年先に彼が中国の最高指導者になったとき、歴史の大どんでん返しがあるかもしれない。