小島正憲の中国凝視

最後の人民公社?


最後の人民公社? 
                                                                          4.MAR.09
1.「最後の人民公社」 


 1月中旬、各種のマスコミに、「最後の人民公社が配当」という見出しがおどっていた。私はこれを見て、「人民公
社は30年ほど前に消滅したはずなのだが、いまだに存在しているのだろうか」と不思議に感じた。そこで各紙の記
事を細部まで読んでみると、そこには総合すると次のように書いてあった。


 中国最後の人民公社」として知られる河北省晋州市周家荘郷は、1月13日、傘下の6か所の自然村の社員120
00名に対して、総額7000万元の利益を配当した。平均すれば一人当たり約6000元。

 

 周家荘郷は1952年から今まで、人民公社制度を続けている中国唯一の郷鎮であり、「最後の人民公社」と呼ば
れている。

 56年間に渡って、特徴的な集団統一経営制度を続けており、4000ムーのぶどう園、3000ムーの梨園、1000
ムーの植物園、1000ムーの野菜畑、7000ムーの小麦育苗基地などを持っている。


 "配当金"は一般にいう賃金と同じ。同郷では農作業や工場労働など、すべての労働を点数制にしており、1年間
の点数にしたがって賃金を支払う。

 

 公社員は個人による農業活動も認められているが、農業または工業の集団労働に参加しない場合には、毎年、
積立金の支払い義務が生じ、“配当金”も受け取れない。周家荘郷の農民(公社員)の実質所得は、
毎年増加しており、晋州市全体を上回る状態が続いている。≫ 

 私はこの「最後の人民公社」の実態が見てみたかったので、2月中旬、河北省晋州市周家荘郷を訪ねてみた。

 上海から飛行機で石家荘市まで行き、そこからバスで1時間半ほど走り、その地に着いた。

 ネット上では記念館や集団食堂があると報じてあったが、ひとまず周家荘郷人民政府を訪ね、責任者から事情を
聞こうと思い、電話をして責任者に連絡をつけてから行った。

 私が政府の門前で写真を撮っていると、自転車で通りがかった人が、「お前はどこの者か」としつこく聞いてきた。
適当に返事をしながら政府の事務所に入って、責任者に話を聞こうとすると、彼はやにわに「人民公社は法律上、
1982年に廃止された。だから特別に話すことはない」と言い切り、取り付く島がなかった。

 私は「最後の人民公社」の取材にわざわざここまで来たのだからと言って、せめて記念館や集団食堂を見せても
らいたいと頼んだのだが、現在は休館中とのことで、これまたあっさり断られた。それではぜひこの郷の紹介書をく
ださいと言うと、彼はしぶしぶパンフレットを出してきた。

 意外にもそれは立派なもので、表紙には「周家荘郷 特色旅遊」と大書してあり、「中国農村唯一郷級核算管理体
制」と側書きしてあった。中を開くと、ぶどう狩りやら梨狩りの様子や大食堂での宴会の模様などの写真が満載して
あった。そして裏表紙には、特色旅遊の内容が紹介されており、果実狩りや田園観光の開催期間が明示してあり、
記念館の内容や人民公社での労働体験、大食堂での食事経験などが紹介してあった。しかも最後に、「中午就餐;
吃集体食堂、感受大集体生活、体味郷情農家飯」と結んであった。

 私はこのパンフレットを見て、この郷は「人民公社」を売り物にして観光で大儲けしていたのだと思った。

 今回の政府の責任者の邪険な対応は、たまたま「人民公社」という名称がマスコミに大々的に取り上げられたた
め、上級機関から自粛を求められ、記念館の閉館などの事態になってしまったというようなところが背景にあるので
はないかと考えた。

 政府の責任者がそれ以上話をしたがらなかったので、私は政府での取材をあきらめて、近くの飲食店に入って昼
ご飯を食べることにした。そこの店主に「人民公社」の実状を聞いたところ、マスコミの報道はほぼ正確であった。

 やはりこの村(周家荘郷)の身分証明書を持っている者で、「人民公社」に関係のない仕事をしている者は、1年
間に1000元を村に支払わなければならないということだった。またこの郷は市政府からモデル農村としての幾多
の育成優遇政策を受けていると話してくれた。

 帰路、その郷の周辺を歩き回ってみると、家々はきわめて立派で、中学校も超豪華であった。

 ぶどう畑も延々と続いていた。それらはこの郷が豊かであることを証明していた。

 私はこの郷は結局のところ、江蘇省江陰市の華西村と同じく集団経営体で成果をあげているわけであり、わざわ
ざ過去の遺物の「人民公社」を看板に掲げていなければ、観光立村でも問題がなかったのではないだろうかと考え
た。

 確かに1982年の憲法改正で「人民公社」制度は解体されたが、農民たちのすべてがただちに個人請負制に走
ったわけではなかった。中国全土にはまだまだこの周家荘郷や華西村のように、集団経営体を維持し、大きな成果
をあげているところがあるのではないだろうか。

 それらの存在は、人間の行為には多様性があるので、一律に同じ仕組みの中に閉じ込めてしまうのには無理が
あるということを証明しているのではないだろうか。

 また人間の自発性の発揚方法も、個人の欲望を刺激するだけではないということを示唆しているのではないだろ
うか。

 私がそんなことを考えながら、その郷の周辺をブラブラしていると、先刻の政府の責任者が車で寄ってきて、バス
亭まで送ると言う。あまりにも私を邪険に扱ったので気が咎めたのであろうか。私は遠慮せずに、彼の車に乗せて
もらいバス停まで送ってもらった。

2.「人民公社 好」

 周家荘郷で「人民公社」の現物を見損ねたので、せめてネット上に人民公社に関するニュースがないかと思って
検索していたら、湖北省宜昌市に「人民公社」のモデルが保存してあるという記事が目についた。そこでさっそく私
は宜昌市に出かけてみた。

 「人民公社」は宜昌空港から宜昌市内へバスで1時間、さらに市内からバスで西方へ1時間走った「王家ハ」(注・
ハは土へんに覇の字)にあった。

 道路から少し入った小高い場所に「人民公社」は建っていた。

 入り口の壁には「人民公社 好」と大書してあり、「毛沢東思想万歳 中国共産党万歳」という看板が懸かってい
た。建物の中には当時の様子を物語る部屋が保存してあり、いろいろなものが展示してあった。

 そして一番面白かったのは当時の大集会室があり、そこで若い娘さんたちが文革時代の衣装で勇ましい踊りを披
露してくれたことであった。

 最近では滅多にお目にかかれない姿なので、私は恥をしのんで中央に立ち記念撮影をさせてもらった。ついでに
娘さんたちに、ここの人民公社の規模や歴史について聞いてみたところ、まったく知らないと言い、演技が終わると
すぐにストーブのある暖かい部屋に戻っていってしまった。

 地元の人に聞いてみると、ここには「人民公社」の建物だけが観光用に残されているだけであり、「人民公社」は
かなり以前に解散されてしまい、だれも詳しいことはわからないという。

 またこの一帯は少数民族の土家族の生活区であり、車渓土家民俗旅遊区として国家から4つ星風景区に指定さ
れており、その観光ルートの一端に「人民公社」の建物が入っているのだと話してくれた。

 2月は観光シーズンではなく寒かったが、せっかく来たのだからと思い、私はその観光ルートをたどってみた。

 奇岩がそそり立つ渓谷やミニ九寨溝を思わせるような河面、幽玄な洞窟などがあり、その途中には民俗館や民
芸館などがあって土家族の踊りや伝統工芸を見学できるようになっており、結構おもしろかった。


                                                      
              

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