小島正憲の凝視中国

読後雑感 : 2011年 第8回


読後雑感 : 2011年 第8回
01.APR.11
1.「私の西域、君の東トルキスタン」
2.「モノ言う中国人」
3.「中国のマスゴミ」
4.「グワンシ」
5.「明日への扉 日中新時代へ」

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訂正:

1.前回の「中国 この腹立たしい隣人」の読後雑感で、著者の孔健氏を孔子直系として紹介したことについて、読者の方から「孔健氏は孔子直系ではない。本人もそれを認めている」という指摘がありました。たしかにご指摘通り、「孔子の直系である」という証拠は希薄なので、ここに「孔子の血統」と訂正させていただきます。

2.前回の「中国にこれだけのカントリーリスク」の読後雑感で脱字がありました。正しくは「10年前のアジア金融不安のとき…」となります。これも読者の方から、指摘を受けました。

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1.「私の西域、君の東トルキスタン」  王力雄著  馬場裕之訳  劉燕子監修  集広舎  1月24日

 3月29日、私は新疆ウイグル自治区のカシュガル市ヤルカンド県のホテルで、この本を開いて読んだ。私は3月22日から大西広教授の引率で「大陸横断鉄道中国西端調査と少数民族との交流の旅」に参加しており、3月28日の夜に一行と別れて、ヤルカンドへ調査に来たのである。今回も事前には、なかなかウイグル族関係の資料を読み込めなかったので、移動中に読もうと思い、とにかくその他の本や資料といっしょにこの本もトランクに詰め込み、持ってきた。ところが今回のツアーは強行軍で、ホテルに着くのが午後11時という事態の連続で、とても資料など読み込む時間がなかった。そのツアーも終わってやっと時間ができたので、午後8時ごろからベッドに寝転がってこの本を読み始めた。いつもなら適当なところで眠りこけてしまうのだが、今回はこの本の迫力に圧倒され続け、眠気も吹っ飛び、読み終わったときはすでに夜明け近くだった。

 昨年夏、大西広教授の引率でチベットに行ったときも、たくさんの本を持っていって、ホテルで読んだ。その中の1冊に「殺劫―チベットの文化大革命」(劉燕子共訳:集広舎)があった。大著であったが、読み始めるとその迫力で頭に地が上り、一気に最後まで読み終わった。そして翌日から、その視点で現地を見渡すことができ、前日までとは明らかに違う印象をもつことができた。不思議なことに、今回のこの1冊も、劉燕子氏の監修で、集広舎の出版であった。私は2度までも、劉氏の労作を現地で読むことができ、現場をその視点で捉え直すことができたことに、心から感謝している。

 第1章の「ムフタルとの出会い」は、著者の王力雄氏が獄中でウイグル人のムフタルと出会うまでを描いており、緊迫感を伴った文章が、私の心を虜にした。第2章の「ムフタルを極秘に訪問」は、王氏の新疆各地方への訪問記録である。この本は大著であるから、忙しい人はこの章を読み飛ばして次章に進んでもよい。この章で紹介されている場所や事象は、私も検証・見聞済みのことが多く、ほぼ間違いはない。第3章の「ムフタルかく語りき」は、王氏のインタビュー記録であり、ムフタル氏の回答が2006年時点のものであることを考えると、その予測の多くが的確に当たっていることに驚く。ぜひじっくり読んでもらいたい。私もここから多くのものを学ぶことができた。第4章の「ムフタルへの手紙」では、王氏の見解が示されている。これも傾聴に値する。以下に、この本から私が学んだものを、列記しておく。なお私の見解は、後日、「ジュンガル部とヤルカンド」(仮題)として報告させていただく予定である。

・毛沢東時代には新疆の地元民族に対する残酷な弾圧をしたとはいえ、マルクス主義のイデオロギーにより、「階級」が「民族」に取ってかわっていたために、民族矛盾はそれほど目立たず、かなりの程度隠蔽されていた。

・中共が一方的な願望だけで、「中華民族」という人工的な民族概念で56の民族を一つに統合し、民族主義の扇動により全中国を共産党の指揮棒の下で一致して外国に対抗させようとしていることを、私はずっと奇異に感じてきた。「中華民族」という概念が他の民族に受け入れられなければ、扇動された民族主義は政府の武器になるどころか、各民族がそれぞれ同じように民族主義を扇動することで自民族を団結させ、自民族の分離独立を追求する根拠になるのだ。

・中国政府がいま宣伝攻勢をかけているのは民族主義だ。古代の大帝国の統一思想と結び付けて、そのような歴史観で民族主義を鼓舞する。これは非常に人種差別を生じやすく、共存不能な状況を作り出しやすい。これも体制の問題だ。中共が存在する限りこの状況を変えるのは難しいだろう。彼らは社会主義の道を放棄したから、いま頼れるのはこれだけだ。自分たちの地位と共産党の存在を守るために、党の名義と民族の名義を一つに結び付けた。この宣伝の結果は第2次大戦中のドイツのナチスのような状況を生み出すだろう。

・経済開発によって新疆を安定させるという考えの基本的な誤りは、民族問題の本質は経済ではなく政治だということである。経済分野での対策で政治問題の解決を図るということはそれ自体が倒錯である。いわんや政治的な弾圧が強化され続ける中で、民族問題がどうして解決できようか? 一歩譲って経済の視点からしても、政治問題が解決しなければ、資金投入と経済開発の規模がどれほど大きくても、効果が見えないばかりか逆効果にさえなる。

・当局が人々の関心を経済に向けさせようとした効果は確かに少しはあったし、私たちもその目的は分かっている。だが、漢族と地元民族の経済発展の速度が違うので、格差はどんどん大きくなって、別の不満が生じている。現在育っている世代の人は失業世代だ。この世代は経済社会で育ち、政治的なものには触れていないが、彼らは就業問題で不公平な処遇を受け、そこに人種差別主義の傾向を見る。それがはっきりと見える。民族ごとに就業機会は異なり、多くの職場が少数民族を取らなくなっている。たとえば、新疆にはいまたくさんの企業があるが、大部分は内地から来た人が開いたもので、彼らは地元の人間を募集しない。彼らは内地もしくは新疆の漢族の中からだけ従業員を募集する。だから新世代の人間は宗教意識は高くなくても、政治や民族の問題を考えないわけにはいかない。

・新疆では文革時代にも民族感情はあった。だが、新疆の文革は内地よりもましだったし、吊し上げも内地より厳しくなかった。地元の80%以上の農民と労働者、それに半分の職員は中立を守って、文革に参加しなかった。だが若い連中は毛沢東を非常に崇拝していたので文革を積極的に行い、吊し上げもしっかりやった。その若者たちがいまの50〜60歳の連中だ。彼らにはあまり宗教心がない。新疆でいま権力を握っているのはこの世代だ。

・(1997年のグルジャの事件の)当初の社会の混乱、車を壊したり、出会った漢人を殴ったりということは、群衆に紛れた私服警官がやったことだ。政府はそうすることで、そういう行為を利用して弾圧することができる。私服警官がそうすることで、情緒が不安定だったり、性格が悪い青年たち、怠け者の役立たず、浮浪者や、それからけんか好きなやつらが、私服警官の行為に乗じたので、混乱したのだ。政府が弾圧してから、平和的手段で問題を解決することに反対する人が暴力を計画し始めた。彼らの攻撃は移民に向けられ、移民の居住地の爆破や移民の暗殺が行われた。

・新疆独立の法理上の根拠の一つは地元民族が「昔からここに住んでいた」ということだが、それであればカザフ人やモンゴル人も100年以上住んでいるのだから、同様にウイグルからの独立を要求できないだろうか。独立のもう一つの根拠―民族自決は、他の民族も要求できる。もしウイグル人が他の民族の自決を認めず、全新疆単位での住民投票を要求すれば、それは新疆独立の自らの根拠を否定することになる。なぜならその理屈で行けば、新疆の独立の可否も全中国単位の住民投票で決めるべきだからだ。したがって法理上は「東トルキスタン」の独立を認めたら、新疆の他の民族と地域の独立要求を阻止する理由はなくなる。

・新疆のカザフ人はウイグル人より弱いが、その背後のカザフスタンはウイグル人が打ち勝つことのできる相手ではない。同様にモンゴル国とその隣の内モンゴルが新疆のモンゴル人を援助するかどうかによっても、複雑な変化をもたらすだろう。もちろん新疆の漢人はなおさらである。

・そのときの新疆にはかつてのボスニア・ヘルツェゴビナと似た状況が出現し、各勢力が互いに民族浄化に乗り出すだろう。目的はまさに最終的に行われる「民主制」のためだ。地域独立に関する対立は、最終的には国際社会の裁定を仰ぐかもしれない。国際社会が判断の根拠とするのは現地住民の投票だ。そこで紛争当事者は、「民主」的にその土地の主権を得るために、国際社会が介入する前にできるだけ多くの土地を押さえ、虐殺・暴力・強姦などによって、占拠した土地の異民族を追い出し、投票に参加するのが自民族だけになるように図る。

・この視点からすると、ウイグル人にとってより有利なのは独立ではなく、中国の枠組みのもとで新疆の高度な自治を実現することであろう。そうすることで、「新疆ウイグル自治区」の法的正当性完璧に保存・利用し、ウイグル族の新疆における主導的地位を保証し、新疆が別の民族によって分割されることを避け、同時に中国を後ろ盾として、外国勢力の新疆への介入を防止することができる。独立は手段であって目的ではない。もし独立しなくても人民の幸福が実現でき、独立には人民が高い代償を払う必要があるのであれば、独立放棄は賢明な選択となる。この点で、ダライ・ラマは格好のモデルだ。

・民衆のエリートに対する追随はときには他に選択肢がないからだが、エリートは人民の旗を掲げて自分の目標を追求する。このような状況下では、漢人エリートが表明する漢族の意志からは漢族庶民が新疆の去就に無関心なことは分からない。ウイグル人エリートが表明するウイグル族の意志も同様に、ウイグル族庶民が主権の帰属を気に留めていないことが分からない。二つの民族のエリート集団の対立と角遂が、世界の目には二つの民族の和解しがたい不和に見えてしまう。

・独立にはよい点もあるが問題もある。新疆が独立できた暁には、お祭り騒ぎが終わったらすぐに毎日の生活物資などの非常に具体的な問題のすべてを自分たちで解決しなければならなくなる。だから、中国との統一を維持することは決して我慢して折り合うのではない。むしろ少数民族自身の安全と生活にとって有益である。

・民族問題に関しては新疆は孤立しておらず、チベット、内モンゴル、広西、寧夏、さらには雲南、貴州など少数民族の多い省を盟友とすることができる。そのような連盟はキャスティングボートを握ることができる。

・量の変化が質の変化に転化するほかの事物と同様、民族問題にも臨界点が存在する。臨界点に達する前は挽回の余地があるが、一旦臨界点を過ぎたら、パレスチナとイスラエルのように出口のない、またいつ終わるかも分からない民族戦争に突入する。私は新疆が臨界点からどれだけ離れているかを正確には評価できないが、いまの政権の路線がどんどん臨界点に近づくことは疑うべくもない。

・今のアラブ諸国には、一つも民主国家はなく、実際は一種の氏族統治だ。イスラムは改革が必要だ。

2.「モノ言う中国人」  西本紫乃著  集英社新書  2月22日
  帯の言葉 : 「尖閣 反日デモ ノーベル平和賞 人々のモノ言う姿勢が中国を大きく変えている」 

 この本は中国のネチズンに関する深い分析を行っており、読むに値する。若い西本氏がこのように比較的冷静な 文章が書けるのは、おそらく中国系の一般企業に勤務した経歴があるからであろう。

 西本氏は文中で「話語権」という新語を紹介し、「“言論の自由”を要求することは、知識人たちによる政権批判も含めて、何を言おうが何を書こうが公権力によってじゃまされないことを求めるものだが、“話語権”はある話題や問題についてこれまで蚊帳の外に置かれていた人たちも議論に参加し、意見の形成や意思決定に向けて自分の意見を言う権利のことを指している」と書き、「ひらたく言えば“話語権”とは公的な場における“モノ申す権利”とでもいったところだろうか」と記している。そして「中国は今、(話語権を持った大衆)、つまり“モノ言う”大衆が世間のさまざまな議論に参加し、民主的にものごとを決めていける社会に変化していく、まさに過渡期にさしかかっている。その鍵となるのがおそらくインターネットなのだ」と結論付けている。

 さらに西本氏は、「海外の人々、とりわけ欧米の研究者やジャーナリストは、中国のインターネット規制ついて“言論の自由”が侵害されていると真正面から批判的なトーンで論じるが、そうした人たちの意識と中国の実際に規制されている人たち人たちとの感情とは、正直なところかなりの温度差がある。インターネットを積極的に利用している中国の若いネットユーザーたちの大多数は、規制に対して本気で怒りを覚えているとはいえない。あきれている。あきらめている。もしくは黙って規制の抜け穴を探す、ユーザーたちの規制に対する姿勢はそんなものだ」と書いている。

 政府のネット対策として、「党や政府による中国のインターネット規制について、地下の党組織、通称“五毛党”というサクラ党員が存在することはすでに日本でも知られている」、「(彼らは)全国各地で党組織によって正式に採用・登録され、一ユーザーとしてせっせと世論を“正しい”方向に導くためにコメントを書き込み、その書き込み1件に対して5角(=5毛)の報酬を受けている」とも書いている。

 インターネットが情報の流れを変えたとして、「インターネット発の世論を既存のマスメディアもくみとって、さらにそれを記事にするという、情報の循環がおこなわれるようになってきている。インターネットの普及により、本来、裏の情報であった口コミや大衆の感情が、形になって表の情報の世界に出てくるようになったのである」と書いている。その上で西本氏は、これらのネットユーザーの多くが80后や90后で、ネットの匿名性の結果、「恣意的で娯楽的な感覚が存在するのも事実だ」、また「より多くの大衆が何かのイベントに参加するような軽い気持ちで参集することを容易にし、短期間で抗議行動が大規模に膨れ上がる可能性を高くしている。問題となっていることに直接かかわりや関心がなくても、興味本位で簡単に騒ぎに参加できるようになっているのだ」と書き、その危険性にも言及している。

 残念ながら本文中には幾多の事実誤認がある。それは西本氏もまたネットの申し子であり、自分の書いたすべての事象についてネット情報のみに頼り、自ら現場確認をしていないからである。それは途方もない労力を必要とすることだが、若い西本氏には今後、つねにネット情報に疑いを持ち、「実事求是」に徹してもらいたいものである。たしかにインターネットは中国の民主化を進めるかもしれない。しかし大衆は衆愚であり、インターネットの匿名性は無責任民主主義に行き着く。たとえば今回の日本の大地震に際して、中国では一般大衆が食塩の買いだめに走り、その結果、食塩関係の会社の株を持っていた投機家たちが大儲けした。どうも投機家たちがネットで煽ったもののようである。これなどはインターネットの匿名の発信が衆愚を踊らせ、一部の人間に巨額の利益をもたらした好例である。このインターネットの匿名性が政治的に悪用され、衆愚を巻き込んだ場合は天下の一大事となる。西本氏には、ぜひ次回作で、このインターネットの弱点の克服策を提言してもらいたいものである。

3.「中国のマスゴミ」  福島香織著  扶桑社  3月1日
  副題 : 「ジャーナリズムの挫折と目覚め」

 この本も上掲著と同じく、中国のマスメディアやネットの分析を行ったものであり、面白い本である。西本氏の上掲著と奇しくも同時期に出版された。私は西本氏の本を読んだあとで、福島氏のこの本を読み始めたのだが、福島氏の論調には素直に同調できない何かを感じた。

 あとがきまで読み終えて、やっと私の抱いた違和感の原因がわかった。この本には福島氏のジャーナリスト意識が前面に出過ぎており、それが私の鼻について読みづらかったのである。福島氏は、「この本で伝えたかったのは、記者がジャーナリズムを貫けない現場がどのようなものなのか、そんな現場でもジャーナリズムを貫こうとする記者たちとはどういう人たちか、だ。そして記者が強い圧力にも負けずに記者魂を貫こうとするのは、やはり読者や社会が期待や信頼を寄せてくれていると思える強い自負である、ということ」と書き、「それは体制や政治がまったく違う日本でも、共通する部分がある」と、自らの記者魂=ジャーナリスト意識を披露している。

 私は、「大衆は衆愚であり、その衆愚におもねるジャーナリストは偽善者である。その偽善者の仮面を剥ぐのが、私の役目である」と考えている。私は、読者や社会などという漠然としたものにおもねること自体が間違いであると思っているし、いわば衆愚とも呼べるそれらの危険性を認識することなくして、真のジャーナリズムは成立しないと思っている。西本氏はわずかでもそれを認識しているが、福島氏はそれをまったく意識していない。

 福島氏は、中国の新聞記者たちが腐敗し堕落していることや、「新聞民工」という言葉まであるようにその待遇が劣悪であることを、本文中で詳しく紹介している。そして日本の記者を彼らと比較して、その環境が恵まれているのだから、「きりきり取材して情報発信してほしい」と檄を飛ばしている。その反面、自分については、「私も特オチしたし、ひよったし、妥協したし、取材を断念したし、バッシングされたし、怠慢と言われることもあったし、偉そうに人に言える立場ではない。私にいろいろ仕込んでくださり、指導してくださった先輩諸氏には申し訳ないが、君にジャーナリズムはあるか、と問われれば、いまだに“はい!”という声が喉元でつまる時がある。そういう時は大人しくマスゴミと罵られることにしている。むしろ自分はゴミだと、罵られたい日もあるのだ」と書いている。私はこの文章を読んで、福島氏の心底には被害者意識が鬱積しているのではないかと思った。またこの文脈は、本人は無意識だろうが、巧妙な逃げ道になっている。

 私は15年ほど前、ある事件に遭遇し、ジャーナリズムの横暴を体験した。一般新聞や政党、日中友好団体の機関誌の記者たちが、私には全く取材をしないで、相手の言い分だけを聞いて、いっせいに私を紙面で叩いた。その結果、私は悪徳資本家として裁判にまで引っ張り出された。岐阜駅前で大量に個人攻撃ビラを撒かれ、私の会社の周辺を宣伝カーが、大音量で私を口汚く攻撃しながら何度も周回した。私は歯を食いしばってそれらを耐え抜き、1年余の裁判を闘い、全面的に勝利した。相手は途中で裁判を放棄し、どこかに逃げてしまった。しかし私を攻撃したジャーナリストたちは、私に一片の謝罪もしなかった。それ以来、私はジャーナリストという人種一般を信用していない。

 福島氏は、「権力と対峙するのがジャーナリズムの本質」と書いているが、もちろんその役割はたいへん重要である。しかしジャーナリストが、ペンで無実の人間を奈落の底に突き落としていることも忘れてはならない。もし福島氏らのジャーナリストが社会の木鐸ならんとして、権力への批判を実行しようとしているならば、あえて私はそれらのジャーナリストの偽善者としての姿を白日のもとにさらしたいと考えている。ジャーナリストが権力の監視役であるならば、そのジャーナリストの監視役もまた必要であると考えるからである。

 幸いにして福島氏は今、フリージャーナリストであるという。この際、ぜひ福島氏には、起業して経営者となり、金を儲けて資本家となり、いわば加害者の立場に立ってもらいたい。売文で生計を立てるのではなく、身銭を切って取材し、それを無料で発信するようになれば、被害者意識から脱却でき、福島氏の前に新たな人生が開けると思う。真のジャーナリストは、権力からも金銭からも解放されていなければならない。

4.「グワンシ」  デイヴィッド・ツェ、古田茂美著  鈴木あかね訳  ムーブ  3月15日
  副題 : 「中国人との関係のつくりかた」
  帯の言葉 : 「中国人社会理解の鍵にして、中国ビジネス成功の鍵、グワンシ」

 この思い切った題名をつけるまでには、著者も編集者も、かなり悩んだに違いない。書店で、この本が中国関係の書物の棚に並んでいても、手に取ってみようとする人は、多少とも中国に関心のある人であろう。普通の人はこの題名を見ても、何を書いている本なのか、まるで見当がつかないと思う。編集者たちは、素人を相手にせず、玄人つまり中国関係者のみに的を絞ったのだろうか、あるいは単純に奇をてらっただけなのだろうか。なお、「グワンシ」とは、「関係」を中国語の発音で表記したものである。

 古田氏はこの本で中国人の行動原理は二つであり、一つは「孫子の兵法」、もう一つは「グワンシ」であると書いている。そして温州商人の成功の秘密は、「第1に、徹底した顧客中心主義、すなわち顧客とのグワンシ、第2に、従業員とのグワンシ、最後にオーナー自身の利益を持ってくる」ことだと書いている。さらに現在の日系企業のスト騒動について、「日本企業に真っ先に必要なのは、従業員との対話。対従業員のグワンシ」とも書いている。なお本文中では、「グワンシ」についての歴史的分析、中日欧米の国際比較などが詳細に検討されており、中国ビジネス成功の秘訣は「グワンシ」の理解とその応用にあると、古田氏は主張している。

 私は、古田氏が主張する「グワンシ」というものは、戦術の一種であると思う。一般にビジネスは、戦略と戦術の相互作用でその成否が決まると考えられている。つまり成否は、「@戦略が正しくて、戦術に長じていれば、そのビジネスは必ず成功する。A戦略が正しければ、戦術が少々下手でも失敗は免れることができる。B戦略が間違っていても、戦術が素晴らしければ、成功することがある。C戦略が間違っており、戦術も下手くそであれば、必ず失敗する」という4類型に分けて考えることができるのである。古田氏は、日中ビジネス成功の鍵は、「グワンシ」にあると力説しているが、それはBに該当すると考えることができる。

 私は1990年初頭に中国に進出したのだが、そのときは「グワンシ」の「グ」の字も意識していなかった。それでも5年間で1万人規模の工場を無借金で作り上げることができた。私は、これは@かAに該当したのだと思っている。もちろん私は戦略を考え抜いて中国へ進出したわけではない。私の盲進が、偶然に正しい戦略に合致していたというだけの話である。政府に対しても「グ」を試みたことはあまりなかったが、中国中央政府から表彰を受け、永住権を付与されるまでになった。従業員との対話など、意識的に「グ」を行おうなどと考えたこともなかったが、ストライキなどは皆無であった。

5.「明日への扉 日中新時代へ」  青木麗子著  海鳥社  1月24日
  帯の言葉 : 「主張する中国といかに向き合うのか
            建設的な衝突と摩擦を恐れることなく、お互いに主張するべきことは主張し、譲るべきは譲る。            日中新時代への道」

 この本は青木麗子氏の自己PR本である。表紙には美人の青木氏が大きく掲げられ、本書の冒頭には胡錦濤主席を始めとして、青木氏が通訳として立ち会った中国要人の写真がズラリと並べられている。本当に日中新時代を語ろうとするならば、このような自己顕示は不要である。この本は悪書ではないが、買ってまで読む必要はない。青木氏自身も、「この本は、私が約4年の歳月をかけて書き込んできたブログを纏めたものです」と書いているから、関心のある人は青木氏のブログを読めば、それで十分だと思う。

 青木氏は副題(あとがき)で、「建設的な衝突と摩擦を恐れることなく、お互いに主張するべきことは主張し、譲るべきは譲る。日中新時代への道」と書いているが、本文中にはほとんど主張らしいものは見当たらない。中国の反日デモ、尖閣諸島問題、チベット・ウイグルなど少数民族問題などへの言及はまったくない。かろうじて毒入り餃子事件への若干のコメントがあるだけである。この程度の内容で、「明日への扉 日中新時代へ」と題名を付け、「主張する中国といかに向き合うのか。主張するべきところは主張し、譲るべきは譲る」などと大見出しをつけることは詐欺まがいの行為に等しいと考える。この本には、「私の中国体験」というぐらいの題名がぴったりである。

 また本文中に書き込まれている経験談も上滑りのものが多い。たとえば戦前、ハルピンに数多くのユダヤ人が難を逃れたと書きながら、黒竜江省のすぐ北にあるロシアのユダヤ自治州との関係については触れていない。西安まで足を運びながら、すぐ近くの中国革命の聖地延安には行っていない。せっかくハノイまで行きながら、ディエンビエンフーや中越戦争の跡地にも行っていない。真剣にこれらの地を見て回らない限り、中国を正しく理解することはできないと私は思っている。また青木氏は安徽省の和県について、「実はすごい所だった」とか、「心豊かな所」と書き、そこに進出したクボタという会社の成功談を記しているが、和県がクボタ社にとって最善であったという証拠を示していない。私は和県というところを見たことがないので、軽率な判断はできないが、そんなに「すごい所」ではなく、「クボタ社がすごい」ことに成功の主因があったのではないかと思う。できれば近いうちに和県に行き、クボタ社を訪問してみようと思っている。

 なお、青木氏は日中間のビジネスコンサルティング業務に携わっているようだが、前回の読後雑感で取り上げた華鐘コンサルタントの古林氏とは雲泥の差がある。青木氏が日中間のビジネスコンサルティングを行っている以上、失敗談はつきものであるし、最近は進出企業のスト騒動や撤退が大きな課題となっており、それに向き合っていないはずがない。青木氏自身も本文中で、「日本から中国に進出した企業は約3万5千社にのぼり、今も増え続けていますが、失敗している企業も少なくありません。…私の携わってきたこれまでの経験の中でも、非常に安易な進出が多く見られます」と書いている。古林氏は前掲著で幾多の思考錯誤や失敗談を率直に語っている。青木氏がブログや次回作で、失敗談や思考錯誤の過程を積極的に公開してくれることを切に望むものである。