小島正憲の凝視中国

ダッカ・ヤンゴン近況


ダッカ・ヤンゴン近況
12.FEB.10
2月初旬、私は縫製工場調査のためにダッカ(17年ぶり)とヤンゴン(10年ぶり)を訪ねた。

またダッカでは大学設立準備協議を行った。


1.ダッカ

@ダッカには華僑や中国人は少なかった。

 私はバングラデシュにも、きっと中国人があふれ出しているにちがいないと思っていた。だからダッカでは華僑の
縫製工場を見てみようと考え、その旨を事前にバングラデシュの知人:モンターズ・ブイヤン氏に伝えた。ところがブ
イヤン氏から「華僑の工場はまったくない」という返事がきた。工場がなければ仕方がないので、それをあきらめて
今度は、「チャイナタウンに案内して欲しい」と連絡したら、これまた「ダッカにはチャイナタウンはない」という素っ気
ない答えが返ってきた。その答えに驚きながら、最後の手段として、「美味しい中華料理が食べられるレストランへ
連れて行って欲しい」と頼んでみると、やっと「紹介できるクラスの店が1軒あるので予約しておく」との連絡が入っ
た。中華料理を食べてみて、それが美味しいのであれば、きっと舌の肥えた中国人がダッカにたくさん居るにちが
いないと思ったからである。

 ダッカ市内は交通渋滞がすさまじく、わずか8km進むのに2時間ほどかかり、閉口した。そのおかげで車中から市
内を観察する時間はたっぷりあった。じっくり見てみたが、たしかに中国人の姿はあまり見かけなかった。車中でブ
イヤン氏に、「なぜ華僑の工場がないのか。なぜ中国人が少ないのか」と問いかけてみると、「華僑はわれわれに
は勝てず、ほとんどが逃げ帰ったのだ」という。それを聞いて私は、さしもの華僑も印僑のお膝元では歩が悪かった
のだろうと考えた。

 渋滞中の時間つぶしに車中でバングラデシュの地図を広げ、なにげなく見ているうちに、意外なことに気が付い
た。ミャンマーの隣はバングラデシュではなかったのである。私はミャンマーの旧首都ヤンゴンで、足掛け3年働い
ていたが、そのとき以来ずっと、ミャンマーの隣はバングラデシュだと思い込んでいた。ところが実際にはミャンマー
の隣はインドだったのである。地図を見ていただければわかると思うが、バングラデシュはインドにほぼ包囲されて
いるのである。わずかに残されたミャンマー国境には高い山があり、ここからミャンマー華僑や中国人が進出するこ
とは難しい。もちろん中国とバングラデシュとは国境を接しておらず、ネパールともその中間にインドがわずかな回
廊を作って邪魔をしており、ここからも中国人が大量になだれ込むことは困難である。地図を見ながら私は、バング
ラデシュのこの地勢もまた、華僑や中国人の進出を妨げていたのであろうと考えた。

A私とダッカの因縁。

 17年前、私は当時16歳の次男を、ダッカに1年間遊学させた。私は自分自身を気が弱く、世界を股に駆けて活
動するような器ではないと自覚していたので、子供たちにはこの父親の弱い性格を絶対に乗り越えさせたいと考え
ていた。だから教育方針として、中学卒業時点で、一度、開発途上国などに遊学させ、そこで逆境に打ち勝てる強
い精神力を持たせたいと考えていた。長男はエジプトの一般家庭へ、長女はスペインの田舎町の修道院へ行かせ
た。

 運よくダッカで、日本人女性を妻に持つバングラデシュ人のモンターズ・ブイヤン氏と出会うことができ、彼に次男
を預かってもらうことにした。ブイヤン氏は快く引き受けてくれたが、私は「たとえこの子がダッカで死んでも、私も妻
も文句は言いません。すべてをお任せします」という念書を差し入れた。今でもこの本文がブイヤン氏の手元に、コ
ピーが私のところに残っている。ブイヤン氏は次男を1か月間、自宅に置いたが、一向にやる気を出さずのんびりし
ている次男に業を煮やし、まったく日本語を話せない友人宅に次男を放り出した。このブイヤン氏の英断のおかげ
で次男は少し変わっていった。

 1年が経過し、帰国直前になって、ブイヤン氏から「あなたの息子が病気になって入院したが、バングラでは普通
の病気だから心配しないでください」との連絡が入った。そこには英文名で病名が書いてあったが、私も妻もあまり
気に留めず、ブイヤン氏にすべてを任せていた。次男は1か月ほどして退院し、その後、日本に無事帰国した。とこ
ろが帰国後次男は、高校へ通い始め1週間ほど経ったとき、突然40度ほどの高熱を出して寝込んでしまった。慌
てて病院へ運んだが、医師は風邪という診断を下した。その後、平熱に戻ったがしばらくしてまた高熱を出す、この
繰り返しが続いた。私と妻は、これは風邪ではなく、ひょっとしたらダッカでの病気が完治しておらず、再発したので
はないと思った。そこで英和辞書で病名を訳してみたら、そこには腸チフスと書いてあった。私と妻はびっくり仰天し
た。腸チフスは日本では絶滅した病気だが、それでもまだ法定伝染病である。すぐに病院に担ぎ込み、いぶかる医
師に、「絶対に腸チフスだから隔離して欲しい」と頼み込んで、赤十字病院へ入院させた。1週間後、検査結果が出
て、やはり腸チフスだと判明した。次男はそれからまた1か月入院した。絶えて久しい法定伝染病であったため、新
聞報道や保険所の一斉消毒などもあり、高校や地域の皆さんには、本当にご迷惑をお掛けした。

 今回、ダッカでの縫製工場視察はこの次男が準備した。ブイヤン氏の自宅で奥さんともお会いし、このときの病気
の話が笑い話として出た。そのとき次男がしみじみと、「あのときは父を恨んだ。しかし今は腸チフスをぼくの勲章だ
と思っている」と語った。私はこの言葉を聞き、心の中で手を合わせた。

B縫製工場調査。

 17年前、次男が帰国する直前に私は、ダッカに行った。そこで私はダッカで縫製工場を見せてもらい、ブイヤン
氏からその工場での共同経営を誘われた。しかしそこがあまりにもお粗末な工場だったので、上手に断った。その
ときの印象があまりにも悪かったので、それ以来、私の頭の中には、進出先としてバングラデシュという選択肢はま
ったく消えてしまった。その後、私はミャンマーをチャイナプラスワンとして選んだ。そして見事に失敗した。あのとき
ミャンマーではなくて、バングラデシュに進出していれば、おそらく中国での成功の再現が可能だったであろう。ここ
でも私はせっかく強い人脈を持ちながら、絶好のビジネスチャンスを逃がしたのである。つくづく自分には商才がな
いと思う。

 今回再び、私は17年前のおんぼろ工場を訪ねた。それは見違えるように変身し、世界一素晴らしい工場になっ
ていた。まずその建物の1階には、清潔感にあふれた医務室があった。次の部屋には託児所が備えられており、
乳幼児が楽しそうに飛び跳ねていた。2階の工場内に入って、私はその清潔さに驚いた。土足にもかかわらず、床
がぴかぴかに磨かれ、ごみ一つ落ちていなかったからである。また床にはしっかりラインが引いてあって、避難誘導
路が確保してあった。さらに製造ラインを見て、私は思わず目を見張った。ミシンには全台、安全装置がついていた
からである。中国の多くの工場でも、これを取り付けると作業性が落ちるので、ほとんど付けていない。また裁断工
程では、裁断士が全員、左手に鉄鎖の安全手袋をはめていた。これも他の国の工場では省いている場合が多い。
さらに各階ごとに、救急医薬品箱、消防設備などが完備されていた。もちろん案内してくれた工場長の話では、児童
労働などはなく、労働条件面も完全にクリヤーしているという。私はこのように完璧にコンプライアンスをクリヤーし
ている工場を、40年の縫製工場経営人生の中で、初めて見た。

 最後に倉庫に行って、そこでも驚いた。資材にはすべてカバーがかけられていたからである。埃と日焼け防止だと
いう。このように資材を大事にしている工場も、私は初めてみた。なおその倉庫は保税倉庫であるというので、工場
長に「税関の検査はあるのか」と聞くと、「ありません。輸入資材と輸出数量が一致していればOKです」という。この
保税制度は工場には極めて有利であると思った。

 縫製ラインの中では、多くの若いイスラム女性がきびきびと働いていた。ほとんどの女性ワーカーが一心不乱に
働いており、私の今までのイスラム諸国での経験とはかなり違うので、びっくりして工場長に、「この女性たちの給与
は、ピースペイ(個人出来高制)ですか」と聞いてみた。すると工場長は、「いいえ、全員一律の月給制です。ただし
班ごとに目標が設定してあって、達成すれば班員全員にボーナスが出ます」と答えてくれた。私はそれを聞いてあら
ためてその制度に感心した。なお彼女たちの月給は40〜80USドルだという。

 ラインを見回っていて、この工場に外国人技術者がまったくいないことに気が付いた。今まで世界各地のどこの工
場でも、韓国人や香港人、日本人などの外国人技術者が必ずいたからである。この点について工場長に、「技術指
導者は全員、バングラデシュ人ですか」と聞いてみると、「そうです。外国人はいません」と明快な答えが返ってき
た。製品の出来栄えはよく、外国人技術者がいなくても、自前の技術者だけで立派にこの工場は回っていた。

 そのうちすべてのミシンに小さな黄色い札が付いていることに気が付いたので、よく見てみるとミシンのメンテナン
スカードのようであった。そこには毎日、朝昼晩の3回、ミシンの保全状況が書き込めるようになっていた。念のた
め工場長に、「これはミシンのメンテナンスカードですか」と聞いてみると、「そうです。このフロアーには4人の保全
工がいて、いつもミシンをべストの状態に保っています」という答えが返ってきた。どこの工場でもこの保全体制を作
り上げるのはなかなか難しい。私の経験では、保全工はどうしてもミシンが壊れてからそれを直すのが仕事だと思
っているので、常にミシンを見て回り、それをベストの状態に持っていくのが保全の仕事だと教えても、どの工場でも
その習慣はなかなか定着しなかった。私はこの管理体制に舌を巻いた。

 
    日本向け製品のカートンケース

 ラインを回り終わって、事務所で経営者と話した。この工場で、現在縫製している製品は、1スタイルで受注数量
は160万着であり、世界26か国に輸出されるという。彼は笑顔で、「引き続き受注が多いので、5000人規模の工
場を年内に作る予定である」と言い、完成予想図を見せてくれた。「ワーカーはその工場の周辺から、湧き出るよう
に、どれだけでも歩いて通勤してくる。寮も送迎バスも不要であり、人手についてはまったく心配がない」と、彼は自
信満々で語ってくれた。その姿は20年前の中国の経営者の姿を彷彿とさせるものだった。

 彼の話によれば、現在、バングラデシュにはダッカとチッタゴンを中心にして、約5000の縫製工場が集中してい
るという。200人規模のものから1万人を超すものがあるが、5000人規模のものが主体であり、縫製産業に従事
している労働者は400万人を優に超えるという。

 その後、ダッカで3社の工場視察を行ったが、どこの経営者も鼻息が荒く、やる気満々だった。またどこも月給制
で、外国人技術者は一人もいなかった。

Cバングラデシュ縫製業崩壊説は崩壊。

 2001年末、中国はWTO加盟を表明した。それに伴い、それまでアメリカが中国に課していたクォーター制度が、
遅くとも2008年末までに撤廃されることになった。当時、1枚のブラウスの加工賃が1USドルで、クォーターが1US
ドルというような状態であったから、そのクォーターがなくなれば、中国の一人勝ちになり世界の縫製業は壊滅する
と、ほとんどの人が予測した。まだ貧弱だったバングラデシュの縫製業などは、たちまち崩壊するであろうと思われ
た。私もそのように考えた。ところが10年後、予測とはまったく逆となり、中国の縫製業が崩壊し、バングラデシュ縫
製業が隆盛を極める結果となった。大方の予測は大外れとなったのである。

 それはなぜなのか。その理由の一つは、中国自身の想像を絶する急激な変化である。これほどまでに人手不足
が進行し、人件費がアップしてくるとはだれも予測していなかった。また中国政府が新労働契約法を施行し、企業に
労使対決型の労働思想を持ち込むとはだれも想像していなかった。これらの諸要因によって、中国の労働集約型
産業の代表格である縫製業は見事に崩壊したのである。

 私はかつてチャイナプラスワンを否定し、中小企業にとっては中国で生き残ることの方が得策であると主張した。
それは誤りであった。残念ながら私には中国が、このように急激に変化するとは予測できなかった。ことに企業内
において、労使協調型を推し進めていた中国政府が、08年の北京五輪を境目に、政策を労使対決型に転換した
のは全く想定外だった。これにより、中国の最大の利点が失われ、「中国は世界の工場」から滑り落ちることになっ
たのである。

DTSS(トヨタ生産方式)の終焉。

 バングラデシュ縫製業が中国に勝ったのは、バングラの企業がトヨタ生産方式を取らなかったからである。
 トヨタ生産方式とは、市場の動向に合わせて、ジャストインタイムで多品種少量生産を効率よく行い、ムダ・ムリ・
ムラを省き利益を生み出す生産方式である。このトヨタ生産方式を縫製業界に取り入れたものがTSS(トヨタ・ソーイ
ング・システム)である。日本では一時期、このシステムが全盛となり、多くの工場が立ちミシンを採用し、これに改
善運動をからませて多品種少量生産を芸術水準にまで高めた。それで縫製業界も結構儲かった。

 その後、中国への工場移転が進み、人海戦術によって多品種少量をこなすことができるようになり、縫製業界で
は、この生産方式が次第に忘れ去られていった。しかしながら市場に合わせた多品種少量生産という思想だけは、
トヨタ全盛の影響もあり、すべての企業家の脳裏に焼きついてしまっていた。また企業家がその思想を引きずって
いても、しばらくの間は儲けることができた。

 しかしながらこの思想が、ほとんどの企業家に新時代への対応を誤らせたのである。10年ほど前から、時代の
潮流は超大量生産による超コストダウンに向かっていたのである。そのことを見抜いていたのは、日本のアパレル
ではユニクロだけであった。他のすべての繊維関連業者は多品種少量生産のトヨタ生産方式的思想では、超コスト
ダウンは不可能だということに、気が付くことができなかったのである。100着前後のものを効率よく生産していて
も、100万着を生産する場合のコストダウン効果には絶対に勝てないという自明の理がわからなかったのである。

 そのとき世界の巨大アパレルは超デフレ社会の到来を視野に入れ、世界市場販売を目指し、そのための生産適
地を選定していたのである。その結果、多くの巨大アパレルがいっせいに目をつけた国がバングラデシュだったと
いうことであり、その結果としてバングラデシュに巨大縫製工場が林立することになったのである。そして金融危機
とともに新たなデフレ時代となり、超コストダウンに成功したところだけが勝ち残った。つまり日本では大量生産のユ
ニクロ一人勝ちになったのである。ジャストインタイムの多品種少量生産のトヨタ生産方式思想が負けたのである。

 おりしも日本が誇る世界企業:トヨタでは、金融危機以来の赤字の上に、リコールが重なり、その神話が崩れ始め
た。これからトヨタの新たな挑戦が始まり、おそらく戦略転換が行われるだろう。そしてとトヨタ生産方式思想の見直
しも進められるだろう。

Eゆるやかな戒律のイスラム教国。

 私はイスラム教国、ヨルダンでの工場経営の経験があり、そのとき女性ワーカーのスカーフを止めさせたいと思っ
ていたが、結局できなかった。なぜならあのスカーフがミシンのモーターなどに巻き込まれる可能性があり、たいへ
ん危険だからである。ところがバングラの工場の女性ワーカーは、すでに工場内でスカーフを三角巾に変えて働い
ており、その心配はなかった。また経営者に「お祈りはどうなっていますか」と聞くと、「個人の自由に任せてあるが、
ほとんどしないようだ」との答えが返ってきた。続けて経営者は「同じイスラム教国でもパキスタンは戒律が厳しく、
女性が働きに出ること自体が少ない。だからパキスタンには縫製工場が育たなかった」と話してくれた。これらのこ
とからバングラのイスラム教の戒律は緩やかであり、それが女性の社会進出を後押ししているのだと思った。

 
         縫製工場内

 夕方、その縫製工場の経営者から、クラブに誘われた。そこではビール、ウイスキーなどのアルコールも振舞わ
れ、イスラム教徒の彼らも結構飲んでいた。私はその雰囲気を見て、このような緩やかな戒律の国でならば、仏教
徒もキリスト教徒も、イスラム教を信じる人たちと仲良くなることが、意外に簡単にできるのではないかと思った。

Fバングラデシュ平和大学(仮称)構想。

 昨年10月、ブイヤン氏が日本にやって来た。そのとき彼は、私にバングラデシュ平和大学(仮称)創設の相談を
持ちかけてきた。突然のことだったので、私は彼の真意を測りかねた。そこで今回のバングラ訪問で、ブイヤン氏
の構想をしっかり聞き、創設予定地など見てみたいと思った。

 ブイヤン氏は1945年生まれの65歳。1968年にバングラデシュから日本の大阪大学に留学、1973年には東
京大学に入り船舶工学をマスター、そして美しく明るい日本人女性と結婚した。その後、バングラに帰国し、バング
ラ工科大学の助教授を務め、さらに事業を行いながら、日本とバングラデシュの友好交流に大きく貢献。その努力
が実り、2008年には日本政府から内閣府賞である“旭日雙光賞”を受与された。そのブイヤン氏が現役生活に一
区切りをつけ、バングラデシュと世界および日本のためにお役に立とうと決意し、バングラ平和大学創設を思い立
ったのである。

 ブイヤン氏はバングラデシュに世界水準の大学を創設することを目指すという。なぜなら現在、バングラデシュに
は優秀な大学がなく、青年たちはほとんど国外へ出てしまい戻らない。したがって優秀な頭脳が国づくりに参与して
おらず、このままではいつまでもバングラは世界の最貧国から抜け出すことができない。だから世界水準の大学を
作り、バングラデシュ国内で青年を育て、産業を育成し、彼らを国の発展に寄与させたいというのである。

 ブイヤン氏は、その大学で最新の学問や技術、自国を愛する心、道徳心、自然環境を保護する思想、貧困を撲
滅する思想、多国籍・異宗教・異文化の共生、先進国と開発途上国の共生、平等思想などを教えたいと私に熱っぽ
く話した。彼はまたその大学は、コスタリカの平和大学を範にすると言い、私に同意を求めた。残念ながら私はコス
タリカ平和大学についての知識がまったくなかったので、「できるだけ早い機会にコスタリカに行き、その大学を見て
みたい」と答えた。

 さらに彼はその大学に付属高校を作り、日本をはじめとする世界各国から短期の留学生を受け入れたい。この
構想については、小島さんの息子が先駆例としてあるので、自信を持って勧めることができるという。たしかに私
も、日本の若者をバングラに受け入れ教育することには、大きな効果があると考える。まずバングラは世界最貧国
の一つであるから飽食の日本で育った若者には、バングラを見るだけで大きなカルチャーショックとなり、人生を再
考させるチャンスとなる。またバングラは英語を話す人が多く、それを学ぶには最適な場所であり、同時に白人主
体の国ではないので余計なコンプレックスを持たなくて済み、しかも生活費が安い。また緩やかなイスラム教に接
し、それを理解する絶好の機会でもある。私はこのブイヤン氏の付属高校構想には大賛成であり、その旨をはっき
り表明した。

 ブイヤン氏はバングラデシュ平和大学の創設を、私費と寄付でまかないたいとその決意を私に示した。さらに彼
は、バングラデシュは今、ちょうど日本の「坂の上の雲」の時代を迎えているのだという。私は彼の熱情に応えて、こ
の構想に物心両面で積極的に協力することにした。

2.ヤンゴン

@私とヤンゴン。

 1997年、私は香港返還時の中国での内乱を想定し、代替生産基地としてミャンマーの旧首都ヤンゴンに進出を
決めた。当時、本格的にミャンマーに進出し工場を稼動させていた日本企業はなく、小島衣料が進出第1号であっ
た。しかし勢い込んで工場を稼動させたものの、幾多の壁にぶち当たり、600人規模にまで拡大したが、結局、失
敗に終わった。現在の時点で、冷静になって考えてみると、失敗の原因はよくわかるし、あっさり止めてしまわない
で、生き残る道はあったと思う。私のすぐ後でミャンマーに進出してきた日系縫製企業が、今でも継続し稼動してお
り、しかもしっかりと儲けているところを見ると、やはり私の撤退は早計であったと思う。この粘りの無さが私の欠点
でもある。

 

 今回、10年ぶりにヤンゴンを訪ねたところ、昔の私の工場の幹部たちが集まってきてくれた。ともに夕食を囲みな
がら、彼らと昔話に花を咲かせた。彼らの話によれば私が育てたメンバーが、今では多くの工場で幹部になってい
るという。ことに私の旧工場では、当時、生産主任であった女性が、現在はマネージャーになりがんばっているとい
う。翌日、私はかつての私の工場の前まで行き、記念撮影をした。10年前、私はそこで、はるさめの製造を行って
いた工場を借り受け、自分の手で全面的に改装し、縫製工場に作り変えた。そのように手塩にかけて作った工場
も、今では他人の手に渡ってしまっている。私は当時のことを思い出し、思わず涙が出そうになるのをぐっとこらえ
た。

A生き残った日系縫製工場。

 私がヤンゴンで工場を稼動させていたときは、欧米系や韓国系、華僑系など大型縫製企業が結構たくさんあっ
た。ところが、2003年に米国が人権問題を楯に、ミャンマーの経済封鎖に踏み切ったため、ぱったりと受注がとだ
え、それらの企業はほとんど撤退してしまったという。それでも日本向け輸出だけは好調で、ミャンマーには日系企
業のみが存命することになったようである。ここミャンマーでは、さしもの華僑も旗色が悪いようであった。

 したがってヤンゴンには空き工場が多く、今回、それらの物件を数件見ることができた。10年前、私は工場探し
にたいへん苦労した経験があるので、工業団地の中などで優良物件を安価で紹介され、時代の流れを実感した。
中にはかつての私の工場のすぐ近くのものもあった。しかしながらワーカーについては10年前同様、ほとんどの工
場が通勤バスで送迎しなければならないという状況であった。

 経営環境は私がいたころよりも、むしろ悪くなっているようだった。たとえば電力は1日に1〜2時間ほどしか供給
されず、企業では発電機をフル稼働させなければならないような状態が続いており、改善される見通しはないとい
う。私が工場を稼動させていたときは半日ぐらいは電気が来ていたような覚えである。しかも燃料が高騰しているの
で、油を節約するために、ほとんどの工場がボイラーは薪を焚く方式に換えていた。

 さらに驚いたことには、ミャンマーの通貨チャットが30%ほど高くなったという。私のときは限りなく安くなる傾向
で、チャット高など、想定外であった。一時、1ドル=1300チャットであったものが、最近では1000チャットになっ
ているという。大幅な貿易黒字が出ているわけでもないのに、チャット高は理解できなかったので、その理由を聞い
てみると、経済不振で輸入量が激減しており、外貨の需要が落ち込んでいるからだという。

 また数年前から一律10%の輸出関税が課されることになり、これが企業にとっては大きな負担になっているとい
う。こんな税金も私のときにはなかった。さらに昨年から首都がネピドーに変わったので、いろいろな書類手続きを
するために、わざわざそこまで出かけなければならなくなった。貿易の書類など切羽詰っているときでも、そこまで5
時間掛けて走って持って行かねばならず、それが大きなロスとなっているという。

 ヤンゴンでは携帯電話は国内通話だけに限定されており、国際通話ができずたいへん難儀した。またメールもな
かなか通じず、その速度も遅く、不便であった。プロバイダーがヤンゴンからネピドーへ移転中だという説明だった。

B「こすずるいミャンマー人」・・・。

 日本では、ミャンマー人が敬虔な仏教徒であり親日的であるということから、ミャンマーを身近に感じる人が多い。
街中では、托鉢をする僧侶に供物をする人たちの姿をよく見かけるし、多くの人たちが野良犬に餌を与えている。
またミャンマー人同士が大声をあげて喧嘩している場面にもあまり出くわさないし、大酒のみが他人にからんでいる
姿も見かけない。そのような光景を見て、ミャンマー人には温和な性格の人が多いという印象を持つ日本人が多
い。かつてのミャンマーでの私の工場経営経験から判断しても、たしかにミャンマー人の気性は激しくはなかった
し、社内で大きな犯罪行為が起きることはなかった。しかしその反面、陰に隠れてこそこそと悪いことをするミャンマ
ー人が多かった。

 

 今回、ある工場を訪問したとき、面白い光景を目にした。薪ボイラーの焚口の前で、ボイラーマンが薪を秤にのせ
て計っていたのである。それを見て私は、なぜこんなことをするのだろうかと不思議に思い、工場長にその理由を聞
いてみた。すると彼は笑いながら、「ボイラーマンに薪を盗ませないためです」と言った。私がその返事の意味がよく
わからず怪訝な顔をしていると、「ボイラーマンたちは誰も見ていないときに、こっそり薪を盗んでいく。それが積もり
積もると結構の金額になります。だから購入した薪の量とボイラーに投入した量を一致させるために、計らせている
のです。薪泥棒防止策です」と説明してくれた。私はそれを聞いて、ミャンマー人のこすずるい性格は、依然として変
わっていないのだと思った。

Cジーンズ姿のミャンマー女性が増えた。

 ダッカからヤンゴンに入って、私は交通渋滞がなく車がすいすいと走ることができ、時間どおり目的地に着けるの
でまず一安心した。また排気ガスも少なく、窓を開けて気持ちよく走ることができ、気分爽快であった。道路際には
たくさんの木が生い茂っており、私はその緑を満喫しながら、町並みを眺め続けた。しかしその景色が10年前とど
こか違うような気がしたので、運転手に聞いてみると、「数年前の超大型サイクロンで大木は根こそぎ倒れ、建物も
ほとんど倒壊しました。だから道路際の風景が一変したのです」と話してくれた。

 それでも市内の風景は10年前とあまり変化はなかったが、街中を歩くミャンマー女性たちにはジーパン姿が増え
た。以前はロンジー姿の女性しか見かけなかったので、ファッションの中に民主化の匂いを嗅ぎ取ることができた。
内需もかなり旺盛になってきており、小売店では中国からの輸入衣料が意外に高額で売られていた。

D選挙で社会が変わる予感。

 ミャンマーでは5月に総選挙が行われるので、その結果で大きく社会が変わるのではないかと予測する人が多か
った。軍事政権側もしたたかで、そうやすやすと権力の座を明け渡すとは思えないが、アメリカ政府は選挙の結果
次第では制裁を解除するかもしれないと言われている。ミャンマーが中国に傾きすぎるのを警戒しているからであ
る。目下、ミャンマーをめぐって、水面下で米中の激しい攻防が繰り広げられているというところだろうか。

 今回たまたま乗ったタクシーの運転手が面白い話をしてくれた。先日、米国人記者がインヤレイク湖を泳いで渡
り、スーチー女史の家に入って物議をかもしたことがあったが、あれはウソだというのである。なぜならその運転手
は当の米国人記者を乗せ、スーチー女史の自宅前まで運んだ。そのとき米国人記者は政府発行の許可証を持っ
て、堂々と門から入って行き、それを門前にいた政府の軍人は制止しなかった。あれはスーチー女史の軟禁を続
行するための政府のデッチあげだというのである。だが真相は不明である。