小島正憲の凝視中国

残念!活かせなかった「東寧」の地縁


残念!活かせなかった「東寧」の地縁                      
25.MAY.09
黒竜江省の東端に東寧という街がある。

私はこの街に不思議な縁がある。しかしその地縁をビジネスに結びつけることができず、大儲けのチャンスを逃がした。



1.私と「東寧」との不思議な縁 


私が中国で事業を始めたころ、67歳になる中国の老人から上手な日本語で丁重な手紙をもらった。手紙の差出人は肖洪有先生といい、そこには「ぜひ私を雇って欲しい」としたためてあった。その後、私はその肖先生といっしょに働くことになるのだが、その先生の郷里が黒龍江省の東寧だったのである。私がなぜその老人と共同作業をすることになったのかについては、文末に記しておくので読んでいただきたい。→付記@.「老先生」


1995年ごろから小島衣料の中国での事業が大きくなるにつれて、工場の安定操業のために受注も日本だけでなく、欧米を視野に入れる必要がでてきた。しかしながらそのころ中国から米国への繊維製品輸出にはクォータ(対米輸出割り当て)と呼ばれる制度があり、怒涛のように米国へ輸出される繊維製品の前に、その枠自体が投機の対象になるような事態が起きており、私たちのような駆け出しの企業には米国輸出は実質的に不可能であった。


そのような環境下でも香港華僑は米国向け輸出を上手に行っていた。彼らは製品の工程の90%ほどを大陸中国で作り、残りの工程の10%ほどを香港で生産することによって、「メイドイン香港」として輸出枠が空いていた香港枠で米国へ向けて輸出していたのである。私もこの方法を見習ってやってみようと思ったが、香港華僑の中へ割り込むことはなかなか困難だった。


そこで私は中国と陸続きで、なおかつ港が近く輸出がしやすい他地点を探し、そこから華僑の真似をして対米輸出に取り組んでみようと考えた。


中国全土の地図をながめて、私は中国東北地方の黒龍江省や吉林省が、ロシアのウラジオストク港に近いことに目を付けた。そこで両省の国境沿いの中国側に大きな工場を作りそこで90%を生産し、ロシア側に小さな工場を建て残りの10%をそこで作り、クォータ制度がないロシアから「メイドインロシア」として、ウラジオストク港出しで対米輸出をしてみようと考えたのである。私は再度、地図をじっくり見て検討し、黒龍江省の綏芬河・東寧、吉林省の琿春などを候補地とし選定した。


2001年8月、私は肖洪有先生の手引きでこれらの地点の調査を行うことにした。


吉林省琿春市からバスでロシアに入り、スラビヤンカ、ウラジオストク、ウスリースクなどを経て、鉄道で中国に戻り、黒龍江省の綏芬河に抜け、東寧へ回り牡丹江へ帰る予定をたてた。中国側の工場作りについてはそれまでの体験上、どの街で工場を作っても大きな違いはないと思っていたので、詳しくは調査することはせず、未知のロシア側について重点的に調べることにした。


ウラジオストクやウスリースク周辺の工場を数か所見て回ったが、どこも古臭く薄汚れたところが多く使い物にはならないと思った。意外なことにそれらの工場の経営者はほとんど韓国人であった。また当然のことながら労働者はロシア人であった。


韓国人社長たちは怠け者のロシア人をまじめに働かせるのは難しいとこぼしていた。私にもこれらのロシア人を働かせるのは到底無理なような気がしたので、韓国人社長に「中国人労働者を越境させ働かせることはできないのか」と聞いてみたが、「労働ビザを取得し多人数の中国人労働者を入境させるのは難しい」という返事だった。


ロシアでの工場調査は期待に反してかんばしくなかった。おまけにロシアのホテルで昼食に食べたスパゲッティにあたったようで下痢と腹痛に悩まされ、ほうほうの体で綏芬河を通って中国に逃げ帰り、翌日牡丹江から上海へ飛んで戻った。


だからこのとき結局、肖洪有先生の地元の東寧には行かなかった。しかも私はロシアの工場の印象があまりにも悪かったので、その後しばらくロシア生産のことについては考えたくなかった。したがって東寧の地で、このプロジェクトを積極的に進めようとしてくださった肖洪有先生の努力は徒労に終わった。


ちょうど娘さんをはじめ家族のみなさんが先生の健康を心配され、これを潮時に退職をと言い出されたので、私は先生と別れることにした。先生は残念がられたが、なにしろ75歳を超えておられたので仕方がなかった。4年後、先生は脳溢血で倒れられ、右半身が不随になられたと聞いた。


その後の情報によれば、ウラジオストクから韓国企業がいっせいに逃げ出したという。資材輸入に関する税法が変わったのが理由ということだった。


またしばらくしてその韓国企業の後に中国人が進出して、靴の生産をはじめ成功しているようだと聞いた。さらに中ロ国境貿易が活発となり、中国人の担ぎ屋がウラジオなどに進出し、短期間に大きく商売を伸ばしたようだった。


ところがそれも束の間、中国人の進出を恐れたロシア人が、ウラジオ近辺での中国人の小売を禁止し、中国人の商売人を追い出したと聞いた。さらにロシア政府が中国に輸出していた原木に大幅な輸出関税をかけたので、これまた中国の木材関連企業が壊滅寸前に追い込まれているとの情報も入った。


これらの情報に接して私は、「韓国人や中国人でもロシアビジネスは難しいのだから、ましてや日本人では到底できないだろう。極東ロシアに進出しなくてよかった」と思ったものである。


それでも2005年、私は吉林省琿春へ工場進出した。


琿春への進出理由は華中の工場が、人手不足で運営が難しくなったためである。詳細については文末の付記Aを読んでいただきたい。


そして今度はこの琿春工場のためにロシア市場の開拓を目指して、2006年にモスクワへ出かけることになった。→参照:付記B。


また2007年にはロシアのユダヤ自治州に行き、そこの副州長と会ってみたりした。→参照:付記C。


このように足掛け8年、私はなんどもロシアに切り込もうとしたが、結局、その厚い壁を乗り越えることはできなかった。

この琿春から東寧へは地図上ではすぐ近くだが、実際には悪路を6時間ほど走らなければならないということだったので、残念ながら肖洪有先生のお見舞いに行くことはできずじまいだった。


2.東寧の近況



  綏芬河のロシア街 


2009年4月、私は黒龍江省牡丹江市の経済顧問を委嘱された。知人から、「ぜひ牡丹江のために力を貸してくれ」と頼まれたので、あまり力にはなれないがと思いながらもお引き受けすることにした。委嘱状を受領するために牡丹江まで出かけることになったので、そのついでに、東寧の肖洪有先生のお見舞いに行くことにした。


車で牡丹江から綏芬河まで2時間ほど、さらに1時間ほどで東寧に行けるということだった。私は牡丹江政府の関係者に案内してもらって走った。途中で綏芬河税関を見せてもらった。そこには原木がたくさん積んであったのでびっくりして、「原木輸入は採算が合わず、工場は壊滅したのではなかったのですか」と質問したところ、「いいえ、たくさん輸入しています。見ての通りです」という返事だった。私は今まで聞いていた情報と目の前の現実との差に、狐につままれたような感じがした。


ついで綏芬河の街中を案内してもらったところ、いたるところにロシア向け商品の店やレストランなどがあり、そこはすっかりロシア人の街になってしまったようだった。   

街中にはロシア語看板が氾濫していた。                         



東寧に着き、税関の中を見せてもらった。ここは2級税関ということだったが立派だった。それもそのはず、1級税関の綏芬河よりも通過する人員も多く、物量も多いというのだ。それにはびっくりした。理由を聞いてみると、「ここからウラジオまでは1時間半で行け、一番近いのです。また2級税関のほうがなにかと融通が利きますから」という答えが返ってきた。



     東寧税関 


ひっきりなしに通るコンテナやバスを見て、その答えに納得した。08年度は75万人が東寧税関を通ったという。


次に木材工場に案内してもらった。そこでも大量の原木を見たので、先ほどと同じ質問をしてみたところ、「原木のまま輸入し、中国側で90%加工してから再輸出し、ロシア側の工場で10%の加工をしている。こうすればロシアの税金も中国の税金もクリヤーできる。ロシア側の工場には中国人の技術者が大量に派遣されているので品質問題もない」と説明をしてくれた。それまでの疑問はこの答えで一挙に氷解した。確かに輸出関税はかなり上がったが、中国人はその上を行く工夫をしていたのである。しかも今まで聞いていた情報とは反対に、現実には中国人労働者が大量にロシア側に入り込んでいたのである。


夕方になって、この仕組みを作った黒竜江華宇(集団)有限公司の紀文楠董事長に会うことができた。


彼は2000年から対露国境貿易に従事し、一人で担ぎ屋からはじめ、約5年という短期間で黒龍江省トップの財閥になり、中国の500強企業にランクインしたという。彼は私の差し出した小島衣料グループのパンフレットに目を通して、やおら切り出した。彼はウラジオから韓国人が去ったので、すぐに進出し靴の製造をはじめたというのだ。そして次のように付け加えた。「本当はロシアクォータを使った対米アパレル輸出がやりたかった。あなたと会うのが遅すぎた」と。


この言葉を聴いたとき私は自分の耳を疑った。私が真顔で聞きなおすと、「アパレル業をやりたかったのだがノウハウとパートナーがなかったので、米国アパレル市場進出をあきらめた。そしてやりやすかった靴をまず始め、ロシアに靴工場を作りロシア市場に靴販売のルートを作ることにした。その靴の工場には中国人労働者を連れていったので、品質がよく馬鹿売れした。その後木材加工の工場をやるようになった。ロシアでも“上に政策あれば下に対策あり”です」と機嫌よく話してくれた。


それらの事業が爆発的に成長したので、さらに東寧税関を利用した物流事業を大々的に進めたという。大学でロシア語を学んだ奥さんにロシア国籍を取らせているので、ロシア側の事業も円滑に進んでいるという。


その晩、宴会の席上で牡丹江市の幹部からも、対露農業進出の話を聞いた。牡丹江市がロシア側に巨大農地を借り受け、大勢の中国人労働者を送り込んで農業に従事しているというのである。


これらの話を聞いていて、私は自分が今まで入手していた情報がかなり間違ったものであったことがわかったし、現場で生の情報を収集することが本当に大事だと思った。




3.残念、大儲けのチャンスを逃す。


私が2001年にこの紀さんと出会っていれば、対米・対露ともに大成功し、私は大儲けしていただろう。肖洪有先生の東寧の地縁を活かせなかったのは、かえすがえすも残念であった。せっかく現場近くまで足を運びながら、また同じ考えを持った紀さんがすぐ側にいながら、あと一歩の詰めが足りなかったために彼に出会えなかったのである。


また情報を現地で確かめず、間違ったものを鵜呑みにしていたことにもチャンスをつかめなかった原因がある。今から考えてみれば、韓国人が撤退したときがチャンスだったのである。あのとき「韓国人でさえ撤退したのだから」と、しり込みしてしまったのが敗因であった。「なぜ韓国人が撤退したのだろうか。なぜ中国人の靴屋が成功しているのだろうか」と、突っ込んでいれば、そこに紀さんとの出会いがあったはずである。そうしていれば対米貿易で大儲けでき、さらに紀さんの靴の販売ルートに衣服を乗せロシア市場の開拓ができたはずである。



   肖有先生との再会


これができなかったのは、最後の詰めが甘く、あきらめやすいという私の悪い性格の所為である。残念だが、いつまでも口惜しがっていても仕方がないので、「人生とはこのようなミスマッチの連続である。あのときの私は運がなかった」と思って、潔くあきらめることにした。


午後4時ごろ、東寧の肖洪有先生のマンションを訪ねた。先生はベッドの上に正座して私を待っておられた。娘さんの話によれば、先生は午前中からずっとその姿勢だったという。言葉は不自由だったが、目にいっぱいうれしさをたたえて私を迎えてくださった。私は先生の手を取りながら、自分の無力さのゆえに先生の人生に最後の花を咲かせることができなかったことを詫びた。


                                                                        

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付記@ 「老先生」 拙著『アジアで勝つ』P183より

付記A 「わが社が琿春市に進出した理由」 拙著『中国ありのまま仕事事情』P146より

付記B 「中・ロは本当に手を組むのか?」 既報 : 2007.4.4ニュースレターより

付記C 「ロシア:ユダヤ自治州視察記」  既報 : 2007.8.25ニュースレターより