小島正憲の凝視中国

中国人欧州観光団体旅行:インサイドレポート 


中国人欧州観光団体旅行:インサイドレポート 〜ドイツ・フランス・スイス・オーストリア・イタリア〜
“中国の時代の終わり”の始まり   
28.OCT.10  
 10/16〜26の11日間、中国人の欧州観光旅行の団体に紛れ込んで、ヨーロッパ各国を駆け足で回ってきた。今回の旅行の目的は、わが社の上海の合弁公司の相手側の中国人地元幹部の慰安のためであり、旅行期間中にこれらの幹部と今後の合弁公司の方向をよく話し合い、重要な決定をするためであった。併せて、前々から、中国人の観光行動をその内部から観察してみてみたいと思っていたし、その特徴をつかみ、今後ますます増えるであろう中国人の日本観光にそれを応用し、さまざまな問題の解決や、ホテルやレストラン、土産物店などの売り上げ増進に貢献できるようなアドバイスがしたいと考えていたからである。

 結果として私のこの欧州旅行は、その目的を十分に果たすことができた。その上、「“中国の時代の終わり”の始まり」を視認することができた。これは大きな収穫であった。

 

 なお私は7年ほど前に、今回と同様に、中国人団体観光旅行に単独で紛れ込んで、タイのバンコクへ遊びに行ったことがある。そのときは、中国人観光客のパワーに、終始圧倒され続けた。これについては、旅行終了後、小論を書いておいたので参照していただきたい。今回の団体は、それと比較すると、きわめて大人しいグループであった。


1.今回の中国人欧州団体旅行の全体を通じての所感 

 今回の旅行団体の人的構成は、中国人37人、ニュージーランド国籍取得の中国人2人、日本人1人の合計40人(ガイドの男女各1人を除く)。ほぼ男女半々。20〜30代の若夫婦が5組。定年退職組の老夫婦が8組。その他、定年退職後の共産党地方組織元幹部など。

 年齢構成で特徴的だったのは、40〜50代の壮年がほとんどいなかったこと。職業別では、若手が金融・不動産関係の社員が多く、定年退職組には地方政府関係者が多かったし、中には医者(78歳)もいたし、元軍人もいた。企業経営者はほとんどいなかった。つまり成金はいなかった。

 この旅行期間中、多くの場所でショッピングの機会がたっぷり設けられていたが、巷で言われているような中国人のブランド品買い占め行動は、ほとんど見られなかった。ことにローレックスやオメガなどの100万円を越す高額な時計を買った人は4〜5人だった。あとは若者夫婦たちがグッチやルィ・ヴィトンの鞄や財布を数個買っている程度だった。それでもガイドの話によると、ある団体のお客さんで、ローレックスの店で60個以上の時計を買い占めた成金がいたという。今回の団体の中には、そのような人はいなかった。

 旅行費用は基本料金が1万6千元、オプションが500ユーロほど。ホテルは全部三つ星クラスで、各都市の中心部からは30〜60分ほど離れた場所。朝食は毎日コンチネンタル。昼と夕食はすべて中華料理で、それもボールに大盛りのご飯と1汁5菜(肉系1、魚系1、野菜など3)。西洋料理はまったく出なかった。それでもほとんどの人が、ベルトの穴1個分ほど痩せた。中には米を持参して、毎朝おかゆを作って食べていた老夫婦もいた。もちろん中国からラーメンなどを持って行って、夜食に食べていた人が多かった。どこの中華料理レストランも、中国人客で満杯で、大繁盛している様子だった。おそらく昼食だけでも3〜4回転しているのではなかろうか。

 もっとも特徴的だったのは、全コースがバス移動であったことである。前掲の地図を見てもらえばわかるように、かなりの強行軍であった。第1日と2日目は同じホテルであったが、あとはすべて毎日違うホテルで、夜遅くホテルに着き、トランクを開ける間もなく、翌朝早くバスにトランクを積み込んで出発するという作業の連続であった。最低でも1日のうち4時間バスに乗って移動したし、中には7時間バスに乗り続けていた日が2日もあった。私は腰が痛くて仕方がなかった。それでもこのバス移動強行軍に、だれも文句を言わなかった。なぜなら、現在、中国人の欧州観光団体旅行はこれが定番であり、だれもがこれが欧州旅行だという予備知識を持っていたからである。このようなことを知らずに、飛行機や汽車、バスなどを併用する日本の欧州観光団体旅行と同様だと思っていたのは、私だけだった。

 私たちはドイツのフランクフルトに着いたのだが、そこに出迎えに来ていた観光バスはイタリアの会社のもので、運転手は陽気でファッショナブルなイタリア人だった。私は彼に毎朝会い、その姿を見るのが楽しみになったほどだった。ことにスカーフやマフラーを上手に使いこなしており、とてもダンディだった。よく見ていると、各ホテルに着替えが置いてあったり、クリーニングが頼んであったのを受け取ったりしていた。

 私は、なによりもその彼が、言葉の違う各国の道路事情に精通しており、なんのトラブルもなく目的地に着けていたことに驚いた。またちょうどフランスではストライキが起きており、フランスの会社のバスだったら立ち往生するところでもあったので、イタリアの会社のバスと運転手で助かった。

 

 写真の彼が全行程を一人で運転し、わが団体を最後のローマの空港まで送ってくれた。別れ際に、彼と記念写真を撮っていると、彼が、1日休んで、明後日またフランクフルトへ次の中国人団体を迎えに行くと話してくれた。

 この旅行中、中国人がまだ団体行動に慣れていなかった3日目を除いて、4日目からは羽目を外したり、迷子になったり、集合時間に間に合わなかったりする人は、ほとんどいなくなった。高齢の男性が心臓の発作で苦しむ場面があったが、同行客の中に医者がいて、事なきを得た。忘れ物をする人も少なかったし、盗難に遭った人はいなかった。

 観光ガイドは屈強な若者で、このような団体旅行を年間20回こなしているという。またこのガイドと同じように働いている若者が、上海だけで30人ほどいるらしい。ガイドが一番困るのは、やはり中国人旅行客の逃亡だという。ガイドの話によれば、数年前に84人の団体で70人が逃亡したことがあり、たいへん困ったようだ。逃亡の予防策として、今回もこの団体の中国人のパスポートは、ドイツ入国後、ガイドが全部回収してしまった。今回の団体から、逃亡者は出なかった。

 前回のタイ旅行時にはまったく感じなかったが、今回は尖閣列島問題もあったためか、この団体の中に反日意識を表に出し、あからさまに私にイヤミを言う中国人の「反日おじさん」がいた。


2.日程ごとの特記事項


《10/16》
夜8時、浦東空港に集合し、北京経由でドイツのフランクフルトへ向かった。機内は満席で、その約90%が中国人だった。機内で夕食・朝食を済ませた。

《10/17》
フランクフルト空港に朝6時に着き、全員が問題なくドイツに入国した。そのまま前述のイタリアから差し回されたバスに乗り込んで、ハイデルベルグ経由で、パリへ向かった。7時間バスに揺られて、まず最初の観光地であるヴェルサイユ宮殿にたどりついたのは、午後5時ごろになっていた。いそいで宮殿へ駆け込むと、偶然、そこでは「日本人タカシ・ムラカミの現代アート展」が開かれていた。部屋ごとに、奇妙なオブジェが展示されていたが、それらは不思議なことに宮殿内の華麗な内装や調度品との間に大きな違和感がなかった。中国人たちの中にも、「なぜ日本人の作品がここにあるのか」などと、疑問を持つ人は全くいなかった。逆にそのオブジェを背景に写真を撮る人が多かった。夕食を済ませ、ホテルに着いたのは午後8時過ぎだった。すでに部屋には暖房が入っていた。

《10/18》
朝食はバイキング形式のコンチネンタルであったが、中国語の表記が一切なかったため、中国人のおじいさんやおばあさんが、ヨーグルトやジャムを持ってきて、一々、これはなんだと聞くので閉口した。出発時、おばあさんが20分遅刻。コンコルド広場の観光後、集合時間に若者夫婦が20分遅刻。その後、セーヌ河クルーズ。昼食後、ノートルダム寺院へ。ここでおじいさん2人が迷子となり、全員で手分けして30分探す。やっとのことで、おじいさんたちが見付かったとき、おばあさんたちが目を三角にして大声で激しく非難した。私はそれを見て、文化大革命の吊るし上げ光景のミニ版を見ているような思いだった。その騒動でだいぶん時間が遅れてしまい、全員がルーブル美術館へ走り込むことになってしまった。せっかくの美術館の見学も時間が少なかったので、駆け足となってしまった。
その後、ルーブル美術館近くの土産物店に入った。一階では香水、2階では時計、3階ではブランドバッグなどが売られており、2階には中国人が多く集まり、接客要員も中国人だった。3階には日本人が多く、接客要員も日本人だった。夕食後は約2時間のパリの夜景ツアー。ホテルに戻ったのは夜11時、この日の歩数は約1万8千歩、本当に疲れた。

《10/19》
この日フランスはストライキだったが、主要な観光は昨日済ませていたので、問題はなかった。エッフェル塔の写真を撮って、ラファイエット百貨店で買い物ということになったが、ここで中国人男女の間で論争が始まった。買い物時間について男性は一時間半でよいといい、女性は3時間が必要だと言って引き下がらなかった。結局女性の主張が通り、3時間となった。この百貨店には中国人観光客が殺到しており、特にルィ・ヴィトンやグッチなどの店は、入店制限をしていた。ストのため、バスがパリ市内では給油できず、次の町のディジョンまで4時間、ガス欠を心配しながら走った。幸い、途中のサービスエリア内の給油所が開いており助かった。

夕食は自由行動だったので、私たちはホテルの隣のレストランへビフテキを食べに行った。ところが中国人の相棒たちが、中国から持ってきたソーセージや干し肉をそのレストランへ持ち込み、平気でぱくぱく食べ始めたので、止めるわけにもいかず閉口した。きっと日本の観光地でも、これと似た現象が起きているのだろうと思った。

《10/20》
スイスのインターラーケンには、時計の専門店がずらりと並んでおり、そこにも中国人観光客が押し寄せていた。しかしながら、たしかにローレックスやオメガの時計専門店も、店内は中国人客でごった返しているが、高額な時計をまとめ買いしているような客はほとんどいなかった。そんな店内で私がときどき日本語を話すので、日本人の店員が不思議そうな顔をして、私に、「お客様は日本人ですか」と問いかけてくる。私が「日本人です」と答えると、今度は、「中国人客とお宅様の関係は?」などと聞いてくる。しばらく雑談をしていると、その日本人店員が小さな声で、「今、中国では反日デモが起きていますが、大丈夫ですか」と聞いてきた。

《10/21》
この日は、登山鉄道に乗り、ヨーロッパ最高地点というユングフラウに上った。山の頂上はマイナス17℃であったが、そんなに寒いという感じはしなかった。ガイドが冗談半分に、「40歳以下の男性は、上半身裸になってください」と言ったので、私はそれに応えて裸になろうとしたが、相棒の中国人に止められた。それでも私は、若い頃、北海道の旭川で、マイナス20℃の真冬に、毎朝、上半身裸で体操をしていた経験があったので、ひとまず腹を出して写真を撮った。ところがこれがまずかった。中国人男性は、老いも若きもだれもやらなかったのに、日本人の私だけ調子に乗ってやったので、「反日おじさん」が大きな声で、「日本人は腹黒いと思っていたが、意外に腹は白いな。でも騙されないぞ」と、突っ掛かってきたからである。私はすぐに上衣の裾をズボンに入れ、その場を静かに離れた。

《10/22》
朝、同行の中国人たちが、ガイドに「大きな白鳥の店に連れて行ってくれ」とせがんでいるので、私はなんのことだろうと思っていたが、それはすぐにわかった。インスブルックにはスワロフスキーの本店があり、そのロゴが「大きな白鳥」だったからである。ここではほとんどの中国人が、たくさんの買い物をしていた。なぜならここの商品は、インターラーケンの時計屋よりは1桁安かったからである。

《10/23》
この日、一組の若夫婦のうちの男性がお腹をこわしたようだった。その男性は、バスが休憩所に止まるたびに、トイレに駆け込んでいた。しかし伴侶の女性の方は、介抱をまったくせず、何食わぬ顔で買い物をしたり、アイスクリームを食べたりしていた。この日は7時間バスに乗り続け、移動がメーンだった。

《10/24》
朝、けたたましい火災報知器の音に、たたき起こされた。私はすぐに部屋から廊下に飛び出し、非常口を確認し、次いで火元を探した。その間ずっと火災報知器は鳴り続けていたが、中国人は誰一人、廊下に出てこなかった。結局、火元も原因もわからなかった。おかげでその朝は、早起きができ、だれよりも早くバスに荷物を積むことができた。バスに乗り込んでみると、すでに中国人女性が一人乗っており、バスの中の清掃をしていた。その女性はいつも朝早く、外で太極拳をやっている同行中国人(ガイドではない)だった。彼女が毎日、ずっとバスの中の清掃をやってくれていたのだ。私は挨拶をして、丁寧にお礼を言った。この女性の姿に感動した私は、このことを中国人の相棒に話した。すると彼は、「あれは法輪功かもしれないぞ。警戒した方がよい」と言った。私は予期せぬその答えに唖然とした。
この日はヴェニス観光の予定だったが、ちょうど年一回のヴェニス市民マラソンの日に当たり、街中がごった返しており、バスが交通渋滞に巻き込まれ、船着き場までなかなか行き着けず、時間が大幅に遅れた。
ヴェニスの街中には、イタリアの誇る高級ブランドショップが並んでいた。驚いたことに、その店の周辺で黒人が、そのブランドの偽物商品を売っていた。私はこの光景を目の当たりにして、12年前にヨーロッパに来たときのことを思い出した。あのとき、ミラノやフィレンツェの高級ブランドショップの前では、中国人が堂々と偽物を売っていた。それを見た私は、「これからは中国の時代だ」と確信した。それが現在、その偽物売りの仕事は、中国人から黒人に代わっていたのである。フィレンツェのブランドショップ前でも、同様に黒人がバッグやスカーフなどの偽ブランド商品を売っていた。

《10/25》
ヴァチカン教会に入るために、入り口に一列に並んでいたとき、たまたま私の前に、あの「反日おじさん」がいた。ところがその「反日おじさん」が教会に入ろうとしたとき、突然、警備員がそのおじさんが入るのを拒み、強い調子で何かを言った。後ろにいた私には、その言葉は「デッド」と聞こえた。どうしても入れてくれないので、「反日おじさん」はうろたえて、私を振り返り助けを求めた。私にも何が問題なのか、さっぱりわからなかったが、警備員の目を見ると、「反日おじさん」の頭をみつめていた。私はすぐに「帽子を脱げ」ということだとわかり、彼の言っているのが「ヘッド」という英語だとわかった。すぐに「反日おじさん」に帽子を取らせると、警備員はさっと通してくれた。中に入ってから、「反日おじさん」は私を振り返り、はにかんだような表情で、にやっと笑った。

 

ローマの各名跡でも、黒人がスカーフなどの偽ブランド商品を売っていた。ガイドに黒人が中国人に代わって、このようなことを始めたのはいつごろからかと聞いてみると、3〜4年前からだと言い、この黒人たちの元締めは浙江省の中国商人だと教えてくれた。

《10/26》
ローマから北京経由、浦東空港に帰った。帰りも満席だった。

この旅行団体が解散するとき、ガイドがこの団体の中で10名、抽選で景品が当たったので、発表しますと言い、一人ずつ名前を読み上げた。名前を呼ばれた人は喜んで、ガイドの側に近寄っていった。名前を呼び終わってガイドは、「今、名前を呼んだ人は、明日、フランス領事館に出頭してビザの取り消しを行ってください」と言った。結局、彼らには面倒な「景品」が当たってしまったのである。EU諸国は、逃亡防止のためにこのような処置を取っているようである。


3.今回の中国人欧州観光団体旅行で得た結論


@中国の時代の終わりの始まり

イタリアの名跡で、12年前に中国人がやっていた偽ブランド商品の販売を、現在、黒人がやっている。このことは、「中国人の時代の終わり」を象徴している。古来、ハングリー精神を失った民族は、ハングリー精神の旺盛な民族に駆逐されてきた。これは歴史が証明している。すでに中国人は総じて暖衣飽食の生活にどっぷり浸り、ハングリー精神を失っている。今後は駆逐されるのを待つのみである。現時点が、「“中国の時代の終わり”の始まり」である。

A縫製工場を老人ホームに

わが社の上海の合弁会社は、地元政府との円満な関係を保ちつつ、設立後すでに17年の歳月を経てきた。その間で、かなりの利益を上げることができ、地元政府にも応分の還元をしてきた。しかしながら昨今の人手不足には逆らえず、黒字基調を保ち続けることが困難な状況となりつつあった。そこでわが社は断腸の思いではあるが、この旅行中に合弁相手の幹部に、率直に合弁会社の清算の可能性を打診した。合弁相手側は、暖かくわが社の見解を支持する旨を明らかにした上で、「黒字ならば続行すればよい。赤字に陥った場合、すぐに協議に応じる」と返事してくれた。逆に彼らはまったく想定外の提案をしてきた。「せっかく空調設備付きの立派な建物や広大な土地があるのだから、これを老人ホームに改装したらどうか」というのである。彼らの「縫製工場を老人ホームに」という発想の転換には、私も驚いた。私はすぐに、その提案を受け入れ、老人ホームの研究に取り組む意志を表明した。