小島正憲の凝視中国

読後雑感 : 2011年 第19回 & 第20回


読後雑感 : 2011年 第19回 
05.SEP.11
1.「弱肉強食の大地」
2.「中国人にネットで売る」
3.「2012年中国崩壊 2014年日本沈没」
4.「中国のジレンマ 日米のリスク」

1.「弱肉強食の大地」  関倶治著  7月6日  日本経済新聞出版社
  副題 : 「いかに“中国内販”を成功させるか」
  帯の言葉 : 「生きるか死ぬか、二者択一  壮絶な中国国内販売の実態!」

 私は1990年代前半、中国の国内に直販店を60店舗余り展開していた。そのときわが社は中国で、グループ全体で1万名規模の縫製工場を稼働させており、その閑散期に生産した製品を直販していたのである。店舗は百貨店や路面店、地下商店街などにあり、北京、上海、大連、武漢はもとより、北はハルピンから西はウルムチ、南は広州まであった。そのころは商品が飛ぶように売れた。百貨店からも出店依頼がひっきりなしに続いた。そしておもしろいように儲かった。しかしそのような時期はわずか5年ほどだった。その後はまったく売れなくなり、縮小の一途を辿っている。この経験から中国内販で大儲けするにはタイミングがもっとも重要であり、すでにその時期はとっくに過ぎていると、私は思っている。

 この本の著者の関倶治氏は、1996年に資生堂の切り込み隊長として中国に進出し、総経理としてそれを成功させた。その後、2004年に退社し、日本の中小企業の責任者として上海で新会社を作り奮闘した強者である。私がこの関氏に注目するのは、大企業のサラリーマンとして成功し、さらに中小企業の現地トップとして成功したという2重の勲章を引っ提げているところである。もちろんそこに至るには関氏の「「生きるか死ぬか、二者択一の壮絶な戦い」があった。この本にはその汗と涙の結晶が泥臭く披露されている。

 関氏は、この本の題名を「弱肉強食の大地」、副題を「いかに“中国内販”を成功させるか」とつけ、また帯には「生きるか死ぬか、二者択一  壮絶な中国国内販売の実態!」と書いている。まさに中国内販は生きるか死ぬかの壮絶な戦いなのである。私は、「中国は世界の市場」という言葉につられて、安易な気持ちで出るべきではないと思っている。すでに中国市場は大儲けできる市場ではない。それをこの本は、はっきりわからせてくれる。関氏は、「世界に名だたる企業であればそれなりの知名度もあるが、全く無名の企業が中国国内販売で成功することは至難の業である。私の知る限りでは、おそらく90%以上の企業が満足のいく結果を出せていない」と書いている。私もまったく同感である。

 第1部では、関氏の資生堂時代の奮闘振りが語られている。関氏は、「これは中国での仕事が7年ほど経過した後にきづいたことであるが、日本で成功した企業が、その成功体験を中国に持ち込みマーケティングを展開した場合、そのほとんどの企業は失敗している」と書いている。これは正しい。関氏が率いた資生堂ですら、1996年度に30億円を投資し、2003年度に単年度黒字、2005年度に累積損失一掃という具合である。その後、資生堂が30億円の投資額を回収して、しかも中国から多額の配当を受け取っているという情報を、私は耳にしていない。中国市場は、名もない中小零細企業が進出しても、簡単に成功する市場ではない。しかも中国市場には反日というハンディがある。

 ただし関氏は、「一般的に日本企業は中国に会社を設立し、工場も所有している場合、5年目単年度黒字、7年目累積損失解消というような計画を策定する。不思議なほど、どの企業も、この点に関しては足並みをそろえているように感じる」と書いているが、この点には同意できない。大企業ならばこれでもよいだろうが、中小企業ならばこんな悠長なことは言っていられない。工場は、初年度から黒字化させなければならない。私が1990年代初頭に作った中国の工場は全部、初年度から黒字化できたし、5年間で、1万人の工場群を無借金で築きあげることができた。もちろん大儲けできた。これはチャイナ・マジックによるところが大きかったのだが、これが海外展開の醍醐味であるとも言える。

 関氏は、2004年度から花馨化粧品(上海)有限公司の総経理として、中国市場で奮闘している。第2部ではその過程が書き連ねてある。まさにそれは悪戦苦闘の連続であり、ことに「中国人の背反行為との戦いの記録」というのがふさわしいような展開となっている。関氏は最終章に、「発展か後退か、神のみぞ知る」という見出しを付け、この本を締めくくっている。この本で中国市場の難しさを、自らの体験談を通して、赤裸々に語ってくれた関氏に、私は心から感謝したい。

 関氏は現在の中国経済について、「景気はさして良くない」と言い、庶民感覚としての不思議を下記のように列挙している。この指摘に、私も同感である。ただしこれを学術的に裏付けることは、なかなか難しい。

@共産党およびそれに癒着したデベロッパーが演出した、不動産異常高騰による成長。売れていない、住んでいない住居が上海だけでも何十万戸とあるのに、なぜ不動産価格が上昇するのかの不思議。
A輸出企業を中心に中小企業がバタバタ倒産しているのに、経済成長率はなぜ高いのかの不思議。春節帰郷後、社員が戻らないのは、内陸部が成長しているからという反論もある。
B給料を貯めて、儲かる株に投資、投資した頃は下がる不思議。
C外資企業の給料は国内企業よりも高いが、公務員はもっと高いことの不思議
D百貨店価格が、日本、香港より断然高いことの不思議(輸入品以外の国産品でも)。
E共産党員のかなりの者が享受できる多額の賄賂の不思議。

2.「中国人にネットで売る」  徐向東著  東洋経済新報社  7月14日
  副題 : 「2つの“ネット”の正しい使い方、つくり方」
  帯の言葉 : 「中国13億人の消費パワーを取り込め!」
 この本には、ネット販売のノウハウが数多く紹介されている。私も、中国のバブル経済崩壊前に、手っ取り早く小銭を稼ごうとする人には、ネット販売は格好の手段だと思う。その点ではこの本は良い指南書である。とにかくネット販売は、投下資本が少なくて済み、中小零細企業が中国市場に進出するには、都合がよい。しかしそれだけに大激戦で、価格がとびきり安いか、オンリーワン商品でなければなかなか売れないようである。最近では日本の大手企業も中国のネット販売に進出をしようとしており、今後の成果に注目が集まっている。私は、中国のネット販売では、「小儲け」はできても、よほどのことがない限り「大儲け」はできないので、大企業が参入するべき市場ではないのではないかと思っている。

 ただしこの本は、上掲の関氏の著作の対極に位置している。徐向東氏は、文中で中国市場をバラ色に描き、「大震災後の日本企業にとって最大の救いは中国の内需」であると持ち上げている。しかも「いま、中国で成功している日本企業は、中流層のボリュームゾーンをターゲットにしたところです。資生堂、キャノン、ダイキン、味千ラーメンなど、規模の大きい商売を展開している企業は、富裕層よりも中流層をきちんと押さえています」と書き、成功例として資生堂を取り上げている。資生堂については、上掲著で当事者の関氏が詳しく書いているように、それは関氏らが悪戦苦闘した結果である。また私は、資生堂が30億円の投下資金を全額回収しきったとは聞いていないし、多額の配当を受け取っているという話も耳にしたことがない。つまり資生堂は「大儲け」の代表例ではないのではないかと、私は思う。

 私は「成功」と「大儲け」とは同義語であると考えているが、徐氏のいう「成功」とはいかなる状態を指すものだろうか、明確に定義をしてから論を進めてもらいたいものである。なお、ここで取り上げられた他社が、中国で「大儲け」していれば、それを日本に配当として持ち帰り、日本国家に税金をしっかり納めているはずなので、徐氏にはそれらを確認した後に、成功例として提示してもらいたいものである。私がなぜ、このようなことに拘るのかというと、関氏が言うように、中国市場で大儲けするということは至難の業であり、それを徐氏のごとくに、「中国市場に進出すれば、どんな企業でも簡単に成功する」というような幻想を振りまくべきではないと思っているからである。

 徐氏は「不動産価値の上昇で一般人も資産家に」なっており、それが中流層のボリュームゾーンを形成しているので、その層をターゲットにすれば成功すると書いている。また「かつて日本で起きた不動産バブルでも、うまく不動産を転がして資産を何倍にも増やした人がたくさん出ましたが、中国も同じような状況です」と続けている。つまり徐氏はここで現在の中国経済がバブル状況であることを認めているのである。もし私が徐氏ならば、バブル経済の崩壊の時期を明記し、できるだけ投下資本を少なくして、バブル崩壊前に中国市場で儲け切ってしまうように勧める。またバブル経済崩壊後には、日本と同様に、「失われた何十年」が来るということも明言しておく。それを言わずして、バラ色の中国市場だけを声高に叫ぶのは、詐欺に等しいと考えるからである。

 いずれにしても「中国は世界の市場」の熱気に浮かされ、閉塞した日本を棄て、そこに活路を見いだすという単純な思考で、中国市場に大金を投下すべきではない。ほぼ回収は不可能だからである。ネット販売のような投下資本の少ないビジネスならば、中国市場への進出も悪くはないが、物流倉庫を作ったり、大々的な展開を図るためなど、資金を浪費してはならない。物流倉庫などは借り物でよいし、中国側の資金を利用するなど、代替手段はいくらでもあるので、とにかく投下資金を限りなく少なくすべきである。日本企業にとって、中国市場に進出することは、「出るも地獄、残るも地獄」であると認識すべきであり、同じ地獄ならば日本に残って奮闘した方が得策かもしれない。

3.「2012年中国崩壊 2014年日本沈没」  浅井隆著  第二海援隊  8月16日
  帯の言葉 : 「インフレが引き金となって中国経済が吹き飛ぶと、世界恐慌が到来!?」

 この本の最後で、浅井隆氏は「迫り来る悲劇にどう対処するか」という見出しを掲げ、「では、生き残りのためには何が一番大事なのか。もちろん健康や家族、絶対にくじけずに生き残ろうという意志が何より大事だ。そしてそれとおなじくらい大切なのが“資産防衛”である。特に現在50歳以下の読者の方の老後は、今までの老後のイメージとはまったく異なると肝に銘じていただきたい。読者諸氏は財産防衛を完璧にしていただきながら、ぜひこれからの激動の時代を生き残っていただきたいと思う」と書いている。
 こんな馬鹿げた文章が、浅井氏の結論であり、この本に書かれている唯一の行動提起である。

 「日本は1億総評論家の時代に入った」と言われるようになって久しいが、「言論の自由」が保障されている民主主義の国としての日本では、事態を無責任に評論するだけの識者が多く、事態を分析しそれに対する解決策を提起し、さらにそれを自ら実践するというタイプの識者が少ない。この本でも浅井氏は、「中国崩壊 日本沈没」と騒ぎ立て、読者の危機感を煽り立てているだけである。この手の評論家がもっとも始末が悪い。なぜならこのような本が結構売れ、その結果、世論をヒステリー化させるのに一役買ってしまうからである。

 浅井氏はこの本に、「2012年中国崩壊 2014年日本沈没」というタイトルを付けているが、その大半は中国崩壊について書かれており、日本沈没について言及しているのは、わずかに10ページほどである。この本もまた「羊頭狗肉」の書である。そのわずかなページで浅井氏は、「そして、日本の運命は」という見出しを掲げ、「世界経済は今、いつ崩壊するか分からない中国バブルという脆い地盤に支えられている。この地盤が音を立てて崩れたとき、日本経済は足下から崩壊して大不況に陥る。その打撃の大きさは東日本大震災の何十倍、何百倍にも匹敵するだろう。…(略)。もちろん日本の国家破産が2014年に来るかどうかは断言できない。…(略)。遅くとも2015年、2016年頃には日本が最終的な破局へ向けての坂道を転げ始めることだろう。…(略)。そしてすべてのきっかけになるのが、中国バブル崩壊による世界的な大不況なのである」と書いている。こんな予測ならばだれにでもできるし、場末の占い師でも、もう少し気の利いた見立てをすると思う。

 われわれが為さねばならないのは、世界が大不況にならないように、また日本がそれに巻き込まれないように、中国のバブル経済をソフトランディングさせるための方策を考えだし、それを実践に移すことである。無い物ねだりだとは思うが、浅井氏には次回作で、ぜひその戦略を披露してもらいたいし、実践結果を報告してほしいものである。

 浅井氏は中国政府や中国メディアの発表する統計数字などに対して、「数字はすべて操作されている」と書き、「中国で嘘でないものは詐欺師だけ」と悪態を吐いている。それでいてその信用できない政府発表の統計数字などを使って、「2010年に発生した集団事件は少なく見積もっても18万件に達しているとのことだ」と書き、自説を補強するために、ちゃっかり利用している。また「一人の市民の死で7万人が蜂起する国」という見出しで、2009年に湖北省石首市で起きた事件を取り上げているが、それは真っ赤な嘘である。私はこの事件を現場で検証してきたが、集まったのは1万人ほどで、そのほとんどが野次馬であった。「7万人」という数字もでたらめであり、集まってきた野次馬を「蜂起」などと表現するのは、愚の骨頂である。

4.「中国のジレンマ 日米のリスク」  市川眞一著  新潮新書  8月20日
  帯の言葉 : 「覇者か? 敗者か?  気鋭のストラテジストがデータから世界経済を読み解く」

 クレディ・スイス証券のチーフ・マーケット・ストラテジストという肩書きを持つ市川眞一氏は、「本書においては、中国政府の発表する数値について、不完全ながらも概ね実態を反映しているとの基本前提に立って議論を進めることにする」と書き、「本書は、今後5年間に起こり得る世界経済の行方について、中国、米国を中心としたシナリオを提示することにより、日本への影響、そして準備すべき戦略の注意点を喚起することを目的としている」と記している。私は、前掲の浅井氏ではないが、やはり中国政府発表の数字を検証することなく鵜呑みにすることは、その分析結果を大きく誤らせることになると考えている。またその数字の隠されているマジックを読み解かなければ、中国の実態を正しく見ることはできないと確信している。私はこの本を読んで、現場を知らない証券会社の戦略家の正体を、あらためて知った次第である。このような人たちの口車に乗って、多くの一般投資家が大損をするのであろう。

 まず市川氏は、「なぜ中国は金融危機に強かったのか」という見出しを掲げ、4兆元の財政支出の規模とその決定の迅速性の二つをその理由としている。これは大きな誤りである。今までに私が繰り返し書いてきたように、胡錦濤政権はすでに2008年6月時点で、破綻に瀕していた中国経済を浮揚させるために政策転換を行い、大胆な経済刺激策を行っていたのであり、そこに金融危機が襲ってきたので、財政出動規模が極端に膨らんだだけである。迅速でもなんでもなく、いわば他国より1周早くトラックを走っていただけなのである。

 次に市川氏は、「中国はバブルではない」と言い切り、その根拠に、@外貨準備が圧倒的な額である、A家計の貯蓄率が高水準で国内に金融資産が蓄積している、B国家財政が健全である、と3つを上げている。しかしこの3つとも、その実態はきわめて疑わしいものであり、中国国内の識者の間でも問題視されているものである。まず外貨準備について、市川氏も認めているようにその大半は貿易黒字を背景にしているが、それはもともと外資企業が稼ぎ出したものであり、中国政府の手に帰するものではない。次に家計の貯蓄についても、それらの大半がインフォーマル金融などの原資となっており、バブルの元手に化け、すでに実際に庶民の手元にはなく、頼みの金融資産は露と消えているのが実態である。さらに地方財政は窮地に追い込まれており、中央政府にとっては、これを解決するのが喫緊の課題であり、とても財政が健全であるとは言い難い。

 また市川氏は不動産価格について論じているが、不動産とは土地と住宅の両者を指し、中国では土地の価格はさほど値上がりしていないけれども、マンション価格のみが高騰しバブル化しているという現実をご存知ない。このマンション価格が10倍ほどに跳ね上がり、一般の中国人では絶対に買えない価格になってしまった現状を、政府発表のわけのわからない統計数字を基にして、バブルではないという方がどうかしている。市川氏には、ぜひ上海でマンションを数室購入し、それを貸し出したり、転売することによって大儲けし、バブルでないことを証明してもらいたいものである。

 市川氏は第2章で、「13億人を超える中国の人口は、潜在的な消費需要により、世界のビジネスを惹き付けている。近年においては、それが中国の政治力・外交力の源泉と言っても過言ではない」と書いている。市川氏にしては、これは中国市場への幻想が、無償援助としての外資を大量に誘い込んでいる現状を、正しく把握しているといえよう。しかしそのせっかくの視点も、「表面的には盤石に見える中国経済だが、実はジレンマに陥りかけている。成長率を高く維持しようとすれば、自らの需要拡大が資源価格を高騰させる。その結果、国内には強いインフレ圧力が生じ、対外的には輸出競争力が低下するリスクに晒されかねない。資源輸入、製品輸出型の経済構造である以上、資源価格高騰は製造コストの上昇要因だ。影響を抑止するためには、資源効率を上げなければならない。ただし、そのための投資が新たなコストを発生させ、効果が出るまでに時間も必要となる。一方、経済成長率を落とせば、高成長を前提に形成されている不動産など資産価格を支えられなくなり、“バブル崩壊”の可能性も否定できない。より深刻な問題は、生活水準の向上が遅れるため、豊かな暮らしを求める国民の不満が、一党独裁の共産党政権に向けられる懸念が強まることである」という月並みな文章で、かき消されてしまっている。

 中国はケ小平の改革開放以来、他国の力をきわめて上手に利用し、多くの困難を他力依存で乗り切ってきた国である。現在、市川氏の指摘するジレンマも、中国政府は市場開放という餌で、外資の無償援助を大量に取り込むことによって、解決しようとしているのである。

 第3章で市川氏は、昨今の中国でのストライキの頻発を取り上げて、戦後日本の労働争議多発時代との類似性を論じている。ここで市川氏は、2007年末の新労働契約法の施行に一言も触れていない。市川氏が、現在の中国が人手不足であるということをまったく知らないことは許したとしても、現下のストライキ問題を語るときに新労働契約法について言及しないということは、すべてがそこから生起しているだけに、まさに市川氏には中国を語る資格がまったくないということである。

 市川氏は、「さらに重要な点は、70年代後半における産業構造の転換に他ならない。特にエネルギー効率は驚異的な改善を示した。…(略)。エネルギー効率が向上した背景は、“重厚長大”から“軽薄短小”への主力産業のシフト、さらには高付加価値品への特化などが主だ。オイルショックの衝撃があまりにも大きく、官民挙げて省エネに取り組んだ成果と言える」と書いている。これは正しい。しかし残念なことに、「所得格差や公害問題、そして旺盛な資源需要、高度経済成長特有の問題は、今、中国においても顕在化しつつある。つまり、近い将来、70年代の日本が経験したのと同様の試験を受けることになる可能性は非常に強い。その時、多様な民族と文化、13億人を超える人口、一党独裁の政治体制、これらが絶妙なシンクロを見せて経済構造の転換を為し得るか否か、隣国として警戒と興味を禁じ得ないところである」と書き、その予測をはぐらかしている。

 日本が産業構造の転換に成功した要因の一つは、市川氏が指摘しているように、「官民挙げて省エネに取り組んだ成果」である。現在、中国では、大々的な「官民挙げての省エネ」は行われてはいないし、政府はそれを呼びかけてもいない。中国政府は、大金をばらまいて世界中で資源を買い漁り、中国人民や企業に供給しようと躍起になっている。中国政府は、中国人民や企業に、耐乏生活を強いてはいない。これでは省エネという逆バネで産業構造の転換を成し遂げた日本の真似をすることは不可能である。せっかく省エネという視点に着目したのだから、市川氏には、「中国には日本の真似はできない。産業構造の転換はできない」と言い切って欲しかった。


読後雑感 : 2011年 第20回 
15.SEP.11
1.「忘れられた王国」
2.「中国東北部の“昭和”を歩く」
3.「軍艦島に耳を澄ませば」
4.「中国が読んだ現代思想」
5.「本に寄り添う」 


1.「忘れられた王国」  ピーター・グラード著  由井格監修/佐藤維訳  社会評論社  6月25日
  副題 : 「1930〜40年代の香格里拉・麗江」
  帯の言葉:「1940年代、中国工業合作社の若きオルガナイザーが活動拠点とした雲南省麗江の少数民族の生活・風俗・文化の記録」

 この本はチベット民族問題に関心のある人にとっては、文中の随所で1940年代のチベットの状況が浮き彫りにされているので、研究の格好の材料となること請け合いである。しかしおそらくこの本は、少数のマニアにしか売れず、この本の出版関係者に大きな利益をもたらさないだろう。それを承知の上で、この本を刊行された関係者に敬意を表すると同時に深く感謝する次第である。

 著者のピーター・グラード氏は、20世紀初頭のロシアで生まれモスクワで育った(一時期はパリ)ロシア人である。彼はロシア革命の動乱に巻き込まれ、母と共に故国を棄て、ウラジオストック経由で上海に逃げ、杭州の道観で修業し、その後中国内で幾多の職業に就き生き抜いたという変わり種である。この生き方を聞いただけでも驚嘆に値するが、グラード氏はさらに中国工業合作社のオルガナイザーとしての職を得て、雲南省の麗江市に赴任する。そこで納西族やチベット族など多くの少数民族と触れあい、合作社を成功させていく。さらに最後は共産党の麗江市の「解放」と共に、そこを去って行く。グラード氏はこの本で、彼が接触し肌で感じた多くの少数民族を生き生きと描き出している。なお彼は医術の心得があり、それを活用して多くの少数民族に溶け込んで行った。近代中国の歴史の裏側を楽しく生き抜いたロシア人の生き様はおもしろい。

 グラード氏はチベット族について、次のように書いている。一つの見方として、それは多いに参考になる。
・中国の沿岸部は日本の占領下にあり、ビルマも早々に陥落していた。したがって、中国が外国との通商を図るための交易都市は、二つしか残されていなかった。雲南省の麗江と西康省の康定である。仕入れ先はカリンボンで、そこまではカルカッタとボンベイから鉄道で運ばれた。一大中継基地となったのはラサで、生粋の商人と化したチベット政府、ラマ僧、僧院長、庶民は千載一遇の好機が目の前に転がっているのを一瞬でも逃すまいとしていた。使える資金が瞬く間に集められだけ集められた。聞くところによると、ダライ・ラマの莫大な個人資産まで莫大な利益の上がる事業に注ぎ込まれた。
・カム地方には強盗や無法者の集団が蔓延っていた。チベットと中国による二重支配が悪い方に働き、こうした好ましからざる者たちを生み出していた。…(略)。カムパがすべて強盗というわけではない。多くは信頼のおける者たちだった。チベットの強盗団は代々それを生業としていて、たいていは特定の部族や一族の者に限られていた。正確な情報が不足しているせいで、チベットと言えば、単一民族で、習慣や宗教を同じくし、言語や服装も一緒で、みなダライ・ラマに固い忠誠を誓っていると思われていた。だが実際は違っていた。たくさんの民族や集団にこまごまと別れていて、封建制度に基づいた王国や公国を作り、中央政府に忠誠を誓い、聖なる存在であるダライ・ラマに、兵士を差し出し、年貢や豪華な贈り物を送ることによって承認を得ていた。…(略)。木里、ボンディラ、理塘はチベット族だけが住んでいたわけではないが、みな熱心なラマ教信者で、続々と産出される金は、為政者のもとへ運ばれ、引いてはダライ・ラマの財産となった。
・チベット人は本来激しやすく、熱しやすい民族だし、熱烈な宗教心の発露から僧侶になった者は少なく、大多数は神権政治体制の中で安全と地位を約束してくれる唯一の道を実情に即して選んでいるだけだった。息子がふたりかそれ以上いる家庭なら、ひとりをラマの寺院へ修行の出すが、期待や動機の面で言えば、西洋の貧しい家庭が息子を大学に送るのと同じだった。チベットは見事に民主化された国だった。政府組織は神権政治を忠実に行い、貧しさが出世に支障をきたすことはなく、頭脳明晰で強い意志さえあれば、チベット王国の最高位に就けた。

 またグラード氏は黒イ族について、その凶暴な生態を詳細に書いている。下記にその一部を抜粋しておく。この黒イ族はまたの名をロロ族と言い、紅軍は長征中、劉伯承総参謀長の機転により、ロロ族の部族長の小葉丹と鶏の血をすすり、義兄弟の契りを結び、この地を無事に通ったという。

・戦場での黒イ族は狂暴で残忍、死や苦痛を喜び、戦術に長け、電光石火の奇襲攻撃は中国西部からタイ国境までの全ての民族を震え上がらせた。
・貴族階級である黒イ族は厳しい階級制度を守り、重大な違反はときに死を持って償わせた。男女とも耕作や卑しいと考える仕事は一切行わず、食事の給仕すらしなかった。男は幼少のころから戦闘術を学び、女は羊毛を紡ぎ、チャルワを織り、服を縫い刺繍を入れ、家庭を守った。だが、他の仕事はすべて古代スパルタでいうところのヘロットである奴隷である白イ族が行った。
・黒イ族は中国から送り込まれる討伐隊を喜び勇んで迎え撃った。騙したり、謀ったりして、討伐隊を森林や山間の道に誘い込み、待ち伏せ攻撃をした。古くから、中国はことあるごとに黒イ族に攻撃を仕掛けて来た。しかし戦いに終止符を打てず、一度として、打ち負かしたり、敗走させたりすることができなかった。
中国建国前に、グラード氏は麗江で合作社のオルガナイザーをやっていたという。その合作社について、監修者の由井氏は解説で下記のように書いている。これもまた非常に貴重な指摘を含んでいる。
・近代中国の協同組合運動は、1919年の「上海国民合作貯蓄銀行」からはじまるといえる。20年末になると、27年に成立した国民党政府による農村改革を視野に入れた協同組合運動が開始されるが、実権を富農地主層に握られたため発展しなかった。(共産党の解放区では、手工業者、農民の組織化の機関となり、58年以後人民公社に発展)。
・1937年8月、日本軍は上海で軍事行動を起こし、上海の工場に大打撃を与えた。当時、国際協同組合連合とも連携していたニュージーランド人レウィ・アレイは、…(略)日本軍の破壊から中国の産業を守り、労働者を守るため、日本軍の手の届かない地域への工場の移転と、民主的企業=工業合作社の建設を呼びかけた。38年日中戦争が激化してくると、アレイは抗日戦争支援のため宋美齢と相談し、中国工業合作社本部に加入するため漢口に移った。アレイは39年には延安で毛沢東と会談し、陝西省中国共産党支配地域での合作社創設にも大きな貢献をした。

2.「中国東北部の“昭和”を歩く」  鄭銀淑著  東洋経済新報社  7月28日
  副題 : 「延辺、長春、瀋陽、大連 韓国人が見た旧満州」
  帯の言葉 : 「日本人、朝鮮人、中国人はどんな暮らしをしていたのか? 間島・新京・奉天・大連・旅順 戦争を知らない世代が見た旧満州の残像」

 この本の著者の鄭銀淑氏は1967年生まれの韓国人であり、日本に留学し日本語を学び、現在はソウルで執筆、翻訳、取材コーディネートを行っている。その若き鄭氏が、旧満州を歩き、韓国人の目から見た当時の残像を描き出したのが、この本である。彼女は、はじめにで、「日本には旧満州に関する多くの書物がある。この本が既存の本と違うのは、“2等国民”だった朝鮮人には満州がどのように見えていたのかを意識して書いた紀行文である点だ」と書いている。以下に本文中のそのような部分を抜き出して紹介する。鄭氏の若さのせいか、この本は深みに欠けるが、現代韓国人の旧満州観を知るには価値のある1冊である。また鄭氏は本文中で「100年前の民族大移動、100年後の民族大移動」という文章を書いている。これは民族問題と経済問題が密接不可分な関係にあうことを理解する上で、たいへん参考になる文章だと思う。

・「朝鮮人は2等国民だった。1等国民は日本人で、3等国民は中国人だ。食糧配給だけをみても、日本人・朝鮮人・中国人の間には差があった」。
・「青森県から10戸の日本人が渡って来ました。日本の開拓団は満州で大変な苦労をしたといいますが、国から服が支給されるなど、朝鮮人に比べれば恵まれていましたよ。彼らはまるで軍人のような規則正しい生活をしていた記憶があります」。
・一方、「1等国民」の地位を享受した日本人にも苦労はあったようだ。生活の面で、他民族に対してすべてが模範にならなければならないという息苦しさがあったという。
・「中国人たちは、朝鮮人移民は日本の大陸侵略のアブザビ(走狗=手先)だと信じていた。これは国民党系であれ、共産党系であれ、満州内の中国人たちの朝鮮人に対する一般的な見解だった」。
・「満州の朝鮮人は、日本人と中国人の間にはさまれて大変でした。中国人は朝鮮人を日本の走狗という意味で、“コッリバンズ”と罵りました」。“コッリ”は「高麗」、“バンズ”は「棒」を意味する中国語。日本人、中国人、朝鮮人など多様な民族が共存した満州で、日本人と中国人の間にはさまれて通訳などをするのは、両方の言葉ができる朝鮮族が多かった。一説によれば、中国と日本をつなぐ棒という意味で“コッリバンズ”と呼ばれたという。必ずしもいい意味ではなく、「日本の走狗」と同様に否定的に使われたようだ。
・この話を知った私は、満州政府が「理想」のために建てようとした宮殿を完成させて使っている中国人の実用主義的な歴史観に驚かされた。これは長春をはじめ旧満州の大都市に多くの満州時代の建築物がそのまま使われていることと無関係ではないだろう。建物には何の罪もないけれど、多くの建物を「過去の清算」、「消したい歴史の傷」の対象として撤去した、かつての韓国とはずいぶん違う。
・当時、朝鮮社会では「満州でアヘンで儲けた」という話がよく聞かれたという。貧しかった朝鮮人が金になるアヘンの生産と密売に多く関わっていたという話は事実として伝えられている。朝鮮人のアヘン密売は日本の「アヘン政策」遂行過程で利用された面もあったが、朝鮮人に対するネガティブなイメージを生み、批難の対象にもなった。
・毎年9月18日になると「勿忘国恥(この屈辱の日を決して忘れまい)」を趣旨とする記念行事が全国で開催され、反日示威運動が行われる。「3・1節()独立万歳運動の日」、「光復節」は韓国人ならだれでも記憶している記念日だが、「庚戌国辱」を覚えている人は少ない。韓国と中国では、歴史の受け止め方が違うのだろう。
・初期の移民は、稲作の経験のない朝鮮北部の農民が多かったため、畑作をした。その後、咸鏡南道定平郡や朝鮮南部から稲作を知る移民が入ってくると、渓谷の湿地や水利に便利な場所に水田が開かれ、稲作が盛んになった。手つかずの沼地や窪地を水田に変え、東北の寒さを乗り越えて、稲作を成功させた朝鮮人を見て、中国人は驚いたという。打ち捨てられた土地、何の役にも立たなさそうな土地が、豆やトウモロコシなどの雑穀よりもずっと儲けになる米がとれる肥沃な土地に変わっていったのである。稲作を知らなかった中国人も、朝鮮人から学び始めたり、小作人として雇ったりした。東北地方の近代稲作は、朝鮮人たちによって始まり、盛んになったと言っても過言ではない。

 なお鄭氏は第2章で、私の工場のある吉林省延辺朝鮮族自治州琿春市を取り上げ、北朝鮮との国境にある「圏河税関」を訪ね、タクシー運転手からの聞き取りとして、「私はいつもここから北朝鮮に入ったんです。羅津・先鋒までは50キロですが、舗装されていないので2時間くらいかかります。羅津はすごいですよ。カジノホテルがあって、多くの人が遊びに行ったものですが、今はなくなったようです。体を売る女性もいましたね」という話を紹介している。鄭氏の文章はこれで終わっているので、私がこの話をもう少し補足しておく。カジノホテルは香港資本の経営であり、お客は中国政府の役人が多く、そこがあまりにも有名となり、公金を大損する地方政府の役人が続出したので、中央政府が彼らを北朝鮮へ出国禁止政策を取ったため、ホテルの客が激減し、5年ほど前に閉鎖に追い込まれたのである。さらに言えば、そこで売春をしていたのは瀋陽出身の中国人女性がほとんどだった。鄭氏にはここまで突っ込んで書いて欲しかった。これが鄭氏のこの本の記述の限界であると認識した方がよいかもしれない。

 さらに鄭氏は「琿春事件」について言及している。「琿春事件」とは、1920年10月に400余人の馬賊団が琿春を襲い、日本領事館や商店を焼き討ちし、100人余りを拉致した事件である。鄭氏は、事件後ただちに日本は、「“日本人の人命と財産を保護する”と言う名目で、中国当局との事前交渉や連絡もないまま大規模な兵力を投入し、朝鮮人の反日運動を弾圧する理由を手にしたのだ。この絶妙なタイミングゆえ、琿春事件には裏があると言われている。韓国では、この“事件”が日本によって周到に準備されたという説が唱えられている」と書いている。ちなみにこの「琿春事件」について最近の研究では、「日本軍の陰謀はなかった」というのが定説となっており、韓国人の研究者の間でも、「あれは馬賊の襲撃であった」と言われている。

 また鄭氏は本文中で、図們市の「ソ連紅軍烈士碑」、龍井市の「加藤清正公兀良号哈政伐追思碑」、延吉市の「15万ウォン奪取事件」現場、大連市の「旅順日俄監獄旧址博物館」などを紹介しているが、私はまだそれらを見たことがないので、できるだけ早い機会に見に行きたいと思っている。

3.「軍艦島に耳を澄ませば」  長崎在日朝鮮人の人権を守る会  社会評論社  7月31日
  副題 : 「端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録」

 この本は戦時中に、端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録集である。このところ旧満州や太平洋戦争に関する本が多く出版されるようになっており、今まで隠されていた事実が掘り起こされ、証言として語られるようになってきた。シベリアに抑留され「酷使」されて死んでいった多くの日本人の被害者としての状況なども、当事者たちの証言とともに明るみに出てきた。この本は戦時中の日本人の加害者としての蛮行を赤裸々に告発している。多くの読者の目に触れてもらいたい1冊である。そして現代に生きる私たちは、歴史を真摯にながめ、被害者としも加害者としても、再びこのような愚行を繰り返さないために、何を為さねばならないかを真剣に考えなければならないと思う。以下に本文中から、要点を抜粋して紹介する。

・三菱(岩崎弥太郎)は明治14年に高島炭鉱をその所有とした。1890年9月11日に、この端島を金10万円で買収。
・1955年をピークに,石炭業界は慢性的な不況に陥り、1974年1月15日の端島鉱は閉山という形で終わった。
・今や無人島の端島。遠く見れば戦艦「土佐」に似ているとかで、「軍艦島」の異名を持つこの小島は、長崎港の沖合に浮かぶ島々の、とりわけ小さな一つの島に過ぎない。周囲わずか1.2km。それを高さ10m余りのコンクリートの防波堤が取り囲み、島全体に高低のビルが所狭しと林立する様は、まさしく軍艦さながらの不気味な「緑なき島」である。
・地図で見ると端島は豆粒ほどに小さい。この島に戦時中約500名の朝鮮人がいた。その数は隣島の高島と比べても7分の1に過ぎない。しかし、この端島での朝鮮人の生と死のすべてが私たちに問いかける意味は重く、端島は日本全土、全戦域を写し出す鏡と言えると思う。かつてのあらゆる産業、軍事地点に強制動員され消耗品のように使い果たされた朝鮮人の血と涙の生と死は軍艦島、地獄島との異名を持つこの端島に凝縮された姿を見いだすことができよう。
・端島の歴史から強制連行、強制労働の史実を消し去ることはできない。私たちは「軍艦島」の《世界遺産》化に反対するものではないが、戦時中の暴虐の歴史を隠蔽してその実現を図ろうとする風潮を容認することはできない。《近代化産業遺産》というとき、日本の近代化が侵略と表裏一体であったことを忘れてはいけない。端島はその近代日本の縮図と言っても過言ではない島である。また《世界遺産》とは、アウシュビッツがそうであるように、歴史の暗部をも教訓として普遍的な価値とするものであり、正しい歴視認識を踏まえない限り《世界遺産》への登録はありえないことである。
・1983年7月の時点で、私たちは、日本の敗戦前後で強制労働させられていた朝鮮人および中国人捕虜たちは約750名と推定している(朝鮮人500名、中国人250名)。

・日本は今や世界第2位の経済大国にのし上がったが、それは名もないアジアの人々の犠牲の上に成り立ったものであり、端島という絶海の孤島に連れ込まれて連日連夜「酷使」「虐待」に明け暮れ「残酷死」した、これらの罪のない中国人の犠牲を押さえ込んで、それに対する過ちを認めず、反省もせず、戦後を突っ走ってきたからである。朝鮮と台湾を植民地支配し、中国、東南アジア等を侵略しつづけて、その過程で大量の中国人を日本に強制連行し、強制労働させ、悲惨な死に追い込んでいった。このようにして日本政府、独占資本三菱に殺された中国人労働者に対して、政府と国会と企業は正式に侵略、植民地化、奴隷労働、虐待死への謝罪と反省を表明し、具体的な賠償、補償を行い、平和と非戦を誓うべきである。

4.「中国が読んだ現代思想」  王前著  講談社選書メチエ  6月10日
  副題 : 「サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで」
  帯の言葉 : 「日本の120年を30年で駆け抜ける! 貪欲な受容と激しい思考」

 この本は難解である。哲学に素養のない私には、読み通すだけでもかなりたいへんであった。したがってこの本の内容がしっかり理解できたわけではない。しかし文革以後の、中国の思想界の動きについて、おぼろげながら理解することができた。著者の王前氏は、1980年代にヒューマニズムを希求する中国思想界に一大サルトルブームが起きたと言い、「何と言っても、あの何でも学ぼうというエネルギッシュな姿勢は凄まじかった。当時の人々の口癖は“文革などによって失われた歳月を取り戻したい”であり、みんな貪欲に知識や思想の吸収に励んでいた。当時の公立図書館は早く行かないと入れないぐらい、いつも勉強に励む人で埋まっていた」と回想している。その後天安門事件を経て、その風潮は大きく転換し、「1992年のケ小平の“南巡講話”を境に、GDP増加という目標を目指して脇目も振らずに猛進し始めたのは周知の通りである。だが、経済発展と連動する形で拝金主義が蔓延し、国民のモラルの低下が嘆かれている。イデオロギーは国を統治する正式の思想としての地位は失っていないが、普通の民衆にとっては、マルクスやエンゲルスは遠い世界の偉人で、自分たちにとって重要なのは、経済でありお金である。役人は評価されたければ、いちばん目に見える成果はGDPである。これがこの時代の雰囲気であり、価値観の中核である」と述懐している。

 王氏は、エピローグで「この2、3年間中国の論壇を騒がせている話題の一つは、中国式発展モデル、すなわち“中国モデル”があるのか、あればその特徴は何なのかという議論である」と書き、「中国のこの30年間の思想界の努力もその過渡期から抜け出すための重要な一環である。どんな結果が生まれるか、どんな新しい思想が中国に現れるか、言うのは時期尚早だろう。困難も伴うだろうが、これまでのような経済発展が止まらない限り、普遍的な価値観を導入しつつ、少しずつ中国社会がより開かれた世界となれば、また新しい展開が見られるはずである。筆者はそこに賭けて、希望を見出したい」と結んでいる。私はこの筆者の願いがわからないでもないが、天安門広場の孔子像のおそまつな顛末から考えれば、中国思想界の新たな展開には、まだ相当な時間が必要なのではないかと思う。

5.「本に寄り添う」  張競著  ピラールプレス  5月28日
  帯の言葉 : 「読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した本書は、世界をもっと広げるための“知”の読書案内である」

 この本は中国人の張競氏の書評集である。この書評を通じて披瀝されている張氏の思想からは学ぶべきものも多い。ただし張氏は「政治には興味がない」と言い切り、この本で取り上げているのは文芸書・哲学書の類がほとんどである。私にはこの種の書評集を発刊する意味がよくわからないし、またこの本がたくさん売れて、著者も出版社も大儲けできるとは、とても思えない。

 張氏は、あとがきで、「書評の目的は読者に読む気を起こさせ、本屋で購入させることである」と書き、続けて「内容批評は書評のかなめの部分であり、評者の力量が問われるところである。貶すのは簡単だが、良いところを見つけ出すのは難しい。不足点の指摘は本来望ましい。ただメディアの影響の大きさを考えると、むきだしの言葉で批判するのも考え物であろう。第一、日本の精神風土にふさわしくない。ましてや罵詈雑言はもってのほかである。鋭い批判をいかに柔らかな表現で包み込むかはつねに大きな課題となる。だが春秋の筆法がどこまで真の意味を伝達できるかが問題であろう」と記している。

 私が粗削りな読後雑感を書き続けているのは、毎月、洪水のごとくに発刊される中国関連本について、読者各位に選択材料を提供するためである。私の文章は独断と偏見に満ちた悪文であり、「鋭い批判を柔らかい表現で包む」というような高尚なものではない。私にはそんな能力もないし、それを推敲している時間もない。いつも悪文で申し訳けないと思っているが、とにかく時間との勝負だと思っているので、ご容赦願いたい。こんな悪文でも、先日、ある大学の先生から、「労作なので、これをまとめて出版したらどうか」とのお声をかけていただいた。私は本当にうれしかった。