中国観察記 林 一氏からの便りR

昆明「3.01事件」--現場からの報告


  昆明「3.01事件」--現場からの報告
2014年3月31日
 (1)昆明「3.01事件」に異常接近していた

 上海−貴陽−昆明−重慶−上海と、在来線の二等寝台に乗ってぐるっと回る計画(総距離約6000キロ、総乗車時間約90時間)をたてた私は、2月28日午後8時26分貴陽発のK671次列車に乗り、定刻通り3月1日午前5時30分、まだ夜の明けない昆明駅に着いた。

    
                    夜明け前の昆明駅

 初めての都市に着く時はいつも緊張するが、特にこの時は夜明け前の暗いなかでの到着なのでなおさらだった。しかしそのような不安はすぐに消し飛んだ。18輌編成の列車から降りた1000人を超えるだろう乗客が降車口からゾロゾロと出ると、たくさんの様々な客引きが群がってくる。乗客の中には暖かい雲南省の観光地を目指すツーリストも多くいるからだ。駅前通り沿いの食堂、コンビニ、土産物屋も開店しているし、公共市内バス、中距離バスも待ち構えている。長い箒を気のない様子で左右に動かす道路清掃員も仕事を始めていた。

 私の泊まるホテルは、昆明駅から旧城にある市街地に通じる道幅の広い北京路を300メートルほど北上した所で直角に交差する永平路を東に100メートルくらい行った所にある。つまりホテルから昆明駅までは徒歩5、6分の距離だ。後にわかることだが、昆明駅で凶行に及んだ暴徒は、北京路と永平路の交差点で男4人が射殺され、女1人が逮捕されることになる。犯人が逃走の途中でのことなのかあるいは群衆を追ってこの交差点に至ったのか、それはわからないが、その夜の9時過ぎのことであった。

 私はホテルに行く途中で、熱心に口説く客引きに根負けし、その日の「昆明一日ツアー」に参加することにした。ホテルにリュックサックを預け、永平路にある観光バスの発着場所を確認した後、すでに夜が明けていた中、再び昆明駅に行った。駅ビル1階にある「dicos'」(「マクドナルド」のような業態で、地方都市に多い。最近の「マクドナルド」の接客姿勢に崩れ、乱れを感じるのに対して、「dicos'」の接客姿勢には好感を抱いていた)でコーヒーを飲みたかったからだ。しかし「dicos'」は超満員で座る場所が見つかりそうもない(待合室替わりに利用する客も多いようだ)ので、駅前を散歩し切符売り場を確認した後、観光バスに向かった。

    
                       昆明駅前

 安いものには安いなりの理由があると思い知らされた「一日ツアー」(昼食付きで100元=1700円、昼食後はプーアール茶、宝石、花卉と化粧品の三ケ所の露骨な買物勧誘ツアー)が終わった午後6時頃、私はまた昆明駅に行った。重慶行き切符の販売状況を電光掲示板で確認しておきたかったからだ。その日は疲れていたので、購入は翌朝と決めていた。切符売り場は中国の大きな駅ならどこにも見られるもので、大きなホール状の空間の前面に十幾つかの販売窓口がズラッと並んでいる。各列20、30人位が前方の窓口、電光掲示板を見つめている。私も電光掲示板の画面変更をじっと追っていた。つまり300人を超える人々が一様に前方方向を向いている。と言うことは、切符売り場の出入り口となる後方に対してはほとんどの人が無防備なのだ。このような状況下で暴徒は突如として、長刀を振り回し後ろから人々に襲いかかってきたことになる。その後私はしばらく背後が気になってしかたなかった。

 日が暮れ出した午後7時頃、私は北京路、永平路を歩き、途中で食事をしてホテルに戻った。事件発生時(午後9時10分頃)、私は「知らぬが仏」よろしく、いつものようにテレビを見ていた。銃声も、群衆の悲鳴も、パトカーのサイレンも全く聞こえなかった。

 (2)事件発生の19時間後に初めて「3.01事件」を知る

 翌朝7時頃起床し、いつものようにテレビをつけたが「3.01事件」の報道はなく、いつも通りの朝だった。ホテルのフロントでも何の変化も感じなかった。ただ北京路と永平路の交差点はロープが張られ、永平路と昆明駅間の北京路は封鎖され、車が数珠つなぎになっていた。しかし歩道には人が溢れ、昆明駅へ向かって流れていた。駅に近付くにつれて警官の姿が増え、テント張りの臨時待合所はロープが張られ封鎖されていた。また迷彩服を着た武装警察官が腰だめの位置に機関銃を構え整列して歩いていた。私はこのような光景を見ても、昨夜この場で凄惨な事件が起こったことに全く思い及ばなかった。9時頃切符売り場に着き(私はなぜか切符の販売は9時からと思っていたが、実際は8時からだった)、20人位の列の後ろに並んだ。人々の様子も普段通りで、広い切符売り場にも、後に写真で知ることになる血生臭い光景を思わせる痕跡は何もなかった。

 20分位で切符が購入できホッとして、駅を出て駅前通りまで来ると多くの人が立ち止まっている。私は隣の青年に「何ですか」と聞いたが、その青年は「私も分からない」と答えた。すると後ろにいた中年の男性が小さな声でその青年に話しかけた。その瞬間、青年の顔付きが変わった。話を聞いた青年が私の方を向いたので、私は「領導」が来るのですか(私はその物々しい警戒は党・政府の偉い人すなわち領導が到着あるいは出発するためのものだと思い込んでいた)」と聞くと、その青年は少し怖い顔をして「違う。新疆人、男、30才、人を切る・・・」と答えて立ち去った。私は新疆人の男性が加害者か被害者の「事件」があったのだと理解したが、無差別大量殺人とも言うべき「テロ事件」が起こったとは、その時でも思わなかった。周囲の中国人は口コミで私より事態を深く知っていただろうが、事件の想像を絶するような悲惨さはまだ理解していなかったのではないだろうか。

 私はその日、路線バスに乗り1時間半位の所にある昆明の「新城」を見る予定だったので、その場を離れた。バス停付近の様子、バスの中の雰囲気もいつもと変わりなかった。後日、新聞には「2日朝の昆明駅は昨夜の『テロ事件』にも屈せず人々は冷静に行動し秩序が保たれた」という趣旨の記事が載った。しかし、事件発生からおよそ12時間後の昆明駅で大勢の人に混じって切符を買った私の体験からすると、その記事には釈然としないものを感じた。

 
        駅前に置かれた供花、取り巻く人々                  駅前からのレポートを収録するテレビクルー

 その日の予定を終えて午後4時頃再び昆明駅に戻ると、雰囲気が明らかに違っていた。駅前広場のケバケバしい黄金色の「雄牛像」の前には供花が置かれ人だかりが出来ているし、テレビのレポーターがカメラに向かって喋っている。私は新聞を買おうとしたが、どこにも見当たらない(その朝も新聞を買いたかったが、新聞はなかった。2日の朝刊は発行されたのだろうか。もし発行されていたとしても、号外の発行が2日午後であったことを考えれば、「テロ事件」の報道はなかったのではないか)。そこでホテルに帰ってテレビを見ようと思い、通りを歩いていると屋台の男性が新聞を読んでいた。彼に「新聞はどこで売っているのか」と尋ねると、彼は指で教えてくれた。見ると人だかりがあり、頭上に新聞が何枚か見える。売り切れになってはと走っていくと、「号外」らしき薄い新聞を無料で配っているので慌てて一部手に入れた。「雲南信息報」という新聞で、「昆明駅発生 厳重暴力恐怖事件 已造成29人遭難、130余人受傷」という見出しが目に飛び込んできた。「暴力恐怖(テロ)事件」現場の至近距離に、4度も居合わせた私が、その事件を知ったのは事件発生から19時間後だった。

  

 (3)号外「雲南信息報」---「党・政」が前面に

                    
         
                       事件を伝える「雲南信息報」(2014年3月2日)

 「雲南信息報」の号外によって私は「3・01事件」の発生を知った。しかしそれはあくまでも速報であり、事件の概要にすぎなかった。発生からまだ間もない時点なので、仕方がないという事情は理解できる。しかし、私がこの号外から受けた強い印象そして大きな違和感は、「党・政」の素早い動きが大きく取り扱われていることだった。以下にそれを簡単に箇条書きにしてみる。

@習近平国家主席が重要指示を出す。
A李克強首相が具体的作業指示を出す。
B孟建柱中央政法委員会書記は3月2日早朝5時30分に飛行機で昆明に到着。すぐに病院に向かい負傷者を見舞う。そして昆明駅で現場を視察し現場作業を指導する。
C 秦光栄雲南省党委員会書記は誰よりも早く現場に急行、現場作業を指示。その後病院に向かい負傷者を見舞う。
D 李紀恒雲南省長は会議出席のため北京にいたので、すぐさま電話で状況を聴取し事件処置を指示した。

 (4)「3.01事件」、発生から40時間後、一挙に解決

 これほどの大事件も、発生から40時間後、すなわち3日午後1時頃、一挙に解決を見た。
 事件はアブドライム・カアルマンを首謀者とするテロ組織による犯行と断じられ、実行犯は8人(男6人、女2人)、その内の逃亡中の3人も逮捕というものだ。このビッグ・ニュースは新華社発だったが、当局による記者発表、記者会見はなかった。一挙解決のニュースはその晩のテレビでも報じられ、タクシーの運転手が「やったー、すばらしい、ほっとしたよ」と親指を立てて叫ぶ姿が印象的だった。考えてみれば、タクシーの運転手が一番怖かったかも知れない。また4日朝の新聞各紙は一面トップで一挙解決のニュースを載せた。しかし事件がトップニュース扱いされたのは5日までで、6日以降の新聞、テレビのトップを飾ったのは3月5日開幕の全人代のニュースだった。この突然の一挙解決をどう見るか。3月5日の全国人民代表大会の開幕(3月3日は全国政治協商会議が開幕)は、党・政府にとっては揺るがすことの許されない毎年恒例の重要な政治イベントであろう。と、考えると、このタイミングは絶妙としか言いようがない。

(5)「3.01事件」に見るマスメディアの報道 

 私が「3.01事件」をまがりなりにもフォローできたのは、マスメディア(新聞、テレビ)のお蔭だ。この体験を通じて改めて思うのは、社会におけるマスメディアの果たす重要な役割である(現代社会ではネット空間の情報発信、伝達が大きな影響力を有しつつあるとは認識しているが、残念ながら私は日本ましてや外国においてネット空間の即時的な情報にアクセスすることは殆どない、出来ない)。であればこそマスメディアには持てる力を存分に発揮して事件の真相に鋭く迫って欲しいと願うばかりである。

 とは言え、どのような政治体制であれ、政府による「報道規制」またマスメディア側の「自主規制」の問題はあるだろう。事件が大きく深刻であればあるほど、両者の軋轢が厳しくなる局面もあるだろうと思う。「3.11 東日本大震災」において日本のマスメディアの報道は100%の自由を持っていたのか。このような政府とマスメディアのギリギリのせめぎ合いは日本だけではなくアメリカ、ヨーロッパ諸国そして中国にもあると想像するは自然だろう。私はそのことをここで論ずるつもりはない。ただ3月3日、4日、5日の中国メディアの報道を見て(程度の問題として)強く感じたことは、中国メディアにおける「党・政府」の情報管理は相当に強いということだった。

では、「3.01事件」において中国メディアは何を報道したか。非常に多いと感じたのは、病院からのレポートだ。記者、カメラマンが病室に入り、頭や腕に包帯を巻き点滴を打っている負傷者にインタビューする。甚だしいのは、手術室(治療室?)に入り、医師が負傷者に人工呼吸をする様子を映したりする。恐らく日本では病院の玄関口はまだしも、記者が病室、治療室に入ることは拒絶されるのではないか。事件直後の緊急時に医師、看護婦の献身的な救命、治療行為をリアルに報道する必要性がどこにあるのか、私には分からない。さらに、次のような記事を見た時には考え込んでしまった。それは「医療、食宿、喪葬費 政府全負責」というものだ。これには「5万元(85万円)を用意しなければ、病院から入院を拒否される」という「ニュース」(デマ)が、ネット上に流れたという背景があるらしい。

 次に多いと感じたのは「美談」のレポートだ。暴徒に立ち向かった警官、警備員、負傷者を乗せ何度も病院に運んだ公共バスの運転手(女性)、タクシーの運転手、逃げ惑う人々を店内に受け入れ守った店舗従業員(「dicos'」は店内になんと200余人を受け入れ、棒を持った店員が入口を固めた)、献血に駆けつける人々、蝋燭を持ち寄っての慰霊・・・。「同城同心」(「都市時報」3月3日)、「昆明依然堅強美麗」(「春城晩報」3月3日)、「あなたの傷は我的痛」(「雲南信息報」3月3日)式の情緒的な報道が目立ったように思う。

 最後に、「3.01事件」において中国メディアは何を報道しなかったか。

 「3.01事件」は「テロ」であろうがなかろうが、許してはならない無差別大量殺人事件であった。私は思い出す。3月1日の午後7時頃昆明駅の切符売り場を出ようとした時、逆に入ってきた私と同年配位の西洋人のバックパッカーを。そして駅ビルの軒下で布団を敷きその上で談笑していた列車待ちのグループを。この事件では誰もが突然被害者になる可能性があった。このような考えから見ると、中国メディアの報道には大きな疑問を持たざるを得なかったつまりその報道には、無差別大量殺人事件の真相を究明する迫力が欠如していたといわざるをえない。

 事件の実行者は早々と「新疆分裂勢力」に属するグループと断じられはしたが、その勢力についてそれ以上に踏み込んだ報道を見ることはなかった。また実行者は6人(男)2人(女)と報じられるだけで、年齢、住所、職業、顔写真などの報道は一切なかった。

 私がこれまで訪れた中国の都市ではどこでも、羊肉の串焼き、ナンのようなパンを屋台でうる売るウイグル族をよく見かける。「新疆」という言葉だけが飛び交えば、1000万人近くのウイグル族の人々は心穏やかではないだろう。

 事件の被害者は死者29人、負傷者143人と報じられたのみだ。負傷者のうち重体が20人との記事はあったが、上記の数字は変わらなかった。そしてこの死者、負傷者の「具体的な」情報(年齢、性別、住所、職業など)が報道されることはなかった。もちろん、こうした情報の取り扱いについては、人権、遺族の問題も絡み、国情による違いがあるかも知れないが。

 昆明駅に限らず、私が今回訪れた貴陽駅も、重慶駅も人であふれていた。「民族大移動」ともいわれる春節の時期、駅の「人山人海」(人が溢れるように多いことを意味する中国語)を想像するだけで恐ろしくなる。人々の殆どは、東京駅や大阪 駅で見られる通勤客ではない。長距離の移動をする人たちである。近年の旅行ブームを反映して旅行客も増えてきてはいるが、やはり際立っているのは大きな荷物を担いだ農民工だ。
 青年も中高年も、男も女も、彼等は移動する。雲南省昆明から北京へ、上海へ、広州へ、重慶へ、そしてウルムチへ。
 3月1日午後9時10分頃、昆明駅を突如、無差別に襲った「テロリスト」によって、彼等のなかの143人が負傷し、29人が亡くなった。

 私は知りたい。
 「あなたの故郷はどこですか、これから何をしに、どこへ行くのですか・・・」
                                                          3月31日記