上海発中国万華鏡・林一氏からの便りG

魯迅と韓寒〜学生の作文に刺激されて〜


魯迅と韓寒〜学生の作文に刺激されて〜
上海発 2010年7月1日
 上海に来る前から気になっていた人物は、月並みだが魯迅である。
 そして上海に来てから気になるようになった人物は韓寒だ。
 実は、韓寒という人物のことは何も知らなかった。毎日パラパラとめくる新聞で何度か見かけたが、そのクールな容貌が印象的で映画俳優か歌手かと思っていた。ある時、同僚の先生に韓寒とはどのような人物なのかと聞いてみると、彼は小説家であり、カーレーサーでもあり、彼のブログは若者に非常に人気があるということだった。

 大学で作文の授業を担当しているので、魯迅をテーマにすることは最初から決めていたが(作文のテーマ選択には、政治色の強いものは避けるようにしたこともあり、意外に手こずった。ある時「10年後の私」というテーマを出した時、この大学に来てこのテーマで作文を書くのは3度目だとあったのには苦笑せざるをえなかった)、韓寒もテーマにすることにした。

 20世紀初期の作家、思想家である魯迅と21世紀初頭の若き作家である韓寒を続けて考えることも意義があるのではないかとの考えからだ。しかし学生達の作文を読んで、私は今まで知らなかったことをいろいろ教えられて少なからず知的刺激をうけたのだった。


 魯迅(1881〜1936年)が、上海に居を移したのは1927年のことであり、10年後の1936年に上海で死去した。 今から振り返ればこの10年間は、古き良き「魔都上海」の終わりの始まりから終わりの終わりまでであったような気がする。

 1928年にはエドガー・スノー(アメリカ人ジャーナリスト、『中国の赤い星』の著者)が上海を訪れ、またアグネス・スメドレー(アメリカ人ジャーナリスト、作家、『大地の娘』の著者)は魯迅と親交を結んだ。そして日本人ジャーナリストの松本重治(『上海時代』の著者)や尾崎秀実もこの時期上海で取材活動をした。1929年にはサッスーン・ハウス(現在の和平飯店)、1933年には東洋一の高層建築のパークホテル(現在の国際飯店)が完成し、また何軒もの百貨店、ダンスホール、劇場が出現した。 

 しかし、魯迅の死去した翌年の1937年7月には盧溝橋事件が勃発し、日中は全面戦争に突入。 そして8月には第二次上海事変が勃発し(第一次上海事変は1933年1月)、その後南京大虐殺(12月)まで突き進む。 租界という特殊な状況下で良くも悪くも「自由」を享受してきた上海も、その後は中国全体、世界の激流の中でその僥倖とも言える「孤立性」を維持できなくなる。

 魯迅が上海で生きた10年間およびその後は、上海における日本軍そして日本の存在が大きくなっていった時代であり、日本人としては複雑な気持ちを禁じ得ない。そのような中で魯迅が、篤実な商売人であった内山完造(内山書店の店主)に大きな信頼をよせていたというエピソードには救われる思いがする。上海市虹口区の魯迅公園にある魯迅記念館で「魯迅と内山完造」というテーマの展覧が行われたので見学に行ったことがある(2009年9月)。 そこで日本人医師による魯迅臨終時のカルテや葬儀委員の一人として内山完造(他の委員としては、孫文夫人の宋慶齢や元北京大学校長の蔡元培など)が葬儀に出席している写真を見た時はさすがに感慨深かった。

                           
                   魯迅公園の魯迅像と墓碑(毛沢東の揮毫)          内山書店レリーフ(魯迅記念館)

 魯迅についての学生達の作文を読んで一番驚いたことは、彼等全員が魯迅の様々なエピソードをよく知っていることだった。日本の学生が福沢諭吉あるいは夏目漱石のことをどれだけ知っているだろうかと考えると、彼我の差に落ち着かないものを感じたが、まずは感心した。

 彼等の語るエピソードとは、次のようなものである。
 故郷である紹興の三昧堂の先生に遅刻を叱責された魯迅が、自分の机の端に「遅」と言う字を彫り付け、その後は人が変わったように勉学に励んだこと。東北大学医学部に留学していた時に受けた恩義を偲んで『藤野先生』を書いたこと。大学の教室でのスライド上映で、中国人スパイが処刑される場面を見る周りの中国人の表情に衝撃をうけ、文学による国民性の改革を志したこと(このことを四字熟語で「棄医従文」というらしい)。

 彼等が魯迅のことを何故これほど良く知っているのか不思議なくらいだったが、理由は意外に簡単だった。彼等の小学校から高校までの「語文」(日本の「国語」)の教科書には、毎年、毎学期、必ず魯迅の小説、評論が載っていたということだ。ある学生は魯迅という名前を見ると少し複雑な気持ちになると書いていたが、彼の偉大さは否定すべくもないが「またか」という気持ちになるらしい。また中国文学史では、魯迅の『狂人日記』は旧来の文語文体を排し口語主体で書かれた画期的な作品と評価されているが、それでも現在の彼等にとって魯迅の文章は理解しにくく簡単に読めないらしい。

 魯迅の作品がどうしてこれ程教科書に採用されているかと言えば、毛沢東の「魯迅は偉大なプロレタリア作家、思想家であり、中国文化の革命の司令官である」という言葉(お墨付き)と無縁ではないだろう。もし魯迅が85歳まで生きたとしたら、彼の鋭敏すぎる程の感性は文化大革命をどのように見ただろうか。老舎(『四世同堂』、『駱駝祥子』、『茶館』の著者)は、その年に迫害死(自殺)した。


 一方、「80后(1980年代生まれ)」の旗手ともいえる韓寒は、1982年上海の金山区(上海郊外)に生まれた。 非凡な文章能力は認められていたものの、学校教育に疑問を持っていた彼は、ある期末試験で7科目が不合格だったのでせっかく入った重点高校を中退する。その直後、『三重門』という小説を発表し華々しくデビューした。 

 彼が若者の人気を集め社会に大きなインパクトを与えたのは、彼の透徹した社会認識そしてそれに基づく鋭い文章での社会批判による。特にデビュー当時(2000年頃)の「中国で重視するのは学校の成績だけだ。学生は良い成績を取るために、毎日毎日教科書を読まざるを得ない。学校は万能な人間(全ての科目で優秀な成績を取る)を育成すべきか、専門分野に秀でた人間を育成すべきか、どちらの方がいいのか」という教育批判は、社会に強烈なセンセーションを巻き起こし「韓寒現象」と呼ばれたと言う。

 多くの面で開放されつつあるとは言え、現在の中国でこのような発言をすることは相当な勇気がいるだろうと想像する。実際に教育界はじめ各界のエスタブリッシュメントから強い反発を受けたようだ。韓寒はその後2、3作の小説を発表したものの、発言の場をブログに移した。この点で、魯迅と韓寒は共通した所がある。魯迅も小説家としては寡作であり、彼の真骨頂は「雑文」の形式で発表した鋭い社会、文化批判にあるが、時代の流れで「雑文」が「ブログ」に変わったと考えると非常に興味深い。

                   
                       若者向け衣料のネット販売「凡客」の広告に登場した韓寒

 韓寒のブログは、学生の作文によれば何億ものページビューがあり、世界一のアクセス数を誇っている。これ程の人気があるのは彼の社会観察、批判が鋭く辛辣であると同時に、ユーモアー感覚も交えた文章の魅力にもあるだろう(韓寒の文章は読みやすいと言う学生が少なくない)。ブログの世界では「現代の魯迅」と呼ばれ「韓寒が居れば、魯迅は要らない」という意見さえ飛び交っているそうだが、これには正直驚いた。

 韓寒が若者に支持される他の理由として、彼の自由なライフスタイルに対する憧れもあるだろう。彼は現在、上海大衆カーレースチームのレーサーとして活躍し音楽CDも出している。つまり重点高校、有名大学を出て政府公務員か有名企業社員になるという単線的な公認の価値観に対して、彼は身をもってアンチテーゼを突きつけているのだ。

 話は変わるが、以前から中国に来て私が不思議に思っていたことは、大学や高校で運動部の練習を見かけないことだった(同好会的なものは見るが)。これも中国の単線的な価値観を考えると納得がいくが、それにしても価値観の多様化が制限されていることの若者に与える閉塞感を思うと胸が痛む。

 また韓寒は政府、権威におもねらず(中国作家協会への入会を誘われるが断る)、原則としてテレビや有名人の集まりには参加しないらしい。これには私のささやかな観察を紹介したい。中国のテレビを見ていて気づいたのだが、政府、テレビ局主催の公式行事の“盛り上げ音楽会”等にたくさんの有名人、有名俳優が出演するのだ。彼等が歌を歌うことはないが、お揃いの服を着て祖国賛歌の詩を手に捧げて朗々とナレーションするのだ。これが良いか悪いかを論じようと思わないが、違和感を覚えることは確かだ。ある時チャン・ツイー(「恋人の来た道」でデビューした女優)が出てきたが、彼女に対して抱いていたイメージが崩れるような思いがして少し幻滅した。

 いつの時代にもどの社会にも光の部分があれば影の部分もある。光の部分は放っておいても光を放つ。影の部分は誰かが勇気を持って指摘しなければ暗いままだ。影の部分で悩み、苦しむ人間の気持ちを代弁する勇者の登場は、その社会が偉大であること、成熟していること、復元力を持っていることの証明ではないだろうか。
 近、現代の中国が、かつて魯迅を持ったことそして今韓寒を持っていることの意味は大きい。