上海発中国万華鏡・林一氏からの便り@

テレビで中華人民共和国60周年国慶節を見る 


テレビで中華人民共和国60周年国慶節を見る 
上海発 2009年10月3日  
上海に来てちょうど一ヶ月、様々な要因が複合的に押し寄せてきたのだろう、風邪をひいてしまった。過去にも経験したのとほぼ同じ症状なので、深刻には考えなかったが、海外で一人暮らしだったのでいささか慌てた。 

 しかし勤務している大学(上海師範大学天華学院)の授業が国慶節のため、9月29日から10月9日まで長期休暇になる(政府機関、企業も一斉に休暇に入る)ので気は楽だった。 

 とは言え長期休暇中の授業を前後の土日に振り替え、集中的におこなうので、休暇に入る直前は相当に疲れていた。

 大学のある嘉定区(上海市街から約40キロ北西)から大型スクールバスで他の教職員と一緒に上海に帰って来て、上海師範大学のホテル形式の寮に着いた時は本当にほっとした。

 先は長いので、私はこの休暇を体調を立て直す絶好の機会にしようと考えた。ベッドに寝転んでテレビを思い切り見ようと思った。 

 それも中華人民共和国成立60周年の関連番組を集中的にみることにした。

 このためには中央電視台1チャンネルが良いだろうと思い、29日の晩から早速見始めた。
 テレビを見ると言っても私の中国語の聞き取り能力は残念ながら不十分なので、時折り理解できる会話と時折り出る字幕が頼りのおぼつかないものであることをまず断っておきたい。


 29日の晩には60周年国慶節を祝う「大型文芸晩会」があった。
 歌と踊りが中心だが、全く浮ついたところがなく、徹底的に祖国中国を歌い上げる。
 そして何人もの有名司会者、有名俳優が祖国中国の美しさ、素晴らしさ、偉大さを朗朗とナレーションするのだ。

 

 30日の晩は人民大会堂において国務院主催の各国政府関係者を招いての晩餐会が行われた。
 村山元首相、加藤自民党元幹事長など日本の政治家も何人か見られた。挨拶に続き乾杯の音頭をとった温家宝首相はその後ツツッと胡錦濤主席に近寄り、乾杯を交わし次に江沢民前主席に乾杯と思ったところが、何人かの人がその周りに立っていたためチャンスを逃し、そのうち江前主席は着席してしまった。

 どうするのか見ていたところ、温首相はそれでもチャンスをとらえ少し前かがみになって杯を差し出した。
 江前主席は座ったままこれに応じていたが、中国政界トップ層の序列意識の一面を垣間みたようで興味深かった。


 さていよいよ10月1日であるが、中央電視台1チャンネルでは朝の6時から夜の11時まで実に17時間の特別番組を組んだ。

 私は6時前に起床していたので、番組のスタートから見ることになった。

 番組はまず男女の総合司会者による挨拶、60周年国慶節の意義強調から始まり、次に各所からのレポーターによる実況中継、そして早朝3時、4時から準備を始めた様々な隊列の録画報告が続く。

 どうやらパレードは10時からのようなので、朝食を食べに出かけた。雨だった、昨日も雨だったので上海は二日連続の雨になった。

 食事を終え部屋に戻りテレビをつけると、北京は文句のつけようのない晴天である。
 画面を通しても「天高気爽」(天あくまでも高く、空気が爽やかに澄みわたる)の「北京の秋」を感じることができた。


 10時、北京市長の「開始」の宣言で国慶節を祝う大会が始まる。
 60発の礼砲に続き3名の国旗護衛隊が国旗を掲揚塔まで厳粛かつ力強く運び、掲揚塔までくると大舞台で大見得を切るごとくパッと広げ、「五星紅旗」がスルスルと上がる。そして「奴隷たるを望まぬ者は、立ち上がれ!!」で始まる国歌の斉唱が天安門広場いっぱいに湧き起こる。


 国歌斉唱の後しばらく進行が途切れた。私は何か不測のことでも起こったのかと思ったが、胡主席が天安門楼上から降りて国産最高級車「紅旗」に乗り込むために時間がかかっただけであった。

 その後、胡主席(軍事委員会主席でもある)は軍の最高首脳を従え、長大な長安街に整然と並ぶ陸海空三軍の各部隊を閲兵するのである。

 「紅旗」の屋根から上半身を出した胡主席は、厳しい表情は崩さぬものの、一定の間隔をおいて、各部隊に大きな声で「同士諸君、元気か」、「同士諸君、ご苦労」と呼びかける。

 再び天安門楼上に戻った胡主席は60周年国慶節の講話を発表する。その後、大吹奏楽団マーチに乗ってパレードが始まる。

 各隊列はともにそれこそ一糸乱れぬ行進である。天安門に近づくと軍靴の音が一段と高くなり、号令一下顔を天安門に向け敬礼をする。

 いくつもの隊列の後、陸軍の各種各様の近代兵器が続き、空軍の何機もの戦闘機、ヘリコプターが長安街上空を東から西に飛んでいく。
 海軍の兵器についてはテレビでは戦艦の映像が流れたが、会場ではどうだったのだろう。

 パレードの終わり頃、女性兵士の隊列が通過して行った。紫色の隊列と紅色の隊列だったが、いずれもブーツを穿き、足をさっと伸ばして行進していく。きびきびした動作だが、スカートとブーツの間がまぶしくて、私は正直なところ胸がドキッとした。

 折りよく、カメラが胡主席を映したが、彼の表情も少し和んだように見えた。私が胡主席に親しみと近さを感じた瞬間であった。


 そのうちに私は国慶節のパレードのことをこれまで大きな誤解をしていたことに気がついた。国家の誕生日を祝うということから、もっと娯楽色のつよいものと勝手に思い込んでいたのだ。しかし国慶節のパレードはあくまでも人民解放軍の厳粛な行進が主であり、大閲兵式という時代がかった言葉こそふさわしいのだった。

 その後に続く各省、各直轄市、各自地区の山車はどこまでも従であり、脇役であり、刺身の「つま」なのだった。

 大会は最後に子供たちのパレードをもって閉幕となったが、2時間30分の長丁場である。党、国家の首脳はこの間立ったままだたが、まさしく体力勝負である。最初はテレビに映っていたカンボジアのシアヌーク殿下、村山元首相などは体力が続かなかったのか後半には映らなくなった。


 夜の8時からは、パレードの時とは違って和やかな雰囲気の中「晩会」が行われ歌、踊りが披露されたが、目玉は大規模な花火である。司会者は北京オリンピックの時の2倍の量の花火が使われると何度も強調していた。

 花火が打ち上げられると、テレビのスピーカーからだけでなく、泊まっている寮の窓からも花火の音が聞こえるではないか。そうか、上海だけでなく恐らく全国各地で、北京に合わせて花火を打ち上げているんだな。