上海発中国万華鏡・林一氏からの便りH

「国語」教科書改訂と魯迅、そして毛沢東


「国語」教科書改訂と魯迅、そして毛沢東
上海発 2010年10月9日
 前回のレポート(7月1日)で、私は中国の学生達が全員、魯迅の様々なエピソードや彼の作品のことを良く知っていることに驚き、感心したが、それと同時に何か落ち着かないものを感じたと書いた。

 小学校、特に中学校、高校(中国では中学校が6年制で、前半の3年間は初級中学校、後半の3年間は高級中学校と呼ばれる。また高校とは日本の大学のことである)の毎学年、毎学期の「国語」の教科書には、必ず魯迅の作品及び魯迅に関する文章が載っていたことを考えれば、これは何も驚くことでは無いかも知れない。しかしたとえその文学者、思想家がどれほど偉大であったとしても、一人の人間の作品を「国語」の教科書で集中的に取り扱うことに、不自然さと抵抗を感じ、落ち着かなかったのだ。

 夏休みは一ヶ月半大阪で過ごし、9月初めに上海に戻った。新学期の慌しさと上海の暑さの中で、新聞をゆっくり読む余裕もなかった。新聞と言えば上海にも何種類もの新聞があり、最初はとまどったが、その内に「東方早報」(日刊、1部13円)と「南方周末」(週刊、1部39円)に落ち着いた。9月上旬は余裕がなかったので、この2紙も惰性で買っていただけで、見出しにさえ目を通さなかったこともあった。このような中、9月9日付け「東方早報」で「国語教科書改革、魯迅に関することだけが大事なのではない」(筆者訳、中国語では「語文教材改革、不僅僅関フ魯迅(フは呼ぶの口偏がないもの)と言う見出しを見た時は、思わず自分の眼を疑い、体に電気が走ったように思った。

 

    魯迅を取り上げた新聞記事

 記事の内容は、中国語読解力と背景の知識の両方が不足しているため、理解しやすいものではなかったが、辞書をひきつつ2度、3度と読む内に理解も進み、私は大いに啓発された。そうこうする内に9月16日の「南方周末」でもこれに関する記事が載り、また9月20日発行の「南方人物周刊」(「南方周末」系の週刊誌)では魯迅特集が組まれた。本レポートは、この三つの資料を参考に、上記のテーマについて私なりの考えをまとめたものである。

 学校教育の数ある教科の中で、「国語」の持つ重要性はどの国家においてもやはり圧倒的だと言えよう。何故かと言えば、「国語」は国民の教養の基礎を養成しその国の文化の継承の機能を担っているからだ(もちろん現在では、国家の枠を越えた人間としての教養形成、人類文化の継承という視点もある)。従ってどの国でも「国語」教科書の編纂はオーバーにいえば忽せにできない国家的な作業である。そしてそれぞれの国家の固有の諸条件の違いによって、その作業がそれぞれの特色を持つのも仕方のないことだ。では現在の中国の「国語」教科書における特色とは何か。それは端的に言えば、魯迅の存在があまりにも大き過ぎることなのだ。

 中国でも教科書は数年毎に改訂されている。教科書編纂については、中央政府直系の人民教育出版社が絶大な影響力を有するようだが、各省は「人教版」に基づき独自の編纂をする。よって上海の学生は上海版の教科書を読むことになる。その独自性がどれほど許されるか分からないが、今回の改訂案の中では江蘇版がかなり大胆な改訂を打ち出したらしい。

 9月初めに、「国語」教科書の改訂案が発表されると、今までになく激しい議論が湧き起こった。
 と言うのは、「人教版」の改訂案で魯迅の「阿Q正伝」が削除され現代作家の余華の作品(「十八才出門運行」が採用されたからだ。庶民の意見の発表の場となっているインターネット上の書き込みでは、「魯迅大撤退」、「教材大換血」がキーワードとなり、中には「魯迅よ、戻ってきておくれ」というのもあるらしい。「1億総評論家」の表現にならえば、中国では「13億人それぞれが、魯迅については一家言持っている」と言うことか。ある論者は、本来理性的に行われるべき「国語」改訂作業が、魯迅の作品を増やすか減らすか、魯迅のどの作品を採用するか削除するかを巡る感情的な問題に矮小化されていると嘆いている。

 そもそも魯迅の作品が、一部の私立の中、高校の「国語」教科書に採用されたのは1923年(魯迅42歳の時)の民国時代の頃で、その偉大さは早くから知られていたようだ。その魯迅が新中国の「国語」教科書の中で圧倒的な存在感を占めるについては、毛沢東の強力な持ち上げがあったのであり、この経緯については多くの中国人が知っている。毛沢東は一代の政治家、軍事戦略家であったが、卓越した詩人でもあり中国文化についての造詣も深く、文化が社会に与える力を冷静に認識していた。1920、30年代当時、雑文(社会、文化批評)の形式で国民党政府を痛烈に批判していた魯迅に、毛沢東は早くから注目していたようだが、生前二人が顔を合わせることはなかった。しかし毛沢東は魯迅の動向については連絡員に報告させていた。ある時、連絡員が毛沢東に「ある日本人の説によると、中国のことを理解している者は広い中国の中で二人と半人しかいない。一人は蒋介石で、後一人は魯迅、そして半人は毛沢東だということです」と報告した。これを聞いて毛沢東はアッハハと大笑し、そしてしばし考えた後、「その日本人はただものじゃないな。 彼が魯迅は中国を理解しているといったのは、その通りだ」と言ったという。「南方 人物周刊」の中で見つけたエピソードだが、私は残念ながらその日本人が誰であるのか知らない。しかし、あの当時(1934年初)に「半人」とは言え毛沢東を意識したその日本人の観察眼は本当にただものではないないと、読んでいて嬉しくなった。

 毛沢東は、当時でも数多くいたであろう文学者、思想家の中で、何故これほどまでに魯迅を持ち上げたのだろうか。これは専門的研究分野に属するのだろうが、わたしの直感を恐れずに言えば、魯迅の激しさに毛沢東は注目したのではないだろうか。当時の毛沢東、中国共産党の置かれた客観的な状況はまことに危ういもので、風前の灯という事態に何度も遭遇している。そのような中で、国民党政府や論敵に対して容赦なく放つ雑文の筆鋒の鋭さ、激しさに毛沢東が魅かれたのではないだろうか。正確には覚えていないが、「革命とは隣人を呼んで宴会をしていたらやって来るものではなく、銃で奪い取るものだ」という彼の言葉をみれば、毛沢東も激しい人だった。1934年と言えば、魯迅は53歳、毛沢東は41歳。毛沢東もまだまだ若かった、指導者としての孤独もあっただろう、悩みも多かっただろう、時には頼るものを求めたとして何の不思議があるだろう。

 そして1940年、確固たる根拠地を持つようになった毛沢東は「新民主主義の政治と新民主主義の文化」をテーマにした講演で、魯迅を「中国文化革命の主将」「三家」(偉大な文学家、偉大な思想家、偉大な革命家)、「五つの最」(最も認識が正確、最も勇敢、最も決然としている、最も忠実、最も熱情をもっている)と評した。ここに魯迅の新中国における位置、それも最高の位置が決まったと言えるだろう。 

 

 魯迅とゆかりの深い内山完造の内山書店跡

 魯迅が亡くなって74年、自分が新中国で殆ど神聖不可侵の位置にまで祭り上げられてしまったことをどのように見ているだろう。そして現在の「魯迅大撤退」という動きをどのように見ているだろうか。人民教育出版社の今回の改訂案の責任者へのインタビューを読むと、「魯迅大撤退」というのは、あまりにもセンセーショナルで、実情はもっと穏やかなもののようだ。ただ「国語」の教科を必修と選択に分け、魯迅の文章を両方に振り分けただけで、採用した数に大きな変化はないと、弁解ともとれるような説明をしている。このことを30歳前後の中国人に聞くと、彼らの時代には「国語」の教科が必修と選択に分けられることはなかったということだ。「国語」の教科を必修と選択に分けるのは、そのこと自体大きな変化である。もし改訂案通りに実施されれば、今までのように全員が魯迅を学ぶことはなくなる。「魯迅大撤退」という表現もあながちオーバーとは言えないだろう。

 「三家」とも評される魯迅は、中国の学生にとっては悩ましい存在でもある。何しろ高校入試、大学統一入試の「国語」の試験には、魯迅の文章は必ず出題されるのだから。入試というのは、毎年実施されるわけで、魯迅の文章に関する設問が限りなく細部にこだわっていくのも自然な流れである。

 こうなると「国語」の入試問題は、学生を悩ますばかりでなく、出題者にとっても神経をすり減らすものでもあるだろう。学生にすれば、魯迅を主体的に読むと言うより、読まされると言う感覚でもあるようだ。記事の中に「自分は魯迅が嫌いじゃない、嫌いにさせられた」と言う学生の言葉があった。

 改革開放下の中国経済の大発展を支えた大きな枠組みは、あくまでも「社会主義的市場経済」であることは何度強調しても強調しすぎることはない。そして、この中国の社会主義体制の成立には、その揺籃期からの幾多の苦難の中で一貫して中国の大地に根ざした社会主義を目指し人民を指導し切った毛沢東の存在がある。「毛沢東の再評価」という言葉があるが、まだまだ言葉だけのようだ。毛沢東が新中国に占める位置は、限りなく高く大きい。そしてその毛沢東がお墨付きを与えた魯迅の新中国に占める位置も、限りなく高く大きい。

 現実と枠組みの齟齬、歪み、そしてそれがもたらす混乱、修正、改革はどの国家、組織にとっても不可避である。

 「実事求是」という言葉を持つ中国も、現在の大成果に甘んずることなく将来も、自国の現実と枠組みを冷静に認識した政策運営を目指すだろう。その政策運営は時として大きな枠組みの修正、改革を必須とすることもあろう。 その時最大の阻害、抵抗要因となるのは何か。逆説的な言い方になるが、それは中国の60年前、30年前の枠組みがあまりにも偉大であったことから来る呪縛ではないか。このような中で出現した「魯迅の再評価」という動きは深い意味を持っていると見たい。

 私はこの動きを評価したいし、そして「中国はやはりただものではない」と思うのである。