中国発上海万華鏡・林一氏からの便りE

上海の大学で教壇に立つ、そして中国大学事情


上海の大学で教壇に立つ、そして中国大学事情
上海発 2010年5月4日
 
 私が勤める大学は上海師範大学天華学院という4年制の私立大学である。
 詳しい経緯は分からないが、国立大学である上海師範大学の資金、人材、政治力を基に設立された。
 設立されてまだ5年と歴史は浅く、今年の6月の卒業生が2期生である。しかし上海郊外にあるキャンパスにはすでに5000名強の学生がおり、全員寮生活をしながら勉学している。
(上海市出身の学生が過半を占め、後は江蘇省、浙江省 福建省の学生が主で、土日は自宅に帰る学生が多い)
 既存の国立大学が私立大学を設立することは珍しくないようだ。
 現在中国には2000余の大学(4年制の本科だけでなく2、3年制の選科も含まれると思われる) があり、その内私立大学は340余校あると言われる。

 私はそこで昨年の9月から日本語を教えているが、担当科目は「作文」と「外刊」(日本の新聞講読)で、対象学生は3年生である。
(日本語専攻の学生は、一学年3クラス90名で合計360名だが、何名かの学生は留学などで退学する。3年生は1クラス27〜8名。 3年生の男女の比率は男子3割、女子7割)
 授業は100%日本語で行っている。中国の学生に日本語を教える時に、中国語が出来なくて大丈夫なのかとよく聞かれるが、中級レベル以上になると直接教授法(教育対象言語をその言語を使って教える方法)で殆ど問題がない。

 昨年9月初めの授業スタートのことを思い出す。
 まだ暑い時分で学校の教員寮に住み始めたばかりの戸惑いと不慣れもあり、初めて教室に行く時は相当に緊張した。
 どのような教師が来るのかという学生達の興味津々の視線を感じながら教壇に上った。そして当然その後の展開があったはずなのだが、実はよく覚えていないのだ。

 「外刊」は新聞の切り抜きのプリントを準備したのですぐに授業に入れたが、問題は「作文」である。最初の授業なので、彼らの書いた作文がない。90分間講義スタイルで授業を進めなければならない。このことは予想されたことなので、あらかじめノートを用意して授業に臨んだ。日本語学習中の彼等に100%日本語で話したことになるが、なにを喋ったのかその内容もそして風景もボンヤリとしている。



 実は矢のような鋭い質問が飛んで来ることも覚悟していたのだが、質問はなかった。まだ日本がうまく話せないことも影響していたかもしれないが、その後も授業中の質問は殆どない。
 日本で授業をしている時も質問は極めて少なかった。しかし、なんとか90分の務めを終え、教壇を下りる時少し足がもつれたことだけははっきりと覚えている。もしあの時転んでいたらどうなったのだろうか。しばらくの間そのことを思い出すと冷や汗が出た。

 あれから、8ヵ月(冬休みがあるので授業時間は6ヵ月)が経つが、あっけない位に急速に中国で授業をすることに慣れた。
 時々、ふと日本で授業をしているのではと錯覚することさえある。 これは私の、あがり性なのに図々しい?性格によるものもあるだろう。でも本当の理由は日本の学生も中国の学生も驚くほどよく似ていることにあるのだと思う。

 実社会に入る前の彼等は、日本でも中国でもおっとりしている(内面の苦悩や葛藤はあるだろうが)。実社会に入ったら思考、行動の面で徐々に違いが出てくるのかも知れない。彼等も働いて金を稼ぐようになったら、それぞれの社会のやり方に大なり小なり染まっていかざるを得ないからだ。実際、私の上海生活でも色々な場面でストレスを感じ疲れることも多いが、私の接している中国の学生達には不思議な位に違和感を覚えない。これが現在の正直な気持ちである。

 私が本や新聞などから得た一昔前の中国の大学生のイメージは、目から鼻へ抜けるような聡明さ、夜でも便所や戸外電灯の明かりの下でひたすら暗記に励む勉強熱心さ、教師もたじろぐ程の積極さなどであったが、これは大学生がまだ超エリートであった頃のもので、現在では完全にピント外れだ(少なくとも私の勤める大学では)。

 ここでこの30年余の中国の大学の歴史をざっと見てみたい。

 大学入試で白紙の解答用紙を提出した学生が英雄視されたこともある文化大革命期(1966〜1976年)を経て、全国大学統一入試(中国では「高考」と呼ばれる)が復活したのは1997年12月だった。

 ケ小平の「何が何でも実施せよ。準備が間に合わないなどの言い訳は聞かない」という強烈なリーダーシップの下で実施されたこの入試に、全国に下放されていた青年達が数々の困難を乗り越えて馳せ参じる。

 このことについては多くの人の体験記もあるが、私は偶然にも街のビデオショップで『高考1977』という題名のビデオを見つけた(約120円)。
 映像でみるとやはり感慨が深く、多くのことを教えられた。復活した全国統一大学入試を突破し晴れて大学生になれたのは同世代のほんの一握りで、実数は不祥だが1978年の大学進学率は僅かに1.4%だった。

 その後、進学率は徐々に上昇したものの、20年後の1998年でも4%に過ぎなかった。

 1998年当時は、国有企業改革の嵐の中での就職難が深刻だった。一方ではこれからの経済発展には高等教育卒業者が不可欠との考えもあった。そこで政府は1999年5月に思い切った大学定員増に踏み切った。
 この大学定員増は、教育信奉、学歴信仰の強い国民の望むところでもあったようだ。

 この結果1998年には108万人であった卒業生が、2006年には504万人になり、そして今年の卒業生は630万人で、現在の大学進学率は23%である。
 この数字を見るだけでも、中国のこの10年余の凄まじい発展が読み取れる。(大学生が6倍に増えた)。
 高速道路網、鉄道網、地下鉄網、高層ビルの大建設と完全に軌を一つにしている。

 大学進学率が23%(中国の都市と農村の経済格差は大きいので、上海、北京、広州などでは大学進学率が軽く50%を越えていると思われる)になった現在、当然ながら大学卒業の資格はエリートへの切符とはならない。それどころか、大学卒業生の就職難が社会問題になっている。

 課題の作文を見ても、学生達は就職が厳しいことを理解している。だからと言って、現在の中国が全体として失業問題で悩んでいると考えるのは的が外れているだろう。この点については、本ホームページの「凝視中国」(中国ウオッチング)で小島正憲氏が夙に指摘されておられるように、現在の中国は人手不足(工場労働者、建設労働者、食堂、美容、商店、建物管理、お手伝いさんなどのサービス労働者)の状況にある。

 中国を旅行して表面的に観察していると、駅や街角で何をしているのかよく分からない人々をたくさん見かけることがある。そして私もそうだったのだが、これらの人々を失業、半失業、潜在失業と判断し政府の失業統計に不信感を抱き勝ちになる。しかしそれは日本の基準から考えるからであって、彼等はそこでたくましく、しっかりと金を稼ぐため働いているのだ。

 中国ではたとえ工場や食堂の従業員であっても、賃金は決して高くないので、街角で独立自営業的に働いている人間の方が多く稼いでいることは大いにあり得る。そして食堂や商店で贅沢に人員を配置しているのをよく見かけるが、これも低賃金と無縁ではないだろう。つまり、失業そのものは一般労働者の賃金水準と微妙にバランスをとりながら、少なくとも現在の中国では大きな問題にはなっていない。

 しかしそうは言っても大学卒業者の就職難はやはり深刻な問題である。問題は中国のこの10年余の目覚しい高度経済成長にもかかわらず、さすがに6倍に増えた大学卒業生にそれにふさわしい就業機会を提供できていないということにある。

 最近、「転型」という言葉がよく使われるが、それは「経済発展の方式を転換して、より高度な経済構造を築く」という意味である。
 大学生の就職難の改善はまさしく経済全体の「転型」の動向にかかっているが、「転型」は先進国と利害がまともにぶつかることが避けられない(これまでは中国の安い労働コストと先進国の資本の相互補完による輸出産業が成長エンジンだった)。
 これからの道のりは厳しいものにならざるを得ないだろう。

 いずれにせよ、この10年余の経済発展そして大学生の増加が余りにも急スピードだったため、現在の学生そしてその父母(高考1977の世代)は「こんなはずではなかったのに」と戸惑っているのが現状ではないか。