上海発中国万華鏡・林一氏からの便りK

君と一緒にコーヒーが飲めるのか・・・〜中国の格差を考える〜


君と一緒にコーヒーが飲めるのか・・・〜中国の格差を考える〜
上海発 2011年4月10日
 「18年経って、僕はやっと君と一緒にコーヒーが飲めるようになった。」という文が、インターネットの書き込み欄に
掲載された。するとその後すぐに、「18年経っても、僕は君と一緒にコーヒーを飲むことができない。」という文が続
いた。この2編の文は大きな話題となり、多くの人、特に若い世代の共感、共鳴を得たという。何人かの若手同僚
教師、上海師範大学の大学院生に聞いてみたが、彼等もこのことをよく知っていた。

 私がこのことを知ったのは、4月1日付けの『東方早報』の「“コーヒーを飲むこと”と社会公平」という記事によって
である。私は以前から中国のコーヒー事情に少なからぬ関心を抱いていたので、この記事に興味を引かれたの
だ。

             
                     『東方早報』2011年4月1日掲載記事

 『東方早報』の記事の出だしに、「昨日の『人民日報』の特集記事「窮二代現象」のトップで(上記)2編の文を取り
上げているように、・・・・」と書かれている。

 『人民日報』と言えば、中国共産党の正真正銘“ガチガチの官報”という先入観が強く、今まで読む気が起こらな
かった。しかし『人民日報』にも変化が見られ、その時々の特集記事は現在の中国社会が抱える様々な矛盾を鋭く
指摘し、社会に向かって警鐘を鳴らすようになってきたという『南方周末』の記事を読んだことがあるので、気にはな
っていた。

        
              上海図書館                     『人民日報』掲載記事 

 そこでこれはいい機会だから、その特集記事を読んでみようと思い、上海図書館に行った。私はそこであっけない
くらい簡単に特集記事をコピーすることができた。特集記事は4ページにわたり、それだけでも力が入っていること
が分かった。「乗りかかった船」の例えもあるので、帰り道に『人民日報』を買ってみようと思い、新聞スタンドに向か
った。しかし向かった先の2軒のスタンドで、私は『人民日報』を買うことができなかった。2軒とも、買う人が少ない
ので『人民日報』は置いていないとのことだった。

 『人民日報』、『東方早報』がインターネットに載った2編の文をとりあげたのは、この文が現代中国の格差、格差
の固定化現象を分かりやすく映しているためだろう。

 「僕」は「窮二代」(貧しい家庭出身)であり、「君」は「富二代」(裕福な家庭出身)である。「18年」は、小学校から
大学院修士までの勉学期間を指す(中国は日本などよりも遥かに学歴重視社会で、修士、博士の資格がなければ
党、政府機関、国有企業、大企業での出世はかなわない)。

 「コーヒー」は、社会的地位と生活水準が高いことを象徴する(ただ最近は様々なスタイルの店でコーヒーが提供さ
れ、値段も100円から500円くらいで、コーヒーは決して贅沢な飲み物ではない)。

 最初の文は、18年の長い刻苦勉励を経てやっと高い社会的地位に手が届きコーヒーが飲めるようになったわけ
で、一つのサクセスストーリーであろう。しかし問題は二番目の文で、それは「窮二代」が18年の努力にも拘らず貧
困から抜け出せないという現在の状況を映している。だからこそ若い世代の共感を得たのだ。

 ここで「○二代」という言葉だが、最初に「富二代」が作られたようである。するとすかさず「貧二代」、「窮二代」とい
う言葉が生まれた。また「官二代」(高級官僚の家庭出身)、「農二代」(農家、農民工の家庭出身)、「腐二代」(腐
敗役人、ビジネスマンの家庭出身)、さらに「紅二代」(革命功労者の家庭出身)、「星二代」(映画スター、歌手の家
庭出身)が続々と生み出された。

 日本にも「政治家二世」なる言葉があり、日本版「星二代」もいるが、「○二代」という言葉が持つ重さ、深刻さ、や
りきれなさはない。日本でのこの種の言葉は、「○二代」に比べ比較にならないくらい軽い。

 「富二代」の眼に余る行状については、インターネット上に溢れているらしい。ある若者が苦笑しながら私に次のよ
うなエピソードを話してくれたことがある。イギリスに留学している「富二代」が、高級車を買いに営業所に行った。気
に入った車があり契約の段階になった時、この「富二代」は現金をテーブルの上にドーンと積み上げた。これを見た
イギリスの営業マンは「イギリスには、こんな高級車を即金で買う客はいない」と言って腰を抜かしたそうだ。また昨
年末には「李剛事件」という事件があり、新聞、テレビでも取り上げられた。河北省の中堅都市の大学生李某(李剛
の息子、名前は覚えていないので某にする)が大学構内で酔っ払い運転をしてなんと女子学生を轢き殺してしまっ
た。駆けつけた大学職員、警察官に取り押さえられた李某は彼等に向かって「俺の手を離せ、俺の親父を誰だと思
っているんだ。俺の親父は李剛だぞ」と叫んだと言う。李剛はその中堅都市の高級官僚とのことだ。私にはもはや、
李某の精神構造を推し量る気力もなかった。また李剛がテレビの取材の前で、息子の犯罪を泣きながら謝罪し土
下座までしようとしたが、私はそのみっともなさを直視できなかった。

 「富二代」、「貧二代」という言葉が持つ重さ、深刻さは、社会階層という概念を抜きにして理解することはできな
い。すなわち「富二代」は「富める社会階層」であり、「貧二代」は「貧しい社会階層」である。そして問題は、単に階
層間の格差がとんでもなく大きいというだけでなく、階層間の流動性(下から上へ、上から下へ)が低下し各階層の
固定化が進んでいるという状況だ。大学卒業生の就職難は何も中国だけに見られる事態ではない。しかし社会上
昇のきっかけとなる限られた就職(公務員、国有企業、大企業社員)に際して、物を言うのが学生の学力、能力で
はなく、学生の出身家庭(権力につながっているか富裕であるか)だということが殆ど社会常識化していることは、中
国の突出した状況だと言えるだろう。ましてや大学教育とは無縁だった「農二代」(現在、農民工:農村戸籍でありな
がら農業以外の肉体労働などに従事する人々、は2億人でその内「80后《1980年代生まれ》農二代」は60%と推
定されているので、「農二代」の人数は日本の総人口に匹敵する1億2000万人)の社会上昇に通じる門は気が遠
くなるほど狭い。

 『人民日報』の特集記事もこの格差の状況を放置したままにしておけば、「○三代」、「○四代」なる言葉が生まれ
ると警鐘を鳴らしている。恐らくこの現状認識は共産党、中央政府も共有しているだろうし穿って言えば共有してい
るからこそ、『人民日報』の率直な意見があるのかも知れない。

 今年をスタート年とする「第十二次五カ年計画」の大きなテーマは「民生」である。中、低所得層の生活水準引き上
げを目指す政策が次々に打ち出されている(政策立案のスピード感は、とても今の日本では太刀打ちできない)。

 しかし、「相続税」、「固定資産税」が大きな政策課題とならない現状に、私は大きな疑問を持つ。社会主義体制下
の「私有財産」のあり方に決着がついていないので「相続税」の議論はタブー視されていると聞くが、「富」にとっては
願ってもないことだ。「固定資産税」については、近年のマンション価格の高騰への批判が強いので、さすがに今年
から「実験的」に実施されることになった。しかし「実験地点」になった上海の動きを、時折の新聞記事で見る限り、
「実験的」とはいえ小手先の対応の感が拭えない。このような生ぬるい「固定資産税」の実施状況は、何戸ものマン
ションをもつ「冨」にとってはこれまた願ってもないことだろう。

 経済のパイの大きさという点では、中国は昨年末に日本を抜いて世界第二位になった。このことは共産党、中央
政府そして中国人民にある種の達成感を与えただろう。ある種の達成感を得た中国ではこれから、パイの大きさだ
けではなく、パイの切り方も重要な政策課題とならざるを得ない(これまでは、パイの切り方を先送りすることができ
た)。

 経済のパイの切り方には二つのやり方がある。一つは「上から与える」やり方であり、もう一つは「下が勝ち取る」
やり方(なにも暴力革命的なやり方だけでなく)である。現在の共産党、中央政府の考えているのは「上から与える」
やり方であって、「下が勝ち取る」やり方には非常に消極的だ。5000年の悠久の歴史、伝統、文化と広大な国土
を持ち、56の多民族と13億人の国民からなる中国では、前者のやり方の方が優れているのだという原則を崩そう
とはしていない。