工業開発区(北区)

上海発中国万華鏡・林一氏からの便りL

上海市嘉定区を考える


上海市嘉定区を考える
2011年7月16日 記
  私はもともと上海に2年間滞在する予定だった。6月下旬に試験をして成績を提出したら自由になるので、どこか内陸部を旅行して船で帰国しようか等といろいろ考えていた。ところが、5月初旬のある日突然に椎間ヘルニアを発症し左足に激痛が走り、歩行困難になってしまった。このため5月中旬に私はやむなく帰国せざるを得なくなった。したがって私の上海滞在期間は、1年9ヵ月に縮小してしまった。しかも私の上海での生活は少し変則的で、1週間の内の4日間を嘉定区で、残りの3日間を上海市街地で暮らす生活を繰り返したので、実際に嘉定区に住んだのは1年余りである。

 上海市街地のことについては、ガイドブック(路地裏やB,C級グルメの紹介まである)、個人のブログ、歴史書、研究書、小説等によって、それこそ情報の氾濫の感さえある。しかし同じ上海市(正式には上海直轄市)にありながらも嘉定区の情報は少ない。1年余りの滞在ではその観察は表面的なものにならざるを得ないが、それでも身近で見る嘉定区の発展には強い興味をひかれた。それは嘉定区の近年の発展というのは、過去30年余の中国全土で展開された大発展の縮図なのではないかと思い至ったからである。以下は上海市嘉定区の概略、発展の姿についてのレポートである。

嘉定区の地理、歴史

 嘉定区は上海市街地の北西に位置し、上海の中心である人民広場からは約35kmと意外に近く、その西側は江蘇省に隣接している。面積は464.2平方キロメートル。上海はそもそも長江(揚子江)の運ぶ砂で出来た沖積平野なので、嘉定区も平坦な土地が続いていて変化に乏しい。それでも嘉定区の中心街(嘉定鎮)は周囲を川、堀で囲まれており、場所によってはちょっとした「水郷」の趣が感じられる。

   
             上海市 嘉定区 地図

 嘉定鎮は約780年の歴史を誇るということだが、歴史的建造物も大体このエリア内にある。嘉定孔廟、法華塔(七層の木造の塔、高さ41メートル)、秋霞園(上海五大古典園林の中で最古を誇る)等だ。なかでも嘉定孔廟は中国内外で唯一の科挙博物館を有することで有名だ。科挙博物館は説明パネルが目立ち、見るべきものは少ないが、この地が3人の「状元(科挙の首席合格者)」を輩出したことを知った。このためか、嘉定は古来「教育の嘉定(中国語で、教化嘉定)」と呼ばれた。ところで中国のちょっとした都市には孔子廟(名称はその地によって違う)があるが、私の訪れた孔子廟の参観者はいずこも極めて少なかった。嘉定孔廟もいつ行っても閑散としていた。

嘉定区の人口

 次に嘉定区の人口だが、この4月28日にタイミングよく「第6次全国人口調査」(2010年10月実施)の数字が発表された。それによると、2010年末の嘉定区の人口は147万人(2000年比72万人増加、増加率95.4%)であり、10年前に較べほぼ倍増した。2月の春節時に帰阪した折、和歌山県(面積4723平方キロメートル)の人口がとうとう100万人を割ったというニュースに接したが、彼我の違いにため息がでる。因みに2010年末の上海市全体の人口は2300万人(10年前に較べ628万人増加、増加率37.5%)である。今後の10年間、過去10年と同じ増加率で推移すると仮定すれば、2020年の上海市の人口は3000万人を越えることになる。

 中国でも「一人っ子政策」を主因として人口高齢化が急速に進んでいるので、上海始め大都市の人口増加は自然増ではなくほぼ社会増によるものだ。すなわち農村から都市、特に大都市への人口移動によってもたらされたものである。上海市全体の人口は、先述したようにこの10年間に37.5%増加したが、その中で「外省市来上海常住人口(六ヶ月以上上海に住むが、上海戸籍を持たない)」は159%増加、つまり2.6倍になった。この結果、現在の上海の戸籍別人口比は6(上海戸籍を有する):4(上海戸籍を有さない)である。もし上海市の人口が10年後に3000万人になり、戸籍政策に大きな変更がなければ、2020年の上海市民の二人に一人は上海戸籍を持たない「流動」者ということになる。

 (注)「常住人口」はまだ良いとして、「外省市来上海常住人口」はいかにもお役所的な言葉だ。新聞紙面では「外来人口」、「暫住人口」、「流動人口」等の言葉が見られる。ここでは「流動人口」を使いたい。なお「流動人口」は労働力の面から見れば「農民工」になる。 

 では嘉定区の戸籍別人口の内訳だが、新聞紙面ではその数字を見つけることはできなかった。しかし@2008年当時で「流動人口」がすでに50%を越えていると推定されていたこと、A上海市の増加人口の大部分が「流動人口」で、彼等の多くが嘉定区等の上海郊外に住み着いたこと、を考えれば嘉定区の「流動人口」比率は60%近いと考えられる。つまり嘉定区の人口構造の特徴は、流動する若者、単身者、男性が多いということだ。

 2年前嘉定区に行くことに決まった時、私は嘉定区とはどのような所か興味津々だった。しかし情報が少なく、具体的なイメージが湧かなかった。そこで「上海の郊外」という地理的条件から、大都会の喧騒、雑踏から離れた静かで穏やかでのんびりした所という勝手なイメージを膨らましたのだった。結果は、私のイメージはあまりにも勝手過ぎた。市街地の繁華街には熱気はあるものの落ち着きが感じられないし、市街地を離れると非常に殺風景なのだ。私も嘉定区に1年ばかり「流動的」に住むことになったが、「流動生活」の中で落ち着いた暮らしを送ることは難しいものだと実感した。

嘉定区の現在

 現在の嘉定を代表するものは「自動車」である。中国の自動車のトップメーカーである「上海大衆自動車(中国資本とドイツのフォルクスワーゲン社の合弁、中国では自動車は戦略産業の位置づけなので、外資100%の自動車会社設立は認められない)」の本社工場が嘉定区にある。また1988年には上海市街地と嘉定鎮を結ぶ、中国最初の高速道路が開通したことも嘉定の誇りだろう。今や自動車王国アメリカを追い抜かんとする高速道路網も、そのスタートは片側2車線、20.5km(開通当初)のこじんまりとした高速道路だった。

 また国際サーキット場が嘉定に作られ、毎年4月下旬にF1レースが開催される。レース開催時には、サーキット場の爆音が嘉定鎮に居ても聞こえる。そして最新のニュースでは、「吉利自動車(中国資本の自動車会社、2010年初にスウェーデンのボルボ社を買収)」が、研究開発、輸出部門を嘉定工業開発区に設置すると発表した。

中国の大発展を考える三つのキーワード、「工業開発区」、「新城」、「交通(道路、鉄道)」

 先に私は、嘉定の発展は中国の大発展の縮図だと言った。裏を返せば、嘉定の発展の拡大図が中国の大発展と言うことになる。では中国の大発展の姿とはどのようなものなのか。それをどのように捉え、理解したら良いのか。これはこの21世紀初頭において世界が関心を持たざるを得ない大テーマと言える。当然ながらその姿は多様で多面的であろうが、私は「工業開発区(工業区とも)」、「新城」、「交通」の三つのキーワードで迫ることは一つの有力な方法ではないかと考える。この考えは1年余に渡って嘉定区に住んだ経験から得たものである。

 まず「工業開発区」だが、深センの「経済特区」が先鞭を切り大成功を収めたのは周知の通りである。中国はこのモデルを最初に東海岸で展開し次第に西の内陸部に向かって推し進めた。「工業開発区」は、その成り立ちからして完全に「無から有」である。つまり広大な農地、時には山地を地方政府が収用し、政府主導で一から工業地に作り変える。そして資本(最初は主に外国資本、そして国内資本、外国資本)を導入し、工場を建てる。「工業開発区」は当該地の経済事情、工業の発展段階とは殆ど関連がなく断絶しているという点でも「無から有」である。中国の「工業開発区」は、製造機械、部品を外国から輸入し、組み立て、製品を外国へ輸出するという意味で、国内ではなく外国の産業連関に組み込まれた存在なのだ。「世界の工場」という言葉は、この側面をいささか揶揄してもいる。中国の改革開放後の工業化は主に「工業開発区」が担ったのであり、中国が工業発展を続けるためには「工業開発区」を次から次に作らざるを得なかった。私は最近まで、「工業開発区」をその字面、あるいは「経済特区」等の類推から、特殊、例外的なものだと誤解していたが、中国には至る所に「工業開発区」が存在する。現在では、工場誘致を巡って「工業開発区」間(外国の「工業開発区」も含め)で、熾烈な競争が繰り広げられるようになった。

 「新城」とは、「新しく建設された近代的な都市」の意味である。日本にも「ニュータウン」なる言葉があるが、「千里ニュータウン」にしろ「多摩ニュータウン」にしろその内実はベッドタウンである。しかし中国の「新城」は都市機能フルラインの都市なのだ。旧市街地を近代的に改造するのではなく、旧市街地を離れた広大な農地を収用し一から近代的都市を建設する。「新城」建設の成功例は上海の浦東地区であって、全国の「新城」は浦東をモデルとするのか、どこの「新城」も似通った景観になる。私が中国滞在中に訪れた広州、蘇州、昆山、成都のいずれにも「新城」があった。

 次に「交通」だが、古来から中国人の「交通」にかける情熱は、島国人である私の想像を遥かに越えている。
 「魏」、「呉」、「蜀」の三国が戦った空間の広がりには圧倒されるし、垂直の岸壁に穴を穿ち、丸太を打ち込み、その上に板を置いて作った「蜀の桟道」にも本当に驚かされる。現在の上海の「流動人口」の中で四川省出身者は一大グループを占めるが、彼等は3,000kmの距離をものともせず、普通列車、長距離バスで軽々と移動する。改革開放後の大発展を支えたインフラ投資の中で「交通」網の建設、整備は重要な部分であるが、もともとこの分野は中国人の得意分野、他に譲れない分野であったのかもしれない。1,300km離れた上海―北京間の新幹線も、ほんの何年か前はどの国がその建設そして車両を受注するかで騒いでいたように思うが、そんなことはどこ吹く風とばかり2011年6月30日に中国は自力で開通させた。

嘉定区の発展、「工業開発区」「新城」、「交通」

 嘉定区は上海市街地から30〜40kmしか離れていないが、かつては大部分が農村地帯だった。
 嘉定の特産品には竹の表面の彫刻(竹刻)、草の編み物(徐行草編)があり、また南翔の小龍包(小龍包の元祖)、馬陸の葡萄(当地に安藤忠雄氏設計の葡萄博物館が建設される予定)が有名であることをみれば、そののどかであっただろう雰囲気が想像される。しかし上海の浦東開発が始まった(1990年)後、嘉定区にも「工業開発区」が作られた。それは地図上に丸く囲った嘉定鎮のすぐ南側の場所であり、小糸製作所、富士通、ハウス食品等の日本の企業も進出してきた。現在はそれなりに整然とした工場地帯(組み立て、部品工場が主なのか煙突のある工場は殆ど見られない)が形成されている。ところが嘉定区政府は将来の発展に自信を持ったのか、この「工業開発区」が狭過ぎると判断し、嘉定区の北部に広大な「工業開発区(北区)」を建設した。そして旧来の「工業開発区」で操業する工場に対して、新設の「工業開発区(北区)」への移転を一方的に通告したのである。移転を通告された工場と嘉定区政府との折衝を経て、最終的にはすべての工場が新設の「工業開発区(北区)」に移転することになった。ところがその移転はスローテンポで、多くの工場がまだ旧来の「工業開発区」に残っている。「工業開発区」の建設、新しい「工業開発区」の建設、強制移転というこの一連のやり方は、政府の強引な力なくして不可能な訳で、中国の特色ある経済発展の実態の裏面を反映している。

 私が勤務した天華学院(創立7年)は、この新設の「工業開発区(北区)」の中にあり、南隣りには「嘉定工業区天華社区」という名称の、農地を接収された旧農民のための住宅団地がある。この住宅団地の規模はかなり大きいものの精気、活気が乏しく学童児や幼児を見かけることが少なく閑散とした印象を与える。この辺りは片側4車線の立派な道路ばかりが目立つだけの殺風景な所だ。

  
          嘉定工業区天華社区

 何しろ新設の「工業開発区(北区)」の面積は、旧来のものより10倍位大きいので、工場(建設中も含め)が散見されるものの、まだまだ手付かずの工業用地が広がっている。

 次に嘉定区の「新城」を見よう。2009年12月31日、地下鉄11号線が開通して「嘉定新城」という駅が出来た。地下鉄11号線の開通によって嘉定区には北から、「嘉定北」、「嘉定西」、「白銀路」、「嘉定新城」、「馬陸」、「南翔」の六つの新駅が誕生した(「嘉定新城」駅から西への支線部分は除く)。地下鉄開通後、それこそ「ヨーイドン」という感じで、6駅すべての駅周辺で高層マンションの建設が始まった。「馬陸」駅に直結した場所では、丸紅の子会社と三井不動産レジデンシャルが共同で8棟、1148戸のマンション、商業施設を建設中である。マンション一戸の価格が気になるが、6駅間には多少の差はあろうが駅周辺ならば、100平方メートルで150万元(日本円で1800万円)が相場らしい。地下鉄開通前に較べ2,3倍上昇したと言う話だ。嘉定区のタクシーの運転手の月収は大体5000元(6万円)ということなので、年収の25倍だ。

  
         「嘉定西」駅前のマンション

 「嘉定新城」駅の周りにも、当然ながら何棟ものマンションが建設中である。しかしそこを除けば広大な空き地が続く。「嘉定新城」なる駅名については、9号線の終点にも「松江新城」駅もあるのでこのようなネーミングはどこにもあるのだなと、私は深く考えなかった。それでも一週間に一度、11号線に乗り窓外の風景を眺める内に、そして様々な情報に触れる内に、「嘉定新城」駅というのは、嘉定区の「新城」(未完成の計画的近代都市、そこには旧来の「工業開発区」も含まれる)の交通の中心の意味があるのかと気付いた。

  
         「嘉定新城」駅からの遠景

 上海市政府と嘉定区政府は、将来的に嘉定区の「新城」を100万人が住む都市にする計画を立てている。ここには上海市の一部の行政機関、嘉定区のすべての行政機関し、夥しい数のマンション、商業施設、学校、文化施設が建設されることになる。

 「新城」と言う言葉が、全国至る所で使われているのが中国の現状だが、「鬼城」(「空城」とも言う。マンション、諸々の施設は完成しているのに、人間が殆ど住んでいない都市のこと)という言葉もある。本ホームページの小島正憲氏のレポートでも、河南省の鄭州、内蒙古自治区のオルドスの「鬼城」が取り上げられているが、他にも雲南省の昆明の「新城」、天津市の「京津新城」等も「鬼城」状態だと言われる。

 嘉定の「新城」は巨大な経済力を持つ上海がバックに控えているので、「鬼城」化の可能性は小さいだろう。しかし「嘉定新城」駅のプラットホームに立って、広大な空き地を遠望してみても、「新城」の生き生きとしたイメージが私の頭の中には浮かんでこなかった。

 嘉定区の「交通」と言えば中国最初の高速道路を挙げねばならないが、現在では地下鉄11号線である(嘉定区内は地上の高架線を走る)。地下鉄の開通によって嘉定区の「交通」利便性は飛躍的に向上した。上海の地下鉄はすべての路線が連結されており、嘉定区のどの駅で乗車しても乗り継ぎをして上海のどこにでも行くことが出来る。さらに11号線の延伸工事が精力的に進行しているところが凄い。

 西方向は県境を越えて江蘇省昆山市に延び、将来的には蘇州にまで延びる。地下鉄が県境を越えるのは中国で最初のことらしい。また南東方向は浦東国際空港に寄り上海の東南端まで延びて、上海の地下鉄では最長の路線になる。ここ10年余の地下鉄の大建設を見ると、「交通」の建設、整備は中国の為政者にとって脅迫観念になっているのではと思わせる程だ。

嘉定区の発展から中国の大発展を考える

 僅か三つのキーワードに過ぎないがそれを考える中で、私は嘉定区の発展は中国の大発展の縮図であり、中国の大発展は嘉定区の発展の格大図であるとの直感を得た。だとすれば、嘉定区の発展をより深く観察すれば、中国の大発展の近未来が少しは見えるかもしれない。最後に中国の大発展についての私の個人的かつ大胆な見方を述べたい。

 2010年前後の嘉定区の発展を見ていて、常に頭の中をよぎったのは「過剰投資」という言葉だった。「新城」に編入予定の旧来の「工業開発区」では、大きなオフィスビルやホテルが建設されているが、テナントの確保に疑問を抱かざるを得なかった。中には完成したホテルもあるが、極端に言えば開店休業状態である。新設の「工業開発区(北区)」にもまだ広大な工業用地が残っている。私の勤務した大学は創立7年だから、それから推測すると7〜8年も眠ったままの工業用地があるということだ。

 「新城」については積極的に建設されているマンションを考えてみたい。現在のマンション価格では老百姓(一般庶民)にはとても手が出ないだろう。「(商業マンションを)買える人は、すでに持っている。(商業マンションを)まだ持っていない人は、もはや買えない」が、マンションを巡る近年の中国の状況なのだ。それでもマンションは売れているようだが、その背景には実需ならぬ需要(値上がり期待の投機)がかなり存在するということを否定することは難しい。

 「交通」については、地下鉄11号線が「交通」利便性を向上させたことは疑いない。しかしそれをさらに西に東南に延伸するということは、沿線住民がますます少なくなる地域を地下鉄が走ることになる。確かにそれは当該地に「交通」の利便性をもたらすが、贅沢な「投資」とも言えるだろう。

 2008年のリーマンショックは「金融」の肥大化が引き金だった。中国は、米、欧、日の停滞を尻目に、積極果敢な「投資」によってこのショックを乗り切り、10%近い成長を続けている。中国はこれからも「投資」を主エンジンにして、7%の成長を目指すだろう(「第十二次五カ年計画」)。
 中国の大発展は、「投資」、「過剰投資」の肥大化が、チャイナショックの引き金を引くまで続いていくのだ。