中国観察記 林 一氏からの便りQ

黒竜江省北東部を歩いて考えた「城鎮化」


黒竜江省北東部を歩いて考えた「城鎮化」
2013年9月7日
 18年前、私は大学で留学生に日本語を教え始めた。その当時は、中国からの留学生は高校新卒で入学する学生は比較的少なく、高校を卒業し実社会に入った後、一念発起して日本に留学する学生が多かった。現在黒竜江省の省都ハルビンに住む学生もそのような学生の一人だった。彼とは卒業後も時たまのメール交換で交流が続いていた。2010年上海万博の時、彼がハルビン発上海着の汽車に乗りほとんど2日間かけて会いにきてくれたことは嬉しかった。その時、彼と久しぶりに酒を飲みながら、「中国のいろいろな所に行きたいんだ、いつかまたハルビンにも行くよ。」と、気楽な気持ちで言ったのだが、今回はその軽く交わした約束を果たす旅でもあった。

黒竜江省は大きい(47万平方キロメートル)

 黒竜江省はロシアと国境を接している。ハルビンから北の黒河、東の綏芬河、西の満州里(満州里は黒竜江省の西隣り内モンゴル自治区)へは鉄道が通じている。これらの鉄道網は19世紀末から20世紀初に、帝政ロシアが建設したものだ(満鉄の運営下に入ったのが1932年)。綏芬河、ハルビン、満州里を結ぶ鉄路をさらに西に行けば、シベリア鉄道に繋がりヨーロッパに達する。私は上記三つの国境貿易の町を見てみたいと思い、まずはハルビンに着いた。着いて早々に、迎えに来てくれた教え子の助けを借りて切符(二等寝台、なければ一等寝台)を手に入れようとしたが、すべて10日先までは満席だった。「無座(座席指定なし、立つことを覚悟して乗る切符)」はあるようだが、自分の体力を考えて購入をあきらめた。何しろ黒河へは12時間6分、満州里へは13時間26分もかかるのだ。机上で地図を眺めながらのアイデアが、現地のリアルに冷水をぶっかけられた格好だ。

 帰国して黒竜江省の面積を見ると、47万平方キロメートルとある。日本の国土(37万平方キロメートル)より大きい。これに内モンゴル自治区の一部を入れた地域を、在来線で実質10日間でぐるっと回ろうとした私の考えは非常に甘かった。汽車の切符が簡単に買えないのは、当たり前だが乗客が多いことに尽きるだろう。でも7月末のこの時期に、何故こんなに多いのか。13億を超える人口を抱えるからか。中国、東北地方の好景気につられて、人間の移動が活発化しているためか。高緯度に位置する黒竜江省には、避暑を兼ねた旅行客が全国から押し寄せるからか。

牡丹江へ

 気を取り直して駅の電光掲示板を見上げていると、翌日の牡丹江行き列車の二等寝台の残席が8つあるのが目に止まった。牡丹江へはもともと行きたかったので、ためらうことなく切符を購入した。綏芬河が牡丹江から近い(160km位)のは好都合だ。

 なかにし礼の『赤い月』は自伝的な小説で、物語の舞台は牡丹江。そしてソ連軍に追われての牡丹江からハルビンへの逃避行、引き揚げまでのハルビンにおける厳しい生活。牡丹江からハルビンまでは350km位だろうか。母と姉となかにし礼は、なんとか汽車に乗ることができたが、ソ連軍戦闘機の列車襲撃、前の列車の線路上での立ち往生のための徒歩行・・・等、戦争を知らない人間には想像もつかないような悲惨な経験をし、4日もかかってハルビンにたどり着いた。私が乗った列車は同行程を逆に走ったことになるが、所要時間は5時間40分だった。

 牡丹江で泊まったビジネスホテル(一泊2600円、1元=16円、以下同じ)は、牡丹江駅のすぐ横、線路際だった。夜中と明け方には、「ドッドッドッドッ」という重量感のある音、「ボーッボーッ」という何か懐かしい汽笛がはっきり聞こえる。私はうかつにも自分が乗った列車がディーゼル機関車であったことにその時初めて気がついた。

中ソ国境貿易の町、綏芬河

 牡丹江からバスに乗り、ガラ空きの高速道路を走ること約2時間半で、山麓にある綏芬河に着いた。バスターミナルからタクシーに乗ってしばらく行くと、「綏芬河口岸」(税関・検問所)という大きな公園があり、通関の建物や立派なホテルが建つ。

                  
                       綏芬河口岸(向こうがロシア側)

 ロシアとは鉄道と道路で繋がっている。ウラジオストックへは210km、ナホトカへは270kmの位置だ。通関横の道路にはロシア文字の看板をつけた大型トラックが何台も通関待ちをしている。運転席のドアーを開け放し、タバコをくわえたロシア人運転手がボンヤリこちらを眺めていた。

 街の繁華街には、ロシア文字の看板をつけた店舗が並ぶ。また大きな広場をショッピングセンターが囲むエリアはどこかヨーロッパの雰囲気がある。ロシア人のツアー、グループ、家族連れが衣料品、靴、電化製品、携帯電話等を求めて、通りを歩く風景は少しエキゾチックだった。

    
           綏芬河のショッピング広場                店舗の看板にはロシア文字が目立つ

 黒河、綏芬河の国境貿易が注目されだしたのは、ソ連の崩壊(1991年12月)後である。中国が生産する様々な商品に対するロシア人の需要(渇望)が解放されてからだ。冒険心に富んだ中国人、ロシア人が中国各地で商品を仕入れ、鉄道、バスを使い大きな荷物を自分で運んだのだ。従ってこの地域の国境貿易は「運び屋貿易」とも言われる。小資本を蓄積した浙江省の温州人が北京の郊外に家屋を借り、ミシンを持ち込み、昼夜を徹して懸命に作った革ジャンパーやコートが運び屋達によってロシアそして遠くヨーロッパに輸出された訳だ(丸川知雄、『チャイニーズ・ドリーム』)。
 国家の規制が弱くなれば、ヒト、モノ、カネは軽々と国境を越える。

 恐らく「あっという間」であっただろう、国境の町である黒河の対岸(アムール河)のロシアの町ブラゴベシチェンスクは中国商品で溢れ、中国人経営の店舗が急増した。これに対してロシアは脅威を抱き、厳しい「ビザ制度」を導入した。極東ロシアには昔から根強い「中国脅威論」があると言われるが、それは両者の圧倒的な人口差に由来するのだろう。現在では「運び屋貿易」は影をひそめ、黒河、綏芬河の中国人の店にロシア人が買い物、買い出しに来る形が主流になっている。

 極東ロシア、中国東北地方、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国そして日本の北海道、日本海側の地理的距離は意外に近い。しかし現状では政治的距離がとても遠いので、この極東地域の交易圏を云々するのは難しいだろう。そこで話を黒竜江省の中ロ貿易に限るとすれば、その将来性はどうだろうか。

@中国側の鉄道、高速道路等のインフラは整備されている(工事中も含め)、Aロシア側は天然ガス、鉱物資源の販路開拓を目指し極東志向を強めている、等を考えれば大きな可能性を秘めているのは確かだ。しかし極東ロシアの人口の少なさ(ウラジオストックの2010年の人口59万人、、ハバロフスクの2008年の人口58万人)を考えた時、大きなそして性急な期待は持てないと思う。

  綏芬河のタクシーの運転手は私が日本人だと分かると、「要塞に行かないか、大きな要塞だよ」と誘ってきた。関東軍がソ連との戦争に備えて当時のソ満国境線にいくつもの要塞を築いたことをおぼろげながら知っていたので、運転手の話が理解できた。綏芬河の南40km位の所に東寧要塞群があって、現在では観光地になっているらしい。私はその提案に少し心を動かされたが、牡丹江へは汽車で帰りたかったことそして牡丹江のホテルに荷物を置いてきたことから断念した。

  
    車窓から見た綏芬河ーハルビン間の田園風景

 私は13年前に瀋陽からハルビンへ9時間の汽車に乗ったことがある。そして今回の汽車とバスによるハルビン−綏芬河行で、中国東北部(旧満州)の中心地帯がどこまでも続くなだらかな平原であることを実感した。つまりロシア(旧ソ連)側から見れば、山がちの国境を越えれば行く手は「一瀉千里」なのだ。1945年8月9日、ソ連軍は「日ソ不可侵条約」を破棄し満州になだれ込んだ。満州からの引き揚げの記録がいくつも残されているが、共通して書き記しているのはソ連軍が怒涛の勢いで押し寄せた恐怖である。荷造りの暇もあらばこそ、着の身着のままの苦難,辛酸の逃避行を思うと、私は粛然とした気持ちになりただ平原を眺めるしかなかった。

中国の都市化(「城市化」と「城鎮化」)について考える

 Industrial revolution:産業革命、modernization:近代化、industrialization:工業化。これらの言葉は近代化研究の基礎的な用語であり、urbanization:都市化という用語もある。
 では中国ではurbanizationがどのように訳されているかというと、「城市化」と「城鎮化」の2つがあるようだ。私は訳語がまだ統一されていないからだろう位に思っていたが、どうやら明確な区別があるらしい。すなわち北京、上海、広州のような大都市については「城市化」、市、鎮レベルの場合は「城鎮化」を使うようだ。でもなぜ都市化を「城市化」と「城鎮化」の2つに分ける必要があるのだろうか。都市化を2つの概念に分け別々の呼称を与えるという考えに、私はこれまで接したことがない。

 李克強首相の経済政策は「リコノミクス」と呼ばれ、その成果が国民の期待を集めるところであるが、都市化政策は重要な柱の1つになっている。過去10〜20年の大都市の「城市化」は驚くほどのスピードで進行し、北京、上海等は先進国と較べても遜色のない近代都市に変身し、中国大発展の象徴ともなった。この成功体験を市、鎮レベルにおいても再現しようというのが、李首相の都市化政策の骨子だろうと私は考える。したがって再現版では「城市化」ではなく「城鎮化」(「新型都市化」とも)という概念を編み出さねばならなかったのではないか。北京、上海の巨大化が大きな需要をうみだしたように、全国の「城鎮化」は膨大な需要を生み出す筈だ。中国の経済構造転換の成否は個人消費を軸とする内需の拡大如何にかかっていることはほぼ共通認識化しているが、「城鎮化」は内需拡大の切り札になっているのだ。

 かって、上海人に聞いたことがある。「都市戸籍、農村戸籍の区別を撤廃すことはできないのだろうか」と。彼の答えは「それは無理ですよ。そんなことをしたら上海は人間で溢れて大混乱になりますよ。上海に住みたい人間はいっぱいいるんですから」というものだった。実際に大混乱になるのか無秩序状態がいつまでも続くのかは神のみぞ知ることだと思うが、上海(農民工を含めた常住人口、2400万人)や北京(同、2000万人)の都市戸籍者の間では、彼の分かり易くかつ些か身勝手な考えは一定の説得力を持っているだろう。実際、北京では「水」の供給が厳しくなっていると言われるし、交通渋滞は常態化している。「城市化」ではなく「城鎮化」によって今後の中国全体の都市化を進めたいとする現下の都市化政策の背後には、案外このシンプルな考えがあるかも知れない。
 「秩序ある都市化を推進し、都市化の質の向上に注力する」−李克強首相。

金山屯-「城鎮化」のスケッチ

 「城市化」と「城鎮化」の線引きはどこにあるのだろうか。例えば江西省省都の南昌(人口、200万人)でも、マンション建設は盛んだったし新幹線や地下鉄も建設中だったが、あれはどちらなのか。私には両者の線引きはよく分からないが、黒竜江省伊春市金山屯の動きは紛れもなく「城鎮化」だ。

 ハルピンの北方にある伊春市は山岳地帯(山岳といっても高い山ではない)で主要産業は林業である。ひょんなことから、教え子と彼のいとこ(57歳)と私の中高年3人組で、伊春市へ2泊3日の旅行をすることになった。移動手段、ホテルについては「出たとこ勝負」の旅ではあったが、痛快な体験だった。ハルビン発ジャムス行きの汽車は、伊春市に近付くに連れて山また山の地形を走り南岔という駅で下車した(所要時間、5時間位)。南岔から伊春へは支線になるが、乗り継ぎ列車に乗るには何時間も待たねばならなかったので、タクシーで金山屯に向かった。その間の自動車道は工事中で、所々の未舗装の部分はすさまじいまでの「デコボコ道」だった(約1時間)。

 翌朝、目を覚ましホテルの窓から見た光景。また通りを歩きながら見た光景。私は本当に驚いた。完成して間もないようなマンション(5、6階建て)が沢山建っているのだ。

    
      金山屯のホテルから見たマンション群              大通りの両側もマンションが立ち並ぶ

 舗装された道路、歩道も場違いなほど広い。しかし通行人、車の数が非常に少ない。大きな通りの両側のマンションの1階部分は店舗用になっているが、開業している店舗は数えるほどだ。私達は町はずれの大きな公園、お寺に行くために歩き続けたが、マンションは途切れることなく建っていた。公園に近いエリアでは、完成したあるいは工事中のマンションが面的な広がりをもって建っていた。

 お寺(仏教寺院、参観者は私達3人だけ)からの帰りはタクシーに乗った。タクシーと言ってもワンボックスカーで、いわゆる白タク。現在の金山屯の人口ではタクシー会社の経営は無理だろう。タクシーは小さなみすぼらしい様子の集落の入口で若い男女2人を相乗りさせて(タクシーの相乗りはハルビンでも普通に行われている)、古ぼけた5、6階建ての建物が並ぶ通りで彼等を下ろした。どうもその辺りは旧市街地のようだったが、人通りは少なく街の活気が感じられなかった。どうやら私達は新市街地のランドマーク的なホテルに泊まったらしい。道理で出来たてホヤホヤの感じがしたし、やけにケバケバしかった。

 金山屯をさらりと半日間眺めただけだが、これが鎮レベルの「城鎮化」というものかと考え込まざるを得なかった。一体誰がこれらの新築マンションに住むのだろうか(通りの一角にマンション販売所があった。係り員はいなかったが価格表が掲示されていた。それによると80平方メートルで200万円位だ。上海全域の平均価格の10分の1以下だろう)。これだけのマンション群の居住者は、金山屯周辺域の農民をおいて他にあるとは思えない。農地収用の補償としてあるいは自力購入でマンションを手に入れ、めでたく「農民」から「鎮民」になるということか。でも農地を離れた彼等の就業機会を「鎮」は提供できるのだろうか。「鎮」が大きくなれば雇用は自ずと生み出されるのか。それとも「郷鎮企業」の再興を考えているのだろうか。しかし1980年代から1990年代初にかけて、農業の「生産請負制」と並んで「改革開放」の優等生と言われた「郷鎮企業」(農機具、建材、レンガ、加工食品、衣類等の生産を行う。当時は「物不足」時代で、製品は右から左に売れたと言う)も、国全体の生産、流通体制が整うにつれて影が薄くなった筈なのだが。

金山屯のトイレ考から・・・

 金山屯から伊春を通過して五営(有名な森林公園がある)へは、現在では自動車でも行けるが汽車を利用した。ほんの一昔前までは、金山屯から外界へ行くつまり伊春、ハルビン、北京へ行くには汽車が唯一の移動手段だっただろう。金山屯駅には近辺の人々の記憶、メモリーが詰まっているに違いない。しかし目にした金山屯駅は、異郷人の独り善がりのセンチメンタリズムをあざ笑うかのようであった。駅舎、プラットホームはそれなりに整然としていたが、駅の雰囲気はあまりにも事務的で殺風景で寒々としていた。

 考えてみれば現在の中国では、モータリゼーションが猛烈なスピードで進行している。この近辺の人々の主要な移動手段も汽車から自動車に移行しているとしても不思議ではない。一体に、中国では高速道路、高速鉄道の整備が進む一方で、汗とにおいと香りが染み込んだ在来の鉄道路線が掌を反したように見放されつつあるような気がしてならない。

    
         金山屯駅舎                   駅舎に隣接するトイレ 「女」「男」の表示が見えるが・・・

 駅舎の横にちょっとした建物があり、壁に黒ペンキで「男」、「女」と書いてある。トイレのようで、用を足しに行った。しかし私は建物にはいるなり飛び出した。中は薄暗くて見通しが悪く、何よりも耐え難い悪臭だった。それは最早、維持、管理の最後の一線を越えていた。近くに駅員もいるのにこのザマは何だ(中国人のトイレに対する余りにもの無関心、無頓着を見せつけられるたびに、強烈なカルチャーショックを受ける)。残念ながら金山屯駅の衰弱、劣化は確実に進んでいくだろう。

                
                       金山屯駅のプラットフォームに入ってくる列車

 最後に、金山屯から五営まで(150km位だろうか、所要時間4時間半)の「空調なし、無座」の切符代が8.5元(136円)であったことにびっくりした。
 素直に安ければいいじゃないかとは思えなかった。
 北京、上海とは違った世界にいるのかも知れない、と思わざるを得なかった。

                          2013年9月7日 記