2013年春 武漢、長沙、南昌を歩く−1
今年の春節(旧正月、2月10日)から2週間半が経った2月27日から3週間かけて、上海を経由地にし武漢、長沙、南昌を歩いた。
上海−武漢−重慶そして上海−南昌間の新幹線は目下のところ建設中なので、在来線を走る「動車」(新幹線ではないが、超特急で在来線を走る。車輌は「和諧号」で新幹線とほぼ同じ。中国の高速鉄道時代を切り開いた)を利用した。
今回の目的の一つは、毛沢東の生まれ故郷(長沙市から南西約60km)を見てみることだったが、長沙だけでなく武漢、南昌も中国近、現代史に於いては重要な都市という定評があるので、行くなら3都市を一度に回りたいと考えていた。
武漢 編 |
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2013年4月5日記 |
@ 武漢の地理的位置 今回の旅行で私にとって新しい発見があった。それは中国の地勢についてである。具体的には武漢の地理的位置という小さな発見に過ぎないが。中国の現在の版図は広大であるが、そこから北の東北地方、北西のモンゴル高原、西のゴビ砂漠、チベット高原、南西の雲南高原を除く大地こそが中国4000年の歴史の主要舞台であったと言えよう。そして武漢(漢口、漢陽,武昌からなる。所謂「武漢三鎮」)はこの中華の大地の真ん中,「へそ」の位置にあるという発見だ。また中国を南北に分ける長江(揚子江)を重慶から上海までに限定すると、武漢はちょうどその中間点にある。 このためこの地は古来より「兵家必争の地」であった。「赤壁の戦い」(北方の魏軍 対 西方の蜀と東方の呉の連合軍の戦い」の地は武漢の南100余kmにあり、辛亥革命の武昌起義はまさしく武漢の地で戦われた。
清朝末期、孫文率いる革命派は各地で武装蜂起をするが、武漢(武昌)の地理的位置をみれば、武昌起義の意義がよく理解できるようになった。つまり1911年10月の武昌起義の勝利によって清朝打倒の政治運動は分水嶺を超えたのだ。 辛亥革命後の中国の政治状況は変転を極める。麻の如く乱れた状況を打破すべく、「北伐」(広州の国民党革命政府が、北方の軍閥政府を打倒するため行った戦争。1926年7月広州出発、1928年6月北京入城)が行われた。私はこれまで「北伐」とは、漠然とした北の方面への進軍くらいに思っていたが、地図をよく見ると広州→武漢→北京は真北に向かってほぼ一直線であり最短距離であることを知り少し驚いた。 A 武漢の第一印象 上海発の「動車」はほぼ定刻通り6時間強で漢口に着いた(約1000km)。「動車」(16輌編成、乗客1400〜1500人位か)の2等席(料金約4000円、1元=15円で計算、以下同じ)は満席だった。私は今回の旅で4回汽車に乗ったが2等席は全て満席だった。旧正月から一か月も経とうとしているのに、どうしてこんなに人間の移動が多いのだろうか。
漢口駅切符売り場 漢口駅前広場は大変な人混みだった。人混みと喧騒の中、昨年12月31日に開通したばかりの地下鉄2号線に乗るべく切符売場に向かうと、そこは長蛇の列であった。長蛇の列ができる理由は、人数が多いこともさることながら多くの人が切符(実際はプラスチックコイン)の買い方に慣れていないのだ。私は前の若い女性グループがまごまごしているので、「携帯の操作では敵いませんがね、この操作はまかせなさい」と心の中で思いながら、買い方を教えた。上海で交通カードを知るまで、私も地下鉄の切符を買う時に苦労したが、その経験が生きた格好で気分が良かった。 下車した江漢路駅近辺は漢口地区の繁華街の一つということだが、地上に出ると大変な人出に度肝を抜かれた。武漢は沸騰している、これが第一印象だ。 B 大江 大湖 大武漢 「武鋼」と略称される大製鉄所を有する武漢は、もともと重工業都市で華中(中国中部地域)の中心である。他に日系(日産、ホンダ)、仏系との合弁自動車会社があり、関連企業も多い。しかし今やこれに地下鉄3,4,5号線、新幹線(上海−武漢−重慶)の公共インフラ投資が上乗せされる事態となっている。また三つの「経済技術開発区」を整備、拡張し、猛烈な企業誘致を展開中だ。近年の経済成長率は全国平均を大きく上回っているし、今後も二ケタの成長を目指している。3月5日〜16日に開催された「両会」(政治協商会議と全人代)の政府報告では、中国の今後10年の成長率目標が7.5%とされたが、ここ武漢ではそれは「どこ吹く風」の勢いなのだ。
武漢長江大橋 本項見出しの大江は長江、大湖は洞庭湖のことだ。新聞で見かけた表現だが、長江、洞庭湖を控えた武漢は大武漢でなくては納まりが悪いということか。これは武漢が現状および将来に自信を持っている表れだろうが、それにしても中国人は「大」が好きだ。 道路上の横断幕、地下鉄のポスター、建物の壁面等に、赤い字で書かれた「武漢精神敢為人先 追及卓越」というスローガンを良くみかけた。日本語に訳すと「思い切って人の先頭に立て、誰もマネのできないことをやれ。それが武漢精神だ」になるだろうか。発展のゴールデンステージにある武漢(中国語では、武漢正処於「黄金発展期」)は「武漢速度」(意味は武漢スピード、10余年前は上海スピードなる言葉があった)で突っ走ろうとしている。中国西部地域(「西部開発」)の中心地である重慶でもこのような当たるべからざる雰囲気なのだろうか、いやそれともだったのだろうか。 C 武漢--若者の街 武漢は大学の多い都市であり、武漢大学,華中科学技術大学(理系大学だったが、現在は総合大学)は全国的にも有名である。このため若者人口は元々多かったが、近年はこれに農民工二世が加わり(例えば巨大な生産請負会社[中国語で、代工]である富士康が武漢工場を作る)、ますます若者が流入する状況となっている。人口調査統計にもはっきり示されているようだし、街を歩いていても若者が多いことを実感する。 武漢、長沙、南昌での私の宿泊先は全国チェーン展開するビジネスホテル(宿泊料金2000円前後)だったが、受付けは農民工二世の若者が多い。ある日、食事をするためホテルの隣の食堂に入ると、顔見知りの受付の女の子が手を振っている。彼女の前に座り簡単な会話をしながら食事をしていると、彼女の友達がボーイフレンドとやってきた。聞いてみると女性二人は湖北省の同郷で、ボーイフレンドは同じ湖北省だが別の地域出身で、武漢で知り合ったらしい。そのボーイフレンドは21歳でジャニーーズ系の可愛い顔をしている。そのことを彼に告げると、彼は照れながらも満更ではなさそうだった。彼は日系の電子部品製造会社に勤めていて、その日は休みだったので繁華街に遊びに来たということだった。月給を尋ねてみると,約2000元(30000円)とのこと。私達4人の会話は弾まなかったものの和やかな雰囲気だった。でもその内に彼等3人はお互いの携帯の写真を見せ合いながら,自分達だけで盛り上がってきた。見てみると彼等の携帯は高価そうだ。私が自分の300元の携帯を見せると、彼等はきゃっきゃと笑った。中国でも最新鋭のスマートフォンは4000〜6000元である(コピー商品がどの位の価格帯かは知らない)。彼等の親の世代が持つ携帯は私のと似たり寄ったりだろう。故郷の家族、友達、仕事仲間と連絡するには通話機能だけで十分なのだ。しかし農民工二世の携帯では瞬時に中国、世界の情報にアクセスできる。そしてそのスマートフォンの最終組み立てラインで働くのは彼等農民工二世なのだ。またそのスマートフォを買うには2,3か月分の給料が必要だということを、彼等が知らない筈はない。現在中国では、農民工二世の高い離職率の問題点を指摘し、「最近の若者は我慢が足りない、苦労を知らない」と嘆く声が多い。 次に大学卒の若者を取り上げた記事が武漢の地元紙に出ていたので紹介したい。彼は2011年に名門大学である華中科学技術大学工業設計専業を卒業し中国系企業に就職した。両親と同居の自宅から職場まで会社専用のバスで出退勤し、毎日その繰り返しだという。初任給は3000元弱だったが、今は4000元強である。中国の夢ならぬ彼の夢は自動車を買うことだが(マイカー通勤ができる)、マンション購入の頭金も貯蓄しなければならない。自動車価格は日本の市場価格と同じ位だし、ジリ高傾向のマンション価格は武漢でも1000万円(場所、広さにもよるが)を越える、あるいはもっと高いかも知れない。私はこの記事を読んでいて胸が苦しくなってきた。
日本、アメリカ、ヨーロッパでも若者を取り巻く状況が厳しい。世界第二位の経済大国になった中国でもそれは例外ではない。彼等若者が抱えるストレスを、親の世代が想像し理解するのは容易ではないな。 D 武漢の名所、旧跡 ガイドブックによれば武漢の名所、旧跡には黄鶴楼,帰元禅寺、晴川閣、古琴台、東湖等がある。しかし私は5日も滞在しながら訪れたのは黄鶴楼だけだった。私はこれまで中国を何回か旅する内に、中国の歴史的遺跡、建造物にあまり大きな期待を持たないようになったからだ。中国は大きいので変化に富んだ自然景観は素晴らしいだろうと思うが、残念ながらそのような所には行ったことがない。
江南三大名楼の一つである黄鶴楼(他は、岳陽楼と藤王閣)の建物の外観は立派だが、1981年に再建された鉄筋コンクリート造り。歩いて最上階まで歩いて行くのはまだ良いとしても、展示物が殆どない。一般に中国の歴史的建物はハードは再建で面目は保てたとしても、中の展示場を含めたソフトが貧弱過ぎると思う。何度もの王朝交代による盗掘、破壊を経ているから、これも仕方のないことかも知れない。武漢在住歴の長い日本人から、黄鶴楼最上階からの長江、漢江がT字形に交わる光景はいいですよとアドヴァイスされた。しかしその当人が対岸のホリデーインホテルからの方が長江越しに黄鶴楼を遠望できてもっといいですよと言った時は、お互いに苦笑せざるを得なかった。 詩仙と言われる李白が黄鶴楼を詠った詩があるとはガイドブックにも書いてある。しかし中国の歴史旧跡の奥床しい趣を味わうには、漢学,漢詩の素養がなくては難しいと改めて思い知らされた。詩仙が出てきたからには詩聖にも言及しなければならないだろう。四川省成都市にある杜甫草堂に行ったことがあるが、これも私にとって「がっかり旧跡」だった。草堂内を散策しても何の感興ももよおさなかった。杜甫が住んだと言われる茅屋もあった。粗末な建物が1300年も保つ筈はないからそれはいいとして、屋内にスナック菓子のプラスチック袋が捨てられているのを見た時は心が寒々としたものだ。
限られた経験だが、私が感動した歴史遺跡は万里の長城、故宮、西安の城壁くらいである。いずれもその規格外れのスケールに圧倒されたのだ。 歴史遺跡の保存の難しさは中国だけでなく日本にも言えるので、私は中国に対して辛辣すぎるかも知れない。考えてみれば歴史遺跡の保存とは長い時間をかけ地道に行う究極のメンテナンスである。しかし中国人は建造には恐ろしいほどの情熱を見せるが、建造後すなわちメンテナンスの段階になると途端に関心を失うように思われる。このような中国人の性向を様々な場面で見せつけられるように感じるので、中国の歴史遺跡にはどうしても辛口になるという訳だ。
私は「夜目遠目笠の内」を自分勝手にもじった「夜目遠目レンズの内」と唱えながら、歴史遺跡はなるべく敬遠し、街歩きを優先することにしている。 E 武昌における国民党、共産党の史跡 狭義の中華の「へその緒」である武漢には、中国近、現代史の史跡が豊富だ。1911年の武昌起義を記念する首義公園が武昌の旧城内(城壁は残っていない)のほぼ真ん中にあり、そのすぐ北側は黄鶴楼だ。公園の北端には起義記念館があり、前庭には孫文の銅像が立つ。また南端には辛亥革命博物館がある。コンクリート舗装された公園はかなり広く、いくつもの凧が上がっていて旅行客も足を止めて眺めている。ある凧は何百もの小さな凧を連ねたもので、まるで龍が空を優雅に舞っているように見えた。いかにも中国的な光景で嬉しくなる。
武昌起義記念館と孫文像 次に,旧城内と長江に挟まれ、首義公園からでも歩いて行ける距離に、武昌農民運動講習所旧跡記念館、毛沢東旧居記念館、中共五大会跡記念館が一か所に固まっている。見物場所が三つもあるのだから時間もかかるだろうと思い、翌日に行くことにした。次の日、地下鉄に乗って長江の下を潜り、最寄り駅からタクシーに乗って目的地に着き、記念館の前に立って初めてその日が月曜日であることに気付いた。旅行中は曜日感覚が鈍くなるらしい、腹立たしいが出直すしかない。 国民党と共産党は孫文の英断により、1924年1月から1927年7月まで国共合作(第一次)を果たし、反帝国主義、反軍閥を共に戦った。共産党員は党籍を保持したまま国民政府に参画した。国民政府の中堅幹部となった毛沢東は1926年末から1927年央の僅かな期間ではあったが、農民講習所の所長として農民運動幹部の養成に当たった。そして講習所のすぐ近くに、毛沢東は妊娠中の妻(楊開慧)と二人の息子と住んだのである。革命また革命に明け暮れた毛沢東のほんの一瞬とも言える短い親子水入らずの家庭生活だった。
農民講習所内の毛沢東像 中共五大会跡記念館は、考えようではかなり皮肉の効いた記念館だ。1921年の一大会から6年経過した五大会で、共産党は本格的な党組織としての監査委員会を設立した。監査委員会は現在の規律検査委員会(共産党員の腐敗を取り締まる)の前身で、館内展示のパネルにも「反腐敗」のキャンペーンが目立つ。そしてその前の小さな公園の名称は「武昌廉政(清潔政治)文化公園」であり、当時選出された監査委員達の銅像もある。 F 漢口の国民党、共産党の史跡 漢口は長江を挟んで武昌の反対側にある。漢口は清朝時代、広東、上海に次いで対外開放港になったので、長江に面した細長い土地に欧米、日本の租界地が築かれた。規模は小さいもののちょうど上海外灘(バンド)と同じで、現在でも西洋風の建物が残っている。
漢口旧租界地 1927年1月に、この地に国民政府の臨時政府が開かれたが、蒋介石による国共合作の解消(共産党はこれを蒋介石の裏切り行為と断じる)のため、その寿命は半年程だった。私はこの史実は知っていたが、臨時政府の建物が残っているとは思わなかった。私が読んだガイドブックにもそのような記述はなかった。ある日、ホテル近くの江漢路(道路の両側は西洋式の5,6階建てのアパートが並ぶが、1階部分は商店になっている)を人波にもまれながら歩いていると、ある建物の壁のプレートが目につき、読んでみると「武漢国民政府跡」とある。その建物を所有していた華僑が国民政府に貸したと説明されている。今はホテルと銀行になっていて注意して見ないと通り過ごしてしまう。その隣には上海の「大世界」(遊客も来ればマフィアも集まる、娯楽の殿堂)に似た建物があった。プレートを読むと上海の「大世界」をマネて、1920年に完成したもので「漢口新市場」という名称だった。再開発のため取り壊される予定だった上海の「大世界(上海語発音で、ダスカ)」は、上海っ子の猛烈な反対で、外側だけ残され内部は取り壊されるという情けない姿を晒してもう2,3年になる。今度も行って外側から眺めてみたが、取り壊された内部はそのままに放置されていた。これに対して武漢版の「大世界」は完全に残っており、ショッピングセンターになっている。また江漢路に面する1階部分は、マクドナルドとケンタッキー・フライド・チキンが仲良く営業している。 臨時政府(右手前の建物)と漢口新市場 早朝の江漢路 孫文が「国父」と呼ばれるのに対し、宋慶齢は「国母」と呼ばれる。このためか宋慶齢故居が各地にある。上海に二か所、北京に一か所あるが、漢口にもある。長江沿いの大通りに面した小振りの洋館だが洒落た佇まいだ。残念ながら改修中だった。掲示によると昨年7月から改修工事が始まったらしいが、武漢スピードには似合わずノンビリしている。前にも述べたが革命史跡、記念館は無料公開されていて有難いが、月曜休館であることと改修中が多いのには参る。昨年の夏の北京では、老舎記念館、郭沫若故居が改修中だった。 国民党と決裂した共産党は、今後の方針を決める重要な会議を漢口で行う(「八七会議会跡」)。劉少奇の隠れ家跡も漢口にあるそうだ。武漢を撤退せざるを得なくなった共産党は、一部は南昌へ、一部は長沙へ向かった。 |
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長沙 編 |
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2013年4月17日 |
@ 在来の汽車に乗って長沙へ 今回の旅で4回汽車に乗ったが、武漢−長沙間は「動車」ではなかった。「動車」の切符が売り切れだったからだ。しかしこれによって私は中国の鉄道料金体系の一端を知ることになった。簡単に言えば、「高鉄」(新幹線)と「動車」の新料金体系と在来列車の旧料金体系の大きな格差である。約400km間の在来列車の料金は47.5元(720円)だったが、新料金体系の三分の一位だろう。旧料金体系は庶民の懐事情を考慮して18年間も据え置きのままなのだ(恐らく庶民の反発が予想されるので引き上げられなかったかも知れない)。私は所用時間が良く分からず7,8時間の乗車も覚悟したが、4時間弱で長沙に着いた。「動車」とのスピード差はあまりない。 武漢−長沙間の列車は、「赤壁」(三国志)、「岳陽」(江南三大名楼の一つ岳陽楼)、「泪羅」(詩人屈原)等、中国史に関心を持つ人なら胸が躍るような駅に停車したり通過したりする。これらは素晴らしい観光資源なのだが、汽車を利用した観光は少数のようで、それらの駅で下車する人は非常に少なかった。多くの人は観光バスを利用するようだ。
長沙駅前の人々 在来の汽車に乗って痛感するのは車輌の劣化である。「高鉄」、「動車」の出来立てピカピカの車輌と比較するのは酷だが、古いものには古いなりの味わいがあるという感傷は笑われるだけというのも現在の中国の一面だ。旧家屋と新マンション、旧ホテルと最新ホテル、旧駅舎、バスターミナルと新駅舎、バスターミナル、旧商店街と新商店街(多くは高層ビル内のショッピングモール)の格差はとても大きい。在来列車でもメンテナンスはなされている筈だが、「四角い部屋を丸く掃く」方式によって、車輌は緩慢に劣化しつつあり、窓ガラスはホコリが強く付着して景色が良く見えないのは本当に辛い。特に私の席の窓ガラスは二重窓で中の水蒸気が蒸発しなかったので最悪だった。 A 長沙の阿Q 上海、武漢、長沙、南昌へと旅すると、行けば行くほど街の雰囲気が田舎ぽっく、粗野になっていくのを実感する。これは経済発展段階の違いを素直に反映していると思う。現在、湖北省(武漢)、湖南省(長沙)、江西省(南昌)、安徽省は、「長三角(上海)」,「珠三角(広州)」、「環渤海(天津)」に次ぐ第4極の「中三角(長江中流域)」経済圏を目指して、タッグを組んで猛烈に中央政府に働きかけているし、すでに走り出してもいるが、前者との格差はまだまだ大きい。
長沙の駅前は巨大な駅ビルを中心にコの字型になっていてスッキリしている。私が長沙に着いたのは3月上旬だったが、駅前は農民工が目立つ。さらに白タクやホテルの客引き等の路上の独立自営業者が、小さなプラカードを持ち通行人に盛んに声を掛けている。そのたくましさにはいつもながら感動さえ覚える。二線、三線級の都市では、域内の静脈部分の交通インフラ整備がまだ遅れているので、それを補完する役割の彼等の活躍する場が残されているのだ。 私の泊まったホテルは駅の近くだったので、毎朝新聞を買うついでにコの字型の駅前広場を端から端まで歩いた。そのうち広場の一角に他とは雰囲気が少し違う場所があることに気付いた。その場所は大きくはなく、活気が感じられない。路上生活者のたまり場のようだった。その中で眼鏡をかけた中年の男性が荷物の上にキチンと腰を下ろし前方をボンヤリと眺めている。すると生活意欲のなさそうな二人連れの男性が、その少し知的雰囲気のある男性にちょっかいを出したのだ。これに対し眼鏡の男性はどこに隠してあったのかステッキのような棒を取り出し振り回した。これを見て二人連れはヘラヘラと笑いながらその場を立ち去った。私はこの光景を眺めていて、瞬間に魯迅の小説『孔乙己』を思い出した。 「孔乙己は、ただひとり、立ち飲み仲間で長衣を着ていた。−中略−孔乙己が店へ顔を出すと、一杯やっていた連中が、みんなでからかう」(竹内 好訳)
さらに私は阿Qのことも思わざるを得なかった。 「全部の禿をまっ赤ににして、かれ(阿Q:筆者注)はうわ着を地面に叩きつけ、ペッと唾を吐いてどなった。 <毛虫野郎め!> <禿げ犬、そりゃ誰のことだ?> ひげの王(阿Qの喧嘩相手:筆者注)は、さげすむように視線をあげた。」 (『阿Q正伝』 竹内 好訳 1921年作) 毛沢東は1926年に「中国社会各階級の分析」、1927年に「湖南農民運動の視察報告」と題する画期的な論文を書いた。当時の中国共産党の最高指導層は革命の主体を都市労働者や知識人と考えており、「中国4億人の9割を占める農民」(毛沢東は繰り返し強調した)には殆ど注意を払わなかった。そのような状況下で書かれたという意味で画期的なのだ。その論文によれば当時の湖南の農民層は、富農10%、中農20%、貧農70%に階層分けされているが、阿Qは貧農の中でも最下層のルンペンプロレタリアート(土地を失った農民)であった。都市部では失職した手工業者がルンペンプロレタリアートだ。魯迅と毛沢東は、周りの知識人や政治家が近代化をお題目のように叫びながらも、誰も振り向きもしなかった中国の9割の民に目を向けたのだった。 阿Qは何も長沙だけでなく上海、大阪にもいるしニューヨークにもいるだろう。そしてこれからも阿Qは存在し続けるだろう。そして阿Qが蔑みの対象になることも否定できないだろう。しかし悲しいことは、毎日の生活場面で阿Qを馬鹿にするのも阿Qなのだというやり切れない現実だ。このようなことは当然ながら中国に限られることではない。しかし中国では庶民の生活が路上でそして剥き出しの形で展開されることが多いので、あまりにも荒っぽく唖然とする阿Qと阿Qのやり取りに出くわすことが多いのも事実である。 最後に忘れられないエピソードを紹介してこの項を終えたい。上海,嘉定区のバスターミナルで市内バスに乗り込み発車を待っていた時のことだ。ある農民工(服装や大きな荷物で大体分かる)が運転席でふんぞり返っている運転手に行き先を尋ねると、その運転手は突如として怒声を張り上げたのだ。その農民工は情けなさそうな顔をして立ち去るしかなかった。私はその会話を瞬間には理解できなかったが、しばらくしてその短い会話が再現できた。
(農民工)「このバスは上海南駅に行きますか?」 (運転手)「何だと!行き先も見やがらねーで、この俺様にものを尋ねるんじゃねえ!」 B 観光バスに乗って毛沢東、劉少奇の故郷に行く 駅前広場を歩いていたら若い男性に呼び止められた。旅行会社の路上セールスである。彼の持つパンフレットを見ると、毛沢東、劉少奇の文字が見える。毛沢東の故郷へどのように行くか考えていたところなので(劉少奇も湖南省出身だが、どの辺りかも知らず是非とも行こうとは思っていなかった)、これは好都合だと思い話を聞くことにした。要点のみの簡単な説明を聞いて、オプション、昼食付き140元(2100円)の観光バスツアーに参加することにした。翌日の朝ホテルの前で私をピックアップするとのことだ。彼は名刺を出し駅前通りに面するビルの一つを指差し、自分の会社はあのビルの○○階だ、ついては前金40元を払ってくれと言った。若干の不安はあったが、騙されることはまずないだろうと確信した。中国については法治の不徹底等が言われるが、庶民生活においては「契約の遵守」は共有されていると思う。ただし物品購入や白タクに乗る前の価格交渉では、大きな声でやり合わないといけないだろうが。
観光バスは老若男女の様々なグループ旅行、一人旅の参加者でほぼ満席で出発し、2時間くらいで毛沢東の故郷に着いた。小高い山が連なり、山間には農地が広がる。中国北方のゴツゴツした山岳風景、江南のだだっ広い愛想のない農村風景とは様相が違う。北緯28度近辺に位置するこの辺りの風景は何か優しい雰囲気で、日本の農村風景に酷似している。 毛沢東故郷の風景・生家入口の行列・生家からの田園の眺め 毛沢東の生地一帯は、現在では毛沢東公園、毛沢東博物館、毛沢東図書館、毛沢東ルーツ博物館が点在していて、「毛沢東タウン」とでも呼べそうだ。駐車場には20,30台の大型観光バスやたくさんの乗用車が停まっている。毛沢東の生家前は大変な人混みで、ガイドは大きな声で「30分待ちです!」と叫んでいた。 文化大革命の終結から10年後の1986年〜1987年の1年間にわたって中国全土を隈なく鉄道旅行したアメリカの作家ポール・セローもこの地を訪れている。「毛沢東の生家はあまりにもがらんとしていた。」、「毛沢東の生家に関して言えば、もはや参拝する人もいなくなった中国の多くの寺に似ていた。」(ポール・セロー『中国鉄道大旅行』)
文革時期、ここは毛沢東思想のメッカ、巡礼の地であり、年間300万人(1日当たり8000人)が訪れたという(前掲書)。次いで、文革の不条理な記憶がまだ生々しかった頃のセローが見た閑散。そして現在の再びの盛況。この振り子の振幅の大きさにはただ黙するしかない。 毛沢東の故郷を出発したバスは、なだらかな山道を縫うように走り、1時間程で劉少奇の故郷に着いた。劉少奇の大きな銅像は体を横向きにしている。彼の目線の先は毛沢東の故郷だとガイドは説明していた。
劉少奇像 劉少奇生家 劉少奇生家前にて 劉少奇の生家は見るからに毛沢東の生家よりも立派だった。一緒に歩くようになった青年は私に「劉少奇の生家は富農だった」と話した。私は彼に「毛沢東の生家は?」と聞くと、「貧農」との答え。私が「貧農ではなく、中農だろう」と言うと、彼はニッコリ笑って否定も肯定もしなかった。 C 長沙の平和堂 長沙の平和堂は昨年9月の全国的な反日デモの標的の一つになり大きな被害に遭った。長沙市と日本の大津市はどちらも大きな湖の南にあるという縁で姉妹都市協定を結び、大津市に本社のある平和堂が長沙市の招請を受ける形で長沙に店舗を作って十数年になる。このことを私は当時の新聞記事で知ったのだが、デモという名の襲撃に加わった中国の若者は恐らく知らなかっただろう。
反日デモの背景についてはいろいろな解釈が可能だろうが、あの乱暴狼藉ぶりを見る限り中国の若者が抱えるストレスのマグマは相当に大きいことだけは確かだろう。それだけに日本企業だけが彼等の集団ヒステリーの攻撃対象になったことは、私としては割り切れない思いだった。平和堂の本社には日本各地からたくさんの電話、メールが寄せられ、「平和堂、がんばれ!」よりも「中国から撤退すべし」の声の方が多かったらしい。しかし平和堂はこれらの声を重々承知した上でだろうが、再建の道を選んだ。 観光バスのガイドに平和堂の場所を尋ねると、「五・一広場の隣だからすぐ分かる」と教えられた。翌日さっそく行ってみると、そこは長沙随一とも言える繁華街だった。平和堂の他にも二つの大きなデパートがあるが、平和堂はその中でも最高の立地条件を備えているように思われた。銀座四丁目の三越百貨店の位置と思えば分かりやすいが、周囲の状況はまだ発展途上の感が拭えない。
長沙平和堂 平和堂横の地下鉄工事現場 現在すぐ横で地下鉄工事が進行中で雑然としているが、開通すれば五・一広場駅は平和堂の真下になる。昨年のデモは平和堂にとってあまりにも理不尽なことだっただろうが、商人のチャレンジ精神という点から考えれば撤退という選択はそう簡単にはできなかったのだろうと納得した。 店内を歩いてみると何か柔らかないい雰囲気だった。トイレに入った後、近くの王府井百貨も見てみたくなった。客の入りはどちらも同じようなものだったが、トイレの雰囲気は予想通りかなり違った。
平和堂のトイレは売り場と売り場の間の専用通路の先にあるが、王府井百貨のトイレは婦人服売り場の中を通って行かなければならない。上海のデパートでもトイレの標識は見えるもののトイレの場所が分からずうろうろした経験がある。まさか売り場の中を通っていくとは思わなかったからだ。トイレへの専用通路をも売り場にしてしまうたくましい商人魂にはついていけない。さらに王府井百貨のトイレはタバコの臭いがする。タバコを吸っているのは従業員のようだった。上海の食堂ビルのトイレでもレストランの制服を着た従業員が盛んにタバコを吸っていた。恐らく接客意識と従業員教育の差に由来するこの違いを気にするかしないか。単なる文化の違いと納得すべきか。異文化環境の中での商売継続を選択した長沙の平和堂には是非がんばってもらいたい。 |
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