中国観察記 林 一氏からの便りN

2012年 夏 北京


中国・上海で大学の教壇に立つ生活から日本に戻った林 一氏の、現場に立って考える中国探訪は続いている。
「今回から中国観察記」として掲載。今夏、北京を訪れた林氏の現地リポートである。

2012年11月22日
 秋の第十八回中国共産党代表者全国大会の開催を控えた、2012年の夏は中国の「政治の季節」であるに違いない。このタイミングで北京を歩かずしていつ歩くのかという程の強い気持ちではなかったが、何はともあれ一人で北京を歩いた。7月末から8月上旬のことで、今にして思えば9月に起きる「反日デモ」の直前だった。真夏の暑さの中を飽きもせず毎日歩いたので疲れ果ててしまったが、私が日本人であること故の不愉快な経験は一度もなかった。

 今夏、北京を歩くことの大きな目的は、青春期毛沢東の北京における足跡を尋ねてみることだった。毛沢東は1918年夏から1919年春、1919年秋から1920年春の前後2回、1年余にわたって北京に住んだ。彼が25歳から27歳の時だ。1918年に故郷である湖南省の長沙第一師範学校を卒業した毛沢東は「勤工倹学(働きながら学ぶ)」の制度でフランスに留学する友人達(多くは毛沢東が組織した「新民学会」の会員)の支援と見送りのため北京にやってきた。

 この間の経緯については多くの人の想像力を刺激するようで、「毛沢東は、本当は自分もフランスに留学したかったのだが、外国語の能力が低く選抜試験に落ちた」と説明する人もいる。しかし私はこの考えはやや皮相な想像だと断じたい。その理由は二つある。一つは、25歳の毛沢東の知性が、外国語の習得にかかる何年間かの時間の浪費が許せなかったのではないかということだ。二つ目の理由は、外国留学が持つ「あやうい」側面である。すなわち、科挙制度は廃止(1905年)されたものの自国の高等教育機関が未発達であった当時の中国では、「洋行帰り」を立身出世の近道と見る社会風潮があった。外国留学の有用性の裏面にある「あやうさ」を鋭く見抜いた青春期毛沢東(中国の変革を夢見る人)が、外国留学に背を向けたとしても何の不思議もないだろう。この間の経緯については、「自分はヨーロッパに行きたいとは思いませんでした。自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じたのです。」(エドガー・スノー『中国の赤い星』)という毛沢東自身の言葉を信じたい。

 北京にやって来た毛沢東は、楊昌済(長沙第一師範学校時代の恩師、当時は北京大学教授)の家に暫く居候する。生活のためにすぐにも職を見つけねばならなかった彼に仕事口を提供したのは、楊昌済の依頼を受けた李大サ(北京大学教授、図書館主任、中国共産党創立者の一人)で、北京大学図書館助理員がその仕事口であった。外国留学に背を向けはしたが、新知識を吸収したいとの烈々たる思いを抱いていた毛沢東は何としても北京には遊学したかっただろう。その彼が偶然にも得た職場が中国の知性センター北京大学のそれも図書館であったとは。私は「天の絶妙なる配剤」という言葉を思わざるを得ない。旧北京大学(図書館は1階にある)は、今では「北京新文化運動記念館」と改称され一般に無料公開されている。

                 
   旧北京大学(通称紅楼 1階が図書館)現在は「北京新文化運動記念館」            新聞閲覧室の事務机と若き日の毛沢東

 薄いピンク色のレンガ造り、4階建てで(通称、紅楼)、なかなか趣がある。私が訪れた時、参観者は少なく、ゆっくりと見て回ることができた。新聞閲覧室の入り口の横隅に小さな机があり、後ろの壁に若き日の毛沢東の写真が掛けてある。彼はここで、「私の仕事のひとつは新聞を読みにくる人の名前を記録することでしたが、大多数の人は私を人間なみにはあつかいませんでした。」(前掲書)という職場生活を送る。毛沢東の月給は8元だった。北京大学教授の月給は200元〜600元だったというから眩暈がしそうな給与格差である。「しかし私は失望しませんでした。私は大学の講義に出席できるようになろうとして哲学会や新聞会などに入会しました。」(前掲書) 毛沢東の目指すところは、長沙では望んでも得られない新知識の吸収である。あくまでも前向き、積極的な毛沢東にとってそこは願ってもない職場だったに違いない。新聞、雑誌、本は自由に読めるし、教えを乞い疑問をぶつけられる当代最高の知識人が目の前にいたのだから。事実、彼はそこで李大サ、陳独秀(北京大学教授、哲学科主任、雑誌「新青年」の発行者であり新文化運動のリーダー、中国共産党初代総書記)から直に新知識(マルクス・レーニン主義)を吸収することになる。

 ここで「想像するだけでも楽しい」という類の話をしたい。それは毛沢東と魯迅(1881〜1936)は、この紅楼で出会ったことがあっただろうかという想像である。魯迅は当時、教育部の課長級の官員であったから相当の高官である。単身生活中の彼の趣味は古書籍の渉猟であったというから、紅楼の図書館に時々やって来たに違いない。そして毛沢東が図書館で働き始める直前の1918年5月には、雑誌「新青年」に『狂人日記』を発表し話題になっている。図書の貸し出し、新聞の閲覧の時のサインで毛沢東が魯迅に気付いた可能性はあるはずだ。その時の魯迅の振る舞いは、図書館の助理員を人間なみにあつかわない人間達のそれではなかったことだけは間違いないだろう。「魯迅は文化戦線で、全民族の大多数を代表し、もっとも正しく、もっとも勇敢に、もっとも決然と、もっとも誠実に、もっとも情熱的に、敵陣に突貫していった空前の民族英雄であった。魯迅の方向こそ、中華民族の新文化の方向である。」(1940年1月、毛沢東『新民主主義論、第12章中国文化革命の歴史的特徴』)という毛沢東の言葉の含意に想像力を巡らせると実に興味深いものがある。

 紅楼を出てすぐの右前方には壮麗な紫禁城(現在、故宮)が見える。外堀と柳並木と紫禁城を左手に眺めながら少し歩くと景山(外堀を掘った土でできた小高い丘)にぶつかる。毛沢東の住んだ所は景山東街にあるので、景山を左手に見ながら土産物屋、食べ物屋が並ぶ景山東街を北に歩く。景山東街が尽きる少し手前に目指す三眼井胡同の地名標識見つかったので、胡同の狭い通りを中に入っていった。特徴のない背の低い灰色の壁、家が続くので不安になり、2度道を尋ねたが、教えられた通り行くと、ほどなくして目的地に着いた。その前には2台の輪タクが止まっていた。運転兼ガイド役の男に門を指差して入れるかと問うと「入れない」という返事。門の中には今でも何家族もの人々が住んでいるのだ。毛沢東はこの門を入った中にある小さな部屋で7人の人達と同宿して、寝返りも自由ではなかったということだ。ただ職場からここまで1キロ強、職住接近だった。

 毛沢東が暫く居候していた楊昌済の家を見つけたのは信じられない程の偶然だった。ある日、北海公園を散歩している時、湖岸の柳越しに鼓楼、鐘楼の姿が見えた。それはとても絵になる風景だった。その風景に誘われるようにして鼓楼まで歩いていった。以前、ツアーで来た時に鼓楼の中に入ったので、外から見上げるだけにした。私の泊まっているホテルはそこから地下鉄で一駅の距離なので、その後小さな通りを西に向かって歩いていくことにした。ぶらぶら歩いていてふと振り返った。家の入り口に何かプレートがあるように感じたからだ。じっくり見てみるとなんと「楊昌済故居」と書いてあるではないか(鼓楼後身豆腐池胡同15号)。

       

 中に入ることはできなかったが、外から見る限り大きな家には見えなかった。思わぬかたちで楊昌済の家を見つけたということは、毛沢東の1年余の北京生活の二つの住居の前に立ったことになるのだった。私は静かに興奮した。毛沢東は楊昌済の娘である楊開慧と恋に落ち、1920年末に二人は結婚し、三人の息子をもうけた。毛沢東の北京生活は金銭的に非常に貧しく、期間も短かったが、とても充実していたのだ。ただ楊開慧は後年、国民党軍に殺害された。

 北京を散歩していて納得したことがある。それは城壁都市に住むということは歩くことなのだということだ。北京城は、北側のほぼ正方形の内城と南側の長方形を横にした外城から成っていて、南北10キロ強、東西7キロ弱の広さである。内城に限れば南北5キロ弱、東西7キロ弱であり人間の歩ける大きさなのだ。内城と外城の中は城内、外は城外であり、100年前の清朝以前は城内が都市、城外は極端にいえば何もない田舎だった。内と外を分かつ城壁の高さは10m強、基底部分の厚みは18mくらいもあるから、人を寄せつけない威嚇するような雰囲気だっただろう。現在、人が往来した城門は建国門、朝陽門などの地名に名残りをとどめるのみとなったが、往時の人達は城内をあちらこちらと歩いていたのだ。私も地図を広げて一日の行動を振り返ると、城内をひたすら歩いていた。

 ひたすら歩いてもうひとつ気付いたことは街路樹の有難さだ。道路幅のとてつもなく広い主要道路沿いの街路樹は、高層ビルの前ではさすがに存在感が薄いが、胡同などの昔ながらの街並みにあるそれには人を包み込むような優しい存在感がある。樹種は「えんじゅ」だが、なにしろ背が高い、そして葉が密に茂っている。高い所の葉が太陽の光を遮ってくれるので、涼風が上から降りてくるようでその下に立つとほっとひと息つくことができる。考えてみればこれは歩く人だけが享受できる有難さである。人偏の横に木を配した漢字「休」の意味を頭ではなく体で理解できる。

                 

 人に安らぎを与えてくれる街路樹は景観としても素晴らしい。毛沢東も「北京の無数の木樹は私の驚異と賛美を呼び起こしました。」(エドガー・スノー、前掲書)と語っている。梅原竜三郎は1939年に初めて北京にやってきた時、緑色の樹海と金色の甍、赤壁に魅せられ、その後4年間に6回(あの当時に!)も北京を訪れて「北京シリーズ」ともいえる作品群を描いた。その中に「北京長安街」という作品があるが、それはまるで緑の海に建物が浮かんでいるようなのだ。現在の長安街から見れば、梅原の絵はまさに隔世の感があるが、それでも城内には今でも絵にしたいような緑の光景が残っている。

 城内の中心は言うまでもなく紫禁城(故宮)であるが、その直ぐ西隣は中国共産党中央委員会のある中南海だ。毛沢東、周恩来などの党最高首脳はここに住んだが、最近は少し事情が違ってきたようだ。胡輝邦(1982〜1987、党総書記)は、中南海に住むことを嫌ったらしいが、党が手配した住居は中南海と故宮に挟まれた北(南)長街に面した会計司胡同だった。北(南)長街は今でも庶民の生活が営まれているが、会計司胡同は、地名標識はあったものの生活のにおいが感じられなかったので、外から眺めるだけにした。そしてそこからすぐの所に中南海への出入り口たる中華門がある(西長安街に面する新華門は改装中だった)。私は門だけでも写真に撮ろうと思いカメラを構えた瞬間ぽんと肩を叩かれた。若い私服の男性が「写真を撮るな」と言っているようだ。私が素直にカメラをしまった時、彼はにっこり笑って「謝、謝」と言ったのだった。ソフトタッチの警備もあるということか。

 北(南)長街の北端は文津街という東西に走る道路に接している。文津街の名は、その道路に面して国家図書館(旧館)があるからだろう。中南海の北は北海に繋がっているので大きな橋が架かっている。北海は北京っ子の憩いの場、国内外からの旅行者の観光スポットになっているので湖岸にはたくさんの人がいるし湖上にはボートも見える。しかし二つの湖を分ける橋は、人や車の通りがとても少ない。しかも橋の上には警備員がちらほら見える。橋を渡りきった左手、すなわち中南海寄りには国務院弁公庁があるはずだ。しかし高い壁に囲まれた建物の門には表札がない。その代わり10人位の警備員(私服、制服)がいる。その物々しさを見て、私はそれが国務院弁公庁だと確信した。

 さて、北京のメインストリートである長安街を真っ直ぐ西に行った所に八宝山革命公墓がある。天安門西駅から地下鉄1号線に乗れば40分弱で八宝山駅に着き、そこから歩いて10分くらいだ。門から奥が見えるも人影はなく、所在なさそうな門衛が一人立っている。門衛が誰何する様子はなかったが、入りにくい雰囲気だった。

        
                        八宝山革命公墓 出入り門

 中に入りずっと進むと右側に革命公墓骨灰堂なる建物があった。入り口付近に係員が4、5人いたが、知らぬ顔をして入ろうとしたところ、呼び止められた。どうやら建物の中に入るには許可書が必要らしい。しかし敷地内の墓は自由に見て良いことが分かったので墓見物に専念することにした。1号地、2号地、3号地とエリアが分かれている上に、中にはたくさんの墓があるので、気の向くままに歩くしかない。その内、書物を通じて知っている人物の墓が見つかったりして興に乗ってきた。こういう時には、漢字が分かる有難さをつくづく感じる。

 八宝山革命公墓の雰囲気を体感することが参観の主たる目的だったが、できればアグネス・スメドレー(アメリカ人ジャーナリスト、朱徳の伝記『偉大な道』の著者、魯迅とも親交があった)の墓を見たいと思っていた。しかし墓の数が余りにも多いので半ばあきらめて木陰で休憩している時、一人の青年が通りかかった。私は駄目元で彼に「アグネス・スメドレーの墓を知りませんか。」と尋ねてみたところ、「その名前は聞いたことがあるが、墓の場所は知りません。事務所で聞いてくるから、ちょっと待っていてください。」と言って走り出した。ちょっとではなくかなり長い時間そこで待っていると、彼は小走りに帰ってきて「分かりました。一緒に行きましょう。」と言ってくれたのだ。こうして私の2番目の目的も果たすことができた。

 私はその青年にお礼がしたくて昼食に誘ったところ、快く応じてくれた。彼は6月に地方の大学を卒業して、7月から北京で働き始めたばかり。休日を利用して北京の街を歩いており、その日も一人で八宝山革命公墓にやって来たということだった。北京の街歩きに墓見物を選んだ彼の感性がまず気に入った。そして彼はなんと湖南省長沙人だったのだ。「中国革命の功労者の半数以上は湖南人です。」と自慢そうに言う様子にますます好感を覚えた。当時と今とでは諸事情が違うだろうが、何か毛沢東の初上京を彷彿とさせる思いがした。厳しい生活ではあったが毛沢東も北京を歩き回り生き生きとした古都の美しさに感銘を受けたのだった。

 革命公墓の中で休憩した場所は、実は薄一波(革命功労者、元副首相、そして元重慶党委書記の薄熙来の父)夫妻の墓の前の通りにあるベンチだった。その墓も偶然に見つけたのだが、2月に突如として世に知られるようになった「重慶事件」に思いが飛び、私はそのまま立ち去る気になれなかったのだ。

  

 私が薄一波夫妻の墓を指差し、小走りに帰って来たかの青年の顔を見ると、彼もニヤリと笑ったようだった。「重慶事件」とはいったい何だったのか。私はこの事件についての報道、解説を丹念にフォローしてきたつもりだが、依然として隔靴掻痒の気持ちを拭いきれない。

 ところで、八宝山革命公墓に毛沢東、周恩来、ケ小平の墓はない。周恩来、ケ小平の遺骨、遺灰はそれぞれ本人の遺志に従い中国の大地、海に散じられた。毛沢東の遺体はいまだに火葬されず、天安門広場の南端にある毛沢東記念館の中に眠っている。一般公開されており主に地方からの旅行を兼ねた参拝者がいつも列をなしている。私は人混みを敬遠し開館時に行ったが、それでも荷物預かり、列並び、参拝、荷物受け取りに1時間余りかかった。毛沢東記念館を出て天安門の方角を遥かに眺めると、毛沢東の肖像画がかすかに見える。考えてみればこれはすごいことだ。1919年の「五・四運動」、1949年の「新中国成立宣言」、1966年の「文化大革命、紅衛兵閲兵大行進」、1989年の「天安門事件」の舞台となった天安門広場の北の端と南の端には毛沢東がいる。毛沢東は現在(2012年8月)でも、中国政治のメーンステージである天安門広場を北と南から、上と下からがちっと扼しているようだ。今夏の一部暴徒化した全国各地の反日デモでは毛沢東の肖像画が掲げられた。デモ参加者の一人は「毛沢東はわれわれの守り神だ」と言ったそうだ。毛沢東は生きている。

 秋の第18回共産党大会で選出された習近平を最高の「舵取り」とする中国の今後の動向に世界の注目が集まっている。私は中国のこれからの10年は「緊張の10年」になるのではないかと考える。その根拠は以下の通りである。

 ソ連は1917年に成立し1991年に歴史の舞台から退場した。この間の74年という数字は人類史上において社会主義体制が続いた最長不倒距離である。1949年に成立した中華人民共和国は2023年に74年目を迎え、その後はソ連を抜いて最長不倒距離を更新することになる。

 ここから話題は一転するが、スポーツ競技の世界記録の話しである。世界記録の達成は、単なる競技能力の問題ではないそうそうだ。マラソンで2時間10分を切る、100メートルで10秒を切る(その時の世界記録として)ということは、それに挑戦するアスリートにとって非常に大きな心理的な重圧がかかるのだそうだ。この心理的重圧を克服しえた「勇者」のみが世界記録を達成し得ると言う。だからその心理的壁がいったん乗り越えられると、ほかの多くのアスリートが当たり前のように2時間10分、10秒を切ることになるという。

 「緊張の10年」の緊張というのは、社会主義体制の最長不倒距離を目の前にした時に感じるだろう心理的重圧のことを言う。中国がソ連越えの時に感じるだろう心理的重圧(緊張)を克服するには何が必要か。それは中国の現在の選択である「社会主義市場経済」の考え方(イデオロギー)に深くかかわる問題となる。その際、毛沢東、毛沢東思想の再評価は避けることができないだろう。いつまでも毛沢東を敬して遠ざけ不問に付し続けられるのだろうか。

 毛沢東記念館に眠る毛沢東の顔は、光の特殊効果なのか真っ赤に輝いていた。まさに火を発する「発火」であった。中国語の「発火」の一つの語義は「大いに怒る」である。良きにつけ悪しきにつけ、中国革命の理想をあくまでも追求し続けた泉下の毛沢東が今なお見せる「怒り」。私はこの「怒り」の現代的意味をこれからも考えていきたい。