中国観察記 林 一氏からの便りP

2013年春 武漢、長沙、南昌を歩く−2


南昌 編
2013年4月20日
@ 南昌−バスに乗り遅れるな

 上海、武漢、長沙と回って南昌にやって来たが、これは中国の経済発展の「雁行モデル」を体感する旅行だったとも言える。つまり雁行の中心から離れるにつれて発展段階が低くなることを実感するのだ。長沙から4時間余りの汽車の旅で着いた南昌駅前は余りにも雑然としていた。狭いスペースに人間、バス、自動車、電動スクーターがひしめき合っている。伸び盛りの高校生が中学時代の制服を着てはちきれそうな様子である。
 中国の「雁行モデル」は静態的ではなくダイナミックに躍動しているので、中心から離れた雁達も「バスに乗り遅れるな」と必死に飛んでいる。必死に飛んでいる雁達が斜め横から睨んでいるのは雁行の中心すなわち北京、上海、広州だ。その飛び方のマネをして羽を動かし続けなければ落伍してしまう。

 南昌では現在、次の三つのインフラ投資が同時進行中だ。@地下鉄1、2号線(購入した地図には、3,4,5号線のルートが載っていた!)建設、A新幹線用の南昌西駅建設,B長距離バスターミナル三か所建設。これらの投資が集中的に行われれば経済が活性化するのも不思議ではない。武漢、長沙でも程度は違え同じような状況だった。これらは一線都市ではすべて一巡したインフラ投資である。

 中国の近年の高速大発展を支えたものは、@積極果敢なインフラ集中投資,A「世界の工場化(あるいは被工場化)」であり、それは経済統計にもはっきり示されている。そしてこのインフラ投資は、今や東部沿海地域から中部、西部地域に重心を移しつつあるが、そのGDP寄与は確実に計算できるだろう。では「世界の工場化」の部分はどうなのか。南昌にも三つの国家級開発区があるということだが、その順調な発展には南昌の自力によるだけでなく、他の都市や海外との企業誘致合戦に打ち勝たなければならない。そのGDP寄与の計算はインフラ投資の重心移動より遥かに難度が高いだろう。

A 南昌八一起義

 江西省の省都である南昌が中国近、現代史において存在感を示すのは、1927年8月1日の共産党南昌起義によってであり、極端に言えばそれだけである。国共分裂によって武漢からの撤退を余儀なくされた共産党は、国民党と断固戦う姿勢を天下に示すべく、南昌で武装蜂起した(リーダーは周恩来,朱徳。当時毛沢東は長沙に在り「秋収暴動」を指揮)。共産党は一時南昌旧城を占拠するも国民党の反撃で、南昌を撤退し各地を転戦した後、翌年江西省西南部の井岡山で毛沢東の率いる小規模な軍と合流した。
 八一起義は南昌の貴重な近、現代史遺産で、八一南昌起義記念塔(空に向けた旧式銃の像)、八一広場、八一公園、八一起義記念館、革命烈士記念堂等がある。また現在、8月1日は人民解放軍記念日になっている。地図に朱徳故居が載っていたので行ってみた。朱徳は1927年初、南昌に家を借り南昌の情勢を探る任を負った。その家に住んだと言っても半年程だったので陳列品には見るべきものは少なかった。パネルの説明によると、起義直前のある晩周恩来が訪れた時、朱徳が自らの手料理でもてなしたとある。郭沫若も寓居したことがあるらしい。

B 井岡山飛行場

 八一広場近くの台湾系レストランに入ると、幾冊かの雑誌が置かれていた。『江西旅游』というPR雑誌をめくると、江西省の航空網状況の記事があった。江西省では「一干七支(南昌の昌北飛行場と省内の七つの飛行場)」のスローガンを掲げ急ピッチの空港建設が進んでいるらしく、現在は「一干四支」とのこと。その中の井岡山飛行場に興味を引かれ読んでみた。井岡山は毛沢東が8年間立て籠もりゲリラ活動をした険しい山で革命聖地の一つである。2004年に開港した井岡山飛行場の利用客数の推移が出ていた。2008年 6.4万人、2009年 10.6万人、2010年 18.2万人、2011年 30.2万人、2012年 48万人(一日当たり1300人)と、近年の伸びは目覚ましい。井岡山は革命聖地であるばかりでなく近くには豊かな自然景観があるので、最近の旅行ブームの恩恵を受けてはいるだろう。しかし中国には自然景観に恵まれた所はいくつもある訳で、この急増ぶりは井岡山の特異性(革命聖地)を抜きに説明することは難しいだろう。「今、再びの毛沢東人気の高まり」は、一体いつ頃からなのか。この数字を見ると、2009年、2010年頃かと思う。ちょうどGDP世界第二位の地位を射程に捉えそして掴んだ時期である。レストランを出ると肌寒かった。夜の八一広場は人出は少なかったが、スピーカーから大音響で「革命歌」が流れていた。

C 南昌の都市化

 都市化(中国では戸籍の一元化問題も含めて)は中国の将来の動向を左右する大テーマになると、私は考えている。中国の都市化は1950年代後半の大躍進、農村人民公社化に匹敵する程の大胆な「試み、実験」であり、その推移をフォローしないでは今後の中国は語れないのではないかと思う。
 3月17日の全人代最終日、李克強首相は新聞発表会の席上で、「中国のやろうとする都市化は、人類史上かってない規模だ」と言い、全力でこれに取り組む決意を披歴した。これは党・政府は都市化が今後の経済成長の鍵だと考えているからだ。農村に残る人達が都市で働くようになれば生産効率(工業生産だけでなく農地の大規模化によって農業生産も)が高まり、収入が増える。つまり個人消費(内需)が、投資需要や外需と並びあるいはそれに取って代わって成長エンジンになるという訳なのだ。この党・政府主導の都市化は新型都市化と呼ばれたりする。またこの新型都市化は都市問題(特に住宅)と農村問題(農業の低生産性と貧困)を一挙に解決すことを目指している。実はこの動きはすでに始まっていて、私の回った都市でも盛んにマンションを建てている。そしてこの新型都市化の主要舞台は一線都市ではなく、二,三線都市やもっと小さな都市(鎮)である。従って上海や北京に暮らしているだけでは見えにくい動きである。
 この新型都市化は現代の社会科学に対して挑戦状を突きつけているのかも知れない。と言うのは現代の社会科学ではこの新型都市化を解釈、説明することは難しいと思うからだ。ここで簡単に言ってしまえば、この刺激的なテーマの行き着く先は「卵が先か、鶏が先か」の論争になるのではないだろうか。18世紀末ヨーロッパの片隅で起こった現象すなわち人間の居住空間の大移動をもたらしたものは工業化だったのか都市化だったのか。

 大上段の話はこれ位にして、南昌の都市化の話で今回のレポートを締めくくりたい。南昌旧市街地は贛江に面していて、その対岸に新市街地がある(紅谷地区)。路線バスに乗って簡単に行くことができる。以前は農村地帯であっただろう紅谷地区の正確な開発年は分からないが、この5,6年の間に開発、整備されたと思われる。街の様子は中国のどこの都市でも見られる新城スタイル(大きな道路,高層のオフィスビル、マンション、上海浦東の小型版をイメージすれば分かりやすい)である。南昌市政府の低層の風格ある庁舎もあり、その周りは緑地帯になっている。歩いていてすぐ気づくことは人が少ないことだ(旧市街地とは余りにも対照的)。街の器と中身(働く人、住む人、遊ぶ人)のバランスがとれていない。旧市街地とは贛江を挟んで目と鼻の先にある紅谷地区は高級住宅地に違いない。南昌の多くの庶民、ましてやこれから南昌に移住する人達にとっては高嶺の花だろう。でも外野席の心配は不要かも知れない。彼等の居住については党・政府が考えているようだ。汽車が南昌に近付くと、車窓から建設中のいくつものマンション群を見ることができる。